魔導産業革命 ~エネルギーシフトと覇権通貨「エン」がもたらす軍事なき支配~ 作:Camel おさ
鏡の中に映る男の顔は、死人のそれと大差なかった。
肌は土気色にくすみ、目の下には墨を塗りたくったような濃い隈が張り付いている。
理由は極めて単純――。一睡もできなかったからだ。
バハルス帝国の使者、ロウネ・ヴァミリネンは、鏡から目を背けると、糸の切れた人形のように椅子へと崩れ落ちた。
脳裏で、あの恐るべき伝言が何度も、何度も不吉な鐘のように鳴り響く。
『明日の夜、私の執務室へ来るように』
魔導国宰相、アルベドからの直々の呼び出し。
昨夜その報せを受けて以来、水の一滴すら喉を通らない。胃が鉛のように重く、空腹を感じるだけの精神的余裕など、とうに消え失せていた。
皇帝陛下には、魔導国宰相の言葉を一言一句、声のトーン、表情、沈黙の時間に至るまで、すべてを正確に報告せねばならない。だが、はたして自分は生きてあの部屋を出られるのだろうか。
――コン、コン。
乾いたノックの音が、静寂を切り裂いた。
「ヴァミリネン様。お時間です。お迎えに上がりました」
扉の向こうから聞こえる、魔導国メイドの鈴を転がすような声。
それが、ヴァミリネンには冥府の使者の呼び声にしか聞こえなかった。
彼は震える膝を叩き、悲壮な覚悟を決めて立ち上がった。
◇ ◇ ◇
そこには、神が創りたもうた最高傑作にして、圧倒的な「死」を内包する悪魔が座っていた。
透き通るような白い肌、怪しく金色に燃える瞳、絹糸のような漆黒の髪。
絶世の美女でありながら、側頭部から生えた山羊の角と、腰から生えた黒い翼が、彼女が人間とは相容れぬ異形の存在であることを雄弁に物語っている。
ヴァミリネンは、立っていることすらできず、崩れ落ちるようにその場に跪いた。
「ご、ご伝言をいただき、参上……いたしました……」
情けないほどに声が震える。
そんな彼を、魔導国宰相アルベドは、慈悲深い女神のような微笑で見下ろした。
「ヴァミリネン殿。あなたは帝国の使者。我が国に対して、そこまで畏まる必要はありません。どうぞ、そちらの椅子へお掛けになって」
「は、はっ……!」
ヴァミリネンは、生まれたての小鹿のように脚をガクガクと震わせながら立ち上がり、辛うじて椅子に腰を下ろした。
机を挟んで、アルベドと対峙する。
彼女の浮かべる完璧な微笑。それが、ヴァミリネンには「いつでもお前を噛み殺せる」という捕食者の余裕にしか見えず、心臓が破裂しそうなほどの圧迫感を与えていた。
アルベドは、流れるような動作で一枚の書類を差し出し、極めて事務的な声で告げた。
「我が魔導国はこのたび、魔力をエネルギーとして保存・使用する新技術――『液状魔力』の実用化に成功いたしました。つきましては、同盟国である帝国との今後の交易、およびインフラ整備に関する新たな協定書を用意しました。……目を通しておいてくださいね」
花が咲くような美しい微笑。しかし、次の瞬間、彼女の瞳から一切の温度が消え失せた。
「話は以上よ。もう退室して結構です」
(――え?)
ヴァミリネンの背中に、一瞬にして冷たい汗が噴き出した。
魔力をエネルギーにする? 液状魔力? 交易、インフラ?
提示された単語のどれ一つとして、凡庸な頭脳では処理が追いつかない。
何より、このあまりにも冷淡な「用済み」の宣告。これ以上の質問は許さないという無言の圧力。
だが、このまま手ぶらで帰れば、帝国は未知の技術によって内側から侵食されるかもしれない。
「お、お待ちください、アルベド様っ!」
ヴァミリネンは、ほとんど悲鳴に近い声をあげていた。
アルベドが、不愉快そうに片方の眉を僅かに上げる。
「なにかしら?」
「あ、あの……そのっ!」
問い詰めたいことは山ほどあった。しかし、何から聞けばいいのか、何が分からないのかすら分からない。ただ、この場に漂う「未知の恐怖」を、一刻も早く陛下に伝えねばならないということだけが、彼の本能を突き動かしていた。
「ば、馬車をっ! 帝国へ戻る馬車を、お貸しいただきたくっ!」
「ええ、構わないわ。……もちろん、アンデッドの馬車になるけれど」
◇ ◇ ◇
通常の馬車であれば、魔導国から帝国まではどれほど急いでも二日はかかる。
しかし、魔導国が用意したアンデッドの馬車は、文字通り「常軌を逸して」いた。
疲労を知らず、不眠不休、補給も不要。闇夜を切り裂き、ただひたすらに狂気的な速度で走り続ける死の馬車。
ヴァミリネンが帝国の首都に辿り着いたのは、翌朝のことであった。
◇ ◇ ◇
「火急だぁーっ! 通してくれ、陛下にお目通りを―っ!」
皇帝の執務室へと続く絢爛な廊下を、ボロボロの衣服を振り乱したヴァミリネンが絶叫しながら走る。
「……ん? 今のはヴァミリネンの声か?」
魔導国の属国となって以降、皮肉なことに「これ以上、最悪の事態は起きようがない」ことからストレスが激減し、最近は胃の調子もすこぶる良いジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスは、将軍バジウッドとお茶を楽しみながら、穏やかな朝を過ごしていた。
「陛下ぁ―っ! 陛下ぁ―っ!」
ドタドタという、およそ宮廷の礼儀作法とはかけ離れた足音が近づいてくる。
あの冷静なヴァミリネンが、ここまで取り乱すなど異常事態だ。
ジルクニフの脳内に、かつて彼を苛んだ「あの胃痛」の予兆が、ピリリと走った。
バァン!!!
激しい音を立てて扉が開き、足をもつれさせたヴァミリネンが床に滑り込んできた。
その姿は、まるで数日間の拷問を生き延びて脱走してきた捕虜のようだった。
「どうしたっ、何があったのだ、ヴァミリネン!?」
ジルクニフは思わず立ち上がった。
床に倒れ伏したヴァミリネンは、喉をヒューヒューと鳴らし、まともに呼吸すらできていない。
(あいつだ。あの化け物――アインズ・ウール・ゴウンが、また何か仕掛けてきたに違いない……!)
ジルクニフの背筋に嫌な汗が伝う。
「おいおい、大丈夫ですかい。ほら、水を飲みな」
バジウッドがヴァミリネンを抱き起こし、コップの水を飲ませる。
数回激しくむせた後、ようやくヴァミリネンは、掠れた声でその「爆弾」を口にした。
「ま、魔導国が……『液状魔力』なるものを……発明いたしましたっ」
「……なんだ、それは」
ヴァミリネンは、昨夜アルベドから渡された協定書を震える手で差し出し、謁見の様子を必死に報告した。
「魔力を液体にして、それを燃料のように消費する、だと……?」
ジルクニフが書類を凝視する傍らで、バジウッドが首を傾げた。
「言ってることはなんとなく分かりますがねぇ……。そもそも魔導王やその部下どもは、いくらでも魔法を使えるんでしょう? それをわざわざ液体にしたところで、何が変わるんですかい?」
「……バカ者が」
ジルクニフの声は、低く、そして冷たかった。
「魔法というのは、術者が精神力を削り、構築して放つものだ。だからこそ、魔法詠唱者の数や質には限界がある。フールーダのような規格外は、一国に一人いれば奇跡なのだ。……だが、それを『保存可能で、誰でも使えるエネルギー』に変換したとしたら、どうなる?」
「え……? 誰でも使える?」
「そうだ。その『液状魔力』さえあれば、魔法の才能が皆無の一般兵であっても、大魔法級の出力を維持し続けられるということだ。デス・ナイトの軍勢だけでも絶望的なのに、奴らは『永久に動き続ける魔導兵器』の量産体制に入ったのだ。軍事バランスなど、最初から崩壊しているが……な」
「そ、そこまでですか……」
バジウッドが息を呑む。
(いや待て……)
ジルクニフの思考は、さらにその先にある「真の地獄」へと到達していた。
彼の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
(待て待て待て……! 奴らの狙いは、軍事的な威嚇などという生易しいものではない……!)
ジルクニフは、アルベドが提示した「交易およびインフラ整備に関する協定書」という言葉の裏に隠された、恐るべき陰謀を幻視していた。
(安価で、あまりにも強大なエネルギーを帝国に提供する……。一度でもその便利さに甘えれば、帝国の産業、民の生活、すべてのインフラは『液状魔力』なしでは成り立たなくなる。そうなれば、帝国の首根っこは完全に魔導国に握られたも同然だ!)
想像してしまい、ジルクニフは全身を激しい悪寒に襲われた。
(「我が国の方針に従わなければ、液状魔力の供給を止める」――奴らがそう一言囁くだけで、帝国は一歩も動けなくなる。軍隊を動かす必要すらなく、帝国は、我が民は、奴らの完全な家畜(傀儡)に成り下がるのだ……!)
「陛下? 陛下、顔色が真っ青ですぜ……?」
バジウッドの心配そうな声も、今のジルクニフの耳には届かない。
(アインズ・ウール・ゴウン……! どこまで恐ろしい男なのだ……! 武力で屈服させるだけでなく、エネルギーという目に見えぬ鎖で、我が帝国の未来永劫の自由を奪い去るつもりか……!)
キリキリと、懐かしい胃の痛みが、かつてない激痛となって復活した。
それと同時に、最近ようやく生え揃ってきたジルクニフの美しい金髪が、ハラハラと音を立てて床に抜け落ちていった。