湖面がざわりと揺れた。
風ではない。魔力の波だ。
紅美鈴は門の前に立ち、静かに呼吸を整えた。
普段のゆるさは影を潜め、ただ一点を見つめている。
湖の中央に、黒い影が立っていた。
人影――だが、輪郭が揺らいでいる。
まるで霧が人の形を取ったような、不確かな存在。
「……お客様、ですか?」
美鈴が声をかけると、影はゆっくりとこちらを向いた。
その瞬間、空気が変わった。
冷たく、重く、押しつぶすような圧力。
――これは、ただの来訪者じゃない。
美鈴は確信した。
影は、湖面を歩くようにして近づいてくる。
足音はない。
ただ、魔力の波紋だけが広がっていく。
「紅魔館の門番か」
低く、乾いた声だった。
男とも女ともつかない、不気味な響き。
美鈴は微笑んだ。
「はい。
ご用件をうかがってもよろしいでしょうか?」
影は答えず、ただ美鈴を見つめる。
その視線は、まるで“価値を測る”ようだった。
「……なるほど。
この館の“最初の壁”にしては、ずいぶん柔らかい気配だ」
「よく言われます」
美鈴は肩をすくめた。
だが、足は一歩も引かない。
影はさらに近づき、門の前で立ち止まった。
「通してもらおう。
私はこの館の主と話がある」
美鈴はゆっくりと首を振った。
「申し訳ありません。
今日は“どなたも通すな”と命じられています」
影の輪郭が、わずかに揺れた。
「命令、か。
では、お前は命令に従って私を止めるというのか?」
「はい。
でも……できれば争いたくはありません」
影は笑った。
音のない、冷たい笑い。
「争いたくない?
なら、どけ。
それで済む話だ」
美鈴は静かに目を閉じ、そして開いた。
その瞳には、ゆるさも眠気もなかった。
「……どけません」
影の気配が一瞬で変わった。
湖面が爆ぜ、空気が震える。
「門番風情が、私を止めると?」
「はい。
私は、紅魔館を守るためにここにいます。
それが“私のやり方”であっても」
影が手を伸ばした。
黒い霧が渦を巻き、美鈴へと迫る。
だが――
美鈴は動かなかった。
ただ、静かに立ち続けた。
霧が触れた瞬間、ぱん、と音を立てて弾けた。
影が目を細める。
「……ほう。
ただの門番ではないらしい」
美鈴は微笑んだ。
「よく言われます」
影はしばらく沈黙し、そして言った。
「名を名乗れ」
「紅美鈴です」
「……覚えておこう。
紅魔館の“最初の壁”としては、悪くない」
影はふっと霧散し、湖の向こうへ消えた。
美鈴はその場に立ち尽くし、深く息を吐いた。
――怖かった。
でも、引けなかった。
自分のためではない。
紅魔館のため。
レミリアのため。
咲夜のため。
パチュリーや小悪魔のため。
そして何より――
「……みんなが、平和でいられるように」
そのためなら、どれだけ怖くても立ち続ける。
それが、美鈴の“静かな強さ”だった。
館の奥から、咲夜が駆けてくる。
「美鈴! 今の魔力は……あなた、大丈夫なの?」
美鈴はにこっと笑った。
「はい。ちょっと怖かったですけど、なんとか」
咲夜は息をつき、そして言った。
「……ありがとう。
あなたがいてくれて、本当に助かるわ」
美鈴は照れくさそうに頬をかいた。
「いえいえ。門番ですから」
だがその笑顔の裏で、胸の奥に小さな不安が残っていた。
――あの影は、いったい何者だったのか。
そして、なぜ“紅魔館の主”に会おうとしたのか。
美鈴は空を見上げた。
春の空は、どこまでも青かった。