86-エイティシックス-DIE NEUE THESE   作:ふそう

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【西暦世界編】魔術師、還る
第Ⅰ章 Ⅰ話


 

〈ミニ・ヒストリカル・ドキュメンタリー〉

 

"第二條"

 

"今より後、日本國と魯西亞國との境「マツワ」島と「ロヴシュキ」列岩との間に在るへし"

 

"「マツワ島」全島は日本に屬し、「ロヴシュキ」列岩全島より北の方「クリル」諸島は魯西亞に屬す"

 

"「カラフト」島に至りては日本國と魯西亞國との間に於て界を分たす是まて仕來の通たるへし"

 

"日本国外務省外交資料館所蔵「日露和親条約」"

 

 


 

 

江戸時代の旗本・神保長治の屋敷があったことに名を由来する街、東京都千代田区神田神保町。

靖国通り、白山通り、すずらん通り沿いに百三十軒を超える書店・古書店が密集する神田古書店街は、世界最大の本の街として世界的に有名である。

カレーや喫茶店の激戦区としての顔も持ち、近年では「世界で最もクールな街」としてSNSでも脚光を浴びた。

 

今や神保町には平日休日を問わず国内外の観光客や若者が行き交い、秋葉原や池袋、中野に並ぶサブカル文化の聖地としてのポテンシャルをも秘めた熱を帯びている。

その神保町を象徴するメインストリートの一つである神田すずらん通り商店街に、新宿に本社がある〈東京万国交易商会〉社長楊泰隆(ようやすたか)の妻で、カナダのケベック州出身のカナダ系日本人の母を持つ妻、楊清香(旧姓:進士、フランス姓:ルクレール)が経営する〈書店〉の本店兼本社が入る十二階建ての自社ビルと、書店やオフィスの喧騒からは完全に分離された専用エレベーターによる静かなアプローチが確保された、社長一家の暮らす自宅はある。

 

"楊"という苗字は、"やん"ではなく"よう"と読む。

 

明らかに中華圏由来である苗字の読みではあるが、北緯三十三度を境とした二つの中国、即ち〈中華民国〉或いは〈中華人民共和国〉から来た在外華僑でもなければ、帰化人でもない。

確かに、遠く先祖のルーツを遡れば現在の中華民国の首都南京を囲む江蘇省一帯に辿り着く。

だが楊家は、西暦一八七二年から西暦一八七九年にかけての〈琉球処分〉、〈済州処分〉と並行で行われた〈東寧処分〉以来、代々日本人としての歴史を歩んで来た列記とした日本国民である。

 

純粋な漢族の血筋という訳でもない。

 

十七世紀に明王朝を滅ぼして成立した清朝が支配する中国大陸から〈小琉球(南山道島を指す明朝側の呼称)〉へと海峡を渡った鄭成功の一族と軍隊がオランダから支配権を奪取した後に密航した漢族。

 

島の名を小琉球から上陸地点に由来する"大員"へ、続いて"台湾"へ、更に〈東寧〉と改め、拠点を構えた鄭氏政権の支援要請に、周辺諸国の中で唯一〈薩摩藩〉を窓口とした限りなく公式に近い関係を築いていた徳川幕府が天下統一で活躍の場がなくなった浪人達の移民を黙認する事で応えた事により、台湾へと渡った日本人。

そして古くから島に定住していた先住民達。

彼らが長い歳月を経て混血した結果発生した民族集団〈台湾人〉の末裔である。

 

〈琉球藩〉が〈沖縄県〉として、〈済州藩〉が〈耽羅県〉として日本領に組み込まれたのと同様、太政官布告に基づいて〈東寧藩〉が廃されて〈南山道〉が設置されたと同時に、日本人としての楊家の歴史は幕を開けた。

余談だが、行政区画としての〈南山道〉は西暦一九二〇年(大正九年)に行われた高砂県・竹塹県・大墩県・台湾県・高雄県・後山県への分県を以て廃止されており、今日までその名を残す〈北海道〉とは異なり、今やその名は歴史の教科書や古地図の中にしか存在しない。

 

日本人と中国人の血が流れる鄭氏の統治の下、東寧が事実上の独立国家として存在していた時代には日本、英領香港、ポルトガル領澳門、スペイン領フィリピンとの公式・非公式な貿易で財を成し、現在では東京を拠点に歴史的工芸品・古美術品・アンティークな和洋家具・十九世紀から二十世紀にかけての国内外商品広告・映画のポスター・漫画・古本や玩具を含めた昭和レトロや平成ファンシーな品々を幅広く取り扱う東京万国交易商会。

新書と古書を取り扱う、七星堂書店や書海と肩を並べる有名書店を経営する経営者一族として、其の世界では広く名の知れた楊家。

その当代社長を勤める楊泰隆(よう・やすたか)楊清香(よう・きよか)夫妻が授かった四人の子宝の一人に、楊文理(よう・ふみのり)という長男がいる。

 

生まれは東日本大震災の翌年、成立百周年の節目を迎えた中華民国の首都で南京五輪が開かれた西暦二〇一二年四月四日。

西暦二〇二八年現在は日本の学制である「六・四・四・四制」における義務教育期間最後の一年間を、千代田区立神保中学校に通う中学四年生である。

身長は百七十七センチと、十六歳の日本人男子にしては高い。

学業は成績優秀。

癖毛の多い黒髪に、俗に言う処の"イケメン"に分類される条件を充分に満たした良く整った端正な顔立ちの、文系男子な見てくれの彼だが、意外にも運動神経や反射神経は抜群。

部活動は色々と訳あって野球部に所属している。

 

何かとギャップの激しい彼だが、実は家族を含めた誰にも話した事が無い、ある重大な秘密を抱えている。

科学的根拠に乏しすぎる為に絶対に口が裂けても言いたくない、自分は"前世の記憶と人格と容姿"を丸ごと全て持って転生した、所謂「転生者」であると言う秘密をである。

彼こそが、前世で若くして非業の死を遂げたヤン・ウェンリー元帥其の人の転生した姿であった。

 

 

楊文理の前世の名前を、ヤン・ウェンリーと言った。

今世の楊文理(よう・ふみのり)と言う名前も、中国語読みをすれば楊文理(ヤン・ウェンリー)となる。

 

前世の世界における彼は、その時代を生きた人々にとっては其の名を知らぬ者などいない著名な人物であった。

人類が銀河規模の文明を築き、〈銀河帝国ゴールデンバウム朝〉と〈自由惑星同盟〉という二つの巨大恒星間国家に別れて争っていた其の時代をヤン・ウェンリーの名で生きていた彼は、本心では歴史家を志望しながらも、敵味方双方から"不敗の魔術師"と呼ばれる自由惑星同盟軍にあって類い稀に見る用兵家として史上最年少の元帥に任官した、不本意ながらも歴史に名を馳せた高級軍人であった。

 

其の用兵家としての能力は、バーミリオン会戦当時は帝国軍最高司令官にして帝国宰相の地位にあった"常勝の天才"ことラインハルト・フォン・ローエングラム公爵直々に帝国元帥に招聘される程だった。

其の熱意たるや、対談の時点でヤン・ウェンリーの為の帝国軍服一式と元帥礼服を既に用意していたとも伝えられている。

尤も、此の招聘はヤン・ウェンリー直々の丁重な断りによって実現する事はなかったが。

 

此の後、〈銀河帝国ローエングラム朝〉初代皇帝となったラインハルト・フォン・ローエングラムとの二度目の会見に向かう道中にレダⅡ号を奇襲した地球教徒の手にかかり、三十三年間の短いながらも波乱万丈な人生に強制的な終止符を打たれて最期を迎えたヤン・ウェンリー。

 

日本人の楊文理として、前世の容姿をそのままに二度目の人生を生きる機会を与えられた彼だったが、実は最初から前世の記憶を持っていた訳ではなかった。

 

容姿をそのままに転生を果たした代償なのか、或いは前世の死因が寿命ではなく他者による殺害であった為からなのか。

原因は定かではないが、楊文理は前世ヤン・ウェンリーに関する記憶の一切合切を綺麗さっぱり失っていたのである。

 

明治大学すぐ隣の千代田区立錦華坂小学校で過ごした、義務教育過程最初の六年間。

その殆どの期間を楊文理は、良く整った端正な顔立ちに勝ち気な表情を浮かべた、両親譲りの風呂好きで、好奇心旺盛で、悪戯好きな、歳相応の明るく華やかで活発な人格に抜群の運動神経と反射神経を合わせ持つ、人より背の高いスポーツ万能少年として。

俗な言い方をすれば、"陽キャ"に属する少年として過ごしていた。

 

 

前世ヤン・ウェンリーは、その「軍人というよりは若手の学者のような風貌」に反して、肉体的に強い人間であった。

 

座学は勿論だが、士官学校では生徒達に厳しい訓練が課せられる。

軍人たる者に必要な最低限の体力を養う基礎体力訓練。

同盟宇宙軍という宇宙空間での戦闘には無関係に思えるが体力と精神力向上を目的に行われる遠泳訓練や装備品一式担いでの平地長距離行軍訓練に、首都星ハイネセンの山岳地帯や砂漠地帯での行軍訓練。

ビームライフルを手に携えての障害物走訓練。

ビームライフルや従来の火薬式ライフル銃の射撃訓練。

手榴弾の投擲訓練。

地上でのシミュレーション、そして宇宙空間でのスパルタニアン戦闘挺の操縦実技、実戦を想定した戦闘訓練。

これでも一部を列記したに過ぎない。

 

これらをヤン・ウェンリーは、本気を出せば更に上位を狙えるのに敢えてそれをせずに、それでも辛うじて落第を免れる程度には合格点を獲得出来る体力と運動神経、反射神経、動体視力を身に付けてクリアし、卒業した。

 

ヤン・ウェンリーは、彼自身が自称し、後輩のダスティ・アッテンボロー中将や"先輩"と慕っていたアレックス・キャゼルヌ少将からも言われていた「軍人の癖に運動も射撃もまるでダメだな」とか「首から下はいらない」様な人間ではない。

ましてや、一部の"後世の歴史家達"が言っている、彼に"軍人らしからぬ体力、運動、運動能力、運動神経しかない男"では断じてない。

一度士官学校を卒業している以上、ヤン・ウェンリーは肉体的に強く、動ける人間なのだ。

 

そうでなければ、長距離の武装行軍、白兵戦を想定した基礎的格闘術や射撃訓練、冬季地上戦技訓練、戦闘挺操縦実技等といった激しく体力を消耗する過酷で厳しい訓練の数々を合格し、卒業する事等出来ない。

無事に卒業している時点で彼は人並み以上のものを身に付けている。

 

事実ヤン・ウェンリーは、アスターテ会戦の戦没者追悼式典を抜け出した後、ジェシカを車に乗せて宇宙港に送る途中で憂国騎士団のトレーラーに襲われた際には巧みな運転操作で難を逃れている。

また、その日の夜に再び官舎に押し掛けてきた憂国騎士団に手榴弾を投げ込まれる直前、それを察した彼は咄嗟にユリアンに覆い被さって床に伏せ、身を挺して爆発から庇っている。

 

これこそがヤン・ウェンリーの真の姿であり、その強さを無意識の内に確りと受け継いだ今世の楊文理が、活躍出来ない訳がなかった。

 

"楊文理が小学校五年生の時、同学年の友達に誘われて、サッカー部に所属している高校生の兄とその仲間達との勝負に参加した際に、簡単にボールを捌いた"

 

"楊文理が小学校六年生の時、少年野球のクラブチームに所属していた同級生の瓊音英樹(ぬなと・えいじゅ)に誘われて、野球の中学リーグに所属する彼の中学四年生の兄と対決した際、初打席でホームランを決めた"

 

"校庭での体育の授業で野球をやっていた、自身も野球チームに所属している五年生の児童が勢い余ってホームランを決めてしまったボールが、英語の授業中だった楊文理の教室の開け放っていた窓から飛び込んできて、偶々其れを目撃した彼が飛んできたボールを片手で受け止めた"

 

"充分な身体能力と才能があるにも関わらず、本人に特定のスポーツに打ち込む気がなかった為に同級生達からのスポーツチームへの誘いを全部断った"

 

等々、前世で培った経験の賜物を無意識に生かした数々の逸話を残している。

 

そんな、当時の楊文理に唯一欠点があるとすれば、些か喧嘩っ早い少年だったという事だろうか。

 

学校生活を送っていると、誰しも必ず一人か二人は反りが合わなかったり、相手と険悪な間柄になってしまう事はあるだろう。

そういう場合は極力互いに関わらない様にするのが無難と考えられるが、中には嫌がらせが目的でわざと絡んでくる者もいる。

そういう輩と楊文理は、ほぼ毎日の様に些細な事で口論になり、時にはそれが大喧嘩に発展する事が多々あった。

 

いじめっ子だった訳では断じてない。

楊文理なりの正義感というものも持ち合わせていたが故の事だった。

 

同級生が同級生を、上級生が下級生を、下級生が上級生を悪意を持ってからかったり、いじめていたりすれば、後先考えず食って掛かり、場合によっては自分から互いに怪我をするに至らない程度で取っ組み合いの喧嘩を仕掛けては勝利し、口で言っても理解しない輩を力で理解させた。

例えば、こんな事件があった。

 

 

西暦一九六四年と西暦一九八四年に続く三度目の東京五輪が開催間近に迫り、楊家には末っ子となる次男、楊文明(よう・ふみあき)が生まれ、十二歳歳上の兄となった楊文理が、小学六年生になって間もない西暦二〇二四年五月のある日の事。

 

文部科学省官僚出身の国会議員を祖父に、同じく文部省の官僚を父親と都議会議員の母を持つという、学校を舞台にしたドラマに出てきそうな家庭に育った六年生の男子児童をリーダー格とする十三人規模の問題児グループが、同学年の日本人と東南アジア系ハーフの瑠璃野(ルリヤ)という女子生徒と楊文理と同じ登校班に所属していた彼女の一年生の弟に対して、彼等がハーフである事を理由に酷いいじめを働いていたのを楊文理が目撃。

 

それに気付いたリーダー格の児童があっち行けと言わんばかりに上履きを投げつけた事から、たちまち取っ組み合いの大喧嘩に発展した。

 

楊文理の同級生で、帰化時にヨーロッパ圏の苗字であるアランの愛称の一つである"ラニー"を"蘭"と当て字して苗字にした、英国はスコットランド出身の母を持つ少年蘭鶍(らに・いすか)と、同じ様に帰化に際して"ノナート"を日本風に当て字した"瓊音"を苗字にしたポルトガル系の父を持つ瓊音英樹(ぬなと・えいじゅ)もこれに加勢し、結果は三対十三という圧倒的な戦力さがあったにも関わらず問題児グループ側の敗北に終わった。

 

此の件は、その規模の大きさ故に目撃者が多かった事。

衆議院選挙と都議会議員選挙のダブル選挙が近かったリーダー格の両親が大事になるのを嫌った事などから、学校側によって喧嘩両成敗と言わんばかりに早々に一応の幕引きが図られた。

 

これ以降、問題児グループは、十二歳の日本人男性の平均身長を十センチ以上上回る一六六センチという背の高さと喧嘩の強さを兼ね備えた楊文理という名の抑止力を前に、瑠璃野姉弟へのいじめを少なくとも表向きには止めざるを得なかった。

この、熱血漢に片足を突っ込んでいる様な、良くも悪くも自分なりの強い正義感を曲げることなく常に強く抱いた少年。

 

これが、前世とは全く異なる家庭環境が造り出した、変貌前(・・・)の楊文理の姿であった。

 

 

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