86-エイティシックス-DIE NEUE THESE 作:ふそう
〈ミニ・ヒストリカル・ドキュメンタリー〉
"◼ノース・フィールド飛行場跡(東京都天寧町)"
"西暦一九四五年(昭和二十年)五月から七月にかけて、川崎市・広島市・岡山市・熊本市・仙台市・静岡市に計六発の原爆を投下した第509混成部隊のB-29爆撃機の出撃拠点。かつて世界最大級を誇った四本の滑走路の大部分は北真理亜納諸島本土復帰後は東京都によって保存され、「都立天寧島平和祈念公園」として平和学習の一大フィールドとなっている"
"「エーブル滑走路」の北端には当時実際に原子爆弾の搭載作業が行われた「搭載ピット」が当時のまま保存されており、東京都教育委員会から史跡として指定されている"
"搭載ピットの北にある原爆組立工場は、本土復帰後に復元されたもの。建物内では当時の組立作業の様子を再現した展示が行われている"
"敷地内に建つ「天寧島平和祈念資料館」では北真理亜納購入後の天寧島開発の歴史をはじめ、「天寧島の戦い」や「剣号作戦・烈作戦」を日米両軍双方の視点から見た展示、実際に投下されたウラン型原子爆弾とプルトニウム型原子爆弾の実物大復元模型をはじめとした原爆投下についての展示が行われている。"
"「彩帆島・天寧島修学旅行ガイドブック」より抜粋"
東京都内の中学生にとってはお馴染みの修学旅行先である、北真理亜納諸島の彩帆島・天寧島への修学旅行を翌月に控えた、西暦二〇二八年五月三十一日、水曜日。
今年に入って、東京都心で初めて最高気温三十三度という真夏日を記録した日だった。
この日の楊文理は、あまり体調が良くなかった。
朝から原因不明の酷い睡魔に見舞われていたのである。
"いままでにないぐらいに目覚めの悪い朝だった。あんな事は前世でもなかったよ"
と、後に楊文理は回想している。
このまま布団にくるまっていたかったが、学校がある以上そうは行かない。
加えて、本来なら今日は野球部は休みなのだが、この日に限って練習試合の予定が入ってもいた。
楊文理は大きな溜め息をつくと、普段以上に緩慢とした動きで布団から身体を起こし、日課の朝シャワーを浴び、朝食を済ませ、野球用下着の上に制服を着て、家を出た。
その後も眠気が冴える事はなく、頭が働かない状態だったが、授業も練習試合もどうにか無事に終える事が出来た。
練習試合の会場でもある神保中学校から自宅迄は歩いて十分もかからない。
楊文理は"ただいま"の一言も言わずに靴を脱いで上がった楊文理は其のまま洗面所と浴室に直行。
野球をしてて汗だくになった為に休憩中に着替えた全てのユニホームと、今身につけている体操着とジャージを脱いで全部纏めて多量の洗濯洗剤と一緒に洗濯機に放り込み、スイッチを入れてから浴室に飛び込んだ。
風呂場の鏡に映る彼の肉体は、野球部で鍛えられた細身ながらも精悍なそれだった。
前世の士官学校時代のヤン・ウェンリーは、厳しい基礎訓練、実技訓練をこなす過程で細身ながらも健康的で理想的で精悍な肉体を身に付けていたが、卒業後は自主鍛練の類いを面倒くさがってやらなかったせいで、二十代後半迄には中肉程度にまで落ちていた。
だが、今世で野球部に入り、練習の一貫で腹筋や腕立て伏せ等基礎的なトレーニングをするようになった結果、今日の彼の肉体は、前世の士官学校当時の姿に限りなく近い姿を取り戻していた。
入浴中も、彼は睡魔が心身を再占領するのと再解放されるのを何度か繰り返した。
気が付くと全身シャンプーの泡まみれのまま床に寝転がっていた時もあった。
普段から長風呂傾向にある彼の入浴時間は、この日は三十分も長かった。
夕食を済ませた時には、楊文理は"頭の中がミルク粥になってて、考え事どころじゃない"状態に陥っていた。
いつもならこの後、自分の部屋のベッドに寝転がって深夜迄歴史本を読み耽るのだが、この日はもうとにかく睡眠と休息を何よりも欲していた。
ふらつく足取りで、壁に手を着けながら、階段をゆっくりと上がって自室に直行した。
◇
楊文理の私室は、洋室に和室、さらには専用のサニタリールームまでを備えた2Kマンションに近い仕様であり、中学生の部屋にしてはあまりに広く、そして豪華すぎる部屋だ。
だが、一歩足を踏み入れれば恵まれた空間は殆ど台無しだ。
室内は、もはや「足の踏み場」という言葉が形骸化するほどに本や衣類が氾濫する雑然極まる有り様で、神保町という知の集積地を体現するかのような、際限なく与えられる両親の小遣いを存分に使って集めた蔵書の山と、年相応の無造作な脱ぎ散らかされた光景が拡がっている。
楊文理少年の、あまりに無防備で怠惰で混沌とした日常を凝縮した様な光景が、其処にはあった。
歴史書、ノンフィクション、フィクション小説、さらには兄姉たちに荷物持ちを兼ねて連れていかれたコミケで買い漁った歴史関係の同人誌の数々が、部屋を埋め尽くしていた。
如何にも「古本」というべき時代の流れを感じる年季の入った一冊から、刊行されたばかりの新刊に近い古本まで、本の状態は様々だ。
一応はジャンル別にまとめられているものの、その混沌とした本の連なりだけで、人類が紡いできた歴史の流れを充分に感じ取れそうな光景である。
壁面にズラリと並ぶ、床から天井まで届く大容量の埋め込み式スライド本棚も、もはやその容量は限界を越えて久しい。
収まりきらない本は、本棚手前に置かれた百円均一のプラスチックコンテナに、背表紙が見えるように高々と積み重ねられている。
しかもその山の中には、本に紛れて歴史的な記念品も少なくない数が混ざっていて、そのラインナップは、いずれも歴史の深淵を感じさせるものばかりだ。
其れらはすべて、古美術品収集を趣味とする父が、歴史に傾倒する息子へと惜しみなく贈ったプレゼントだ。
楊文理が手にするのは、何も小難しい活字本ばかりではなく、漫画に手を伸ばすこともある。
だが、その棚の顔ぶれは、同世代の少年たちが夢中になる週刊少年誌のラインナップとは一線を画している。
並んでいるのは、圧倒的な割合で青年誌の作品だ。
"圧倒的な力を持つ「巨人」の大群と、それに対抗する壁の中の人類の絶望的な戦いを描いたダークファンタジー"
"現代日本の脳外科医が幕末の江戸にタイムスリップし、現代医学の知識で人々を救いながら歴史の渦に巻き込まれる、SF要素の強い医療時代劇漫画"
"第二次世界大戦後、日本が南北ではなく東西に分断され、東京が「ベルリンの壁」のような壁で隔てられた架空の世界を舞台に、脱出請負人として活動する少女が主人公の仮想歴史活劇"
"戦前から戦時中にかけての日本を舞台に、戦艦「大和」の建造を阻止しようとする天才数学者の活躍を描く歴史フィクション"
"太平洋戦争末期の激戦地の一つ、ペリリュー島で、漫画家志望の日本兵が「功績係」として戦場の悲惨な現実と極限状態の若者たちの姿を、美しい島と対比させながら描いた戦争漫画"
"天災で文明が崩壊した近未来の日本を舞台に、三つに分裂した国の再統一を目指す青年の活躍を描いた群像歴史漫画"
"破滅的な大災害で国家体制が大規模に再編され、航空技術が制限された未来世界を舞台に、七つの都市国家による紛争を描いていたSF小説のコミカライズ版"
"新海軍の潜水艦の乗組員達が事故を装って日米極秘の高性能原潜に乗り込むも、艦長が其れを奪取して独立国家の樹立を宣言する、全世界を巻き込んだ壮大な政治・軍事サスペンス物"
"現代の高校生が戦国時代にタイムスリップし、病弱な本物の織田信長と瓜二つだったことから、彼の身代わりとなって戦国の世を生きる姿を描いた、SFと歴史物が融合した戦国エンターテイメント"
"奇病が原因で日本人男性の人口が激減し、男女の役割が逆転した江戸時代を舞台に、三千人の美男子が一人の女将軍に仕える大奥の人間模様を描いた歴史改変SF"
小説の蔵書も多岐に渡る。
『三体』や『日本沈没』、『戦国日本軍』といった重厚なSFから、『坂の上の雲』や『レ・ミゼラブル』などの国内外を問わぬ歴史大作。
さらには映画やドラマ、果ては『ガンダム』シリーズをはじめとするアニメ作品のノベライズ版までが、ジャンルの垣根を越えて並んでいる。
一見すれば神保町の古本屋そのものといった有様のこの部屋だが、意外にも、これまで家族から「汚い」と咎められたり、「片付けなさい」と叱られたりしたことは一度もない。
自由奔放な両親と、同じく一家の血を引く兄姉たち。彼らにとって、この「知識の氾濫」は楊家の人間として極めて自然な、あるいは微笑ましい光景として受け入れられている・・・というのは、半分は正解である。
横浜に住む父方の祖父母の家も、神戸に住む母方の祖父母の家も。
両親の部屋も。
双子の姉達の部屋も。
そして父方母方双方の親戚達の家も。
それら全てが楊文理の部屋と同じ位かそれ以上に散らかっていて、自分達の事を棚にあげて他人にどうこう言える状態ではないからというのが真の正解だ。
どうやら楊一族を筆頭に、それと関わりを持つ者達の家には代々、家を散らかす才能と遺伝子が受け継がれているらしい。
楊文理の寝床は隣の和室。
暖簾代わりと言うべき、一々畳むのが面倒故に何時もそのまま部屋の中に掛けっぱなしになっている洗濯ハンガーに大量に吊るされた野球部で履くアンダーソックスとストッキングは暖簾代わりの役割を潜り抜け、朝から点けっぱなしのLED照明が無機質な光を部屋に落とす中を奇跡的にも躓いて転ぶ事なく布団の側までたどり着いて、そこで楊文理の心身の疲労は限界を越えた。
膝から崩れ落ちて上半身だけ布団の上に倒れ込んだ姿で深い深い眠りの底へと墜ちていった楊文理は、心地よさげな寝息を立てている。
だが、その安眠の時間にあのような形で終止符が打たれる事になろうとは、この時の彼は知るよしもなかった。
◇
西暦二〇二八年六月一日、午前二時四十分。
その瞬間、楊文理は突如として襲いかかってきた全身を貫く激痛で目が覚めた。
何かに刺し貫かれている様な、焼かれている様な身体の痛み。
常人なら狂ったように絶叫しても当然な状況にも関わらず、楊文理は家族に心配をかけまいと必死に歯を食い縛り、全身から汗を噴き出させながら激痛に堪えていた。
だが追い討ちをかける様に頭痛が加わると、それから間もなく楊文理は意識を失った。
再び意識を取り戻した時、時計の針は午前二時五十分を差していた。
激しい身体や頭の痛みは嘘のように綺麗さっぱり無くなっていた。
楊文理は全身汗だくになった身体を炬燵から引き抜いてゆっくりと起こすと、近くの本棚を背もたれにして座り込む。
「そうだ・・・俺は・・・"私"は・・・」
楊文理は気絶していた十分間という短い時間に、今まで忘れていた壮絶な前世の記憶を全て取り戻していた。
全身を貫いたあの激痛が、記憶の奥底に眠っていた前世の記憶を呼び覚ましたのだ。
「そうだ、私は一度・・・死んだんだ・・・」
その一言を呟いたと同時に、楊文理の目から床へ涙が流れ落ちた。
何故、今の今までこんな大切な事を忘れていたのか。
最愛の妻や息子、そして仲間達を置いて先に逝ってしまった身でありながら、再び生を受けた自分は前世の事を綺麗さっぱり忘れて一人呑気に暮らしていたなんて。
なんて酷い夫なのだろう。
なんて酷い父親なのだろう。
なんて酷い上司なのだろう。
「ごめんよ・・・フレデリカ。ごめんよ・・・ユリアン。ごめんよ・・・みんな・・・」
楊文理は涙の止まらない両目を右手で押さえながら、聴くもののいない謝罪の言葉を、前世の最期では口にはしたつもりだが確りと発せたか分からなかった言葉を、今世ではっきりと自分の耳に聴こえる声で紡ぎ、暗い部屋の中で静かに声を漏らして啜り泣き続けた。
こうして、遂に完全復活を遂げた楊文理の、"ヤン・ウェンリー"としての時計の針は再び動き始めた。
西暦二〇二八年六月一日木曜日、午前二時五十五分の事である。