86-エイティシックス-DIE NEUE THESE 作:ふそう
〈ミニ・ヒストリカル・ドキュメンタリー〉
"第Ⅰ条Ⅰ項.アメリカ合衆国は、小笠原諸島及び北真理亜納諸島に関し、一九五一年九月八日にサンフランシスコ市で署名された日本国との平和条約に基づくすべての権利及び利益を、この協定の効力発生の日から日本国のために放棄する。
日本国は、同日に、これらの諸島の領域及び住民に対する行政、立法及び司法上のすべての権利を行使するための完全な権能及び責任をアメリカ合衆国から引き受ける"
"「小笠原諸島及び北真理亜納諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」より一部抜粋"
どれだけの時間泣き腫らしていたのか、正確な時間は分からない。
楊文理がある程度落ち着きを取り戻して、ふとテレビのモニターの左上を見ると、気付けば時刻は午前四時を回っていた。
其れを見た楊文理が先ず最初にした事は洗面所での歯磨きと日課の朝風呂だった。
今日は木曜日だ。
学校は勿論、野球部の練習もある。
流石に全身汗と涙で汚れたこの姿のままで学校に行くのは憚られた。
「・・・県内各地からの修学旅行生を乗せて、韓国の釜山に向かっていたチャーター船が、対馬沖で救難信号を発して間も無く忽然と消息を経った事件から、今日で一年が経ちました・・・」
浴室テレビに流れる、汐留に拠点を構える日国テレビの朝の情報番組が、去年日本を、否、世界に衝撃を与えた不可解極まる失踪事件を伝えている。
去年の六月一日。
ツアー会社の随行員と、山口県、福岡県、佐賀県の三県にある県立私立高校の教職員と高校生達合わせて九百人近くを乗せ、下関港と博多港から韓国の釜山に向かっていた二隻のチャーター船が、忽然と姿を消した。
事故なのか、事件なのか、原因は全く不明であり、海流の影響を鑑みて捜索活動は対馬海峡を含む日本海の殆どに及ぶ大規模なものとなった。
日本における純粋な海上警察組織である〈海上保安庁〉、内国安全保障省傘下の準軍事組織である〈海上憲兵隊〉、純粋な軍隊である〈防衛海軍〉。
日本海側の各道府県警察に漁協等民間のボランティア。
〈日米安全保障条約〉と〈日華相互防衛援助条約〉に基づいて日本に駐留する在日米軍、在日華軍の航空機。
韓国海洋警察庁に韓国海軍。
果ては、〈ウクナイナ・ヴェイシュノリア侵攻〉以来関係悪化の一途を辿っているロシア連邦のロシア国境軍や、北海道戦争以来サハリン島のみを国土として来た極東共和国国境軍の艦艇迄もが捜索に協力してくれたのだが、今日に至る迄残骸はおろか油膜等の消息に関わる様なものは一切発見されていない。
二隻の大型船が同じ海域で同時に失踪するという不自然さは"令和版軍艦畝傍"や"令和版辰和丸"等とも称され、今こそ其れなりに落ち着いているが、事件発生直後はYouTuberをはじめとするSNSユーザーやマスコミの報道、取材、考察合戦を異常な迄に過熱させたものである。
ただ此の時、楊文理の関心は其れには向いていない。
ボディソープとシャンプーにまみれた身体を、滝の様な音を立てながら勢い良く温水を吹き出すシャワーで洗い流す楊文理の思考も、彼の表情も、暗く陰鬱なものだった。
"私は大量虐殺者だ"。
"数えきれない数の帝国軍人を殺し、数えきれない数の同盟軍人を死なせた"
"数えきれない数の未亡人や戦争孤児を生み出した"
"死者の世界とやらが本当にあるとしたら、私が行くのは地獄だろうと思っていたのに"
"地獄に堕ちて当然の事をしたし、絶対にそうなると思っていたが"
"こんな私に、何の罰も受けずに二度目の人生を歩む権利が、果たしてあるのだろうか・・・"
だが、今こうして再び生を受け、二度目の人生を歩む機会が与えられた以上は、自分は生きなければならない。
なら、せめて今世では人殺しに関わるような事には関わらない様にしよう。
具体的には軍隊には関わらない様にしよう。
というのが楊文理の考えだったのだが、それには一つ大きな問題があった。
「安保協力法に社会基盤維持法だったか・・・。前世よりはマシに見えるが、相変わらず面倒な代物だねぇ、此の手のものは・・・」
◇
日本国軍は、〈アジア・太平洋戦争〉の敗戦と〈北海道戦争〉の戦勝から間もない時代。
〈第五福竜丸事件〉や〈洞爺丸事故〉と言った暗い話題も多かった一方、彼の有名な特撮怪獣映画〈ゴジラ〉が公開され、マリリン・モンローの来日やプロレスラー力道山の人気等、大衆文化が華開いた西暦一九五四年七月一日に発足した、地上軍・防衛海軍・航空宇宙軍(当時は航空軍)の三軍種からなる軍隊である。
地上軍は西暦一九四六年十月八日に発足した〈国家憲兵隊〉を前身とする陸軍組織であり、現役兵力は西暦二〇二八年現在約二十三万人である。
島国の陸軍としてはインドネシア陸軍に次いで世界最大規模と言われている。
此れは日本が極東共和国から、北海道戦争後も、西暦一九九〇年の〈日極共同声明〉後も、今日に至るまで〈ポツダム線〉に基づく北海道北部から国後島から雷公計島に至る南北千島列島の領有権を主張されているという安全保障上の要求は勿論だが、日本が世界有数の災害大国であるが故に災害派遣のニーズが非常に高く、其れに対応するための一定の地上兵力を常時必要としている為である。
戦争に備えて、というよりは、近い将来起きるとされる首都直下地震や南海トラフ巨大地震等、災害時のマンパワー確保の目的の方が大きいかもしれない。
尚、国家憲兵隊という組織自体は国家公安委員会の下で今日も存続している。
防衛海軍は西暦一九五〇年に北海道戦争に際して結成された所謂〈日本列島における国連軍(以下日本国連軍)〉の組織下において発足した〈国際艦隊日本人艦隊〉の組織と人員と艦艇を譲り受ける形で発足した海軍組織であり、現役兵力は西暦二〇二八年現在約八万人、内二万人が陸戦隊である。
航空軍も、やはり北海道戦争に際して日本国連軍組織下で結成された〈国際航空隊日本人部隊〉の人員と航空機を譲り受ける形で発足した空軍組織であり、現役兵力は西暦二〇二八年現在約六万人である。
これら三軍種合わせて三十七万人の将兵が所属する軍隊が国家国民軍である。
尚、此の数字は〈サンフランシスコ平和条約〉の軍備制限条項が認める総兵力三十八万人以下という制限に収まる数である。
人材確保については志願入隊が主であるが、完全志願制では安定性に欠ける為、同時に其の年の志願入隊者数によって数が変動する、選抜された徴兵者(日本国では防衛協力者と称する)で不足する人数を補う仕組みを組み合わせた〈志願制・選抜協力並立制〉を発足当時から採用しており、同制度は〈国家安全保障国民協力法〉を法的根拠としている。
日本国が男女平等男女同権を社会に浸透させる為の手段として、イスラエルに続いて女性を徴兵の対象とした世界で二番目の国になったのも此の時である。
最も、当時の女性選抜協力者に任された仕事は基本的な射撃訓練以外は専ら通信・輸送・防空・事務・医療等の一部機密性の高いものも含む後方支援業務であり、今日の様に男女同一の戦闘訓練に参加出来る様になったのは昭和の終わり頃からであった。
兵役や徴兵制と言わなかったのも、軍隊の必要性は受入つつも、やはり戦後未だ間もない時代にあって戦時中の「赤紙」の記憶が生々しい国民感情への配慮だった。
「・・・『兵役』や『徴兵』と呼べば反対されるが、『安全保障政策や社会基盤維持への協力』と呼べば国民は納得した。言葉の定義を変えるだけで、若者を軍隊へ送り出せるのだから、全く、政治家という人種はどの世界のどの時代でも質たちが悪い連中らしい・・・」
現代の制度では先ず、小学校六年と中学校四年の義務教育期間を終えた日本国民の男女は、国内在住者及び海外在住者を問わず有事に備えた予備役名簿に自動で登録される
四年間の高校生活を終えた男女は、一人っ子や大学や専門学校へ進学する者等、法律で定められた免除・猶予対象者を除いて此れまで毎年学校で受けてきた身体検査の記録が国軍総省に送られて精神検査の対象となり、其れに合格した者は次いでロトの抽選対象者となり、その年の志願者数が目標採用人数に達しなかった場合に不足分の抽選が実施され、当選した者が大学と同じ四年間の兵役となる。
だが、実際に徴兵されて四年間兵役を勤める者は日本国軍の長い歴史の中で先ずいない。
合格者に対しては三軍及び準軍事組織である「内国安全保障省」傘下の「国家憲兵隊」と宮内省傘下の「禁衛府」が志願者の積極的な勧誘を行う為だ。
志願者として入隊すれば兵役期間は四年間から一年間に短縮される上、志願して職業軍人になった者達と同額の高給が支払われる。
その後は予備役として「国民予備軍」に登録されて定期的な召集訓練に参加し、任期満了後はやはり国からの軍人年金の支給対象者となる。
志願者には期間短縮や高給等の特典を数多く設ける事で必要な人員を確保する仕組み狙いである。
◇
また、免除対象者となる条件の一つとして、国立・公立高校や一部の私立校での「安保学習部」という部活動への所属がある。
部員達は活動日になると、兵役経験のある顧問や講師の指導の下で救命措置や応急処置の技術を学んだり、必要に応じて安保教育体験施設に赴いて市街戦を想定したサバイバルゾーンでの射撃訓練やシミュレーターを用いた航空機や軍用車両の操縦体験を受ける。
一部の国立高校や維持費に余裕のある私立校には実弾の射撃体験施設が附属している場合もある。
地方、例えば北海道の高校に通う部員達は市街戦のみならず野戦を想定した訓練やサバイバルを体験したりする場合もある。
そして引退後は四年間の部活動経験が其のまま兵役修了資格として扱われ、抽選を免除されるのだ。
因みに他の一般的な部活と同様、個人の技能を競う都道府県大会や全国大会もある。
◇
社会基盤維持業務従事者の道を選んだ場合は、此方は最長四年間の勤務が課される。
此方も契約社員と同額の給与は保障されているし、希望すればスキルアップの為の資格取得支援も受けられ、任期満了後の優先雇用制度もある。
勤務先は本人の希望を踏まえた上で実際の素質や適性に応じて決まる。
軍属として酒保、調理士、理容師、看護婦、郵便手、記録手など、戦闘に直接関わらない業務を担う者。
官公庁の行政職員や警察行政職員、消防のアシスタント職、医療機関での看護補助、海上保安庁の補助事務等に従事する者。
災害対策基本法及び有事法制が定める「指定公共機関」、又は私鉄や物流、国から所謂"国有民営"で軍需生産を委託している等"国家安全保障及び社会基盤維持に重要な企業"と認定された企業で契約職員待遇で勤務する者。
大学教授や研究者のアシスタントや、公立の小中高等学校に教員免許不要の補助教員や部活動の外部顧問・コーチとして勤務する者。
博物館の学芸補助員として勤務する者。
この他にも活躍の場は多岐に渡る。
「まあ、万一合格して志願兵と社会基盤何とかのどちらかを選べというなら、私は後者を選ばせてもらうとするかな。博物館の学芸補助員とか、公立図書館のスタッフとか、歴史学教授の研究アシスタントとか。探せば、歴史に関わっていられる静かな勤務先もあるみたいだしね。四年間、古びた資料に囲まれていられるなら、銃を担いで走り回る一年間より、私にとってはよほど価値がある」
歴史研究者になりたいという夢を抱いて、前世でハイネセン記念大学歴史学科への入学を志すも、父の事故死によって叶わなかった。
其れが"不敗の魔術師"ヤン・ウェンリーの始まりとなった。
辞めるに辞められず、同盟軍人として働き続ける最中に書いた酒と人類文明発展との関係について記した論文をユリアンに呆れられながらも歴史家になる夢を抱き続けて、遂に叶わずに終わった前世。
だが、今世なら。
そう、今世での自分の将来に思慮を巡らせていた時間も、後を思えばほんの束の間、一瞬の出来事に過ぎなかった。
まさか此の日が、自分が再び
そして其のカウントダウンは、前世の記憶を取り戻した正にあの瞬間から既に始まっていた事など、此の時点の楊文理は想像すらしていなかったのである。
これで書きためてた第Ⅰ章の連投は終了となります。
エイティシックスの二次小説を見に来たのにヤンの話ばかりだなと思われた方、長々とお付き合い頂き申し訳ございませんでした。
次回、幕間として一話だけ銀河英雄伝説の話を挟んで、いよいよエイティシックスの星歴世界を舞台にした章が始まります。
また、ヤンの出番は暫く先になる予定でありますので、気長にお待ち頂ければ幸いです。