竜骨の学者 ──スカイリム漂流記   作:スカイリム愛好家

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第十六話

牙は、マサが完成させつつあった氷の呪文よりも、ほんの刹那、速かった。

空から降る死の影。開かれた巨大な顎が、マサの肩口を捉えた。鱗に覆われた硬い皮膚が鎧を裂き、牙が肉に食い込む。灼けるような激痛が走り、鮮血が舞った。

だが――マサは怯まなかった。

至近距離。あまりにも危険な、だが同時に、これ以上ない好機だった。彼は痛みに呻く代わりに歯を食いしばり、両手に渾身のマジカを込めた。

「――ッ!」

二条の氷の槍が、ほぼ零距離で同時に放たれる。凍てつく刃は、竜の喉笛と翼の付け根を、抵抗もなく深々と貫いた。古強者の咆哮が、苦悶の悲鳴に変わる。翼に白い霜が走り、羽ばたきが明らかに乱れた。魂を揺さぶる衝撃に、巨躯が大きくのけぞる。

制御を失ったミルムルニルは、雷の主を仕留めそこね、もんどり打って地へと墜落した。

轟音と砂塵。地に伏した古竜の動きは、凍てつき、鈍く、よろめいている。今、確かに――致命的な隙が生まれていた。

 

その好機を、誰一人逃さなかった。

「今だ!」

イリレスの鋭い声が飛ぶ。彼女とレモネードの刃が、地に伏した巨体へ殺到し、鱗の裂け目を執拗に抉った。雷のアトロナックが放った球電が、眼窩の脇で完璧に爆ぜ、古竜の視界を焼く。

そして、止めを刺すように――肩の傷を押さえながらも再び呪文を編んだマサから、二条の氷槍が放たれた。凍てつく咆哮とともに竜の胸郭を貫いた氷は、その鱗の下で一気に膨張し、内側から古い骨を砕く音を立てた。

ミルムルニルの巨躯が、激しく痙攣した。燃え盛っていた双眸の光が、急速に翳っていく。竜戦争を生き延びた古強者――その命の灯が、今、消えかかっている。

最後の力を振り絞り、霜に覆われた頭を擡げ、何かを吐き出そうと喉を赤熱させるが、凍りついた肉体はもう、その意志に応えなかった。

 

マサは、最後のマジカを指先に集めた。氷の刃が、ひとひら、また一片と編まれていく。瀕死の古竜が、霜に覆われた双眸で、静かに彼を見上げた。憎悪は、もうそこにはなかった。あるのはただ、永い永い時を経た者の、底知れぬ静寂だけだった。

 

マサは、その眼を見返して、口を開いた。

「竜よ、あなたは強かった。だが、我々の勝利だ。なぜ人の世界に現れたかわからないが、安らかに眠れ……」

放たれた氷槍は、古竜の心の臓を、過たず貫いた。

ミルムルニル――竜戦争の業火を潜り抜け、英雄たちの声を欺き、塚の闇で幾星霜を眠り続けた古強者は、長い吐息のような唸りを一つ残し、巨大な頭を地に横たえた。燃え盛っていた眼窩の灯が、ふつりと消える。

静寂が、戦場を支配した。

 

異変は、その直後に起きた。

横たわった竜の骸が、内側から橙色に発光しはじめた。鱗が、肉が、骨が、まるで火に投じた羊皮紙のように、めくれ、剥がれ、光の粒子となって宙へと昇っていく。だがそれは、ただ燃え尽きるのではなかった。立ち昇った無数の光は、渦を巻き、流れを成し――一点へと、収束していった。

マサのもとへ。

「な……っ」

声を漏らす間もなかった。竜の魂が、灼熱の奔流となって、彼の体へ流れ込む。皮膚から、骨から、魂の最も深いところへ。それは痛みではなかった。むしろ――満ちる、という感覚。長く空いていた器が、本来あるべきもので満たされていく、めまいのような充足感だった。

その奔流の中で、ブリークフォール墓地で胸に灼きついた、あの一語が、轟然と意味を取り戻した。Fus。押し出す力。均衡。なぜ自分にだけ読めたのか。なぜ古竜の咆哮が「言葉」として聞こえたのか。なぜ壁の前で、魂が疼いたのか。

答えが、今、奔流とともに、彼自身の存在の根として、明らかになっていた。

 

光が収まった時、マサは息を荒げて立ち尽くしていた。眼前の骸は、もう白く晒された竜の骨と、剥き出しの鱗を残すのみ。学者として積み上げてきた一切の理屈が、足元から覆されていく。竜の魂を喰らう者。歴史の英雄たちと、同じ血を引く者――。

「……まさか」

かたわらで、イリレスが愕然と呟いた。その冷徹な赤い瞳が、信じられぬものを見るようにマサを見据える。

「竜の魂を、その身に。お前――ドラゴンボーン(ドヴァキン)か」

衛兵たちがどよめいた。「ドラゴンボーンだ……本物の……!」「古い話の、竜を屠る者が……今、目の前で……!」

レモネードは言葉を失い、ただ、見開いた蒼い瞳でマサを見つめていた。

 

その時だった。

遥か東――スカイリムの背骨をなす霊峰、その雲を衝く頂から、大地そのものを揺るがす声が、轟いた。幾人もの喉から放たれた、雷鳴のごとき言葉の力。それは平原を渡り、山々にこだまし、世界の隅々へと響き渡っていく。

 

ドー・ヴァ・キーン……!

 

風が、鳴った。マンモスが遠くで嘶き、鳥が一斉に空へ舞い立つ。誰もが天を仰いだ。世界の喉の頂に棲むという、伝説の隠者たち――その声が、新たに目覚めた竜の血を引く者を、呼んでいた。

 

マサは、自らの両手を見下ろした。氷を編み、雷を放ってきた、見慣れたはずの手。だが今、その奥に流れるものは、もう昨日までの自分のものではなかった。

「なんだ……? ドラゴンボーン……? あのノルドの伝説に伝わる……? 俺はタイバー・セプティムじゃないんだぞ……」

呆然とした呟きに、答えたのは、年嵩の衛兵だった。瓦礫の陰から這い出てきた男は、畏怖の滲んだ目で、しかし確信を持って言った。

 

「ドラゴンボーン……ドヴァキン、だ。間違いねえ。爺さんの、そのまた爺さんの代から語り継がれてきた話さ。竜の魂を宿して生まれた者――竜を殺し、その魂を喰らい、竜の言葉(トゥーム)を、修行もなしに我がものにできる者。あんた、今、まさにそれをやってのけた」

「落ち着け」イリレスが鋭く制したが、その声にも、いつもの冷徹さに、隠しきれぬ動揺が混じっていた。彼女は剣を鞘に納め、まじまじとマサを見つめる。「だが……この目で見た。竜の魂が、あなたに流れ込むのを。否定のしようがないわね。ダンマーの私が言うのも妙な話だけど――マサ、あなたは、ノルドの伝説そのものよ」

タロス。神にまで上り詰めた、英雄の中の英雄。政争に倦んで祖国を捨て、ただ静かに魔法を究めたいと願っただけの、一介の魔術師が、その血を引くだと? 学者の理性は、ありえない、と叫ぶ。だが、体の奥で滾る竜の魂の熱が、喉に灼きついた「言葉」の確かな重みが、その否定を、ことごとく覆していく。

 

「あれは……」レモネードが、初めて口を開いた。固唾を呑んで天を仰いでいた彼女は、囁くように言う。「グレイビアード。世界の喉の頂に棲む、声の修道僧たちです。彼らが、ああして声を轟かせるのは……ドヴァキンが現れた時だけ、と聞きます。マサ殿――あなたを、呼んでいるのですよ。あの、天に最も近い場所へ」

彼女の蒼い瞳が、複雑な色を湛えてマサを見ていた。畏怖、驚嘆――そして、ほんのわずかな、寂しさのような何か。昨夜、蜂蜜酒を酌み交わし、「相棒」と呼び合った男が今、自分の手の届かぬ、伝説の領域へと足を踏み入れようとしている。

 

午後の風が、竜の白骨を撫でて、低く鳴った。

喉の奥に宿った「Fus」の一語が、まるで放たれる時を待つかのように、熱を持って疼いている。

マサは、半信半疑のまま、自らの内に滾る熱に意識を沈めた。

喉の奥。竜の魂が流れ込んだ、その最も深い場所に、あの一語が、灼けた焼き印のように刻まれている。Fus。意味は、もう分かっている。理屈ではなく、存在として。押し出す力。世界を、己の意志で、ほんの一歩だけ動かす理(ことわり)。

彼は、息を吸った。学者の常識が、最後の抵抗を試みる――声で物理を動かすなど、あらゆる魔法理論に反する、と。

だが、その声を無視して、マサは、初めての言葉を、世界に向けて放った。

 

「――Fus!

 

その瞬間、空気が、ねじれた。

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