竜骨の学者 ──スカイリム漂流記 作:スカイリム愛好家
その横で、ダンマーのイリレスが口の端だけで笑った。ダンマーの軍司令官が、新米の従士をからかう時の顔だ。
「聞いたか。一日目から正直な娘だ。荷運びが不服だと、もう申告しているぞ」
リディアの日に焼けた頬が、わずかに強張る。だが彼女は背筋を正したまま、揺るがぬ視線でまっすぐにマサを見た。
「……不服でも、退きはしません。ドラゴンズリーチの誓いは、軽くありませんから。あなたが竜を斬るお方なら、なおさら」
まだ、互いを何も知らない。彼女にとってマサは「首長が認めた、竜を屠った男」であり、それ以上でもそれ以下でもない。忠誠はまだ、温もりではなく、務めの形をしていた。
マサは軽く顎を引いた。
「なるほど、ではしばらく同行を頼もうか。前衛は欲しいのでな」
そして、傍らに立つもう一人の戦士へ向き直る。
「それで、レモネードさんはどうする? ロリクステッドに帰るのか? それとも同胞団に? せっかく竜を一緒に討ったんだ。祝杯を挙げたいところだけど」
「……承知しました。前衛、お任せを」
リディアは短くそう言って、また一歩退いた。命じられた務めが明確になったことに、むしろ安堵したような顔だ。荷運びより、剣を執れと言われる方が、この女にはよほど据わりがいい。
問いを向けられたレモネードは、すぐには答えなかった。
蒼石の簪に指を添えたまま、彼女は少しだけ視線を落とす。炉の灯が、黒く長い髪の縁を赤く染めていた。背筋はいつものように伸びているのに、その横顔には、珍しく迷いの影が差している。
「……正直に申し上げますと、まだ、決めかねております」
ようやく口を開いた声は、いつもの折り目正しい敬語だった。
「ロリクステッドには、竜討伐に出る前に文を遣わせていただきました。『数日、戻りが遅れる』と。村の守りは、しばらく古参のヨルンドが見てくれます。ですから――今すぐ帰らねば、というわけでは、ないのです」
そこで彼女は、ふっと息を吐いた。困ったような、けれどどこか嬉しそうな、複雑な笑みだった。
「ただ……自分でも、おかしいのです。墓所の契約も、竜の約束も、もう果たし終えました。本来なら、報酬を懐に村へ帰るのが筋。なのに、足が、なかなかそちらを向いてくれません」
蒼い瞳が、まっすぐにマサを捉えた。
「マサ殿は竜を屠り、声に呼ばれる身になられた。伝説の入り口に立っておられる。……そんな方の隣を、田舎の剣士がいつまでも歩いていいものか。それを、決めかねているのです。同胞団に客分として腰を据えるか、村へ帰るか、それとも――」
語尾が、わずかに濁った。「それとも」の先を、彼女は口にしなかった。
代わりに、祝杯の誘いに、表情がぱっとほどける。子供のような好奇心が、迷いの影を押しのけて顔を出した。
「――でも、祝杯は、ぜひ。竜を共に討った夜です。挙げぬ法はありません」
それから、少しだけ慌てたように付け加える。
「あ、ですが……わたし、酒は一杯までにしておきます。二杯目から、その、少々あやしくなりますので……。それより、甘い物はありませんか。竜のたてがみ亭なら、蜂蜜をたっぷり落とした温め酒があるはず。あれが、わたし、好きで」
照れ隠しのように早口でそう言って、彼女は簪からようやく指を離した。
マサは、城の者たちに向き直った。
「では我々はここで失礼する。リディア、明日はこの城に迎えにくるから、今日は自由にしてくれていい。首長も、今後ここを拠点にするかもしれないのでよろしく頼む」
「明日、迎えに……」リディアは一瞬きょとんとし、それから生真面目に頷いた。「了解しました。では今宵は、武具の手入れでもしておきます。私の務めですから」
自由にしていい、と言われてなお務めを探すあたりが、この女らしかった。
バルグルーフは杯を掲げて応えた。
「ホワイトランを拠点に、か。結構。従士の屋敷ブリーズホームはいつでも空いている。執政に話を通しておこう。――竜を斬る男が根城にしてくれるなら、この街も心強い」
抜け目のない笑みの裏に、本物の歓迎が一匙混じっていた。
風の高台を下りると、夜気が一段冷えた。晩夏とはいえ、ここは北国だ。石畳に松脂と囲炉裏の煙の匂いが低く流れ、遠くで衛兵の足音が規則正しく石を打っている。
竜のたてがみ亭は、城門近くの静かな宿だった。扉を押すと、炉の熱と蜂蜜の甘い湯気が一息に頬を包む。狩人亭のような喧騒はない。隅の卓で老人が一人、低く鼻歌を漏らしているだけだ。
奥の長椅子に落ち着くと、レモネードは茶のマントを外し、ふっと肩の力を抜いた。革胴衣の上からでも、戦のあいだ張り詰めていたものがほどけていくのが見て取れる。蒼石の簪だけが、相変わらず黒髪の中で小さく光っていた。
宿の女将が、湯気を立てる椀を二つ置いていく。彼女の前のそれには、蜂蜜がたっぷり溶かしてあった。
「……いただきます」
レモネードは両手で椀を包み、まず匂いを嗅いでから、ひと口。途端に、頬がふにゃりと緩んだ。統率者の硬さも、竜を前にした時の気迫も、この瞬間だけはどこかへ消えて、ただ甘い物に目を細める素朴な娘がそこにいた。
「……美味しい」
ぽつりと漏れて、それから自分でも気づいたように、慌てて姿勢を正す。けれど一度ほどけた表情は、もう完全には戻らなかった。
椀を置いて、彼女はマサの方へ向き直る。蒼い瞳が、炉の灯を映してゆらりと揺れた。
「マサ殿。……改めて、おめでとうございます。竜を屠り、従士になられて。それと――」少し言いよどんで、声が小さくなる。「ご無事で、なによりでした。あの竜の牙が、もう少し深くあなたを捉えていたら、と思うと……今でも、肩のあたりが冷えます」
彼女の視線が、布の下のマサの傷に一瞬注がれ、すぐに逸らされた。それから、自分を奮い立たせるように、椀を少しだけ持ち上げる。
「祝杯を。――生きて帰れた、わたしたちに」
椀の縁が、こつ、と触れ合った。
「ではまず乾杯。竜殺しに」マサも応じて、軽く椀を掲げた。「まさかこの年になって竜殺しなんて名誉を得るとは思わなかった。魔術師のならいとして戦闘もできるが、どちらかというと学者肌だったんだけどな」
「竜殺しに」
レモネードは復唱して、今度は遠慮がちに、けれど先ほどより少し長く椀を傾けた。一杯まで、と言っていたわりに、甘い湯気の誘惑には勝てないらしい。喉を鳴らして飲み下すと、蒼い瞳の縁が、ほんのり潤んで艶を増した。
学者肌、という言葉に、彼女はくすりと笑う。
「ふふ……失礼ながら、それは少し、意外でした。いえ、墓所でのあなたを見ていれば、剣より指先の方がよほど恐ろしいのは、よく分かっておりましたが」
椀を両手で包み直し、炉の方へ視線を流す。火明かりが、緩んだ頬の線をやわらかく撫でた。
「学問の方なのですね。……なんだか、いいです。剣を振るしか能のない者が、わたしの周りには多かったので」
ふと、声の調子が少し落ちた。懐かしむような、けれど湿っぽくはない口ぶりで。
「父も、根っからの剣の人でした。傭兵あがりで、難しい字は読めず、戦と酒と、あとは娘に剣を仕込むことしか知らぬ男で。――その父が、生きていた頃に言っていました。『お前の知っとる正義は、半分は腕で叶うが、もう半分は時間で叶う。腕の方は鍛えりゃええ。時間の方は、待てる強さが要る』と」
蒼い瞳が、またマサへ戻る。今度はまっすぐに、少しの好奇心と、それ以上の何かを乗せて。
「あなたは、たぶん、その両方をお持ちなのでしょうね。腕も――指先の方の腕ですが――それに、頭で待てる強さも。竜を前にして、わたしは『斬る』ことしか考えられませんでしたが、あなたは氷の槍を二重に編む間合いを、ちゃんと見計らっておられた。あれは、学者の戦い方です」
そこで自分の言葉に少し照れたのか、彼女は誤魔化すように甘い湯気をまた一口含み、ふにゃりと目尻を下げた。
「……いけませんね。一杯までと申し上げたのに。この温め酒、甘くて、つい」
頬の赤みは、もう炉の火のせいだけではなさそうだった。
「せっかくの夜だ。我を忘れない程度には飲んでもいいだろう」
マサは自分の椀を傾けながら言った。
「で、まぁそれなりの腕だと自負はしていたが、まさか竜にも通用するとはなぁ。というか、案外弱かったというか、あれならマスター級のウィザードなら一人で倒せるな。俺はまだ精々エキスパート、熟練に足を踏み入れた程度だから一人だと厳しかっただろうが」
その言葉に、レモネードの動きがぴたりと止まった。
椀の縁から顔を上げ、蒼い瞳がまっすぐにマサを射る。火明かりに緩んでいた表情の奥から、街道で隊を束ねる時の硬さが、つい、と頭をもたげた。酒が回りはじめて舌が滑らかになったぶん、いつもの折り目正しさより、芯の言葉がそのまま出る。
「マサ殿。それは――いけません」
きっぱりと、けれど突き放すのではなく、案じる響きで。
「『一人で倒せる』と。……あの場には、わたしがおりました。イリレス様の兵も、あなたが編んだ雷の精霊もおりました。盾で牙を逸らし、矢を射かけ、皆で隙を作って、ようやくあなたの氷の槍が届いたのです。一人ではありません。決して」
二杯目を一口含み、彼女はふっと息を吐く。今度は、少し柔らかい声に戻った。
「それに、あれはただの竜ではなかった。古い、戦い慣れた一頭です。炎を平気で弾く狡さがあった。あなたの肩を、現にあそこまで」――視線がまた、布の下の傷へ落ちる――「……一人だったら、あの牙は、肩では済んでいません」
椀を両手で包み直し、彼女は炉を見つめた。頬の赤みが、火と酒で増している。
「マスター級の魔術師なら、と仰いますが……わたしには、そんな大魔導師の腕は分かりません。ただ、戦で生き残ってきた者として、一つだけ知っていることがあります。――『これくらいなら一人でいける』と思った時が、一番、死にます。父も、そう言って何人もの傭仲間を見送ったそうです」
そこで、ようやく彼女は表情をほどいた。叱るつもりはなかった、というように、少し慌てて言い足す。
「……あ、いえ。あなたの腕を、けなしているのではありません。むしろ逆です。墓所でも、竜の前でも、あなたの戦いぶりは見事でした。だからこそ――」
蒼い瞳が、ふいに揺れた。酒のせいか、それとも別の何かか。
「だからこそ、無茶を、して欲しくないのです。せっかく、生きて帰れたのですから。竜は、これから増えると皆が言います。次に空から降りてくるのが、今日より弱いとは、限りません」
二杯目が、思いのほか早く効いている。長椅子の上で、彼女の肩がほんの少しマサの側へ傾いていた。本人は、たぶん気づいていない。
マサは唇の端をかすかに持ち上げた。
「まぁ、それもそうだな。ただマスター級のウィザードはドレモラロード、熟練のデイドラの騎士を二体召喚して壁にして、自分は達人級の魔法を撃ちこむような化け物になるからな。世界は広い、というやつだ。当然俺はそこまで強くないから一人では挑まないが」
「ドレモラ・ロードを、壁に……」
レモネードは椀を口元で止めたまま、目をまるくした。同胞団に縁こそあれ、根は田舎の剣士だ。魔の領域から騎士を呼び出して盾にする、などという戦い方は、彼女の地に足のついた世界の外側にある。
「召喚で、デイドラの騎士を二体、ですか。……正直に申しますと、わたしには、絵が浮かびません。それに――」蒼い瞳が、少しだけ翳る。「タロスを拝む身としては、デイドラの力を借りる話は、どうにも背筋が寒くなります。あなたの雷の精霊くらいなら、頼もしいと思えるのですが」
そこで彼女は、ふっと肩の力を抜いて笑った。酒の回った、緩い笑みだった。