竜骨の学者 ──スカイリム漂流記   作:スカイリム愛好家

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第二十三話

六十セプティム。護衛の相場にはほど遠いが、村の漁師のなけなしの懐からすれば、それは絞り出した誠意の重みを持っていた。ついでに運ぶ荷の駄賃としてなら、十分すぎる路銀になる。

 クリメクは卓上の金貨を押しやりながら、これが本題だ、とでも言うように声を潜めた。

「金より、こっちを聞いとけ。あの石段にはな――霜のでかいのが棲みついてる。トロルだ。三つ目の、毛むくじゃらの。半ばあたりの曲がり角、岩棚の陰だ。巡礼が何人も、あれにやられて石段から落ちた。俺がもう登れねえのも、膝だけの話じゃねえ」

 漁師は、思い出したように小さく身震いした。

「斬っても斬っても傷が塞がる化け物でな。鋼じゃ埒があかねえ。……ただ、火にゃ弱いって聞く。あんた、指から火を出すって噂の魔術師なんだろ? なら、あるいは。とにかく、半ばの曲がり角は気をつけな。供物を届けるより、まずあんた方が生きて登り切ることだ」

 リディアが、その忠告を一語一語、頭に刻むような顔で聞いていた。

「……霜のトロル。覚えておきます」

 短く応える声には、金銭よりも確かな道の知恵を寄越した男への、かすかな敬意が滲んでいた。

 話はまとまった。マサたちは供物の箱を預かり、明朝、世界の喉の七千段へ挑むことになった。炉の火が小さくなり、長い登りに備えて宿の客がめいめいに床へ散っていく。マサもまた、借りた寝台に体を横たえた。

 

 夜は何事もなく過ぎ、夜明けとともに一行は発った。宿の主ヴィルヘルムが握り飯と干し肉を持たせてくれた。クリメクの供物の箱を背負い、リディアが紐の具合を念入りに二度確かめる。村はずれの石段の登り口に立つと、冷え切った朝靄が足元を静かに這っていた。

「では――登ります」

 リディアの言葉を合図に、一歩を踏み出す。

 七千段は、想像を絶する過酷さで二人を迎えた。

 最初の数百段こそ脚は軽かったが、登るほどに空気が薄くなり、息が浅く、速くなる。イヴァルステッドの麦畑の温もりはとうに下界に置き去りになり、苔むした石段は白く霜を帯び、やがて道の両脇に雪が現れた。

 等間隔に、古い石板が道端に据えられている。風雪に削られた竜語と帝国文字で、声の道を説いた古の英雄、ユルゲン・ウィンドコーラーの故事が刻まれていた。シャウトをもって天を割った戦士が、その力のあまりの破壊を悔い、沈黙の行へと退いたという伝説。リディアは一枚ごとに律儀に足を止め、凍える唇を動かしてその文面を読もうとする。マサは何も言わず、彼女が顔を上げるのを静かに待った。

 

 太陽が中天を過ぎる頃、一行はついに雲の層を突き抜けた。眼下には、イヴァルステッドの村が豆粒のように小さく、白い川が銀の糸となって谷間を縫っている。空が、手を伸ばせば届きそうなほど近く、濃い紺碧の色をしていた。

 そして――道が大きく右へ折れる、岩棚の陰が見えてきた。

 クリメクの言葉が、不意に背筋を冷たい手で撫でた。半ばの曲がり角。

 マサは自然と足を緩めた。雪の上に、おびただしい数の骨が散らばっている。何かに齧られた跡が生々しい。巡礼のものだったらしい革帯の切れ端や、錆びついた短剣が雪に埋もれていた。獣の巣特有の、饐えた臭いが風に乗って鼻をつく。

 リディアが無言で剣の柄に手をかけ、マサの半歩前へと体を滑らせた。

 

 岩棚の陰で、雪の塊にしか見えなかったものが、もぞり、と動いた。

 それは、立ち上がると人の倍はあろうかという、巨大な毛むくじゃらの獣だった。霜を散らしながら身を起こし、額に縦に並んだ三つの目が、ぎょろりと侵入者を捉える。白い吐息が獣の口から噴き、丸太のように太い両腕が雪を払って持ち上がった。低い唸り声が、岩壁を震わせる。

 霜のトロル。漁師の警告は、寸分違わぬ真実だった。まだ距離はある。先に気取られたが、向こうもこちらを今、見つけたばかりだ。

 マサの脳裏で、かつてサイノッドの書庫で読み漁った魔獣誌の頁と、漁師の言葉が瞬時に重なった。霜のトロル。驚異的な再生能力を持ち、並の剣傷はたちまち塞がってしまう。だが、その氷を孕んだ体躯は、炎を何よりの天敵とする。

 リディアが前で盾を構え、石段を塞いだ。マサはその後ろで、静かに両の掌に意識を集中させる。彼女が壁となり、自分が槍となる。やるべきことは決まっていた。

 

「あなたは矢面に立たせません」

 従士の低い声が響く。その背で、マサは両の掌に紅蓮を二重に編み上げた。

 霜のトロルが咆哮し、雪を蹴って一息に間合いを詰めてきた。丸太のような両腕が、盾ごとリディアを叩き潰さんと振り下ろされる。一撃目が盾の縁を抉り、鋼の火花とともに彼女の腕を痺れさせる。返す二撃目の爪が、肩当ての隙間を深く裂いた。リディアは膝を雪に沈めながらも、半歩も退かない。歯を食いしばり、なおも盾を押し返した。

「……この程度っ」

 その刹那、彼女の肩越しに、二条の火球が放たれた。

 マサの指先で練り上げられた紅蓮が、寸分違わずトロルの胸へ吸い込まれる。二重に重ねられた炎が炸裂した瞬間、湿った体毛が一気に燃え上がり、肉の焼ける音と獣の絶叫が氷壁にこだました。巨体が燃えながらのけぞり、三つの目が苦悶に白く濁る。怯み、よろめいた。

 だが、獣はまだ倒れない。黒く焦げた巨躯が、煙を上げて石段に膝をつきながらも、その傷口が不気味に蠢き、わずかに肉を盛り上がらせようとしていた。

 マサはそれを許さなかった。獣が最後の力で身を起こしかける――が、遅い。

 指先からもう一条の火球が放たれ、焼け爛れた胸の同じ一点へ、紅蓮が深々と突き刺さる。

 今度こそ、獣の巨躯が内側から弾けるように燃え上がった。三つの目が一斉に光を失い、長く苦しい断末魔が氷壁を駆け上がって、やがて細く尽きる。崩れ落ちた毛むくじゃらの山から、黒い煙と、焦げた脂の臭いが立ちのぼった。

 静寂が戻る。風の音だけが、また石段を撫でていた。

 

 リディアが、ふう、と長く息を吐いて盾を下ろした。肩当ての裂け目から滲んだ血を、雪で無造作に拭う。

「……お見事です。火を一点に、あれだけ正確に。鋼で挑んでいたら、再生に削り負けて、今ごろ二人とも谷の底だったでしょうね」

 世辞の言えない女が、戦の後に漏らした、紛れもない賛辞だった。それから、焦げた巨躯を一瞥し、ぽつりと付け足す。

「漁師の言葉、役に立ちました。……金より道の知恵、とは、よく言ったものです」

 リディアはトロルの死骸から手早く脂の塊を二つ切り取り、革袋に収めた。

 

「おつかれ、リディア。良い盾だった。今回復しよう」

 マサが声をかけ、彼女の傷ついた肩に手をかざす。掌から淡い金緑の光がこぼれ、裂けた傷口を優しく包んだ。焼けるような爪傷の痛みが、温かい水に溶けるように引いていく。

 リディアは、不意を打たれたように身を硬くした。回復の光を、こんなに近くで自分のために向けられることに、慣れていないようだった。

「……主に、傷の手当てをさせるとは。私兵として、面目ありません」

 口ではそう言いながら、軽くなった肩を二度、三度と回す。痛みが嘘のように引いたことへの戸惑いと――それ以上に、面映ゆさが滲んでいた。守る側を当然としてきた女には、守られ、労われることが、どうにも据わりが悪いらしい。

「労いの言葉まで……。『良い盾だった』、と」

 小さく呟き、彼女は盾を背に括り直した。

「……務めです。ですが、悪い気は、しません」

 それきり、また口を閉ざす。けれど、先を行く足取りは、来た時よりほんの少し、軽く見えた。

 

 石段は、さらに千段ほど続いた。空気は刃のように冷たく澄み、雲はもう遥か足の下にあった。世界の喉の巨大な肩を回り込むと、ふいに、それは現れた。

 灰色の巨大な石積み――ハイフロスガー。

 吹きさらしの尾根に蹲る、古き修道院。窓には灯もなく、ただ風だけが、塔の隙間を抜けて低く唸っている。彫り込まれた竜の意匠が、千年の風雪に磨かれて黒く光っていた。重い両開きの石扉が、長い道のりを経て辿り着いた者を、静かに見下ろしている。

 ここに、声の老師たちが棲む。あの日、世界中に轟いてマサの名を呼んだ、グレイビアード。クリメクの供物の箱が、リディアの背でことりと鳴った。

 

 リディアが、扉を見上げたまま、声を潜めた。

「……着き、ました。ノルドでも、一生に一度、辿り着けるかどうかの場所です」

 マサは黙って扉の前に立った。

 あとは、押すだけだ。

 彼はしばしの沈黙の後、重い石の扉に手をかけ、ゆっくりと内側へ押し開いた。

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