竜骨の学者 ──スカイリム漂流記 作:スカイリム愛好家
両手で石扉を押すと、見た目の重厚さに反して、それは古い蝶番の軋みとともに、思いのほか滑らかに開いた。
外の風が、嘘のように止んだ。
中は、静まり返っていた。広い石造りの広間。雲を通して天窓から落ちる薄明かりが、床に埋め込まれた竜の意匠を淡く照らし出している。香でも焚いているのか、乾いた薬草と、千年分の静寂を吸い込んだ古い石の匂いが、肺を満たした。
その静寂の中央に、灰色の修道衣をまとった人影が四つ、身じろぎもせず立っていた。いずれも長い髭を豊かにたくわえ、まるで石像のように動かない。だがその目は、確かにマサとリディアを捉えていた。値踏みするような視線ではない。もっと深い、魂の芯を確かめるような、静かな眼差しだった。
うち一人――最も年嵩に見える、雪のように白い髭の老人が、音もなくこちらへ歩み出た。
「……ドヴァキン」
抑えた、しかし不思議とよく通る声だった。囁くようでいて、広間の隅々まで染み渡る。
「真に竜の血を引く者が、この時代に現れるとは。我らはお前の声を聞いた。世界の喉が震え、空が応えた。それゆえ、お前を招いた。――我が名はアーンゲール。この祠で、外界と言葉を交わすことを許された、ただ一人だ」
老人の視線が、ふと、マサの背を越えてリディアが背負う木箱に留まった。
「ふむ。下界の者の供物か。律儀なことだ。……礼を言おう。あの男は、もう山を登れぬ身ゆえ」
傍らのリディアが、息を呑んで深く頭を垂れている。ノルドにとって、この場所と、目の前の人物が持つ意味の重さが、その硬直した背中から伝わってきた。
だが、マサの胸に渦巻くのは、畏れよりも冷めた問いだった。なぜ自分が呼ばれたのか。「声」とは、魔法とどう違う現象なのか。竜の魂を喰らった時に流れ込んだ、あの理屈の通らぬ感覚の正体は何か。学者の性が、神秘を神秘のまま呑み込むことを許さない。
アーンゲールは、そんなマサの内心を見透かしたように、わずかに目を細めた。
「だが、招きに応じたとて、お前が真にドヴァキンである証を、我らはまだ己の耳で聞いてはおらぬ。――見せてもらおう。お前の声(スゥーム)を。この私に向けて、放つがいい。案ずるな。グレイビアードの身は、声では砕けぬ」
老人は両腕をわずかに広げ、静かにマサの前へ立った。竜の魂から得た最初の言葉――「Fus」を、放ってみよ、と。その揺るぎない佇まいは、試すというより、ただ確かめるためのものに見えた。
マサはしばし黙考し、やがて静かに息を吸った。
喉の奥に意識を沈める。竜を屠った時に流れ込んできた、あの感覚。理屈では捉えきれぬ、言葉になる前の言葉。胸の底でそれが熱を持ち、形をなしていく。学者の頭は最後まで「これは一体どういう現象だ」と問い続けていたが、今は構うものか。
マサは、それを解き放った。
「Fus――ッ」
声、と呼ぶには、あまりに異質だった。それは音であると同時に、空気そのものをねじ曲げる力だった。一語が口を離れた瞬間、目に見えぬ衝撃が直線に走り、床の埃が一斉に吹き飛ぶ。石板の塵が、水面に落ちた石のように波紋を描いて広がった。リディアが、思わず半歩よろめく。
だが、正面に立つアーンゲールは――微動だにしなかった。
灰色の髭と修道衣の裾が、烈風に煽られて激しくはためく。老人の足は、しかし、床に根を張ったように動かない。両の掌をわずかに前へ向け、押し寄せた力を、まるで川の流れを受け流す岩のように、静かに散らしていた。
衝撃が収まると、広間にはまた、深い静寂が戻った。
老人の、底知れぬ眼が、わずかに和らいだ。
「……うむ。紛れもない。竜の声だ」
その背後で、沈黙していた三人のグレイビアードが、低く――唸るとも詠うともつかぬ音を、喉の奥で響かせた。承認の和音。山そのものが、小さく頷いたかのようだった。
「よくぞ示した、ドヴァキン」アーンゲールが、ゆっくりと両腕を下ろす。「ならば、我らに教えられることがある。受け取る覚悟があるなら、だが」
老人が、傍らの一人へ目で合図した。その修道僧が、床の竜の意匠の上にゆっくりと屈み、己の喉から、低く一語を刻むように発した。すると、石の表面に青白い燐光が走り、見たこともない古い文字が、炎の筆で書いたように浮かび上がった。
「Ro」とアーンゲールが、その文字を読んだ。「『揺るぎ無き力』の、二つ目の言葉だ。Fusが『力』なら、Roは『均衡』。二つ繋げば、お前の声は、ただ押すだけのものではなくなる」
燐光が、マサの胸へ吸い込まれるように消えていく。頭ではなく、喉の奥が、その言葉の形を覚えた。知識として刻まれた、というより、身体の一部になったような、奇妙な感覚。
「言葉を知ることと、振るうことは違う。その言葉に命を吹き込むには――」
そこまで言いかけて、アーンゲールはふと口を噤んだ。マサの怪訝な顔を見て、彼がすでに喉の奥の異変に気づいていることを察したらしい。老人はわずかに首を振り、訂正するように続けた。
「……いや。お前ほどの素質なら、もう宿ったか。師が直接授けた言葉は、その場で声に溶ける。冷たい壁から独力で奪った言葉は、竜の魂で熱を入れねば動かぬが――人の口から人の喉へ渡した言葉は、別だ。お前はもう、Fus・Roを繋げられる。我らの教えとは、そういうものだ」
老人の目に、ほんの少し――感心とも警戒ともつかぬ色が浮かんだ。「飲み込みが速い。……速すぎるほどに」
ひとつ宿った力の感触を確かめてから、マサは本題を口にした。学者の頭が、ずっと問いたがっていたことだ。
「なぜ、竜が今になって蘇る? この時代に、何が起きている」
アーンゲールの顔から、静かに表情が引いた。
「……それを、お前も問うか」
老人は窓の方へ目を移した。雲海の彼方、白く霞む稜線を見るともなしに見ながら、しばらく沈黙する。言葉一つの重みを知る者の、慎重な間だった。
「竜は、絶えて久しかった。古い歌の中にしか棲まぬものと、誰もが思っていた。その竜が、再び空に戻った。――これは、凶兆だ。古の予言が告げた、一つの時代の終わりの始まり。我らノルドが、祖先の代から畏れ、語り継ぐことすら憚ってきた、暗い予兆だ」
声は静かだが、その底に、紛れもない畏怖が横たわっていた。
「そして、竜が戻る時――世がそれを最も必要とする時に、竜の血を引く者が現れる。お前が今ここに立っているのは、偶然ではない、ドヴァキン。お前の誕生と、竜の帰還は、同じ一つの糸で結ばれている」
そこまで言って、アーンゲールは口を閉ざした。マサが「では、その予言とは何だ」と畳みかけようとするのを、老人は静かに、しかし揺るぎなく手で制した。
「そこから先は、まだ語る時ではない。お前が聞く備えも、私が告げる備えも、まだ整ってはおらぬ。我らグレイビアードが司るのは、声の道であって、予言の解き明かしではない。急くな、ドヴァキン。力には、それを正しく担うだけの器が要る。器を欠いた力は、持ち主と、その周りの者を、まず焼く」
マサの胸に、燻るような不満が残った。神秘を神秘のまま呑み込めない質だ。だが、この老人が、知っていてなお口を噤んでいることだけは、はっきりと伝わった。
「なぜ隠す」マサの声は、自分でも思うより鋭く響いた。「俺は隠す人間を信用することはできない」
アーンゲールは、すぐには応えなかった。
底知れぬ眼が、まっすぐにマサを見据える。怒りではない。だが、灯火のように静かなその視線の奥で、何かが固く据わるのが分かった。長い沈黙の修行で鍛えた、揺るがぬ芯。この老人は、声を荒げて押し返しはしない。だが、退きもしない。
「隠す、とお前は言う」低い声が、広間の石に染みた。「では、問い返そう。お前は、私と会って、まだ百も数えておらぬ。Fusを一度、私に放っただけだ。その短さで、お前は世界の重さを己の肩に乗せろと言う。――私が躊躇うのは、お前を侮るからではない。力とは、それを担う器を試さぬまま渡せば、人を焼くものだからだ」
老人は、ゆっくりと窓の外、東の方角へ目を向けた。
「遠くないところに、一人いる。かつて、この祠で声を学んだ男だ。私たちは彼に言葉を授けた。彼の信念は強く、誇りは高かった。――その男は、学んだ声を使って、自らの王を、ただ一声で打ち殺した。今、この地を二つに裂いて燃やしている戦の火種は、私たちがかつて与えた一語から、燃え広がった」
声に、深い悔恨が滲んだ。グレイビアードの長が、めったに人に見せぬ傷だった。
「だから私は、急がぬ。竜の血を引くお前が、力に値するか否かを問うているのではない。お前が、その力を何のために振るう器を、まだ持っているのか――それを、私はまだ知らぬ。知らぬ相手に、世界を滅ぼしかねぬ真実を注ぐのは、隠すよりよほど罪深い」
そして、アーンゲールはわずかに目を細めた。マサの苛立ちの根を、見透かすように。
「お前は、隠す者を信じられぬと言う。結構だ。ならば、信は、片側からは架からぬものだと知るがいい。お前が私を信じられぬのと同じだけ、私もまた、出会ったばかりのお前に、世界を託す確信を持たぬ。それを傲慢と思うなら、思え。だが、性急な真実が人を救った試しを、私は永い齢の中で、ついぞ見たことがない」
マサの胸の燻りは、消えなかった。サイノッドで嫌というほど見た、権威者の「お前のためだ」という物言いに、この老人の言葉はどこか似ている。だが――決定的に違うところがあった。この男は、自分が与えた力で王が死んだことを、悔いている。保身ではなく、悔恨で口を噤んでいる。それだけは、嘘ではないように見えた。
「そうか」マサは、静かに問い返した。「ではなぜ俺を此処へ呼んだ」
アーンゲールの口元に、ほんのわずか、苦いものが過った。鋭い問いだ、とでも言うように。
「……良い問いだ。隠すなら、なぜ呼んだのか、と」
老人は一歩、マサへ近づいた。
「呼んだのは、真実を授けるためではない。力を、正しく担う術を授けるためだ。考えてもみよ、ドヴァキン。竜の魂を喰らった者が、声の理も、その重さも知らぬまま、世に放たれたら、どうなる。怒りに任せて一語を吐けば、市が吹き飛び、人が死ぬ。先ほどのウィンドヘルムの男が、まさにそれだ。――我らがお前を呼んだのは、お前を、そうさせぬためだ」