竜骨の学者 ──スカイリム漂流記   作:スカイリム愛好家

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第二十五話

「世が竜の血を引く者を生むなら、その者が力に呑まれぬよう導くのが、グレイビアードに課された務め。それが、声の道だ。お前に世界を救えとは、まだ言わぬ。命じる気もない。声を学ぶか否かも、お前が決めよ」

「――だが、もしお前が、その喉に宿した力を、己と、お前の隣に立つ者を焼かずに振るいたいと願うなら」

 

 老人の視線が、マサの背後に立つリディアを一瞬かすめ、またマサへと戻った。

「我らは、惜しみなく教えよう。真実は急けぬが、技は、今この場で渡せる。それが、呼んだ理由だ。――言葉だけでは信じられぬか? ならば、見せよう。次の言葉を、お前に授ける」

 アーンゲールは、広間の奥――吹きさらしの中庭へ続く、もう一つの石扉へ目をやった。

「『旋風の疾走』。風となって駆ける声だ。戦いの言葉ではない。逃げ、躱し、間合いを越えるための声――命を、繋ぐための声だ。お前のような、守りの薄い術師にこそ要る。中庭で、試してみるか」

 力を渡すことで、信を示そうとしている。それは、サイノッドで出会ったどの碩学も、どの権威者もしなかったやり方だった。マサの胸で燻る不信の煙は、まだ完全には晴れない。だが、この老人が口先だけでなく、現に手の内を開いて見せようとしていることだけは、確かだった。

 マサは短く息を吐いた。

「いいだろう。教えると言ってそれを断るほど、俺は知を価値の低いものだとは思っていない」

 言いかけて、口をつぐんだ。しかし、俺が信を架けるかはまた別の話だ、と続くはずだった言葉を、今は舌の上で噛み殺した。アーンゲールは、その飲み込まれた棘を咎めるでもなく、ただ静かに頷いて、奥の石扉を開けた。

 

 吹きさらしの中庭に出ると、視界が一度に開けた。肌を刺す風は、平地で吹くものとは質が違う。ここはもう、世界の天蓋にほど近い。雲は眼下に渦を巻き、突き出た岩の回廊の先には、霧に沈む竜の頭部の石像がいくつも並んでいた。風が、絶え間なく低く鳴っている。リディアが思わず、足元の断崖から半歩退いたのが、気配で分かった。

 無言で控えていたグレイビアードの一人が、回廊の片端に進み出て、マサを手招きした。そして床の石へ屈みこむと、喉の奥から、低く一語を刻む。青白い燐光が走り、古い文字が浮かんだ――Wuld。

 その光が、マサの喉へ溶けるように消えていく。先刻、ボルリが授けた「Ro」の言葉と同じ感覚だった。冷たい知識ではなく、すでに息づき、今すぐにでも振るえる力として、魂に根を張る。

「見ているがいい」

 アーンゲールの声に、教えたグレイビアードが回廊の端に身構え、短く声を放った。

 

「Wuld・Nah・Kest――!」

 刹那、その姿が掻き消えた。風が、修道僧の形をして、回廊を一直線に走り抜ける。瞬きひとつの間に、彼は十数歩先の竜像の傍らに立っていた。残像すら、見る間がない。

「やってみよ」アーンゲールが促す。「お前の『声』は、まだ生まれたばかりだ。最初は、思うようには飛ぶまい」

 マサは回廊に向き直り、喉の奥に根づいたばかりのWuldの形を探った。息を吸い込み、放つ。

「Wuld!」

 

 身体が、見えない力に押されるように前へ滑った。だが、老師の修道僧が見せた疾走とは程遠い。数歩ぶんを一息に詰めただけで、足がもつれ、マサはたたらを踏んで膝に手をついた。声の根がまだ細い分、力は乏しい。それでも――確かに、己の意志で、世界を一瞬、捻じ曲げた手応えがあった。学者の頭が、その未知の感覚を夢中で分析し始めている。

「上等だ」

 アーンゲールの声に、初めてかすかな笑みが混じった。「初めてでそれだけ動けば、上出来。声は、使うほどに伸びる。修練を積めば、お前もあの男のように、矢より速く駆けられるようになる」

 リディアが、感嘆とも呆れともつかぬ顔で呟いた。

「……便利、ですね。荷運びの私には、縁のない芸当ですが」

 

 ひとしきりの修練のあと、アーンゲールは風の中で向き直った。

「さて、ドヴァキン。お前は先ほど、どうすれば信を得られるかと、目で問うていた。――ならば、一つ、果たすべきことがある」

 老人の声が、わずかに重みを増した。

「我らが祖、ユルゲン・ウィンドコーラーの角笛。それが、この祠を離れ、北の古き墳墓――ウステングラブに納められている。あれを、お前の手で持ち帰れ。声の道を歩む覚悟があるかを、それが示す。古の試練だ。生半な墓ではないぞ」

 声の修練の、次の一歩。そして、この偏屈な老人との間に、信を架ける最初の橋だった。マサは、その試練を吟味するように問いを返した。

「ウステングラブとは、どこにある。なぜ、創始者の角笛がそんな場所に?」

 

 アーンゲールは、風に髭をなびかせながら、ゆっくりと語った。問いに答えることを厭わない、という顔だった。隠していた予言とは違い、これは語ってよい来歴なのだろう。

「角笛の主、ユルゲン・ウィンドコーラー――我ら声の道の、創始の祖だ」

 老人の声に、深い敬慕の色が滲む。

「遥か昔、ノルドはこぞって声を戦の武器とした。村は村を、氏族は氏族を、声で焼き合った。『声の戦争』と呼ばれる、血の時代だ。その渦中で、最強の声を持つと謳われたユルゲンが――ある日、すべての敵を相手に、ただ一度の戦に敗れた。彼は問うた。なぜ天は、己の声を退けたのか。七年の沈黙の瞑想の果てに、彼は悟った。声は、天と竜の言葉であり、人が私欲で振るうべきものではない、と。彼が興したのが、この『声の道』だ。グレイビアードは、その教えを継ぐ者たちだ」

 それが、先刻ウルフリックの一件を語った老人の悔恨と、まっすぐ繋がっていた。声を私欲で振るえば、王が死に、国が燃える。ユルゲンの悟りを、今の時代がなぞっている。

「ユルゲンは齢を重ね、声を捨て、北の地に葬られた。彼の角笛と共に。それが、ウステングラブ――この山を遠く下り、北へ。ハイヤルマーチの霧深い湿地、モーサルのさらに奥にある、古きノルドの墳墓だ。道のりは長い。一度この山を下り、平原を横切り、北の沼地まで赴かねばならぬ」

 

 老人は、わずかに眉を寄せた。

「容易い道ではない。あれは、ただの石室ではない。古き眠れる者たち――名誉の死者が、いまだ眠りの底で剣を握っている。生者が踏み入れば、起き出して襲うだろう。墳墓の奥がどうなっているかは、我らも詳しくは知らぬ。久しく、人を入れておらぬからな。確かなのは、生半な覚悟では、角笛には届かぬということだ」

 そして、底知れぬ眼が、まっすぐマサを射た。

「なぜ、わざわざ取りに行かせるか――と、お前の顔は問うている。簡単なことだ。祖の眠る墓へ赴き、その遺品を持ち帰る。それは、声の道を歩む覚悟があるかを、己の足と腕で示すことだ。口で『信じろ』と言うより、確かだろう。……お前が先ほど、私に求めたものと、同じやり方だ。力ではなく、行いで示せ、とな」

 皮肉の利いた切り返しだった。隠す老人を信じられぬと言ったマサに、では行いで互いに信を架けようと、老師は逆に手を差し出している。

 傍らで、リディアが静かに付け足した。

「ハイヤルマーチ……霧と沼の地です。遠い。ですが、行くなら、私も剣を持って付き従います。それが務めですから」

 

 試練の概要は知れた。だが、マサの学者の性が、もっと根源的な問いを先に求めた。

「そもそも、シャウトとはなんなんだ? 古代の竜が使っていたと聞いたことはあるが、さすがにノルドの秘術にはそこまで詳しくない。ただの魔法ではなさそうだが」

 アーンゲールは、その問いに、初めて満足そうな色を眼に浮かべた。力の使い方よりも、力の本質を問う――それは、この老人が好む種類の問いらしかった。

「ただの魔法ではない。お前の見立ては、正しい」

 老人は、風の中で静かに語り始めた。

「お前たち魔術師が操る術――炎を編み、氷を呼び、死者を起こす五つの学派。あれは、世界に満ちる魔(マジカ)を借り、捻じ曲げる業だ。借り物の力だ。だが、声(スゥーム)は違う。声は、借りるのではない。竜の言葉そのものだ」

 

 竜の、という一語に、マサの分析癖が即座に食いついた。

「竜は――ただの大きな獣ではない。時の神アカトシュの裔。世界が編まれたその初めから在る、定命ならざる者だ。竜にとって、語ることと、為すことは、同じ。竜が『火』と言えば、世界が燃える。『落ちよ』と言えば、相手は地に伏す。言葉が、そのまま現実を捻じ曲げる。なぜなら竜は、世界と同じ素材で出来ているからだ。――声とは、その竜の言葉を、定命の喉で発する業だ」

 老人は、自分の皺深い手のひらを見た。

「一つ一つの『言葉の力』は、竜の言語の断片だ。だが、ただ唱えれば動くものではない。その言葉を、頭ではなく、魂の根で理解せねばならぬ。そして、それを現実に押し出すだけの力が要る。普通の人間は――我らグレイビアードでさえ――一つの言葉を真に解するのに、何十年もの瞑想を費やす。私が今の声に至るまで、生涯の大半を、この山の沈黙に捧げた」

 

 そして、底知れぬ眼が、まっすぐマサを射た。

「だが、お前は違う。ドヴァキン。お前は、定命の身でありながら、竜の魂を持って生まれた者だ。だから、お前が竜を屠り、その魂を喰らえば――我らが半生をかけて解する言葉を、お前はただ一息で、己のものにする。先刻、ミルムルニルの魂が、お前にFusを与えたようにな。それは、アカトシュがお前に与えた、祝福にして、呪いだ」

 

 マサの胸の内で、知的好奇心が音を立てて回り始めていた。マジカに依らぬ力。学派の体系の外側にある、言語そのものが現実を書き換える業。それは、彼がサイノッドで追い求めていた魔法のどんな理論とも、根本から異なる原理だった。学者として、これほど興味をそそられる現象もない。

「もう一つ、覚えておけ」とアーンゲールは付け足した。「声は、魔ではなく、息と、魂から汲む。だから、生涯一度も呪文を唱えたことのないノルドの戦士でも、声は振るえる。マジカの器の大小とは、関わりがない。――そして、太古、我らノルドの祖は、神々の恵みによってこの力を授かった。竜が天を支配し、人を家畜とした、暗い時代にな。声は、人が竜の軛を破るための、唯一の武器だった」

 

 老人は、そこで言葉を切った。「暗い時代」の先――誰が人に声を教えたのか、その先の物語へは、踏み込まなかった。また一つ、霧の向こうに仕舞われた。

「分かったか。声は魔法ではない。世界の言葉だ。それを、お前のような者が手にした。だからこそ――軽々しく振るうな、と私は言う」

 

「なるほど」マサは、自身の知識の棚から、一つの神話を引き出した。「そういえば聞いた覚えがあるな。ノルドの古き神話、竜戦争。弱き人を哀れんだカイネがノルドに竜の魔法を与えたと。そうか、それがシャウトで、これは神話の存在ではなかったのか」

 アーンゲールの眉が、かすかに上がった。よそ者の魔術師が、ノルドの古き神話を諳んじたことに、素直な感心の色を見せる。

「……ほう。お前、北の神話をそこまで知っているのか。学者の名は、伊達ではないようだ」

 老人は、風に目を細めた。

「その通りだ。カイネ――嵐と天空の女神、ノルドが旅と狩りと戦で頼る母神。竜が天を支配し、人を奴隷として飼っていた、あの暗い時代。カイネは、軛に喘ぐ人の子らを哀れんだ。そして、竜だけが操っていた言葉の力を――声を、人に授けた。竜の力をもって、竜を打ち倒せるように」

 

 声に、深い敬慕がこもる。

「お前が今しがた言った通りだ。『神話』と人は呼ぶ。歌の中の、絵空事だと。――だが、違う。それは、起きたことだ。竜戦争は実際にあった。人は声を得て、天を支配する主に牙を剥き、長い血の戦の果てに、竜を地に堕とした。お前が西の塔で一頭を屠ったように、いにしえの人々は、声を武器に、数えきれぬ竜を屠った。神話は、史実が、年月のうちに歌の衣をまとっただけのものだ」

 マサの背を、奇妙な震えが走った。鳥肌に近い。彼は理屈で世界を測る男だ。神話など、無知な時代の比喩の集積だと、心のどこかで侮ってきた。だが今、その神話の力が、現に己の喉に宿っている。FusもRoもWuldも、絵空事ではない。カイネの恵みが、千数百年の時を越えて、彼自身の声になっている――学者の冷めた頭が、初めて、神話に膝を屈する感覚を味わっていた。

「ただ」とアーンゲールは、ふと声を落とした。「歌は、物事を短く、美しく刈り込む。カイネが、どのようにして人に声を教えたのか――その糸を辿れば、歌が語らぬ枝葉が、いくつもある。だが、それは……今は、よい。お前がいずれ、この道を深く歩むなら、おのずと知れることだ」

 また一つ、霧の向こうへ仕舞われた。だが今度の沈黙は、隠蔽というより、「機が熟していない」という響きを帯びていた。

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