竜骨の学者 ──スカイリム漂流記 作:スカイリム愛好家
老人は、マサを見据えた。「神話の力を、お前は手にした。ならば次は、その力に値する行いを示す番だ。――ユルゲンの角笛。覚悟は、決まったか」
風が凪いだ。沈黙が、問いの重さを告げていた。
マサは、わずかに逡巡した。ハイ・フロスガルに来るまで、この謎めいた老人たちとは、できるだけ関わらずに済ませるつもりだった。傲慢で、排他的で、その力を見せびらかすでもなく、ただ雲の上に隠している。学者として、好ましい類の人間ではない。
だが、喉に宿った力は、彼の知的好奇心を焼いた。これは、人が作り上げた魔法ではない。もっと根源的な、世界の骨から響くような力だ。
「正直に言えば、断ろうと思っていた」マサは、本心を口にした。「だが、興味深い。我々が使う魔術は、元はエルフの業だ。それを開祖ヴァヌス・ガレリオンが、誰もが学べる体系に組み直した。いわば、人の手で飼い慣らされた力だ。しかし、このシャウト、竜の魔法はそんなものではない。純粋な、あるいは、この世界で最も古く純粋な魔法だ。これは……学者として、非常に興味をそそられる」
彼はアーンゲールをまっすぐに見返した。
「分かった。取りに行こう、その角笛とやらを。だが、その時には、もっとシャウトについて教えてもらうぞ」
アーンゲールは、マサの言葉を黙って聞いていた。エルフの業、開祖ガレリオン、人の手で体系化された魔術――よそ者の魔術師が、己の知の地図の上に「声」を位置づけようとするのを、遮りもせず、ただ静かに見守った。そして、マサが言い終えると、ゆっくりと頷いた。
「お前の言うことには、理がある」
風が、二人の間を吹き抜けていく。
「人が操る魔術が、いかに古かろうと、それは人が――あるいはエルフが――世界から掴み取り、形にした業だ。だが声は、誰かが作ったものではない。竜が世界と共に在った、その初めから響いていた言葉だ。最も古く、最も純粋――その見立ては、正しい。よくぞ、一度聞いただけで、そこまで察した」
老人の目が、すっと厳しさを帯びた。
「ただし、一つだけ言っておく。お前は今、声を『興味深い』と言った。学者の目で、これを解き明かしたい、と。――それは、悪いことではない。だが、声は、机の上に並べて切り刻む標本ではない。知ることと、生きることは違う。声を真に知る道は、ただ一つ。畏れをもって、己を律して、生きて振るうことだ。お前の渇いた好奇心は、いつかお前を、あの男――ウルフリックと同じ崖際まで運ぶかもしれぬ。それだけは、忘れるな」
それから、ふっと、老人の口元がわずかに緩んだ。
「だが――よかろう。角笛を持ち帰れ。そうすれば、我らはお前に、さらに多くを教えよう。声の言葉も、その来歴も。それが、約束だ。お前は行いで信を示し、私は知をもって応える。……お前が望んだ、対等な取引だ」
マサは背の木箱を下ろし、クリメクの供物をアーンゲールに手渡した。老人は両手で恭しく受け、深く頷く。
「下界の漁師に、礼を伝えてくれ。グレイビアードは、彼の魚を忘れぬ」
山頂への供物は、これで届いた。クリメクとの約束の半分が、果たされた。
「道中、気をつけて行け、ドヴァキン。そして、私兵よ」アーンゲールは、傍らに控えるリディアにも静かに目を向けた。「この男を、よく見ていてやれ。賢しい者ほど、己の声に焼かれやすい」
リディアが、引き締まった顔で頷く。「……肝に銘じます」
七千段を下りながら、マサは喉の奥で、新たに宿った言葉の感触を何度も確かめていた。降りの道は、相性の悪い老人への苛立ちよりも、未知の力への知的興奮が勝っていた。
麓のイヴァルステッドに着くと、クリメクが宿の前で待っていた。供物が無事届いたと知ると、痩せた顔がぱっとほころぶ。
「ほんとに、届けてくれたのか……! 恩に着る。約束だ、ほら」
震える手で、残りの金貨を握らせてくる。蜂蜜酒の壺も、餞別にと押し付けられた。北へ長い旅になると聞くと、彼は干し魚と硬いパンまで包んでくれた。貧しいなりの、精一杯の礼だった。
補給を整え、一行は北へ発つ。世界の喉を背に、ホワイトランの平原を西に望みながら、街道を北上していく。目指すは、はるか北のハイヤルマーチ――霧と沼の地。道は長い。
街道は二日、穏やかに北へ延びた。ホワイトランの平原を右手に巻き、白い川の支流を渡る。空気が湿り気と冷たさを増していく。ハイヤルマーチの霧の匂いが、まだ遠い北から、かすかに鼻先をかすめ始めた頃だった。
リディアが、ふいに足を止めた。
「……止まってください」
低く、鋭い声。彼女の視線は、街道の先、なだらかに起伏するツンドラの彼方へ向いていた。
そこに、影があった。
灰色の雲を背に、巨大な翼が、ゆっくりと弧を描いている。鳥ではない。あまりに大きく、あまりに重い。やがて、距離を越えて、地の底を這うような咆哮が届いた。空気そのものが、びりびりと震える。マサの喉の奥で――竜の魂を喰らった者の本能が、ぞくりと反応した。同類だ、と。
竜は、前方の小高い丘の上空を、執拗に旋回していた。苔むした古い石が円を描いて並ぶ、塚のような場所だ。何かを探すように。あるいは、目覚めたばかりで、空の感触を確かめるように。まだ、こちらには気づいていない。距離はある。風はこちらに向かって吹いており、匂いが届く心配もなかった。
リディアの顔が、強張っていた。
「……もう一頭。今度は、私たちだけです。西の塔には、イリレス様の兵も、レモネード殿もいた。あれと、二人だけで……」
言葉を呑む。彼女は退きはしない。だが、戦士として、勝算の薄さを正直に見て取っていた。
マサの内では、相反する二つの声がせめぎ合っていた。竜の魂は、彼の声をさらに開く鍵だ。ウステングラブの壁に言葉があれば、それを解くのに、まさに要るもの。喉が、渇望している。だが――守りの薄い己と、盾一枚のリディア。たった二人。アーンゲールの「賢しい者ほど己の声に焼かれる」という言葉が、まだ耳に新しい。
街道脇には、身を隠せる岩と低木の茂みがあった。竜は、まだこちらを認めていない。選ぶことが、できた。
マサはリディアに合図し、音を殺して茂みへと身を滑り込ませた。
葉の隙間から、竜を見定める。サイノッドの魔獣誌で学んだ知識と、己の中に流れる竜の血の記憶が、像を結んでいく。
ブラッドドラゴン。西の塔で屠った竜より、明らかに格上だ。あの分厚い鱗は、生半可な剣撃を弾き返すだろう。リディアの鋼の剣ですら、深くは通らないかもしれない。己の魔法は通るだろうが、あの巨体を焼き尽くすには、どれほどの魔力を要するか。
何より、空を飛んでいる。弓も持たぬ今、地に堕とす術が魔術しかない。Fus・Roの力は竜を怯ませはしても、地に引きずり下ろすほどの威力はない。そして、あの顎から吐き出されるであろう炎のブレス――マサは冷たく算盤を弾いた。一度でも直撃を受ければ、守りの薄い己の身など、一瞬で炭になる。即死だ。
「……正直に言います」リディアが、押し殺した声で言った。「あれは、二人で挑む相手ではありません。西の塔とは、違いすぎる。私の剣は、あの鱗に歯が立たないでしょう。あなたはブレス一つで……」
言葉を切る。彼女の額に、汗が滲んでいた。逃げを口にすることを恥じる戦士が、それでも主を死なせまいと、必死に理を説いていた。
竜の魂は、喉から手が出るほど欲しい。だが、欲しさと、勝てるかは、別の問題だ。
「あれにはまだ勝てないな」
マサは未練を断ち切るように、そう呟いた。
「仕方ない。引くか」
喉が欲しがる竜の魂を、理性が押さえ込む。アーンゲールの言葉が、皮肉にも背を押した。賢しい者ほど、己の声に焼かれる。今、欲に駆られて飛び出せば、焼かれるのは比喩ではない。
二人は身を低くしたまま、茂みと岩陰を伝って、ゆっくりと後退した。竜は塚の上で、なお退屈そうに旋回している。一度、長い咆哮が空を裂き、マサの心臓が縮んだが、それは威嚇でも発見の声でもなかった。ただ、目覚めたばかりの竜が、空の広さを確かめる声。風は最後まで二人に味方し、街道の起伏が、その姿を竜の視界から隠してくれた。
充分に離れてから、ようやく息をつく。リディアの強張った肩から、力が抜けた。
「……賢明な判断でした。礼を言うのも、おかしな話ですが」彼女は珍しく、安堵を隠さなかった。「主が、引き際を知るお方で、本当に助かります。竜を一頭討った直後です。勢いで挑む主も、世にはいるでしょうから」
マサは、遠ざかる竜の影を、肩越しに一度だけ振り返った。あの塚は覚えた。あの魂も。――今ではない。声を磨き、堕とす術を得て、力を蓄えたその時に、必ず戻る。学者の頭が、冷静にそう書き留めていた。
旅は続いた。
ツンドラはやがて、灰色の湿地へと姿を変えた。足元はぬかるみ、立ち枯れた木々が霧の中に骨のように突き立つ。蚊の羽音と、泥と腐葉土の匂い。ハイヤルマーチ――霧と沼の地に、一行は入った。
道中、湿地の小村モーサルに立ち寄り、宿で暖を取った。ユルゲンの角笛の墓――ウステングラブの名を出すと、宿の女将は眉をひそめ、声を低めた。
「あの古い塚かい。沼の奥の。……やめときな、と言いたいとこだが、あんた方、その目つきじゃ行くんだろう。昔っから、近づいた者が幾人も戻らねえ場所さ。死んだもんが、まだ眠っちゃいねえって話だよ。それ以上は、あたしも知らないね」
手付かずの墓とは、そういうものだ。噂以上のことは、誰も知らない。
翌朝、霧を分けて沼の奥へ。やがて、それは現れた。
苔と蔦に覆われた、古いノルドの石積み。地に半ば沈むようにして、暗い入口が口を開けている。彫り込まれた古代の文様が、湿った霧の中で黒く濡れていた。ウステングラブ。ユルゲン・ウィンドコーラーの角笛が、この奥で千年の眠りについている。中からは、墓特有の、冷えた土と古い死の匂いが、かすかに漏れ出していた。
リディアが盾を確かめ、低く言った。
「……着きました。中は、おそらく、あのブリーク・フォール墓所と同じか、それ以上。覚悟は、よろしいですね」