竜骨の学者 ──スカイリム漂流記 作:スカイリム愛好家
蝶番が低く軋み、囲炉裏の煙と古い蜂蜜酒の匂いが鼻を撫でた。
〈眠れる巨人亭〉の広間は、思いのほか手狭で薄暗い。隅の炉で薪がぱちりと爆ぜ、禿頭の下働きが黙々と杯を拭いている。卓には村の老人が一人、エールを舐めながらうとうとと舟を漕ぐばかりだ。罠を張った隠れ家にしては、あまりに気の抜けた風景だった。だからこそ、マサの分析癖が逆に警鐘を鳴らした。作りすぎた平穏は、それ自体が不自然だと。
帳場に立っていたのは、金髪を実用本位に結い上げた、四十がらみの女だった。宿の女将らしい地味な前掛け。だが、布巾を持つ手の甲には剣胼胝が乗り、客を迎えるはずの目は、迎えるどころかマサの全身を素早く検分していた。ローブの下の得物、腰の構え、瞳の落ち着き。値踏みの仕方が、商人のそれではない。
マサは帳場に歩み寄り、書付の文言をそのままなぞった。
「屋根裏部屋を借りたい」
女の手が、布巾の上で一瞬だけ止まった。
「屋根裏部屋?」彼女はわずかに眉を上げてみせる。「勘違いしてるんじゃない? ……でも、ちょうどいい部屋があるわ。こっちへ来て」
世間なれした女将の芝居だ。だが、その声の底は少しも笑っていない。帳場を出た女は、しかし階段ではなく、広間の奥の私室へとマサを導いた。中へ入るなり、後ろ手に扉を閉め、閂をかける。かちゃり、と重い鉄の音が響いた。その一連の動作には、女将の鈍重さなど欠片もなかった。
「閉めて。……今なら話せるわ」
振り返った彼女の声から、芝居が剥がれ落ちていた。低く、無愛想で、それでいて女の語尾を保っている。そのちぐはぐさが、かえって奇妙な威圧感を放っていた。
「無駄は嫌いなの。手短に言うわ——いつ何を説明するかを決めるのは、私よ。いい? あなたがその扉をくぐった時、気にくわなければ殺すこともできたんだから。それをしなかった意味くらい、察してちょうだい」
彼女は壁際の長持の蓋を開け、布にくるまれた一本の角笛を無造作に取り出した。古び、罅の走った、紛れもないユルゲン・ウィンドコーラーの角笛。声の試練の、最奥に在るはずだったもの。それを事もなげに卓へ置く。
「探したでしょう。これよ。悪いとは思ってるわ——でも、こうでもしなきゃ、あなたみたいな相手を安全におびき出す手立てがなかったの。グレイビアードのお使いを横取りするのは気が引けたけど、背に腹は代えられないでしょう」
刃を抜きはしない。だが、いつでも抜けるという気配だけを、彼女は隙なく纏っている。
「竜が空に戻った。ただ墓から這い出てくるんじゃないわ——誰かが、何かが、奴らを土から呼び戻してる。私はそれを、ずっと追ってきたの。そして、その竜を本当の意味で殺せる人間がもしいるとすれば……」
油断のない目が、まっすぐマサを射た。
「グレイビアードのご老人たちは、あなたをドラゴンボーンだと思っているみたいね。……私も、そうであってほしいわ。本物かどうかは、すぐに確かめさせてもらうけど」
囲炉裏の火が、閂のかかった狭い部屋に二つの影を長く伸ばしている。外の軒下には、リディアが控えている。声を上げれば三歩。だがこの女は、その三歩を踏み込ませる前に自分を仕留められると踏んでいる。
マサは話に乗らなかった。
角笛にも、女の弁にも、表情を動かさない。ただ半歩、身体の向きを変えた。閂のかかった扉と、女の利き腕と、自分の退路——その三点が一本の線に収まる位置へ。ローブの袖の内側で、指先が冷たく目を覚ます。マジカの巡りが、いつでも炎にも氷にも転べる温度で、静かに満ちていく。
「閂を外せ」
声は低く、平らだった。怒気ではなく、ただの事実として。
「俺は、鍵のかかった部屋で話す趣味はない。あんたが誰で、何を企んでいようと、それは外して聞く話だ。——それと、勘違いするな。表の軒下には連れがいる。剣を執る従士が一人。俺がこの扉を蹴れば、三歩で飛び込んでくる」
囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜた。
女の目が、ほんの一瞬、刃のように細くなる。命令されることに馴れていない者の、あの苛立ち。喉の奥で何かを呑み下す気配——「信用できないなら、のこのこ来たあなたが愚かだったということよ」とでも言い返したげな、剣呑な沈黙が落ちた。
だが、それは長く続かなかった。
彼女は値踏みを終えたのだ。閂の扉を背に、退路を確保し、得物に手をかけぬまま指先だけで魔法を編もうとしている男。外には戦士。猜疑を解かぬその佇まいは、間抜けな英雄気取りのそれではない。むしろ——使える。彼女が長く探していた類の、用心深さだ。
「……いいわ」
ふっ、と肩の力を抜き、女は背後の閂に手をかけて、無造作にそれを横へ滑らせた。かちゃり、と錠が落ちる。扉は、もう塞がれていない。
「これでいい? 別に、あなたを閉じ込める気なんてなかったの。目が多すぎる場所が嫌いなだけよ」
言い訳とも開き直りともつかぬ調子で、彼女は卓の角笛をことりと指で押し出した。
「返すわ。元はあなたが取りに来たものだもの。グレイビアードのご老体に届けたいなら、好きにすればいい」
そして、わずかに声を落とす。芝居気の抜けた、本音の温度で。
「でも——その前に、ひとつ確かめさせて。あなたが、本当に竜を殺せる人間なのかを。遠からず、近くの竜の塚で“それ”が起きるわ。土の下から、死んだ竜が掘り起こされる。私はその場所に心当たりがあるの。あなたが本物のドラゴンボーンなら……自分の目で見て、その力で証明してちょうだい」
油断は解いていない。だが、密室の威圧は引っ込めた。この女は今、命令ではなく取引を差し出している。少なくとも、その形だけは。
外の軒下で、リディアが微かに身じろぎする気配がした。中の沈黙を、ずっと窺っている。マサは、取引の言葉に頷きを返すより先に、扉へ片手を伸ばし、二度叩いた。
トントン、と。
それが合図だと、外の従士は即座に解するはずだった。