竜骨の学者 ──スカイリム漂流記 作:スカイリム愛好家
蝶番が軋み、リディアが音もなく滑り込んでくる。鋼の盾を腕に通し、腰の二刀の柄に手を添えた臨戦の構えのまま、彼女は素早く部屋の隅へ回り込んだ。これでデルフィン——宿の女将を騙るこの女は、前をマサに、横を従士に挟まれる格好になる。逃げ場も、得物を抜く間合いも、半ば封じられた。
「主の傍を勝手に離れて密室、というのは感心しません」
リディアの声は硬かった。日に焼けた目が、女将の前掛けの下にある鍛え抜かれた体と、腰の不自然な膨らみ——そこに隠された刃を、ひと睨みで見抜いている。
「……宿の女将が、ずいぶん剣呑な体つきをしているものですね」
女の眉が、片方だけつりと跳ね上がった。
囲い込まれたと悟った瞬間の、あの獣じみた硬直。喉の奥で舌打ちを噛み殺す気配。秘密を命綱に生きてきた者にとって、武装した戦士を己の隠れ家に招き入れるのは、肌を裂かれるにも等しい屈辱だろう。だが——彼女は、噴き上がりかけた気色をすんでで抑え込んだ。
「……二人がかり、ね」ため息とも吐き捨てるともつかぬ声。半ば呆れ、半ば苛立ちながら、それでも刃には手をかけない。「いいわ、好きにすればいい。臆病なくらい用心深いのは、嫌いじゃないの。馬鹿よりずっとましよ」
女は両手を軽く開いて見せ、害意のないことだけは示した。そのうえで、低く釘を刺す。
「でも、ひとつだけ。ここで聞いたことは、この部屋から出さないで。あなたの私兵さんも——いい? 私は長いこと、口の軽さで死んでいく仲間を、嫌というほど見てきたの。秘密は、私の命綱なのよ」
リディアはマサの判断を待つように、視線だけを寄越す。構えは解かない。
主導権は、今や完全にマサたちの側にあった。挟まれ、退路を断たれ、それでもなお尊大さを崩さぬ女。その口から、ようやく話の芯が出ようとしていた。
「名乗ってあげる。デルフィン——表向きは、この宿の女将。裏は……まあ、それはあなたが信に値すると分かってから。竜が土から掘り起こされてる、と言ったわね。その“次”が、近いうちに起きる。場所も見当がついてるの。ウィンドヘルムにほど近い、カイネスグローブ——あそこの古い塚よ」
声をひそめ、彼女はまっすぐマサを見据えた。
「死んだ竜が蘇る現場を、その目で見て、その牙で殺す。あなたが本物のドラゴンボーンだっていう証明には、それで十分。……どう? 乗るか、蹴るか。決めるのはあなたよ」
「乗るか蹴るか、の前に」
マサは卓の角笛に手を伸ばさず、静かに切り返した。
「順序が逆だ。俺は、何者とも知れない女の試しに、竜の塚までのこのこ付き合う気はない。あんたが何者で、なぜ竜を追う。それを聞かせてもらう方が先だろう」
理詰めの、一分の隙もない問いだった。リディアが横で、無言の圧として構えを保っている。
デルフィンの口の端が、皮肉っぽく歪んだ。苛立ちと、ほんの少しの面白がりが混じった表情。
「……いつ、何を説明するかを決めるのは私よ。いい?」彼女は両手を開いたまま、一歩も引かずに言い返した。「あなたが信に値すると分かるまで、手の内は明かさない。それが、ここまで生き延びてきた私のやり方なの。気にくわない? なら、扉は開いてるわ。好きに出ていけばいい」
だが、挟まれた状況と、マサの引かぬ眼差しが、彼女にわずかな譲歩を促したらしい。ため息をひとつ。
「ひとつだけ、タダで教えてあげる。私はね、竜を狩るために生きてきた人間なの。ずっと昔から。私の——“仲間”は、ある連中に一人残らず狩られた。生き残りは、もう数えるほど。だから竜が空に戻ったと聞いて、誰より早く動いた。それだけよ」
“ある連中”——その名は、決して口にしなかった。前掛けの下の隠し刃を撫でるように手が動き、また止まる。語っていいのはここまで、と線を引く所作だった。
「残りは、あなたがカイネスグローブで本物だと証明してから。順番が逆だっていうなら——悪いけど、こればっかりは私の流儀に合わせてもらうわ」
引き出せたのは、輪郭だけだ。竜狩りに人生を懸け、何者かに同胞を狩り尽くされた女。これ以上は言葉でこじ開けられるものではないと、マサは悟った。そして、付き合う価値もないと。
マサは卓の角笛へ手を伸ばし、布ごと掴んで革袋に収めた。竜の塚も、女の試しも、彼の関心の外にある。
「そうか、ご苦労なことだな。だが俺は竜の使う魔法には興味はあるが、竜そのものにはそこまで興味はない。行くなら一人で行けばどうだ」
言い捨てて、踵を返す。リディアが心得たように半歩退き、開いた扉の向こう、退路を盾で確保した。
デルフィンの顔から、取引の柔らかさが剥がれ落ちた。
「……ふぅん。そう」彼女の声が、刃のように冷たく尖る。半ば呆れ、半ば見下した調子で。「魔法には興味があるけど、竜そのものはどうでもいい、ね。ご立派な学者さまの言い草だこと。——竜の魔法だけ都合よくつまみ食いして、肝心の竜は他人任せ。そんな虫のいい話があると、本気で思ってるの?」
彼女は追いすがりはしなかった。腕を組み、長持に背を預けたまま、ただ言葉だけを背中に投げてくる。
「いいわ、好きにすればいい。グレイビアードのご老体に、角笛でも届けて満足してなさい。でも——憶えておいて」
声が、ひとつ低くなった。確信に裏打ちされた、嫌な落ち着きがあった。
「竜は、あなたが興味ないからって、あなたを放っておいてはくれないわ。空に戻った奴らが、街道を、村を、焼いて回る。そのうち嫌でも分かる——これは“興味の有無”で選り好みできる話じゃないって。気が変わったら、ここへ来て。……きっと、そうなるはずよ。あなたが、そうせざるを得なくなるの」
それきり、彼女は口を閉ざした。引き止める価値はないと見切った者の、突き放した沈黙。
マサとリディアは薄暗い広間を抜け、宿の扉を押し開けた。リバーウッドの夕闇に、製材所の水車の軋みと、川のせせらぎが戻ってくる。背後で〈眠れる巨人亭〉の灯りが、何事もなかったかのように揺れていた。
「……妙な女でした」村道を歩きながら、リディアが低く呟いた。盾を背に負い直す。「宿の女将が、竜狩りの来歴を語る。隠し刃に、あの目つき。ただ者ではありません。関わらずに済むなら、それに越したことは——とは思いますが」
彼女は言葉を切り、横目でマサを窺った。
「角笛は、取り戻しました。ハイ・フロスガーのご老人に届ければ、声の試練はひとまず果たせます。……どうなさいますか」
末蒔月の宵が、針葉樹の影を藍色に沈めていく。
リバーウッドに、客を泊める家は一軒きり。皮肉にも、たった今背を向けてきた〈眠れる巨人亭〉だ。マサは意に介さなかった。下働きのオーグナーに数枚の硬貨を握らせ、女将とは目も合わせぬまま、二階の質素な一室を借りた。デルフィンはデルフィンで、こちらを路傍の石のように黙殺している。秘密を抱えた女は、客の素性を詮索する女将の芝居すら、もう演じる気はないらしい。
灯を落とした部屋で、マサは低くリディアに告げた。
「かつて竜狩りに明け暮れ、そして今は滅びた組織……おそらくブレイズだろう。その生き残り。目を見てわかる。あれは妄執の産物だ。関わるとろくなことがない」
リディアは鋼の鞘を抱えたまま、わずかに眉を寄せた。
「ブレイズ……皇帝の盾だったという、古い竜狩りの騎士団ですか。子供の頃、吟遊詩人の歌で名だけは。とうに大戦でサルモールに狩り尽くされたと聞いていましたが」彼女は窓の外、暗い村道へ目をやる。「あの女が本当にその末裔なら……なるほど、あの執着の濃さも腑に落ちます。竜への、あの飢えた目つきは」
それ以上、二人は語らなかった。妄執に付き合う義理はない。角笛は取り戻した。あとは声の師に返すだけだ。夜は、何事もなく更けていった。
翌朝、二人は朝靄の残る街道を東へ取った。白い川を遡り、ジェラール山脈の懐——イヴァルステッドを目指す。七千段の麓の村までは、順調なら一日の道のり。墳墓と街道の疲れは、昨夜の眠りで芯から抜けていた。
それは、音が先に届いた。
白い川の瀬音に混じって、男のがなり声と、獣の唸り。曲がりくねった山道の先、苔むした岩の陰から、切迫した気配が立ちのぼっている。
行ってみれば——荷を積んだ騾馬が一頭、前脚を傷めて道端にへたり込み、その傍らで、行商風の小柄な男が、たいまつを振り回して必死に身を守っていた。取り囲むのは、痩せた灰色の狼が四頭。飢えた山の獣だ。一頭が低く伏せ、横合いから騾馬の脇腹を狙っている。男の足元には、ぶちまけられた荷——鍋、布の束、そして泥にまみれた数冊の書物が散らばっていた。
「ち、近寄るな! あっち行け、この——! だ、誰か! 誰かいないのか!」
男はまだマサたちに気づいていない。声は半分泣きが入っている。
リディアの手が、もう二刀の柄にかかっていた。「狼です。四頭。あの程度なら、造作もありません」彼女は短く言い、だが勝手には動かず、マサの判断を待った。「……助けますか」
散らばった荷の中の書物が、朝陽を弾いて、マサの目の端に引っかかった。
彼の指先で、青白い火花が弾ける。
次の刹那、それは一筋の稲妻となって先頭の狼へ奔った。命中した一頭の体が硬直し、毛が逆立ったかと思うと、雷は獲物を喰い殺すように次の獣へ、また次へと枝分かれして飛び移る。連なる閃光。空気が焦げ、肉の焼ける匂いと、断末魔にもならぬ短い悲鳴が、谷あいに反響した。
瞬きひとつの間に、四頭の灰色の獣は黒い塊となって地に伏した。まだ青い火花が、その毛皮の上でぱちぱちと爆ぜている。