ゴッドバレー。
美しい海に囲まれたその島は、遠目には楽園のように見えた。白い砂浜に緑豊かな山々、沿岸に築かれた豪奢な港。そして、島の中心部にそびえる巨大な割れ目の岩場。
天竜人たちのために強制的にた祭典の会場となった島は、島の自然さえも押し潰すような威圧感を放っている。
だが、その華やかさの裏側に何があるのか、シロウは知っていた。
ここは、命を命として扱わない者たちの宴の場だ。
自分達以外の人間を下市民と呼び、奴隷にするか、気まぐれに殺すか、自由を与えるかどうかを気まぐれで決める。
生まれた場所や種族によって価値を決め、己の退屈を紛らわせるために他者の人生を踏みにじる。
それが、この世界の頂点に君臨する者たちの振る舞いだった。
「……相変わらず、反吐が出る連中ですね」
島を見下ろせる破れた岸壁の木々に身を潜めたシロウは、遠くに見える祭典会場を眺めながら静かに呟いた。
一年。
シャッキーを連れ去った政府の船を追い、その行方を探り続けてから一年が経過していた。
政府施設への潜入、関係者への尋問、記録の奪取、必要とあれば施設そのものを破壊し、証拠を消そうとする者たちを追い詰めた。
決して楽な道のりではなかった。
何度も追手に囲まれ、睡眠を削り、食事を後回しにして情報を集めた。
傷を負ったことも一度や二度ではない。
それでも、足を止めるつもりはなかった。
シャッキーは仲間だ…少なくとも自身はそう思っている。
彼女がどのような事情で連れ去られたのか、王直がどのような思惑で裏切ったのか…そうした問題を追及するのは、彼女を取り戻した後でもできる。
今、優先すべきことは一つ、必ず無事に連れ戻す。
「…さて」
シロウは手元の地図を広げた。
政府の施設から持ち出した記録と、ここへ至るまでに集めた情報を突き合わせる。祭典会場の位置、警備兵の配置、港の監視体制、そして神の騎士団が出入りしていると見られる区画…情報は十分とは言い難い。
それでも、何も分からないまま突入するよりは遥かにましだった。
「正面から入るのは避けたいところですね。警備の密度が高すぎる…どうしたものか」
「へえ。珍しく慎重じゃないか」
背後から、気の抜けた声が飛んできた。シロウは振り返らず話す。
「…カイル。いきなり話しかけるのは、やめていただけませんか?」
「別にいいだろ。後ろから話しかけちゃいけないっつぅ決まりもない」
「そういう問題ではありません」
「じゃあ、どういう問題なんだ?」
「…だから…いえ。今は結構です」
シロウは小さく息を吐いた。
同行者――カイル。
シロウが情報集めのため潰していた施設の一画にいた男だ。
世界政府の施設で非道な実験を受けていた人物であり、シロウが救い出した人間の一人だった。
彼はチシチシの実を食べた能力者だ。
その能力は、
一度その身で受けた攻撃や物質の性質を理解し、対象となるものの致死量を操作することで、相手にとって安全だったはずのものを猛毒に変え、逆に致命的なものを無害に近づけることさえできる。ただし、何でも自由に操れるわけではない。
対象となる性質を理解し、実際にその種類の攻撃を受けるなど、一定の条件を満たす必要がある。
政府の実験によって得た再生能力もあり、彼は普通の人間なら致命傷となる状況でも生き延びることができた。
シロウは彼を助け出した後、仲間に誘った。
――もっとも、カイル本人はその誘いを、明確に承諾したわけではない。
「それで?」
カイルは木の幹に背を預け、手にした木の実をかじった。
「ここが、あんたの探してた女がいるかもしれない島か」
「ええ。シャッキーさんという方です」
「ふうん」
カイルはさして興味もなさそうに相槌を打った。
「助けるために一年もかけたんだろ。ずいぶん熱心なことだ」
「仲間を助けるのに、理由が必要ですか?」
「いや、別に。俺はそこまで熱心になれないってだけだ」
悪びれもせず、カイルは笑った。
彼は基本的に面倒事を嫌う。自分が損をすることを避け、無駄な戦いを好まず、できることなら安全な場所で怠惰に過ごしていたい。誰かのために命を懸けるなど、彼の価値観からすれば割に合わない行為だった。
そんな男が、なぜ今ここにいるのか。
答えは簡単…単なる気まぐれである。
シロウが世界政府に逆らい、奴隷制度や種族差別を否定し、いずれは誰もが理不尽な支配を受けずに生きられる世界を目指している。
カイルは、その夢に興味を持ったのだ。
「……以前もお伝えしたと思いますが、私は世界を救うなどという大それたことを、簡単に実現できるとは考えていません」
「知ってるよ」
「それでも、私は諦めるつもりはありません」
「それも聞いた」
カイルは肩をすくめる。
「だから、見てみたくなったんだ」
「何を、ですか?」
「あんたのその馬鹿げた夢が本当に実現するのかどうか」
カイルは口元に薄い笑みを浮かべた。
「世界政府をぶっ壊すだの、奴隷を解放するだの、種族差別をなくすだの。口で言うのは簡単だ。でも、実際にやろうとすれば面倒なことばかりだろ?」
「…否定はしません」
「人間ってのは、自分が損をするとなれば簡単に意見を変える。自由を与えたところで、今度は誰かを支配したがる奴が出てくる。差別をなくしたところで、別の理由を探して他人を見下す奴もいる」
カイルの口調は軽かったが、言葉の内容は冷徹だった。
彼自身、政府の施設で人間がどのように扱われるのかを知っている。そして、人間がどれほど簡単に他人を踏みにじれるのかも、嫌というほど見てきたのだ。
「そんな世界を変えられるってんなら、少しは面白い」
「…それが、あなたが私に同行する理由ですか?」
「そうだな」
カイルは食べ終えた木の実の芯を放り投げた。
「俺はあんたの夢に賭けたわけじゃない。成功するとも思ってない。失敗する可能性の方が寧ろ高いとすら思ってる」
「率直ですね」
「嘘をつくのは面倒だからな」
カイルは口元を手で覆い、愉快そうに笑った。
「ただ、もし本当に実現したら…そのときは、俺の生き方も少しは変わるかもしれない」
シロウは彼を見つめた。その言葉には、熱意も忠誠も感じられなかった。
あるのは、純粋な好奇心…世界が変わるところを見てみたい。
ただ、それだけだった。
「…そうですか」
シロウはそれ以上、何も言わなかった。
カイルに、自分と同じ理想を抱いてほしいとは思っていない。誰もが同じ考えを持つ必要はない。
大切なのは、互いの意思を尊重し、無理に他者の価値観を押しつけないことだ。
カイルが気まぐれであろうと、利己的であろうと、それを理由に彼の生き方を否定するつもりはなかった。
ただし――
「ですが、カイル」
「ん?」
「今回ばかりは、私の指示に従っていただきます」
「…は?」
カイルの顔から笑みが消えた。
「おいおい。俺は見物に来ただけだぞ」
「危険な場所であることは、出発前からお伝えしています」
「聞いてたけど、ここまで物騒だとは思わなかったね」
「それなら、今からでも引き返しますか?」
シロウが尋ねると、カイルは露骨に嫌そうな顔をした。
「…いや。それはそれで、ここまで来た意味がない」
「では、お願いします」
「ったく。面倒なことになったな」
カイルは頭を掻いた。
「言っとくけど、俺はあんたみたいに正面から突っ込む趣味はないからな。逃げるときは逃げる。勝てない相手とは戦わない。無理だと思ったら、あんただけ置いていく」
「構いません」
シロウは即答した。
「ただし、私があなたを見捨てることもありません」
「……」
カイルは一瞬だけ黙った。そして、すぐにいつもの薄笑いを浮かべる。
「そういうところだよ、あんたの致命的で面倒くさいところは」
「よく言われます」
「だろうな、言われ慣れた感がする顔してるわ」
二人の間に、短い沈黙が流れた。
遠くから歓声が聞こえてくる…祭典会場の方角だ。
天竜人たちは、これから始まる催しに胸を躍らせているのだろう。その歓声の下で、何人の人間が泣いているのか。何人が自由を奪われ、何人が帰る場所を失っているのか。
シロウは目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、シャッキーの顔だった。ハチノスの酒場で、いつも通りの笑みを浮かべていた彼女。ロックス海賊団の荒くれ者たちを相手にしても物怖じせず、時には彼らを手玉に取るように振る舞っていた。
その思い出した光景に少し笑うも、気を引き締める。
「…行きましょう」
シロウは地図を畳み、懐へしまった。
「まずは祭典会場の外周を調べます。警備の交代時間と、奴隷たちが収容されている施設の位置を把握したい。開催までまだ少し猶予はあるはず」
「奴隷の収容施設まで探すのか?」
カイルが尋ねる。
「シャッキーさんがどこにいるか、まだ確定していませんから」
「なるほど。目当ての女がいなくても、他の連中を助けるつもりか」
「状況次第です」
シロウは慎重に言葉を選んだ。
「すべてを一度に救えるとは限りません。ですが、救える命を見捨てる理由にもなりません」
「…本当に致命的に面倒くさい男だな」
カイルは呆れたように呟いたがそれでも、彼はシロウの後に続いた。気まぐれな観察者は、まだこの男の夢を信じてはいない。
ただ、その夢がどこまで世界を変えるのか。それを自分の目で見届けるために、危険な島へ足を踏み入れたのだった。
森を抜けると、祭典会場を取り囲む石造りの壁が見えてきた。
壁の上には武装した兵士が立ち、一定の間隔で巡回している。門の周囲には複数の検問所が設けられ、一般の人間が近づけないよう厳重に管理されていた。
シロウは壁の陰に身を隠し、兵士たちの動きを観察する。
「…警備の人数が多いですね」
「そりゃそうだろ。天竜人様の祭りなんだからよぉ」
カイルは壁にもたれ、あくびを噛み殺した。
「それに、あそこにいる連中は普通の兵士だけじゃない。妙に気配の鋭い奴が何人かいる」
「…気づきましたか」
「見れば分かるさ。俺だって、実験施設で嫌というほど人間の気配を読む羽目になったんだ」
カイルは面倒そうに目を細めた。
「あれがあんたから見せてもらった
「可能性は高いでしょう」
シロウは壁の向こうを見つめた。
神の騎士団。
世界政府の中でも、天竜人に関わる重大な事態に対応する者たち。その実力は未知数であり、正面から戦えば、こちらも無傷では済まないだろう。
だからこそ、慎重に動く必要があった。
シロウは腰に差した刀の柄へ、そっと手を添えた。
「…カイル」
「今度は何だ?」
「もし私が戦闘になった場合、あなたは可能な限り離れていてください」
「言われなくてもそうするさ」
「それから、私が合図をしたら――」
「分かった分かった。合図があったら動く。それでいいんだろ?」
カイルは片手をひらひらと振った。
「ただし、命令に従うかどうかは、そのときの状況次第だ」
「……それで十分です」
シロウは小さく頷いた。
そして、再び壁の向こうへ視線を戻す。
自分が変えようとしている世界の歪みが、これ以上ないほど露骨な形で存在している。ロックスたちが到着するまで、どれほどの時間があるのかは分からない。
それまでにシャッキーの居場所を突き止め、救出の道筋を立てる必要がある。
シロウは深く息を吸った。
冷たい空気が肺を満たす。
「…必ず、見つけます」
誰に聞かせるでもなく、彼は呟いた。
その横で、カイルが退屈そうに空を見上げる。
「さて……あんたの夢が本当に世界を変えるのか」
彼は小さく笑った。
「特等席で見させてもらうぜ?」
二人は壁の陰を離れ、警備兵の目を避けながら森の奥へ進んでいった。
その先に待つのが、救済か、それとも更なる地獄か。
まだ、誰にも分からなかった。
ロックスの死についてですが、どちらかお選びください。それによって書き方を変えようと思います。
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助ける
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助けない