濁った心にヒーローを   作:イズモ様 カワ(・∀・)イイ!!

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塩燐獣って素焼きでも塩っぱそう

今日も今日とて私の朝は早い、六時に目を覚ませばもう身体が勝手に動いてしまうくらいには習慣というものが骨の髄まで染み込んでいて、鏡も見ずに銀髪を慣れた手付きで横にまとめ上げ、寝間着を脱ぎ捨ててジャージへ着替えながら、ああ九年という時間は長いようで短いものだなと考える、子供は大人になり怪物は相変わらず怪物のままで、しかし変わらないものがあるというのも案外悪くない、当然それを当人達が認識しているかは別問題なのだけれど。

 

事務所へ降りれば机に突っ伏したまま豪快ないびきを響かせているおじいさんと、その足元で丸くなっている犬と、ソファを占領して触腕を毛布代わりにして眠るイシャムーラが視界に入り、私は慣れた手付きでまずおじいさんの後頭部を軽く叩き、それでも起きないので少し強めに叩き、続けてイシャムーラの柔らかい頭部らしき部分をぺちぺち叩いたのだった。

 

「朝よ」

 

そう言えば犬だけが即座に飛び起きた。

 

実に優秀である、いや本当に、人類が何万年もかけて共存関係を築いた理由が分かる気がするほどには優秀だった、もっとも隣ではヒーローが「あと五分……」などと寝言を漏らし、海の底を支配していたはずの怪物が触腕を私の腰へ巻き付けて離そうとしないので、比較対象が悪いだけかもしれない、仕方ない事でもある。

 

「起きなさい」

 

私はそう言って再び叩く。

 

するとおじいさんは渋々身体を起こし、イシャムーラは気怠そうに私の首へ巻き付いた、九年前なら世界が震え上がる存在だったはずなのに今では朝が弱い大型猫みたいな扱いである、しかし人間の適応力とは恐ろしいもので、毎日顔を合わせていると大抵の怪異は日常へ変わる、読者のあなたもそうだろう、毎日家の前にドラゴンが寝転がっていたら半年後には洗濯物の邪魔だなと思うようになるはずだ。

 

外へ出れば朝の空気が肺へ流れ込む。

 

今日も散歩日和だった。

 

私の隣ではイシャムーラが相変わらず気だるそうに首へ巻き付き、対照的に犬は「キャンワン!キャンワン!」と信じられないほど元気よく走り回っている、その有り余る生命力を少し分けて欲しいくらいだが、多分分けてもらったところで朝六時に起きるのが六時十分になる程度の差しか生まれない気もする。

 

「あなたはいつでも元気なのね」

 

私は呆れ半分に犬へ視線を向ける。

 

犬は尻尾を振る。

 

意味は通じていない。

 

しかし通じていないのに嬉しそうなのだから不思議な話だった。

 

「ええ、適者生存が自然の法則としても、ここまでだと困ってしまうわね」

 

そう言えば犬はさらに鳴いた。

 

まるで褒められたと思っているみたいだった。

 

実際褒めてはいるのだろう、生命というものは生きるだけで大したものだし、まして九年も私の隣で変わらず元気に走り回っているのだから尚更である。

 

犬は前を走り、おじいさんは欠伸をし、イシャムーラは首元でうとうとしていた。

 

朝日が道路を照らす。

 

私はその光景を眺めながら歩いていた。

 

犬は突然何かを見つけたように道路脇の茂みへ突撃していく、その勢いはまるで世界の真理でも発見したかのようであり、実際に犬という生き物は毎日の散歩の中で何度も何度も同じ場所を嗅ぎ回りながら毎回新発見をしているような顔をするのだから不思議なもので、記憶力が悪いのか感動する才能に溢れているのかは未だによく分からないのだけれど、少なくとも本人は大真面目なのだから笑ってしまうのも少し失礼なのかもしれない。

 

おじいさんは慌ててリードを引っ張った、当然である、早朝の住宅街で突然犬に全力疾走されれば転倒の危険だってあるし、そもそもあの犬は自分の体重と力を全く理解していない節があるのだから、九年一緒に暮らしてなお学習しない辺りはある意味で才能だった。

 

「こら馬鹿犬!朝っぱらから引っ張るな!」

 

怒鳴られているというのに犬は少しも堪えた様子を見せない、むしろ嬉しそうに尻尾を振っていて、叱責と愛情を同じ箱に放り込んで理解しているのではないかと思う時すらあるのだけれど、しかし考えてみれば大群も似たような部分があった、裏切られる前提を持たず、拒絶を恐れず、相手がそこに居るという事実だけで肯定を見出してしまう在り方は存外強靭で、だからこそ人間から見れば少し危ういのかもしれないね。

 

「何がいたの?」

 

私はそう尋ねながら茂みを覗き込んだ、すると犬はこれ以上ないほど誇らしげな顔をしており、その視線の先には蝉の抜け殻が一つだけ引っ掛かっていて、ああ成る程と思う反面、それでここまで興奮出来るのは少し羨ましい気もした。

 

おじいさんは深いため息を吐いていた、きっと彼も似たような感想を抱いたのだろうし、犬と暮らすという事はこういう些細な騒動を毎日のように受け入れる事なのだろう、仕方ない事でもある。

 

私は首を傾げる、犬は満足そうだった、そしてその満足に理屈など存在しないらしく、だからこそ幸福というものは案外単純なのではないかと思わされるのである。

 

「そう」

 

私は頷いた。

 

「良かったわね」

 

犬は更に尻尾を振った、何が良かったのか私には分からないし、多分おじいさんにも分からないのだけれど、当の本人だけは世界一幸せそうな顔をしているので、それならばもう十分なのだろう、人類は文明を築き国家を作り技術を発展させてきたけれど、その根底にある感情は案外こういう単純な喜びから大して変わっていないのかもしれない。

 

住宅街へ差し掛かると朝の匂いが流れてくる、洗濯物の柔軟剤の香りがあり、焼き立てのパンの匂いがあり、どこかの家から漂う味噌汁の匂いもあって、それらは九年前の私が知らなかった匂いだったし、海の中には存在しなかった生活の匂いでもあった。

 

私は少しだけ鼻を鳴らした、海には海の匂いがあり、陸には陸の匂いがある、どちらが優れている訳でもなく、どちらが劣っている訳でもなく、ただ違うだけで、しかし人という生き物は違うものを見ると知りたくなってしまうし、知らないものに手を伸ばしたくなってしまう、それを学校では好奇心と呼ぶのだと習った気がするけれど、もしかしたらもっと根源的な生存本能なのかもしれなかった。

 

「心」

 

不意におじいさんが私を呼ぶ。

 

私は振り返った。

 

「今日は学校だろ」

 

「ええ」

 

「寝るなよ」

 

「失礼ね」

 

私は眉を寄せる、おじいさんは声を上げて笑った、その顔には深い皺が刻まれていて、それは九年前より明らかに増えていた。

 

当然である。

 

人は老いる。

 

仕方ない事でもある。

 

理屈では理解しているし、生物である以上避けられない現象だと知っている、それでも少しだけ嫌だなと思ってしまう辺り、私は随分と人間社会に馴染んでしまったのだろう。

 

首元ではイシャームラが微かに身じろぎした、その感触は昔と変わらないのに周囲だけが少しずつ変わっていく、人は老いていき、犬もいつか寿命を迎え、私だって今とは違う誰かになっていくのだろうけれど、それでも今この瞬間だけは家族全員が同じ朝を歩いていて、その事実が妙に嬉しかったから、ならそれで十分じゃないかなと考えてしまう辺り、私はやっぱり海側の生き物なのかもしれなかった。

 

その後散歩は終わる、犬は最後まで名残惜しそうに地面の匂いを嗅いでいたし、おじいさんはそんな犬を引きずるように事務所へ連れ帰っていた、イシャームラは相変わらず私の首に巻き付いたままで、散歩をしたのか運ばれていただけなのか少し怪しいところではあるのだけれど、本人が満足そうなので深く考えない事にする。

 

事務所へ戻る頃には太陽も随分高くなっていた、朝の柔らかな空気は少しずつ日中の気配へ変わっていき、人々も仕事や学校へ向かう準備を始めている、そう考えると私も急がなければならないのだけれど、しかし家というものは不思議で、一度帰って来てしまうと少しだけ動きたくなくなるのである。

 

私は自室へ向かう、階段を上がる足取りはもう迷う事なく、それはこの建物が帰る場所になった証明でもあり、考えてみれば帰る場所という概念そのものが昔の私には酷く曖昧だったのだから不思議なもので、海には巣はあれど家という感覚は薄く、人間はやたらと場所に意味を持たせる生き物なのだなと今でも時々思うのである。

 

制服は綺麗に畳まれていた、鞄も机の横に置かれており、教科書もノートも当然のようにそこに存在していて、そんな光景は今では見慣れたものになっていたのだけれど、九年前の海岸で白布一枚を服として満足していた少女が見れば間違いなく目を丸くしただろうし、服というものは拾うものではなく買うものであり、毎日違う服を着る必要があり、更には洗濯という概念まで存在すると知った時など世界の法則が書き換わったくらいの衝撃だったのだから、文明というのは案外こういう細かな積み重ねで構築されているのかもしれないね。

 

私はジャージを脱ぎ制服へ袖を通していく、白いシャツを着て、スカートを履き、ネクタイを整え、その一つ一つは今となっては呼吸と変わらないほど自然な動作になっていたのだけれど、人間らしさというものは案外こうして反復の中に埋もれていくものであり、最初は違和感だらけだった行動が気付けば日常へ変わっているのだから適応能力というのは恐ろしい。

 

鏡の中には銀髪の少女が映っている、少し背は伸びていたし顔付きも幼さを残しながら随分変わっていて、肩の線も昔より細長く見えるのだけれど、不思議な事に青い瞳だけは何も変わっていないように見えた。

 

私は鏡越しに自分を見ていた、そして時々思うのである、本当に人間らしくなったな、と。

 

昔の私は道路を走る車を見るだけで感動していた、パン屋から漂う匂いに足を止め、信号機が変わる様子を眺め、コンビニに二時間ほど滞在しようとしておじいさんに怒られた事もあったのだから、当然である、人間社会を知らない生き物が人間社会へ放り込まれれば全てが観察対象になるし、むしろ二時間で済んだだけ褒められるべきだったのかもしれない、いや本当にね、今だから言える事だけれど。

 

「心ー!遅刻するぞー!」

 

下からおじいさんの声が聞こえてきた、その声は九年前より少し掠れていて、少し低くなっていて、そして少しだけ年老いていた。

 

私は鞄を持つ。

 

「今行くわ」

 

そう返事をして階段を降りた、木製の段差を踏む音が響き、朝の光が窓から差し込み、家の中には生活の匂いが満ちていて、こういう何でもない景色が好きになったのはいつ頃からだっただろうかと少し考える。

 

犬は既に床で寝ている、つい十分前まで世界を救う勢いで走り回っていたとは思えないほど見事な寝付きであり、切り替えの早さだけなら間違いなく見習うべき生き物だった。

 

イシャームラはソファの背凭れに乗りながらこちらを見ていた、その姿も昔からあまり変わらないように見えるのだけれど、実際には変わっているのだろう、人も怪物も生きている以上変化から逃れられないし、仕方ない事でもある。

 

「行ってくるわね」

 

そう言うとイシャームラは微かに揺れた、それが返事なのだろう、九年も一緒に居れば分かる、言葉が無くても分かるし、分かろうとする事そのものが家族なのかもしれない。

 

私は玄関で靴を履く、おじいさんは新聞を広げており、犬は寝ていて、イシャームラは見送っていた。

 

そんな変わらない朝だった、しかし変わらないというのは本当は少し違うのだろうね、昨日と今日では誰もが少しずつ変わっているし、老いていくし、成長もする、それでも同じように見えるから人は安心するのであって、変化を受け入れる為に日常という緩衝材を作っているのかもしれない。

 

しかしそんな平穏な日常というものは案外脆いもので、物語というやつは読者が油断した頃を見計らって横から殴り付けてくるし、人生だって似たようなものである、だから私は昼休みの教室で弁当を掻き込みながら友人達と他愛もない話をしていたというのに、その時間は突然の怒声によって木っ端微塵に吹き飛ばされた。

 

「濁水!!職員室にこい!!」

 

教室の扉を開け放った担任は見るからに機嫌が悪かった、その顔は朝から三回くらい問題を起こした生徒を捕まえて来ましたと言わんばかりの疲労に満ちていて、しかし残念ながら私には心当たりが多すぎた。

 

「……嫌よ、今は食事の時間よ、あとにして」

 

私はそう答える、当然の主張である、人間は食事を取らなければ死ぬし、死ななくても機嫌が悪くなる、ならば食事の時間を優先するのは合理的判断と言えるだろう、もっとも教師という生き物はそういう理屈で動かない事も知っているのだけれど。

 

教室の空気は一瞬でざわついた。

 

「心ちゃん!!何をしちゃったの!?」

 

クラスメイトが身を乗り出す。

 

「謝らないと駄目だよ!!」

 

別の友人も続く。

 

「んもぉ〜心ちゃんは何をしているんですか〜?もしかして職員室に行くのが恥ずかしいんですか〜?いっそ逃げ出しちゃいますか〜?」

 

そんな声まで飛んできた。

 

私は弁当の唐揚げを咀嚼しながら考える。

 

本当に何だろう。

 

いや、正確には心当たりが多すぎて分からない。

 

ミニパスファインダーを校内に放った件だろうか、あれはちゃんと回収したはずである、途中で理科室に住み着こうとしていた個体も居たけれど最終的には全員連れ帰った。

 

それとも花壇の花をリーパーへ変えた件だろうか、しかしあれはまだ発覚する段階ではないはずだった、何故なら赤くなっていないからである、赤くなってからが本番なのだから今見付かるのは少々予定外と言える。

 

私は箸を止める。

 

まさか。

 

スピュワーか。

 

先生の鞄へ入れた件か。

 

いや待ってほしい、あれは悪意があった訳ではないのである、単純にスピュワーが暗くて狭い場所を好むから入っただけであり、私はそれを見守っていただけだった。

 

しかし世間一般ではそれを放置と呼ぶ。

 

仕方ない事でもある。

 

「……どれかしら」

 

私は真剣に悩んだ。

 

友人達はそんな私を見て更に不安そうな顔をした。

 

「どれかって何!?」

 

「複数あるんですか!?」

 

「心ちゃん!?今すぐ自首しよう!?」

 

ああ、騒がしい。

 

実に騒がしい。

 

でも少しだけ楽しい。

 

そんな事を考えている間にも担任の額には青筋が浮かび始めていて、どうやら選択肢を絞り込む時間は残されていないらしかった。

 

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