そんなこんなで私は抵抗している、いや正確には抵抗しているつもりなのだけれど、教師という生き物は毎年大量の問題児を相手にしているだけあって妙に経験豊富であり、こちらが机にしがみ付こうが友人の腕を掴もうが「昼休みが終わるまで待って」という極めて正当な要求を口にしようが一切揺らぐ事なく、結果として私はずるずると廊下を引き摺られていたのである、しかし理不尽だと訴えるには少々普段の行いが悪すぎたし、周囲の生徒達も誰一人として私の潔白を信じてくれなかった辺り信用というものは本当に日々の積み重ねなのだろうね。
廊下の両脇からは好奇心に満ちた視線が向けられていた、当然である、教師に連行される生徒というだけでも注目の的なのに、それが濁水心ともなれば話は別であり、「何をやったんだ」「また何かやったのか」「今度は何を爆発させたんだ」などという好き放題な声まで聞こえてきて、私は少しだけ傷付いた、少しだけで済んでいる辺り自分でも慣れてしまったのだろうし、慣れというものは時として恐ろしい。
そして職員室へ到着した私は半ば投げ込まれるように椅子へ座らされた、周囲の教師達は書類仕事の手を止めてこちらを見ており、その表情は困惑だったり諦めだったり面白がっていたりと実に様々だったのだけれど、少なくとも歓迎されていない事だけは分かる、人間というものは言葉より先に空気で感情を伝える生き物らしい。
担任は深いため息を吐いていた、その吐息には疲労と諦念と若干の怒りが絶妙な割合で混ざっており、長年教師を続けてきた者だけが獲得出来る特殊技能のようなものを感じる、もっとも私はその原因の一部を構成しているので偉そうな事は言えなかった。
「濁水」
その声は低かった、怒鳴っている訳ではないし机を叩いている訳でもないのだけれど、長年教師という職業を続けてきた人間だけが獲得出来る種類の圧力が確かに含まれていて、静かな声ほど怒っている時は危険だと誰かが言っていた気もするが、実際こうして向けられてみると案外その通りなのかもしれないね、当然ながら私は今まさにその対象だった。
私は一瞬だけ担任の顔を見ていた、その表情には疲労もあれば諦めもあり、そして問題児を前にした教師特有の覚悟のようなものまで滲んでいて、もしかすると朝からずっとこの話をする機会を窺っていたのかもしれないし、そう考えると少しだけ申し訳ない気持ちにならなくもない、もっとも本当に少しだけなのだけれど。
だから私は返事をする、逃げても無駄だろうし誤魔化しても無駄だろうし、何よりここまで来てしまった以上は向き合うしかないのであって、人間社会というものは時折こうして観念する事を求めてくる、仕方ない事でもある。
「なに?」
担任は一枚の紙を取り出した、その動作には妙な重みがあり、まるで犯罪の証拠品でも扱うかのようだったのだけれど、次の瞬間に机へ叩き付けられた書類を見て私は全てを理解した。
進路希望調査票だった。
私は理解した、その瞬間に何について呼び出されたのかを完全に把握してしまう、何故ならその紙には見覚えしか存在しなかったし、見覚えどころか私自身が提出した物だったのであり、犯人探しをする余地すら無かったのである。
私は少しだけ視線を逸らした、しかし逃げ場など当然存在しない、そこに書かれている文字の癖も筆圧も完全に私のものであり、仮に今ここで「知らないわ」と主張したとしても筆跡鑑定どころか小学校の書き取り帳を持ち出されるだけだろう、人間社会は案外こういう部分だけ無駄に証拠主義である。
担任は紙を持ち上げた、その動作には妙な重々しさがあったし、周囲の教師達も何となく仕事の手を止めてこちらを見ていた、しかし考えてみれば進路希望調査票一枚で職員室全体の注目を集める高校生というのも中々居ないだろうから、少しだけ誇って良いのかもしれない、いや多分駄目なのだけれど。
「第一希望 海の藻屑」
担任は読み上げた、その声音には怒りよりも困惑が混ざっていて、恐らく教師人生の中でもそう何度も遭遇する回答ではなかったのだろう。
私は黙っている、何故なら事実だったし、海へ還るという発想そのものに疑問を抱いていない以上、ここで反論する理由も特に見当たらなかったのである。
「第二希望 ミジンコ」
担任は続ける、その辺りから周囲の教師達の肩が微妙に震え始めていたのだけれど、笑いを堪えているのか頭痛を堪えているのかは判別が難しい、人間の表情というものは案外複雑だ。
私はやはり黙っていた、ミジンコは悪くないと思うし、少なくとも海の藻屑よりは具体性がある、しかしその評価基準自体がおかしい可能性については今は考えない事にする。
「えー……第三希望 カルトの教祖」
担任はそこで一瞬だけ読み上げる速度を落としていた、まるで自分が何を読まされているのか確認したかったかのようだったし、実際確認したかったのだろう、当然である、進路希望調査票とは本来もっと建設的な未来を書く場所なのだから。
職員室の空気が少し揺れた、誰かが吹き出すのを我慢したらしい音まで聞こえる、しかし私は笑えなかった、何故なら真面目に書いた記憶があるからである。
担任は紙を机へ置いた。
その顔には教師人生への疑問が滲んでいた。
「申し開きはあるか?」
私は少し考える。
少しと言っても数秒ではなく、それなりに真剣に考える。
何故なら質問の意図が分からなかった。
海の藻屑は確かに第一希望だし、ミジンコも悪くない選択肢だと思うし、カルトの教祖に至っては別に成りたい訳ではないが適性があるのではないかと友人達に言われた結果であり、私としてはそれなりに現実的な進路設計だったのである。
しかし担任の表情を見る限り人間社会的には違うらしい、少なくとも進路希望調査票というものは本人の将来設計を書く為の書類であって、生物として最終的に辿り着く状態や概念的な存在意義を記述する場所ではないらしく、その辺りの認識に齟齬が発生している事だけは流石の私にも理解出来たのである。
仕方ない事でもあった、人間社会というものは時折こちらが思っている以上に複雑であり、同じ言葉を使っていても前提となる価値観が違えば会話そのものが成立しなくなるし、だからこそ学校という場所が存在するのだろうけれど、正直なところ海の藻屑が何故駄目なのかについては未だに納得し切れていなかった。
私は紙を見ていた、そこには確かに私自身の文字で希望が並んでおり、担任はそんな私を見ていて、周囲の教師達もこちらを窺っていて、そして私はもう一度紙へ視線を落としたのだけれど、見れば見るほど何処が問題なのか分からなくなっていく辺り、人間という生き物は案外自分の常識に縛られているのかもしれないね。
そして私は少しだけ首を傾げた、その仕草は純粋な困惑から来るものであり言い逃れを考えている訳でも反省文の内容を練っている訳でもなく、本当に、本当に何が駄目だったのだろうかと考えていただけだった。
「……どの部分についてかしら?」
「……どの部分についてかしら?」
私は純粋に疑問だった、何故なら進路希望というものは将来どうなりたいかを書く場所であり、私はちゃんと将来を考えた上で記入していたし、少なくとも空欄で提出するよりは遥かに誠実だった筈なのである、しかし担任の反応を見る限りどうやら人間社会における誠実と私の考える誠実には大きな隔たりが存在しているらしく、その事実だけは流石に理解出来ていた。
教師はもはや頭痛がしていた、その表情は怒りを通り越して疲労へ到達しており、問題児に対する説教というものは往々にして体力を消耗するが、目の前の生徒の場合はそれに加えて常識そのものを一から説明しなければならないのである、長年教師を続けてきた彼ですら時折「何故私は教育者になろうと思ったのだろうか」と人生を振り返りたくなる瞬間があったが、今がまさにその瞬間だった。
濁水心という少女は確かに聡かった、記憶力は優秀で授業内容は一度聞けば大抵覚えてしまうし、頭の回転も速く、模試になれば全国で一桁台へ平然と食い込む程度の能力を持っている、実際教師達の間では「あの頭脳をもう少し別方向へ活用出来れば」という会話が定期的に発生していたし、高校進学だって本人が望めば選び放題だろうと言われていた、しかし当然ながら頭の良さと馬鹿さというものは必ずしも反比例の関係ではないのである。
世の中には賢い馬鹿という生物が存在する。
そして目の前に居る。
教師は額を押さえていた、その行動には長年積み重ねられた経験則が含まれていて、つまり今から常識の説明を始める事になるのだろうという覚悟だった。
教師は低い声で言い、私は返事をする。
「濁水」
「なに?」
「進路希望ってのはな」
教師はそこで一度言葉を切った、どう説明するべきか考えているらしい、当然である、海の藻屑が何故職業ではないのかを説明する機会など普通の人生では訪れない。
「将来何になるかを書くんだ」
「ええ」
「海の藻屑は違う」
「最終的にはなるわよ?」
私は少し考え、そして答える。
教師は黙っていた、その沈黙は単なる無言ではなく「今聞いた言葉をどう処理すれば良いのか分からない」という極めて人間らしい困惑を含んでおり、長年教育現場に立ってきた彼ですら予想していなかった方向から殴られた結果なのだろうと、流石の私でも何となく察する事は出来た。
職員室もまた静まり返っていた、先程まで紙を捲る音やキーボードを叩く音が聞こえていた筈なのに、それらはいつの間にか消えていて、何人かの教師は天井を見上げ、何人かは書類へ視線を落とし、何人かは明後日の方向を見つめていたのだけれど、当然ながら誰一人として仕事へ集中出来ているようには見えなかったし、あれは恐らく現実逃避というやつなのだろうね。
その気持ちは私にも分からなくはなかった、人間というものは理解出来ない物事へ遭遇すると一度思考を停止させる傾向があるらしいし、仕方ない事でもある、しかし少なくとも私は真面目だったし冗談を言ったつもりも無かったので、何故そこまで困惑されているのかについては依然として理解出来ていなかった。
海へ還るという発想は私にとって極めて自然なものであり、人間社会における墓地や埋葬と同じくらい当然の終着点なのである。
教師は深呼吸していた。
一度では足りなかったらしく二度した。
そして三度目でようやく口を開く。
「そういう話じゃない」
「そうなの?」
「そうだ」
私は少しだけ困惑する。
教師は更に困惑していた。
どちらが困っているのか分からない状況だった。
周囲の教師達は既に仕事へ戻る振りを始めていた、しかし耳だけはこちらへ向いているし、ペンを持つ手も止まっているので全く隠せていない、人間というものは案外野次馬根性に忠実である。
私は提案する。
教師は机へ額をぶつけそうになった。
「じゃあミジンコ?」
「そういう問題でもない」
「カルトの教祖?」
「もっと違う」
私は真剣に考えている、いや本当に真剣なのである、進路希望という人生に関わる重大な話題を扱っている以上いい加減な返答をする訳にもいかないし、教師がここまで深刻そうな顔をしているのだから何か重要な認識の齟齬が存在するのだろうと私なりに必死で原因を探っていたのだけれど、残念ながら候補を挙げれば挙げるほど状況は悪化しているようにしか見えなかった。
私は本当に真面目だった、読者諸君にも分かって欲しいのだが人間というものは時として真面目に考えれば考えるほど周囲との距離が広がる事があり、特に前提条件そのものが食い違っている場合には努力がそのまま被害拡大へ繋がる事すらあるのであって、しかし当人は善意と誠意で動いているのだから余計に厄介なのである。
しかし真剣であればあるほど教師の顔色は悪くなっていく、その変化は実に分かりやすく、最初は困惑だったものが疲労へ変わり、疲労が諦めへ変わり、そして今や人生について考え始めているような表情にまで到達していて、流石に少し申し訳ない気持ちにならなくもなかったのだけれど、何が間違っているのか分からない以上どうしようもないので仕方ない事でもある。
不思議な話である。
普通は努力すれば評価されるものなのに、この場に限っては努力が被害を拡大させている気がした。
教師は再び頭を押さえた。
そして職員室中へ聞こえるくらい大きなため息を吐く。
その姿は少しだけ哀愁があった。
少し前まで全国模試上位常連の生徒を受け持っている事を誇らしく思っていた筈なのに、今は進路希望調査票に書かれた海の藻屑と真剣に向き合わされているのである。
人生とは分からないものだね。
少なくとも教師はそう思っていたし、私はまだ何処が問題なのか理解出来ていなかった。
「皆はどんな進路を選んでいるの?」
私は進路希望調査票を眺めながらそう尋ねる、正直なところ段々と面倒になってきたのである、進路というものが重要である事くらいは理解しているし将来を決める大切な選択である事も知っているのだけれど、人間社会というものは選択肢が多過ぎる、海の生き物だった頃なら泳ぐか食べるか寝るかで大体の一日が終わっていたのに、人間になると高校だ大学だ就職だ資格だと次から次へ選択を迫られるのだから、文明というものは便利になる代わりに悩みまで増やしてしまったらしい、もっとも悩めるという事自体が豊かさの証拠なのかもしれないけれどね。
教師は少しだけ安堵していた、少なくとも海の藻屑やミジンコの話題から離れられそうだったからであり、先程まで真顔で終末的な進路相談を繰り広げていた事を考えればこれは大きな前進だった、彼の表情にはまだ疲労が残っていたが、それでもようやくまともな会話が成立しそうだという期待が見え隠れしていて、人間というものは希望を見付けると少しだけ元気になる生き物らしかった。
「もうそれにしようかしら?」
私は続ける、別に投げやりになった訳ではない、いや少しはなっているかもしれないけれど、それ以上に私は他人が何を目指しているのか純粋に興味があった、人間社会を学ぶというのは他人の価値観を知る事でもあるし、私にとっては進路そのものよりそちらの方が面白く感じられるのである。
教師は微妙な顔をしていた、その表情には安心と警戒が同居していて、目の前の生徒が普通の生徒なら素直に話を進められたのだろうが、残念ながら濁水心という少女は会話が成立したと思った次の瞬間に全力で常識の外へ飛び出していく生き物だった、教師生活の経験というものは人を見る目を養うが、同時に嫌な予感を察知する能力まで育ててしまうのである。
「まあ、大概はヒーロー科に行くだろうな」
教師はそう答える、その声音には特別な感情は無かったが、それは彼にとってあまりにも自然な選択肢だったからだろう、ヒーロー社会に生きる子供達の多くはヒーローへ憧れるし、特にこの学校へ通う者達なら尚更だった。
「保護者がヒーローだしな」
教師は付け加えた、その言葉にはある種の当然が含まれていた、親が野球選手なら野球を始める子供が居るように、親が料理人なら料理に興味を持つ子供が居るように、ヒーローの背中を見て育った子供がヒーローを目指す事は珍しくないのである。
私は少しだけ首を傾げる、ヒーローという言葉そのものはよく知っているし、テレビでも見るし、街でも見るし、おじいさんだってその一人だった、だから知らない訳ではないのだけれど、知っている事と自分がなる事の間には少し距離があった。
「……行くか?」
教師はそう尋ねた。
職員室の空気がほんの少し静かになっていた、近くの教師達は仕事をしている振りを続けているのだけれど、耳だけはこちらへ向いているのが丸分かりであり、人間は案外こういう話が好きなのだろう、問題児の進路相談というのは他人事として眺める分には面白いらしい。
私は少し考える、別に進路そのものへ興味が無い訳ではないし、ヒーローという仕事を軽んじている訳でもない、むしろ私は誰より近くでその仕事を見てきた側だった。
朝早くに呼び出される姿を知っている。
深夜に連絡一本で飛び出していく姿も知っている。
傷だらけになって帰宅する姿も知っている。
ソファで寝落ちする姿も知っている。
そして文句を言いながら翌日にはまた出ていく姿も知っていた。
私は少しだけ眉を寄せる。
「でも」
その言葉には純粋な疑問が含まれていた。
「おじいさんみたいに朝から晩まで働くのでしょう?」
教師は黙る。
「休日も呼び出されるのでしょう?」
教師は黙っていた。
「怪我もするのでしょう?」
教師は何も言わなかった。
私は続ける、だって事実なのだから仕方ない、ヒーローという言葉は格好良いし子供達は憧れるしテレビも称賛するけれど、その裏側にある疲労や責任や危険まで私は見てしまっている、憧れだけで語れないのは多分そのせいだった。
「……大変そうね」
私は率直な感想を口にする。
職員室の何処かから吹き出しそうになる音が聞こえた、どうやら皆が期待していた答えとは違ったらしい、しかし当然である、私にとってヒーローはテレビの中の存在ではなく身近な家族だったのだから。
教師は少しだけ苦笑していた、憧れや理想ではなく労働環境の話から入る辺り実に濁水心らしいと思ったのだろうし、実際その通りだった。
私は窓の外を見る、校庭では生徒達が走っていて、誰かが笑っていて、誰かが転んでいて、誰かが怒られていた、そんな何でもない光景だったけれど、九年前の私には存在しなかった世界でもあった。
「でも」
私はもう一度呟く。
その言葉は先程より少し静かだった。
「おじいさんは好きそうだったわ」
教師は少しだけ目を丸くする。
私はただ思った事を言っただけだった、疲れていても、文句を言っていても、怪我をしていても、おじいさんは結局また誰かを助けに行く、ならきっと好きなのだろう、人間というものは本当に嫌な事だけを何十年も続けられるほど単純ではない。
教師は椅子へ背を預ける。
その表情は先程までより少し柔らかかった。
「まあ」
そう言って小さく笑う。
「そこまで考えてるなら適性はあるかもな」
私は首を傾げる、適性というものが何処から発生したのかはよく分からなかったけれど、少なくとも海の藻屑よりは職業として認識されているらしい、人間社会の基準というものは相変わらず不思議だったけれど、案外そういう曖昧さの中で皆生きているのかもしれなかった。