雄英高校ヒーロー科一年A組、その扉を前にした私はほんの少しだけ立ち止まっている、別に緊張している訳ではないし逃げ出したい訳でもないのだけれど、海の底で生まれて海を家としていた生き物が日本最高峰のヒーロー養成機関へ通う事になるという事実には未だに不思議な感覚が付き纏うのであり、もっとも人生というものは案外そういう理解の追い付かない出来事の連続だから仕方ない事でもある。
私は扉を開けた。
教室の中には既に何人もの生徒が集まっていた。
それぞれが新しい環境への期待や不安を抱えているらしく、話し声や視線が入り混じって独特の空気を作り出していて、入学式前の教室というものは何処も似たようなものなのかもしれないと私は思った、人間社会は広いようでいて案外共通項が多い。
すると早々に眼鏡を掛けた生真面目そうな男子生徒がこちらへ近付いて来る。
その足取りには迷いが無かった。
その表情にも曇りが無かった。
彼はきっと昔からこういう人間なのだろう、初対面の相手にも真っ直ぐ向き合える人間というのはそれだけで一つの才能だ。
「おはよう!俺は私立聡明中学出身、飯田天哉だ。よろしく!」
彼は胸を張ってそう言った。
私は少しだけ目を瞬かせる。
元気だなと思った。
朝から全力で動ける人間を見ると時々犬を思い出す。
「おはよう。私は濁水心、よろしく」
私はそう返した。
飯田天哉は嬉しそうに頷いた。
どうやら好印象だったらしい。
しかし彼が後に学級委員へ立候補する事になると考えれば、この段階から既にそれらしい空気はあったのだろう、もっとも私はその時そこまで考えていなかったのだけれど。
やがてチャイムが鳴り終わる、その音は新しい学校生活の始まりを告げる合図として教室中へ平等に降り注いでおり、私もまた他の生徒達と同じように次は入学式へ向かうのだろうと何となく考えている、人間社会における学校というものは大体そういう順序で進むらしいし、少なくとも事前に渡された資料にもそのような流れが書かれていた気がするのである。
入学式へ向かうのだろうと思っていたのは私だけではなかったらしく、周囲を見渡せば誰もがそれを当然の予定として受け入れている様子だったし、期待や緊張の種類こそ違えど「次は式典だ」という認識だけは共有されていたようで、こういう時に集団というものは面白いほど似た方向を向くのだなと少しだけ感心していた。
多分教室に居た全員がそう思っていたのだろう、何故なら誰一人として運動着へ着替える準備をしていなかったし、誰一人として初日から体力測定が始まるなどとは予想していない顔をしていたからであり、しかし人間というものは予定通りに進む未来を勝手に信じてしまう生き物でもあるので、その辺りは仕方ない事でもある。
しかし人生は時として期待を裏切るし、物語というものもまた読者が「次はこうなるだろう」と思った瞬間に横から別の展開を叩き付けてくるもので、後から振り返ればこの時点で既に雄英高校という場所が普通ではない事を示していたのだろうけれど、その時の私はまだそこまで理解していなかった。
「お友だちごっこがしたいなら他所に行け」
その声は突然だった、少なくとも私にはそう聞こえたし教室に居た他の生徒達も似たような反応をしていたのだから多分間違ってはいないのだろう、入学初日の教室というものは期待や緊張や自己紹介の空気で満たされているものであり、そこへ横から冷水を浴びせるような声音が飛び込んで来れば誰だって意識を向ける、当然である。
教室中の視線は一斉に声の主へ向けられていた、その動きはまるで魚群が大型捕食者の気配を察知した時のように綺麗に揃っていて、人間は集団行動が苦手だと言われる事もあるけれど案外そうでもないのかもしれないね、少なくとも驚いた時の反応だけは妙に統一されるらしかった。
廊下には寝袋が転がっているように見えた、いや実際には転がっていたのだけれど、学校という教育機関の廊下に寝袋が存在する時点で十分異常であり、それを誰も指摘しない辺り雄英高校という場所は既に普通の学校とは少し違うのだろう、もっともヒーロー養成機関なのだから今更かもしれない。
しかしよく見れば寝袋の中には人間が入っていた、その姿は随分とやる気が無さそうで、朝から全力で自己紹介をしていた飯田君とは対極に位置する存在のようにも見えたし、世の中というものは案外こういう極端な人間同士で回っているのかもしれない、仕方ない事でもある。
そして更によく観察すると、その人物は小汚い男だった、髪はぼさぼさで目の下には隈があり、教師というより徹夜明けの研究者か長期間海上を漂流した人間の方が近い印象すら受けるのだけれど、不思議な事にその場の誰よりも強者の空気を纏っていて、だからこそ私は少しだけ興味を持ったのである。
「担任の相澤消太だ。よろしくね」
私は少し考える。
さっきから視界の端で蠢いていた存在が何なのか気になっていたのだけれど、どうやら担任だったらしい。
合理主義者だという噂は聞いていた。
聞いてはいたのだが、教師が寝袋で登場するとは流石に予想していなかった。
そしてそのままグラウンドへ向かえと命じられる、入学初日なのだから当然この後は講堂へ移動して校長先生の話でも聞くのだろうと誰もが思っていた筈なのだけれど、その予想は実にあっさりと裏切られてしまい、私は少しだけ首を傾げる事になった。
入学式はどうしたのだろうと私は考えていた、もっとも周囲を見渡せば似たような顔をしている生徒ばかりであり、どうやら困惑しているのは私だけではないらしく、その事実に妙な安心感を覚えていたのだから人間というものは案外単純な生き物である。
しかし誰も異議を唱えない、当然である、相手は担任教師であり、しかも雄英高校ヒーロー科の担任なのだから初日から逆らおうと考える者はそう多くないし、何より皆まだ相手がどのような人物なのか測りかねている段階だったのである。
私は黙って従う事にした、集団というものは便利であり、皆が同じ方向へ歩いている時はとりあえず付いて行けば大抵何とかなるし、少なくとも自分だけ取り残される危険は減る、もっともそれが正しい判断かどうかは別問題なのだけれど。
生徒達はぞろぞろと更衣室へ向かっていた、その背中には期待や不安や戸惑いが入り混じっていて、つい先程まで初対面同士だった者達が同じ方向へ歩いている光景は少しだけ面白く見えるし、学校という場所はこうして他人同士を無理矢理同じ箱へ押し込む事から始まるのだろうね。
私は制服を脱いだ。
体操着へ着替えていた。
それ自体は何処にでもある当たり前の行為だったのだけれど、海の底で育った頃の自分を思い返せば制服という概念そのものが存在しなかったのだから、人間社会への適応というものは案外知らない内に進んでいるらしい。
そしてそんな当たり前の流れの途中だった、後になって思えばこの日というのは最初から最後まで普通とは少し違っていて、だからこそ雄英高校なのだろうし、普通を期待する方が間違っていたのかもしれなかった。
「ねえねえ!ちょっと!」
背後から声が飛んできて私は足を止める、その声音には警戒も敵意も無く純粋な親しみだけが含まれていて、こういう呼び止め方をされる機会は昔の私には殆ど存在しなかったのだけれど、人間社会というものは案外こうして関係が始まるらしく、考えてみれば海の生き物達も群れを作る時は似たようなものなのかもしれないね。
私は振り返った、するとそこには入試の時に嘔吐していた少女が立っていて、丸い顔立ちと柔らかな雰囲気、それから人懐っこい笑顔が印象的であり、正直なところ試験会場で倒れていた姿の方が記憶に残っていたのだけれど、こうして元気そうにしているのを見ると少し安心する、人を助けるという行為は結果が見えて初めて実感が湧く事もあるのである。
彼女は少し嬉しそうな顔をしていた、その表情には恩人を見付けたというほど大袈裟な感情ではないにせよ、少なくとも感謝を伝えたいという気持ちは確かに存在していて、人間というものは律儀だなと思う、当然全員がそうではないのだろうけれど、少なくとも彼女はそういう人間らしかった。
「あの試験の時、助けてくれた子だよね?あの時はありがとう!」
彼女はそう言った、その言葉は真っ直ぐだったし飾り気も無かったから、だからこそ素直に受け取れる種類の感謝だったのだろう。
私は小さく頷いた、人助けに大した理由は無いし、少なくとも私の中では困っている者が居れば助けるというだけの話であり、それを特別な善行だと思った事はあまり無い、もっとも人間社会ではそういう行為に意味を見出す文化があるらしいので、その辺りはまだ勉強中だった。
「どういたしまして」
私はそう答える、その返答に彼女は更に笑顔を深めていたから、どうやら正解だったらしい。
彼女は麗日お茶子と名乗った、私は改めて濁水心だと名乗り返す、新しい学校というものは自己紹介の連続であり、名前を交換する事から全てが始まるらしいのだけれど、海にはそういう文化は無かったので最初は少し不思議だった、しかし嫌いではないし、むしろ相手を知る為の儀式としては分かりやすい部類なのかもしれない、仕方ない事でもあるが人間は言葉で繋がる生き物なのだから。
「なになに〜?二人は知り合い?」
突然明るい声が割り込んでくる、その声音には初対面特有の遠慮というものがほとんど存在せず、まるで昔からの友人に話しかけるような軽やかさがあったのだけれど、考えてみればヒーロー科に集まる人間というものは多少なりともそういう積極性を持っている方が自然であり、むしろ静かな人間ばかりだったらそれはそれで不思議な光景だったのかもしれなかった。
視線を向ければそこには服だけが浮いており、一瞬だけ怪異の類かと思ったが当然そんな訳はなく、正確には透明人間であり、透明なのに服だけが存在を主張しているという状況は理屈として理解出来ても視覚的にはなかなか混乱を招くものだった。
「私、葉隠透!個性は見ての通り透明!」
そう名乗る声は実に明るく、そして私は少しだけ考える、透明なのに見ての通りとはこれ如何にと、しかし人間社会にはそういう言い回しが存在するし、言葉というものは必ずしも論理だけで成立している訳ではないので深く考えるべきではないのだろうと納得した。
葉隠さんを皮切りに女子達の自己紹介が始まり、その流れはまるで堰を切った川のように止まる事を知らず、芦戸三奈さんが元気よく名乗り、蛙吹梅雨さんが落ち着いた調子で挨拶を返し、他にも何人もの名前と顔と個性が次々に私の記憶へ流れ込んでいった。
皆違っていたし、皆個性的だったし、ヒーロー科という場所は個性の見本市みたいな場所なのかもしれないと私は思う、もっとも個性社会なのだから当然と言えば当然であり、しかし実際にこうして一堂に会すると改めてその多様性に驚かされるものだった。
賑やかな空気の中で着替えを終えた私は皆と共にグラウンドへ向かい、そこで待っていたのは歓迎会でも自己紹介の続きでもなく、実に雄英らしい試練だった。
「「「個性把握テストォ!?」」」
そんな悲鳴が響き渡り、私は少しだけ納得する、入学初日に個性込みの体力測定を行うという発想は合理的であり、少なくとも筆記試験を延々と続けるよりはヒーロー育成機関らしい、しかし一般的な高校生活を期待していた人間にとっては災難だったのかもしれなかった。
そしてデモンストレーションとして前へ呼ばれた爆豪勝己君はボールを握り、構え、そして何の躊躇もなく叫んだ。
「死ねぇ!!」
私は少し首を傾げたし、周囲も似たような反応をしていた、掛け声としては大分物騒である、しかし結果として飛距離は七百メートルを超えており、なるほど強いなと素直に感心する、爆発を推進力へ転換するという単純な構造だからこそ完成度が問われるのだろうし、個性というものは結局使い方次第なのだと改めて思わされた。
「なんだこれすっげーおもしろそう!」
誰かが興奮気味に叫び、それを聞いた相澤先生が口元を歪める、その笑みは教師というより捕食者に近い種類のものであり、少なくとも安心感を与えるものではなかった。
「面白そう、か……三年間そんな心算で過ごすつもりか……よし、トータル成績最下位は見込みなしとして除籍処分にしよう」
空気が凍り付いた。
生徒達は当然騒ぎ出したし、それは仕方ない事でもある、何しろ入学初日であり、入学式すら終わっていない段階で退学宣告を受ければ誰だって動揺するだろう、しかし私はそこまで驚かなかったし、むしろ妥当だと思っていた。
見せしめは有効である。
競争は成長を促す。
そして何より負ければ死ぬ環境を知っている身からすれば随分と温情的だった。
(まあ、さしたる問題は無いかしら)
私はそう考えながら五十メートル走も反復横跳びも立ち幅跳びもボール投げも淡々とこなし、突出もしなければ失敗もしないという実に私らしい結果を積み重ねていく、生存戦略としては間違っていないし、目立ち過ぎるというのは時として損をするものだった。
やがて麗日さんが戻って来る、その表情には安堵と達成感が入り混じっていて、どうやら本人としても満足のいく結果だったらしく、ヒーロー科という場所は競争の場であると同時に自分自身の可能性を試す場所でもあるのだなと私は改めて思うのであり、もっとも人間という生き物は結果が良ければ大抵機嫌も良くなるので当然と言えば当然だった。
ボール投げの記録は∞だった、私は表示された数字を見て少しだけ首を傾げたのだけれど、周囲の反応を見る限り完全に理解不能という訳でもないらしく、雄英高校という場所では常識の方が後から追い掛けて来る事も珍しくないのだろう。
意味が分からない。
しかし雄英では珍しくないらしい。
「お疲れー!」
「お疲れ様」
「やっと良い記録出せたよ〜」
そんな会話を交わしながら話題は自然と個性へ移っていった、人間というものは初対面同士であっても共通の話題さえあれば案外簡単に距離を縮める生き物であり、ヒーロー科に集まった生徒達にとって個性という存在は名前と同じくらい重要な自己紹介の一部なのだから仕方ない事でもある。
「濁水さんの個性って何?」
「私は海淵。こういう海の生き物を出せるの」
興味深そうな反応が返ってきた、その視線には警戒よりも好奇心の方が強く含まれていて、私は少しだけ安心する、人間社会というものは未知を恐れる一方で未知を知りたがる性質も持っているらしく、その矛盾した性質こそが文明を発展させてきた原動力なのかもしれないね。
私は雑談をしながら周囲を観察している、ヒーロー科の生徒達、将来有望な若者達、その個性も性格も癖も全部覚えておいて損は無いと考えていたし、知識は武器であり武器は多い方が良いというのは海でも陸でも変わらない法則だった。
やがて緑谷出久君の番が来た、ここまでの成績は決して良いとは言えず、むしろ身体能力に対して結果が伴っていないように見えていたのだけれど、だからこそ私は少し気になっていたのである。
身体能力と結果が噛み合っていない。
鍛えているのに活かせていない。
そういう違和感が確かに存在していた。
彼はどこか不自然だった、努力していない人間ではないし身体も作られている、それなのに結果だけが追い付いていないという状況は、何かしら隠された事情があると考える方が自然だった。
そして二投目が始まる、ここまでの結果だけを見れば緑谷出久という少年は決して優秀とは言えなかったし、むしろ雄英ヒーロー科という場所に集められた怪物達の中では埋もれている側だったのだけれど、人間というものは追い詰められた時ほど本質が露わになる事があるのであって、だから私は少しだけ彼を見ていた。
彼は覚悟を決めていた、その表情には焦りも恐怖も確かに残っていたのだが、それ以上に何かを捨てる覚悟のようなものが宿っていて、結果を出せなければ終わるという状況を理解した上でなお前へ進もうとしている顔だったから、少なくとも逃げる人間ではないのだろうなと私は思ったのである。
彼はボールを握る、その指先には僅かな震えがあり、肩には力が入り、呼吸も浅くなっていたのだけれど、それでも視線だけは真っ直ぐ前を向いていて、人間という生き物は不思議なもので身体が恐怖を訴えていても意思だけは前へ進もうとする事があるし、当然それは誰にでも出来る事ではない。
彼は振り被った、その動作には迷いが無かったし、一度目の失敗を経てなお同じ場所へ立てるだけでも十分立派なのだろう、もっとも本人にそんな余裕は無かっただろうけれど、追い詰められた人間が時折見せる決断の顔というものは案外分かりやすいものであり、少なくとも今の彼は何かを選んだ後の顔をしていた。
そしてその瞬間だった、空気が張り詰めるような感覚があり、周囲の視線が自然と彼へ集まり、私自身も無意識に目を細めていたのだけれど、次の瞬間に起きた現象は極めて単純でありながら異様でもあった、何故なら全身ではなく指先だけが閃いたのだから。
。
「SMASH!!」
轟音が響き、風圧が走り、ボールは七百メートルを超えて飛んでいった、その記録は爆豪君すら上回っていたのだけれど、私が感心したのは飛距離そのものではなく、その代償を理解した上で実行した判断力の方だったのである。
彼の指は壊れていた。
しかし彼は立っていた。
「まだ……動けます!」
強いなと思った。
純粋にそう思った。
リスクとリターンを天秤へ掛ける判断力があり、追い込まれた状況で決断する勇気があり、そして成功を引き寄せるだけの運も持っている、まだ人柄はよく知らないのだけれど、それでも良いヒーローになるだろうという予感だけは確かに存在していた。
私は別にヒーローが嫌いではないし敵視している訳でもない、必要なら戦うし必要なら助ける、それだけの話であり、世界というものは案外その程度の距離感で回っているのかもしれなかった。
全種目が終わる。
私は中の上だった。
八百万さんのような万能型も居る。
爆豪君のような特化型も居る。
だからこの順位は悪くない。
十分だった。
突出しないという事は時として地味に見えるのだけれど、生存という観点から見れば安定性は極めて重要であり、何か一つだけに依存する生き方は往々にして脆い、もっともヒーロー社会では派手な方が評価されやすいのだから難しいところではある。
その時だった。
「ちなみに除籍は嘘な」
相澤先生がそう告げた、生徒達は固まり、私は少し納得する、やはり嘘だったらしい、合理的虚偽というやつだろうし脅しによる動機付けは確かに効果が高い、しかし教師という立場でそれを堂々と実行する辺りは流石雄英と言うべきなのかもしれないね。
もっとも緑谷君は魂が抜けそうな顔をしていた。
それから教室へ戻り、説明を受け、配布物を受け取り、結局入学式には出ないまま一日が終わっていった、その辺りも実に雄英らしいと言えば雄英らしく、普通の学校生活というものを期待していた人間には少々刺激が強過ぎるのかもしれなかった。
そして放課後になる。
帰路につこうとした私の背後から声が飛んできた。
「あ、濁水さん!」
振り返れば麗日さんだった、その表情は朝よりもずっと親しげで、人間関係というものは一日でも案外変わるものなのだなと私は思う。
隣には飯田君が居た。
そして緑谷君も居た。
「駅まで?一緒行かへん?」
私は少し考える。
断る理由は無い。
「じゃあ、ご一緒させてもらっていいかな」
「もちろんだとも!」
「どどどどうぞ!」
緑谷君は相変わらず緊張していた、その反応が少し面白くて私は内心で笑ってしまうのだけれど、どうやら本人は本気で緊張しているらしく、人間というものは本当に複雑だった。
「改めまして、私は濁水心。よろしく」
「ぼ、僕は緑谷出久です!」
彼は顔を真っ赤にしていた、その反応はまるで私が何か特別な事でも言ったかのようだったのだけれど、残念ながら私にはその理由がよく分からず、分からないという事実だけが妙に印象へ残っていた。
私は少し首を傾げる、人間社会で暮らし始めて九年も経つというのに未だに理解出来ない反応というものは存在していて、どうやら私は自分の顔の使い方だとか表情の与える影響だとか、そういう対人関係における細かな機微についてはあまり得意ではないらしかったし、しかし仕方ない事でもある、海の底ではそういう技能を学ぶ機会など存在しなかったのだから。
私達は並んで歩いていた、駅へ向かう道は放課後の学生達で賑わっており、制服姿の集団があちらこちらで談笑していて、その光景は絵本やテレビの中では何度も見た事があったけれど、自分がその中へ混ざっているという事実には未だ少しだけ不思議な感覚が伴っていた。
会話は途切れない。
指の怪我の話になる。
入試の話になる。
応急処置の話になる。
そして話題が変わる度にそれぞれの性格が少しずつ見えてくるのであり、人間というものは自己紹介より雑談の方がよほど本質を語るのかもしれないね。
飯田君は真面目な顔で反省していた、救助ポイントという発想へ辿り着けなかった事を本気で悔いているらしく、その姿勢は少し眩しいくらいだったし、彼はきっと何事にも全力で向き合う人間なのだろうと感じさせた。
緑谷君は分析を始めていた、応急処置の必要性からヒーロー活動における医療知識の重要性まで一気に思考を飛躍させながらぶつぶつと独り言を続けていて、その集中力は見事だったのだけれど、当然ながら周囲から見れば少々不気味だったらしく、麗日さんと飯田君が微妙に距離を取っていた。
しかし私は嫌いじゃなかった、何かを本気で考えられる人間というのは見ていて面白いし、知識を積み上げる事そのものを楽しめる人間は大抵強くなる、何故なら学ぶ事を苦痛と思わない者は際限なく成長するからであり、それは海でも陸でもあまり変わらない法則だった。
私は彼の個性についても聞いていた、あのボール投げで見せた力は明らかに異質だったし、興味を持つなという方が難しい。
彼は誤魔化した。
その誤魔化し方は正直あまり上手ではなかった。
目は泳ぐし言葉は詰まるし説明も少し不自然だった。
けれど私は追及しない。
秘密の一つや二つ誰にでもある。
私にもある。
むしろ大量にある。
海の底から来た事も、イシャームラの事も、大群の事も、その全てを正直に話したら多分大変な事になるだろうし、だからお互い様だったのである。
やがて駅へ到着する、放課後特有の喧騒が辺りを満たしていて、改札へ向かう学生達の流れが絶え間なく続いており、その中で私達も自然と立ち止まった。
三人とはそこで別れた。
それぞれ帰る方向が違う。
当然である。
家族も環境も違うのだから。
しかし別れ際にまた明日と言い合える関係というのは案外悪くないものだなと私は思ったし、そういう感覚を好ましいと感じる辺り随分人間らしくなったのかもしれない。
夕暮れが街を染めていた、建物の窓ガラスは赤く光り、道路へ伸びる影は長くなり、昼と夜の境界がゆっくり近付いて来ていて、その景色は海の夕焼けとはまた違う美しさを持っていた。
私は一人で歩いている。
そして今日一日の出来事を思い返していた。
友達が出来た。
教師は変だった。
クラスメイトも変だった。
しかし考えてみれば私も十分変なのだから、その辺りはあまり人の事を言えないのかもしれないね。
それでも悪くなかった。
海の底では経験出来なかった一日だった。
そうして私は帰路についたのである、これから先どれだけ騒がしい日々が待っているのかその時の私はまだ知らないのだけれど、少なくとも学生生活一日目というものが案外楽しかった事だけは確かであり、人間社会も捨てたものではないなと少しだけ思っていた。