今回の屋内戦闘訓練はヒーローチームがヴィランチームを全員確保するか、あるいは防衛対象として置かれたハリボテの核爆弾へ接触すれば勝利となり、逆にヴィランチームは制限時間までそれを守り抜くかヒーローチームを拘束しなければならないという極めて単純なルールで進行している、もっとも戦闘というものは往々にして単純なルールほど複雑な結果を生むものであり、それは人間社会でも海でもそう変わらない。
そして今回私の相方は葉隠透、対するヴィラン側は尾白猿夫と障子目蔵であった、先程の轟焦凍による試合で消耗らしい消耗をしていない二人であり体力も集中力も十分に残されている、当然正面から戦えば厄介な相手だろうけれど、しかし戦闘というものは相手の長所を踏み潰してしまえば案外どうにでもなる事でもある。
「ええと……透明なのよね? 物体をすり抜けたりはできるのかしら?」
「うーん、できないんだよね〜、できたら良いな!」
「そう、葉隠、作戦はどうする?」
「じゃあ……」
短い相談を終え私は一人で廊下を歩いている、作戦と呼ぶほど大層なものでもないけれど透明な味方と目立つ私ならば役割分担など最初から決まりきっているようなものであり、誰かが囮にならなければならないのなら目立つ側がそれを引き受けるべきなのだろう、うん、合理的だね。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
raaararaaa―――
歌声が響く。
△ △ △ △ △ △
赤いドレスの少女は逃げも隠れもせず廊下の中央を歩いている、その足音はコツコツと規則的に鳴り続け、まるで舞踏会へ向かう貴族令嬢のような優雅ささえ感じさせたが、しかし障子の全身を支配していたのはそんな感想ではなくもっと原始的で説明し難い恐怖だった。
本来ならばただの校舎であるはずなのに障子の視界へ映り込む景色は既にその認識から大きく逸脱していて、無機質なコンクリートの壁も整然と並ぶ窓枠もどこか遠くへ沈み込んでしまったように感じられ、しかし人間の知覚というものは案外簡単に揺らぐものであり恐怖や違和感に引きずられて現実の輪郭を見失うことなど仕方ない事でもあると誰かは言うだろうし、実際この瞬間の障子もまた自分が見ているものを現実だと断言できなくなっていた。だが彼の目には確かに違う世界が広がっていたのであり、それは単なる思い込みや錯覚という言葉だけでは片付けられないほど鮮明で、窓の向こうには暗く冷たい海が揺らめいていて本来存在するはずのない深海がどこまでも広がっていたように見えた。
ギロリと巨大な巻き貝の眼がこちらを覗き込み、青黒い海水がガラスの向こうで揺らめき、ぽこぽこと泡が弾ける音が聞こえている気がした、その音は歌によって掻き消されているはずなのに確かに聞こえていて、聞こえているはずなのに歌しか聞こえなくて、そんな矛盾が頭の中で渦を巻く。
障子は歯を食いしばっていた、頬の筋肉が強張るほど力を込めながらも視線だけは正面の少女から逸らさずにいたのだが、それは勇敢だからというより目を離した瞬間に何か取り返しのつかないものを見失ってしまう気がしたからであり、人間というものは理解できないものほど目で追ってしまう生き物なのだから仕方ない事でもある。
理性はここが雄英高校の演習施設だと知っている、訓練用に作られた建物であり海など存在するはずもなく窓の外に広がる深海も巨大な生物の影も全て個性による幻覚に過ぎないと判断していたし、当然それが正しい結論であるはずだった。
個性による幻覚だと理解していた、それは障子自身が何度も心の中で繰り返した確認でもあり現実へしがみつくための最後の縄でもあったのだが、しかし理解する事と納得する事は別であり、頭で否定するほど耳には泡の音が響き目には暗い海が映り込み、まるで世界そのものが静かに書き換えられていくような感覚だけが消えてはくれなかった。
それでも本能は海の底だと叫んでいる、冷たい水圧に押し潰されそうな錯覚も遠くから呼び掛けるような歌声も全てが現実味を帯びて迫ってきており、障子は自分が校舎の廊下に立っている事を知りながら同時に深海へ沈んでいるとも感じていて、その矛盾した感覚こそが何より恐ろしく、そして何より抗い難かったのである。
生物というものは理性だけで生きている訳ではないのだから仕方ない事でもある、火を恐れ水を恐れ暗闇を恐れるように、説明できない恐怖へ身を竦ませる機能は命を繋ぐ為に存在しているのだから。
「ッ……尾白、どうする。濁水が一人正面突破だ」
「葉隠さんは?」
「音も姿も見えん!」
「OK、気を付けよう。救援はできない、幸運を祈る」
通信が切れると耳に残っていた僅かな雑音すら消え失せ、障子は自分がこの場に一人取り残された事を改めて認識する、もっとも実際には校舎のどこかに尾白も葉隠も存在しているのだろうけれど、人間というものは助けを呼べない状況になった瞬間に孤独を感じる生き物なのだから仕方ない事でもある。
残されたのは障子一人だったが、それ以上に問題だったのは自分の意識が少しずつ少女へ引き寄せられている事実であり、理性は警戒を続けているはずなのに視線だけはどうしても彼女から逸らせなかった。
そして少女は変わらず歩いて来る、その足取りには焦りも迷いも存在せず、まるでここで立ち止まるという選択肢そのものを知らないかのように静かで自然であり、当然ながら演習中の学生が見せる態度としては異様なはずなのに何故か違和感より納得が先に来てしまう。
まるで逃げる理由など最初から存在しないと言わんばかりに彼女は近付いて来たし、あるいは本当にそう思っているのかもしれないと障子は感じていた、だって海は逃げないでしょう、故郷は追い掛けて来ないでしょう、ただそこに在り続けるだけなのだから。
「濁水、投降してくれたりはしないか?」
そう問い掛けた声は思っていたより弱かった、障子自身もそれを自覚していたし本来ならばもっと強く警戒心を滲ませるべき場面だったのだろうけれど、しかし目の前を歩いて来る少女から視線を外せない以上それも仕方ない事でもあり、海の底へ沈みながら平静を保てと言われても難しいように人間の心は常に理性だけで動く訳ではない。
少女は足を止めた、その動作はあまりにも自然でまるで最初からここで立ち止まる予定だったかのように滑らかであり、赤いドレスの裾が静かに揺れていたけれど障子の目にはそれが海流に揺れる深海魚の鰭のようにも見えていて、当然そんなものは錯覚に過ぎないはずなのに錯覚だと言い切るにはあまりにも鮮明だった。
歌声も止まる、先程まで空間を満たしていた旋律が消え去った事で静寂が訪れるはずだったのだが不思議な事に障子の耳にはまだ遠くから泡の弾ける音が聞こえている気がしていて、あるいはそれは自分の鼓動だったのかもしれないし海の底へ沈んでいく幻覚の続きだったのかもしれない、もっとも本人にその区別はつかなかった。
その瞬間そこに残ったのは静寂だけだった、いや本当に静寂だったのかと問われれば怪しいところであり、少なくとも障子の世界には見えない海が広がり続けていたし少女の瞳の奥には帰る場所を知っている者だけが持つ穏やかさが揺れていて、私はただ立ち止まっただけなのにどうして皆そんな顔をするのだろうと少女は少しだけ不思議に思いながら、それでも優しく微笑んでいた。
「あら、不思議な事を言うのね。」
少女は微笑んでいる、その笑みは柔らかく穏やかで相手を安心させるためのものだと彼女は信じており、実際に彼女自身の感覚では脅しでも威圧でもなく純粋な善意から向けられた表情であったし、誰かを傷付けるつもりなど最初から存在していないのだから当然そうなるのだろうと私は思うのだけれど、しかし受け取る側が同じように感じるかどうかはまた別の話であり、善意というものは時として刃物より鋭く他人の心へ入り込む事もあるのだから仕方ない事でもある。
「むしろそれをするのは私では無いわ、障子。」
名前を呼ばれる、その事実自体はただの呼称に過ぎないはずなのに障子の胸の奥では何かが柔らかくほどけていくような感覚が広がっていて、警戒しなければならない相手に名を呼ばれただけで安堵してしまうなど本来なら異常だと切り捨てるべきなのだろうけれど、しかし人は自分を認識してくれる存在に安心を覚える生き物なのだから仕方ない事でもある。
それだけの事だったはずなのに妙に嬉しく感じられた、まるで長い旅路の果てにようやく帰る場所を見つけたような、あるいは誰にも気付かれずにいた自分を誰かが見つけてくれたような感覚が胸の内側へ静かに染み込んでいった。
妙に安心する、その安心感は理屈ではなくもっと深い場所から湧き上がってくるものであり、危険だと理解している頭と受け入れてしまいたい心が噛み合わないまま、それでも彼は少女の声から耳を逸らせなくなっていた。
「投降してみない? あなたの扱いを悪くすることはないし、ここで命を散らす事よりはずっと建設的ではなくて?」
言葉は耳から入っているはずなのに、それは単なる音として脳へ届くのではなくもっと柔らかくもっと自然な形で障子の内側へ流れ込んでいき、まるで昔からそこにあった考えを思い出させるように心の奥へ静かに沈んでいく、しかし人間というものは自分の考えだと思ったものほど疑わない生き物なのだから仕方ない事でもある。
脳へ届いたはずの言葉はそこで止まらず感情と記憶の境界を曖昧にしながら広がっていった、暖かな場所へ帰りたいという願いも誰かに受け入れられたいという安心も元から自分の中にあったものだと障子は感じていたし、当然それを否定する理由も見つからなかった。
心へ染み込んでいく感覚はあまりにも穏やかで、まるで冷たい海の底を漂っていた身体がようやく安らげる場所へ辿り着いたかのようであり、私はただ帰る場所を教えているだけなのにねと少女はどこか嬉しく思っていて、障子もまたその優しさを疑うという発想そのものを少しずつ失っていたのである。
「安心して? きっと大丈夫だから。」
その言葉が障子の中へ落ちていく、それは耳から聞こえた音が脳へ届くという単純な現象でしかないはずなのに、まるで深い海へ沈められた錨のようにゆっくりと静かに深く沈降していき、障子自身ですらその感覚を上手く説明できなかっただろうし、仮に後から思い返したとしても曖昧な安心感だけが残って理由は思い出せなかったかもしれない、当然普段の彼なら異常だと判断したはずだったし警戒もしたはずだったし、得体の知れない不快感として拒絶したはずだった、しかし今だけは違っていて、それが個性の影響なのか極限状態による判断力の低下なのかは本人にも分からない、何故か安心できる、何故か信じられる、何故か彼女の言葉は正しいような気がしてしまうのであり、人間というものは理屈だけで生きている訳ではないのだから仕方ない事でもある、そして私はそんな彼を見ながら少しだけ微笑んでいた、だって帰る場所があるというのは素敵な事でしょう、誰だって独りよりは誰かと一緒の方が安心できるのだから。
それは洗脳というより帰巣本能に近かったのかもしれない、人間は本来孤独を嫌う生き物であり誰かに受け入れられる事へ強い安心感を覚える、そして濁水心という少女はその性質をあまりにも自然に刺激してしまう、悪意なく、善意だけで。
「仮に核爆弾が爆発すればあなたは死んでしまうでしょう?」
少女は一歩近付いている、その動作は決して速くも強引でもなくただ自然に距離を縮めただけだったのだが、しかし障子にはそれがまるで深海の潮流に引かれるような避け難い現象に思われていた。
障子はその場から動かなかった、いや動けなかったと言うべきなのかもしれないし、あるいは動く必要を感じなかったと言うべきなのかもしれない、当然本人にもその違いは曖昧であり人の心というものは案外そんなものだ。
逃げようと思えば逃げられたはずだった、身体は健在で拘束もされておらず戦意だって完全に失われた訳ではない、それでも彼は足を踏み出さなかったし、仕方ない事でもあるが安心という感情は時として恐怖よりも強く人を縛る。
そして障子自身もまた不思議なほど穏やかな気持ちで少女を見つめていた、目の前にいるのが敵である事は理解しているのに、その事実だけが遠い場所へ置き去りにされたようで、ただ彼女の言葉に耳を傾けていたのである。
「私に付いて来て、永遠の故郷に還りましょう。」
海が見える気がする、暗く冷たいはずの深海なのに何故だか恐ろしくはなく、むしろ懐かしさにも似た感情が胸の奥から静かに湧き上がっていた。
家が見えていた、それは障子の知る家ではなかったはずなのに帰りたいと思わせる何かがあり、人間というものは理屈では説明できない安心感へ惹かれてしまう生き物なのだから仕方ない事でもある。
暖かな場所が見えるようだった、誰かが待っていて誰かが受け入れてくれて、何も恐れなくていい場所が確かにそこに在るのだと心のどこかが信じてしまい、しかし理性だけはそんなものは幻覚だと叫んでいた。
誰も傷付けない場所が見えている、争いも苦痛もなくただ穏やかな波の音だけが続いていて、少女はそれを故郷と呼ぶのだろうかと障子はぼんやり考えていたし、あるいは少女自身もまた本気でそう信じているのかもしれなかった。
そんなもの存在するはずがないのに、存在しないと分かっているはずなのに、当然のようにそこへ帰りたいと思ってしまう自分がいて、その矛盾すら心地良く感じられてしまうほど彼の意識は深く静かな海へ沈み込んでいた。
「………ああ。」
障子は呟いた、その言葉は自分の口から出たもののはずなのにどこか他人事のようでもあり、けれど不思議と後悔も迷いも存在せず、長い間背負っていた重荷をようやく降ろしたような安堵だけが胸の内へ静かに広がっていったのである。
その声は驚くほど穏やかだった、戦闘訓練の最中に敵へ降伏を告げる声とは思えないほど自然で柔らかく、しかし人というものは極度の安心を得た時ほど抵抗を忘れてしまうものだから、ある意味では当然の結果だったのかもしれないし、仕方ない事でもある。
「投降する。」
少女は微笑んだ、その笑みは勝利を確信した者のものというより迷子だった誰かがようやく帰って来た事を喜ぶようなものであり、だからこそ彼女自身も嬉しかったのだろうし、見ている側からすればどこか危うく映るとしても本人に悪意など欠片も存在していなかった。
嬉しそうに、本当に嬉しそうに、まるで新しい家族が増えた子供のように頬を緩めながら彼女は障子を見つめていて、そしてそれは彼女にとって紛れもなく本心だったのだと、もしあなたがその場にいたならきっと理解できたはずである。
「ええ、いい子ね。」
そう言って濁水心はそっと障子の頬を撫でた、その指先は驚くほど冷たかったはずなのに不思議と不快ではなく、むしろ熱に浮かされた頭を冷ましてくれるような心地良さすら感じられ、障子は抵抗する事なく腕へ確保テープを巻かれていく。
そして二人の足元には誰にも意識されないまま青黒いアメーバのような何かが静かに張り付きながら蠢いている、それは床の汚れにも見えたし単なる水染みにも見えたけれど、しかし本当にそうだろうかと問われれば障子にはもう分からなかったし、そもそも人間という生き物は理解できないものを見た時に都合の良い名前を付けて安心したがるものなのだから仕方ない事でもある。
そこには小さな海があった、小さな群があった、小さな故郷があった、少なくとも少女にはそう見えていたし、あるいは本当にそうだったのかもしれない、だって海はいつだって一滴の水から始まるのだから、誰かが気付かないほど小さな存在であっても広がる時は広がるのである。
人の目にはただの汚れにしか見えないそれは確かにそこに在り続けていて、少女の歌声が廊下の奥へ消えていくのに合わせるようにゆっくりとその領域を広げていた、当然誰もそれを脅威とは認識しないし誰もそれを止めようとはしない、けれど気付いた時にはもう足元まで海が来ているという事は案外よくある話であり、青黒いそれはまるで帰る場所を探すように静かに静かに広がっていたのであった。
時だった。
「確保〜!」
場違いなほど明るい声が廊下へ響いている、その声は今まで一切存在を感じさせなかった葉隠透のものであり、しかしだからこそ効果は絶大だったのだろう、誰もいないはずの空間から突然聞こえた声と同時に尾白の身体へ確保テープが巻き付いていき、本人が状況を理解するより早く勝敗そのものが決定されてしまっていた。
尾白は目を見開いている、反射的に身体を捻りながら拘束から逃れようと力を込め、何が起きたのか理解しようと周囲へ鋭く視線を走らせていたのだが、その動きが始まった時には既に全てが終わっていたのである、両腕には確保テープがしっかりと巻き付いており、視界のどこを探しても葉隠の姿は存在せず、気配すら掴めないまま敗北だけが現実として残されていた、当然である、見えないのだから、透明という個性は単純なようでいて対処する側からすれば極めて厄介であり、特に意識を別方向へ向けられている状況ではなおさらで、人間というものは認識できない脅威に対して驚くほど無力なのだから仕方ない事でもある。
透明という個性は単純なようでいて実際には極めて厄介な能力であり、特に意識を別方向へ向けられている状況では対処が難しく、人間というものは認識できない脅威に対して驚くほど脆弱なのだから仕方ない事でもある。
「なっ……!」
尾白は何かを言おうとしている、その口元は確かに動いていたし視線も忙しなく揺れていたから状況への驚きだったのか悔しさだったのか、それとも最後まで葉隠の存在を捉えられなかった事への焦りだったのかもしれないと誰もが思っただろうし実際そのどれも間違いではなかったのだろうが、しかし人間というものは敗北を理解した瞬間ほど言葉が出なくなる生き物でもある。
尾白は何かを伝えようとしていたはずだった、けれどその言葉が最後まで形になる事はなく喉の奥で途切れてしまい、伸ばしかけた手も半端な位置で止まってしまっていたから、勝敗というものは案外こうして呆気なく決まるものなのだと改めて思わされるし、当然本人からすれば納得などできないだろうがそれもまた仕方ない事でもある。
そしてその瞬間、演習施設全体へ無機質な電子音が鳴り響いている、まるで今までの攻防も迷いも葛藤も全て関係ないと言わんばかりに淡々と空気を震わせるその音は、勝者と敗者を区切る境界線のようでもあり、私は少しだけ首を傾げながら聞いていたし、読者であるあなたもきっとこういう時の機械というものは妙に空気を読まないと思うのではないだろうか。