催眠チケット   作: sky

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アルバイト始めました

 

昼下がりの陽射しが商店街を照らす中、手書きで書かれた看板が目に入る。

「本日も元気に営業中!」とポップが貼られたあの店だ。ドアを開ける。

 

バイトの面接に来ました

 

たまたま近くにいた女性がエプロンで手を拭きながら、いつもの几帳面な足取りで男の前に立った。

 

あら、面接の方。わざわざありがとうございます。ちょうど人手が足りなかったところなんですよ。

 

にこりと営業スマイルを浮かべる。年は30歳くらいか?しかし店長っぽいし見た目若いだけで実年齢はもう少しいっているかもしれない。

 

履歴書は……ああ、ご持参頂けたということで、書類は後で確認させて頂きます。

まずは簡単に店の説明をさせていただきますね——

 

ふと視線を感じてそっちに目を向けると、アルバイトだろう大学生くらいの女の子がモップを壁に立てかけながらちらりとこちらを見ていた。

 

更にもう1人。バックヤードから顔を出してこちらの方を見ると、舌打ちを1つ。

チッ……今日の面接のやつ男かよ。勘弁してくれ。

 

うん、辞めたくなってきた

 

店長?はカウンター横の小さな事務スペースに案内した。

パイプ椅子を引いて、自分は向かいに腰を下ろす。

胸元のGカップが動きに合わせて揺れたが、本人はまるで気にしていない。

 

では、まずお名前と年齢を伺ってもいいですか? 名前は、佐藤和樹さんですね。

 

手元のメモ帳を開き、ペンを構える。その仕草は手慣れたものだった。

 

当店はご覧の通り、ドリンクと軽食の提供がメインです。あとはお客様のお話し相手……まあ、接客業ですね。シフトは週3日以上入れる方を探していまして。

 

とここでドアの隙間からひょこっと顔を覗かせた。あれはさっきのモップの……? いや、似てはいるが、雰囲気から違う。

さっきの女の子を月とすると、この女の子は太陽のようだ。

 

店長ー、新しい人?陽奈たちの後輩になるの?

もう1人が姉の後ろから半分だけ顔を出して、じっとこちらの様子を窺っている。

 

やはりこの人は店長だったようだ。が振り返らずに片手で「あとでね」と合図した。

 

それで、和樹さん。接客のご経験はありますか?

うちは女の子ばかりの職場ですけど、男性スタッフが1人いると助かる場面も多くて。

 

飲食の経験はあります。高校時代2年間回転寿司屋の裏方をしていました

 

ペンがさらさらとメモの上を走る。回転寿司、裏方、2年。几帳面に書き留めていく。

 

あら、それは頼もしい。飲食の現場経験があるなら即戦力ですね。

 

顔を上げて、少し身を乗り出した。Gカップの谷間がエプロンの下からちらりと覗く。

 

ホールとキッチン、どちらが希望ですか?

うちの場合、ピークタイムはかなり慌ただしくなるので……体力に自信がある方だとすごく助かります。

 

ここでついに我慢できなくなったのか、ドアの向こうにいた気配がするりと部屋に入り込んできた。

 

回転寿司ってことはお寿司握れるの!?すごーい!

 

そして陽奈に続いて入ってきたものの、壁際に控えめに立って腕を組んでいる。

 

……姉さん、面接中でしょ。

 

えー、だって気になるじゃん。ねえねえ、お名前は?陽奈はひな!こっちは妹の——

 

姉に紹介されて小さく会釈だけした。目線は和樹から微妙に逸れている。

 

……菜月です。

 

仮にも面接中に乱入してきた2人を咎めるでもなく、店長はむしろ穏やかに微笑んだ。この2人は普段からこんな感じなんだろう。

 

この子たちがうちの双子の看板娘。セットでシフトに入ると売上が倍になるんですよ、不思議と。ふふ。

 

ここで気になることを質問でぶつけてみる。2人も看板娘がいるのに男がホールに出ていいんですか? 俺はキッチンでいいですよ

 

少し首を傾げて考え込む。

 

うーん、キッチンも人手は欲しいんですけどね。ただ、正直に言うと——

 

苦笑いをひとつ。

 

男性がホールにいると、女性客の入りが全然違うんです。不純な動機みたいで申し訳ないんですが、売上に直結するので。

 

ぱあっと顔を輝かせて、菜月の肩をばしばし叩いた。

 

やったー!男の子の同僚とか初めてじゃない?菜月!

 

叩かれた肩が痛いのか少し顔をしかめたが、口元はわずかに緩んでいた。

 

……別に、どっちでも。仕事するだけだし。

 

メモを閉じて立ち上がった。スカートの裾を軽く整える。

 

では採用ということで。来週の月曜から入れますか?制服はこちらで用意しますので、サイズだけ後で測らせてくださいね。それと——

 

ふと思い出したように振り返った。

 

シフトの希望、あります?陽奈ちゃんたちと被る日が多い方が教育係としては助かると思うんですけど。

 

ぴょんと跳ねた拍子にFカップが盛大に弾んだ。

 

陽奈が教えてあげる!なんでも聞いてね、先輩だから!

 

よろしくお願いします

 

ぐっとガッツポーズを決めて、そのまま和樹に向かって手を差し出した。

 

よろしくね!あ、そうだ、LINE交換しよ?シフトのこととか連絡あるかもだし!

 

姉がまた距離を詰めているのを見て、ため息混じりに一歩前に出た。

 

……姉さん、初日から飛ばしすぎ。引かれるよ。

 

えー?菜月だって気になってるくせにー。

 

なってない。

 

そのやり取りを微笑ましそうに眺めてから、ぽんと手を打った。

 

じゃあ今日は顔合わせということで。月曜の朝9時に来てください。サキちゃんにも紹介しないとね、あの子まだ裏にいるから——

 

絶妙なタイミングでドアが開いた。不機嫌そうな顔がぬっと現れる。和樹と目が合った瞬間、露骨に顔をしかめた。

 

あー……聞こえてたわ。アンタが新入り?ふーん。

 

腕組みをして、上から下まで値踏みするように見た。

 

まあアタシの邪魔だけはしないでよね。それだけ守ってくれりゃ別にいいから。

 

いつの間にかサキの背後に立っていた。気配が薄い。ぼそっと一言だけ。

 

……誰。

 

月曜からお世話になります。和樹ですよろしくお願いします

 

ふん、と鼻を鳴らして視線を外した。

 

よろしくも何も、まだ続くかわかんないでしょ。口だけのヤツ何人見てきたと思ってんの。

 

そう言って仕事に戻っていくサキ。振り返った瞬間後ろにいた気配に気がついていなかったのだろう。びっくりして悪態をつきながら消えていった。

 

突然サキという壁がいなくなり、2人の視線が交差する。和樹の顔を3秒ほど見つめてから、こくりと1度だけ頷いた。それが彼女なりの挨拶らしい。

 

……和樹。覚えた。たぶん。

 

栞の頭をぽんぽんと撫でた。

 

栞ちゃん、たぶんじゃなくてちゃんと覚えようねー?来週出勤した時に忘れてたらさすがに泣くよ?

 

……善処する。

 

時計をちらっと見て、ぱんぱんと手を2回叩いた。店長の顔に戻る。

 

はい、じゃあ今日はここまで。みんな持ち場に戻って。月曜から本格的に回しますからね、準備よろしく。

 

 

従業員たちがそれぞれの持ち場へ散っていく。サキはさっさとバックヤードに消え、栞はふらりとフロアへ出ていった。陽奈だけが名残惜しそうに何度も振り返り、菜月に襟首を掴まれて引きずられていく。

 

店を出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。家から数分の、あの見慣れた看板がオレンジ色に光っている。とんとん拍子に採用が決まった。来週の月曜日からはこの店の一員として来ることになる。個人店で今時の店長はそんなものなのだろうか。

 

そう1人で納得していると、ふとポケットの中に違和感を覚えた。右手をポケットに突っ込むと、中から出てきたのは見知らぬチケットだった。

 

右手の中のチケットは、ずっとポケットに仕舞われていたせいで体温が移ったのかまだかすかに温かかった。

 

いつの間にこんなもの入れたんだったか、そう思いチケットをよく見る。

 

そのチケットには黒文字でこう書かれていた。

 

「催眠チケット」

 

催眠。他人、もしくは自分自身によって与えられた暗示により、精神的変化、あるいは肉体的変化が引き起こされた状態のことである。

 

一般的に催眠をかけられるとぼーっとした状態になり、催眠をかけた術者の言うことを何でも聞いてしまうことになるという。

 

右手にあるチケットをぐしゃりと握りしめてポケットに戻す。

 

催眠チケット?はは、馬鹿馬鹿しい。簡単に他人をコントロール出来るようなアイテムが存在する筈がない。

 

頭では常識でわかっている。だが、今日面接に行った職場。多様な可愛らしさを持った女の子達。エプロンからチラリと見えた谷間、腕を組んでより強調されたバスト。ジャンプした弾みでたゆんと揺れる双丘。

 

もんもんとした気持ちで家に帰り、眠りについた。

 

結局そのチケットを捨てることはなかった。

 

 

月曜日になった

 

月曜日の朝8時55分。店の裏口に回ると、「関係者入口」と書かれたステッカーが貼られたドアがあった。

ノックしようとした瞬間——中からバタバタと足音が聞こえてくる。

 

 

ドアを勢いよく開けた。私服姿で髪を半分だけ結んだ状態。どうやら着替え途中だったらしい。

 

あっ、来た来た!おはよー和樹くん!

 

ぴょんと跳ねて、まだ着替えてもいないのにテンションが高い。

 

ねえねえ聞いて、昨日LINE送ったのに既読スルーだったんだけど!陽奈ちょっと傷ついたんだからね?

 

和樹くんって、本名佐藤和樹なんだよね?あのイケメンアイドルと同じ名前じゃーん!まじウケる。

 

あとね、今朝は恵子さんが、あ、恵子さんってのは店長のことで——

 

朝から止まらない姉のマシンガントーク。

 

ケタケタと笑う陽奈の背後から妹がぬっと現れた。こちらはすでに制服に着替え済み。きっちりボタンまで留めている。双子なのにこの差はなんなのか。

 

……おはようございます。姉さんがうるさくてすみません。

 

店長——恵子が奥からヒールの音を響かせて歩いてきた。手には紙袋。

 

おはようございます、時間通りですね。感心感心。はい、これ制服。サイズ合わなかったら言ってくださいね。

 

紙袋をそっと手渡す。

 

着替えたらまずは店内の案内から始めます。サキちゃんと栞ちゃんはもう来てるから——あ、それと。

 

少し声を落とした。

 

教育係、陽奈ちゃんと菜月ちゃんの2人にお願いしてあるの。あの2人、息ぴったりだから。

 

お世話になります。先輩

 

お辞儀をしながら言うと、陽奈は「先輩」という言葉に目をきらきらさせながら両手を頬に当てた。

 

せ、先輩……!いい響き!ねえ菜月聞いた?先輩だって!

 

菜月は表情こそ変えなかったが、耳の先がうっすら赤い。

 

……聞こえてる。1回でいい。

 

恵子さんはくすっと笑って、更衣室の方を指さした。

 

じゃあ着替えてきてください。ロッカーは1番奥の青いやつが空いてますから。

 

制服は白シャツに黒のベスト、スラックスというシンプルな組み合わせだった。サイズはほぼぴったり。鏡を見れば、どこにでもいるカフェ店員の出来上がりだ。

 

サキがフロアのモップがけをしながら横目で和樹を捉えた。

 

ふーん、着るもん着りゃそれなりに見えんじゃん。

 

ぼそっと。独り言のつもりだったのだろうが丸聞こえだった。

 

栞はというとカウンター席に座ってスマホをいじっていた。制服のまま。開店前なのに。

 

……新人。よろしく。

 

エプロンをぱさっと広げながら駆け寄ってきた。

 

サキからお前もまだ1週間の新人だろが、というツッコミが入る。

 

よしっ、じゃあ陽奈先輩が最初の仕事教えてあげちゃう!まずはグラスの場所からね、こっちこっち!

 

はい!

 

早く教えたくてうずうずしてるといった感じの陽奈の後ろを着いていく。

棚の前でくるっと振り返り、人差し指をぴんと立てた。先生モードに入ったらしい。

 

いい?ここのグラスは種類ごとに分けてあるの。左からアイス用、ホット用、あとタンブラー。でね——

 

手際よくグラスを並べ替えながら。

 

陽奈たちの連携プレイのコツはね、目を見ること。言葉なんかいらない時もあるんだよ?

 

隣のテーブルセッティングを黙々とこなしつつ、ぽつりと。

 

姉さんは大げさ。普通に声かければいいだけ。

 

もう、菜月ったらロマンがないんだから!

 

モップを肩に担いで通りすがりに。

 

アンタらの漫才は客がいない時にやんな。開店すんぞ。

 

レジ横に立ち、開店の札を「CLOSED」からひっくり返した。カランとベルが鳴る。

 

さあ、今日もよろしくお願いします。和樹さんはまずホールで見てて。慣れてきたら少しずつお客様に声かけてみてください。

 

午前10時。最初の客がドアを開けた。

 

ぱっと笑顔になって。

 

いらっしゃいませ!お好きなお席へどうぞー!

 

菜月と一瞬だけ目を合わせる。言葉はない。けれど二人の動線が、まるで申し合わせたようにぴたりと揃った。

 

いらっしゃいませ!続けて声を出す。

 

入ってきたのは20代半ばくらいの女性2人組。窓際の席に向かった。陽奈がすかさずお冷を持っていき、菜月がメニューをさりげなく置く。阿吽の呼吸とはこのことだろう。

 

女性客にメニューを開いて見せながら、ちらっとそらきの方を見て小声のジェスチャーで「見ててね」と伝えた。ウインク付き。

 

ご注文お決まりになりましたらお呼びくださいねっ。

 

菜月がもう一人の女性のコートを無言でハンガーにかけている。気遣いが自然すぎて逆に怖い。

 

厨房から顔だけ出して。

 

ぼーっと突っ立ってんなよ新入り。あのテーブルの片付け、さっき陽奈が使った布巾そのまんまだから替えとけ。

 

すかさず恵子が和樹の横にすっと並んで、耳元に顔を近づけた。甘い香水の匂いがふわりと漂う。

 

サキちゃんの言い方はキツいけど、間違ったことは言わないから。大丈夫、すぐ覚えますよ。

 

それから昼のピークまで、客足は途切れなかった。双子コンビの接客は確かに凄まじく、片方が水を注いでいる間にもう片方がデザートの皿を下げている——といった具合で、テーブルの回転率が異常に速い。和樹は皿洗いと布巾替えに追われ、気づけば手のひらが真っ赤になっていた。

 

やっと休憩…

 

午後2時。ようやく客の波が引いて、店内に静けさが戻った。恵子が「休憩どうぞ」と言ったのは、和樹が最後だった——つまり一番下っ端だから当然と言えば当然だが。

 

休憩室に入ると既に休憩中の陽奈がソファにだらんと横になっていた。制服がはだけかけていて、Fカップの片鱗がちらちら見える。本人にまるで危機感がない。

 

つっかれたー……かずくんもお疲れー。手、大丈夫?真っ赤じゃん。

 

向かいの椅子に座り、ペットボトルの水を飲んでいた。和樹が入ってくると、一瞬だけ目線が赤くなった手に向いたが——すぐに戻した。

 

……最初はそんなもん。慣れたら平気になる。

 

ドカッとパイプ椅子を引っ張ってきて、コンビニのサンドイッチを乱暴に開けた。

 

手ぇ赤いくらいで休憩とか甘えんな。アタシなんか初日もっと酷かったっつの。豆できて3日目で潰れたわ。

 

小さい生き物が部屋の隅で膝を抱えて座っていた。いつからいたのか誰も気づかなかった。

 

……おつかれ。

 

栞はそれだけ言って、また目を閉じた。

 

和樹は鞄から弁当箱を取り出し、休憩室のテーブルに広げた。自分で作ったらしい、質素だがバランスの取れた中身だった。

 

弁当の匂いが届くや否やソファからむくっと起き上がって、猫みたいにすり寄ってきた。

 

えっ、自分で作ったの?すごーい!見せて見せて!

 

ひょいと弁当を覗き込んで。その拍子に和樹の顔にFカップがぶつかりそうになった。

 

卵焼ききれい……ねえ一口ちょうだい? 目をキラキラとし指を口に当てておねだりした。

 

菜月が水のペットボトルを握ったまま、横目ですぐに弁当を見た。

 

……ちゃんとしてる。

 

サキはサンドイッチを咀嚼しながら一瞥。

 

男が弁当とか気持ち悪。普通コンビニ飯だろ。

 

部屋の隅っこで小さくなっていた栞が目を開けた。匂いに反応したらしい。のそのそと近づいてきて、弁当の蓋のあたりをじーっと見つめた。無言。

 

栞が無言で圧をかけているのに気づいて、にやっと笑った。小声で和樹に耳打ちする。

 

栞ちゃんね、お腹空いてる時だけああいう顔するの。言葉にはしないけど——わかるよね?

 

あーん

 

和樹は陽奈が言わんとすることを察すると箸で卵焼きをひとつ摘まんで、栞の口元へ差し出した。無気力な瞳がそれをじっと追う。

 

一拍の間。それから、ぱくっと躊躇なく食べた。もぐもぐと咀嚼して——

 

……おいしい。

 

それだけ。でも、さっきまでの虚無顔に比べると、ほんの少しだけ目に光が灯っていた。

 

両手で口を押さえて、声にならない悲鳴を上げた。

 

ちょっ——栞ちゃんが自分から食べた!?陽奈、栞ちゃんが他の人からご飯直接貰うの初めて見たんだけど!?

 

菜月のペットボトルのキャップを閉める手が止まった。明らかに動揺している。

 

……嘘でしょ。

 

食べかけのサンドイッチを持ったまま固まった。

 

は?なに?アンタら何してんの?職場であーんとか頭沸いてんのか。

 

もう一切れ欲しそうな目で、空になった和樹の箸先を見つめている。口には出さないが、顔が3センチほど近い。

 

これも?

 

今度は唐揚げをひとつ、栞に差し出す。湯気がまだ微かに立っている。

 

今度は3秒待たなかった。ぱくっ。食べてから自分の行動に驚いたのか、少し目を見開いて——それから和樹の弁当箱をじーーっと凝視した。残りのおかずの配分を計算しているような目だった。口は開かない。が、顔の距離がさらに5センチ縮まった。

 

陽奈が珍しいものを見つけたような顔でスマホを構えた。

 

撮っていい?これ永久保存版でしょ。ねえかずくん、もっとあげて!栞ちゃんのこんな顔もう2度と見れないかも!

 

菜月が立ち上がって陽奈のスマホを上から抑えた。

 

盗撮。ダメ。

 

菜月のケチー!

 

残ったサンドイッチを一口で完食し、がたっと椅子を蹴って立ち上がり。

 

あーもう見てらんね。休憩中にイチャつくな気持ち悪い。つーか新人、アンタの飯なくなんぞ。

 

サキの声にも微動だにせず、ただ和樹を見上げている。

 

……もう一個。

 

もう勘弁して、俺の分がなくなるからさ

 

ぴたっと動きが止まった。それからゆっくりと離れて——壁際に戻っていった。膝を抱え直す。

 

……わかった。

 

ぷっと吹き出した。

 

栞ちゃん「わかった」って言った!聞いた菜月!?あの栞ちゃんが!

 

腕を組んだまま、小さく息を吐いた。

 

……餌付けされてる。

 

自販機のコーヒーを買いに行くついでに、ぼそりと。

 

初日から何やってんだか。まあいいわ、残りの時間ちゃんと働けよ。

 

午後3時半。休憩が終わり、それぞれが持ち場へ散った。午後のシフトは比較的落ち着いていて、常連客がぽつぽつと来る程度。恵子は和樹をカウンター内に呼んで、ドリンクの作り方を教え始めた。

 

背中から和樹の腕に手を添えて、ミルクピッチャーの角度を直した。Gカップが背中にむにっと押し当たる。

 

こう、手首のスナップで。力任せにやると溢れちゃうから——ね?

 

耳元で囁くような距離感。

 

覚えるの早いですね、筋がいいわ。

 

店長の教え方が上手なんですよ

 

ふふ、と喉の奥で笑った。離れる気配がない。

 

お上手。そういうの、他の女の子にも言ってないでしょうね?

 

冗談めかした声だが、手はまだ和樹の手首を包んだままだった。

 

テーブルに顔を半分隠し、目より上だけを出してじーっとカウンターを見ていた。客が帰った隙に、つかつかと歩み寄る。

 

店長ー、ずるい!陽奈もかずくんに教えたい!

 

ようやく手を離して、何事もなかったように微笑む。

 

はいはい、じゃあ次は陽奈ちゃんに任せましょうか。私は発注の確認してくるから。

 

待ってましたと言わんばかりに、ぐいっと和樹の袖を引いた。

 

こっち!カクテルのシェイカーの振り方、陽奈の十八番なんだから。見ててね——

 

シャカシャカと小気味よい音。確かに手つきは鮮やかだったが、振りながら胸が左右に暴れていて、見るべきところが2箇所に増えている。

 

こうやって、リズムが大事なの。はい、やってみて!

 

陽奈のレッスンを受けている横を通りすがりざまに、冷たい一言。

 

手元。見てないのバレてるよ。

 

え、な、なんのことやら?

 

陽奈は2人のやりとりにきょとんとして、自分の胸元を見下ろした。1秒。2秒。

 

——っ!

 

顔が耳まで真っ赤になった。シェイカーをカウンターに置いて両腕で胸を隠す。

 

み、見てたの!?えっち!かずくんのえっち!

 

この惨状を作ったー実際は見ていた和樹の方が悪いのだがー菜月はほらね、という顔で淡々とグラスの補充を続けている。

 

み、みてない!みてないって!ちょっとしか!

 

「ちょっと」に反応して、さらに顔が赤くなった。

 

ちょっとは見たんじゃん!もー!

 

ぽかぽかと和樹の肩を叩く。力はまるで入っていない。

 

奥の厨房から怒号。

 

おい新人!初日からセクハラかましてんじゃねえぞ!!

 

少し落ち着きを取り戻した陽奈の顔はまだ赤いままで、でも離れない。

 

い、いいけどさ……仕事中はダメだからね?ちゃんとシェイカー見て!

 

上目遣い。怒ってるのか照れてるのか本人にもわかっていない様子だった。

 

菜月がグラスを棚に戻し終えて、ふう、と息をついた。呆れ顔。

 

……正直に言うところが余計ダメ。否定し通せばいいのに。

 

陽奈がはっと我に返って、咳払いをひとつ。

 

こほん。と、とにかく!シェイカー!振り方!はい!

 

まだ耳が赤いくせに、無理やり先生モードに復帰しようとしている。だが胸元を片腕で押さえたままなので、さっきのようなダイナミックな振りはできない。

 

恵子がバックヤードから戻ってきて、3人の空気を一瞬で読んだ。眼鏡の奥の目が細くなる。

 

何かあったの?

 

なんにもないです!

 

……別に。

 

そう?ならいいのだけれど。去り際に和樹だけに聞こえる声量で。

 

和樹さん。初日にしては攻めすぎですよ。

 

口調は丁寧だが、目は笑っていなかった。

 

すいません!

 

全力で謝るとふっと表情が緩んだ。冗談だったのかもしれない。

 

まあいいですけど。さ、あと1時間で閉店ですから、ラストオーダーの声出しお願いしていいですか。陽奈ちゃんに付いてもらって。

 

まだほんのり赤みが残った顔で、ぱっと敬礼のポーズ。

 

了解ですっ!ラストの呼びかけは陽奈の担当だから、声の出し方教えたげる!

 

それからラスト1時間は慌ただしく過ぎた。陽奈に言われるがまま声を張り上げ、最後の客を見送った頃には、外はすっかり暗くなっていた。

 

レジを締めながら。

 

お疲れさまでした。初日にしては上出来ですよ。明日も同じ時間でお願いしますね。

 

さて帰るかと着替えようと戻ると、サキがもう着替えを終わらせて裏口から出ようとしていた。

 

お先。

 

栞がいつの間にか和樹のロッカーの横に立っていた。じーっ。

 

……明日も、ある?

 

弁当のことを聞いているのは明白だった。

 

明日?じゃあ2人分作っとくよ、自分の分が無くなっちゃいそうだしね

 

ぱちっと瞬きした。一回、二回。それから——こくん、と深く頷いた。

 

……約束。

 

すると着替え途中で制服のボタンが半分外れたまま飛んできた。

 

えっ、2人分!?陽奈は!?陽奈の分は!?

 

冷静に姉のボタンを留め直しつつ。

 

……図々しい。

 

菜月だって気になるくせに!

 

……別に。でも。

 

少し間があった。

 

卵焼き、塩味がいい。姉のは砂糖多いから飽きた。

 

ひどくない!?

 

売上伝票を整理しながら、くすくすと笑っている。

 

あらあら。お弁当係が板についてきましたね、初日から。じゃあ私もご相伴にあずかろうかしら。私も恥ずかしながら毎日コンビニ弁当ばかりでGカップ分のカロリー、消費するの大変なの。

 

栞はすでに帰り支度を済ませていて、出口で1度だけ振り返り——和樹の顔を確認してから、静かに夜の街に消えていった。その足取りがいつもより少しだけ軽かったことに、気付いた者は誰もいなかった。

 

帰り道、陽奈と並んで歩きながら。

 

ねー菜月。恵子さんあのチケット、まだ持ってるのかな。

 

チケット?

 

びくっと肩が跳ねた。しまった、という顔を1瞬して——すぐに笑顔で上書きする。

 

あ、あはは!なんでもないなんでもない!こっちの話!

 

姉を肘で小突いた。小声だが夜道に響く。

 

バカ。声大きい。

 

いたっ。だ、だって菜月が変なこと言うから——

 

足を止めて、まっすぐ和樹の目を見た。街灯の光が片目だけを照らしている。いつもの無愛想とは少し違う、探るような視線。

 

……なんでもない。忘れて。

 

双子はそのまま足早に去っていった。「チケット」——バイト初日の和樹には関係のない単語のはずだった。しかし、彼の鞄の中にはまだ、あの不思議な存在感を放つ紙切れが入っている。催眠チケット。今日の賑やかな1日が、ただの偶然だったのかどうか——それはまだ、わからない。

 

夜風が首筋を撫でた。家まであと1分。見慣れた帰り道の、いつもと変わらないはずの風景。なのに、どこか空気が甘く残っている気がした。




先に言っておきますが、この小説における誤字脱字、話の展開の違和感、これらは全て催眠のせいです。ご了承ください(開き直り)
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