催眠チケット   作: sky

2 / 5
不審な客

次の日、朝8時。開店準備のために店に着くと、すでに恵子とサキが仕込みを始めていた。サキは黙々と野菜を刻み、恵子はコーヒーマシンの点検をしている。

 

和樹が来たことに気づくと、コーヒーマシンの点検を中断して顔を上げる。

 

おはようございます、早いですね。助かります。

 

サキは顔は動かさず、ちらっとだけ見て。

 

ふーん。来んのはや。

 

開店10分前。裏口のドアがガチャリと開いた。

 

まだ制服に着替えてすらいない。私服のまま手ぶらで栞が入ってきた。そして和樹を見つけると、1直線に歩いてくる。目の下にうっすらクマ。寝てないのかもしれなかった。

 

……おはよう。

 

それだけ言って、じっと和樹が持ってきたであろう鞄を見ている。

 

包丁の仕込みの手を止めずに舌打ち。

 

朝から何の用だよ1週間目。まだシフトまで1時間あんだろ。

 

サキを完全に無視。視線は和樹に固定されたまま。

 

……約束。

 

あ、お弁当?お昼になったらあげるから待っててね

 

こくこくと2回頷いて、そのまま壁際に移動した。昨日の定位置。膝は抱えず、今日は立ったまま目を閉じている。待ての姿勢だった。

 

まな板にドンと包丁を置いた。音が大きい。

 

犬かよ。つーか新人、マジで作ってきたわけ?2人分?

 

あら、本当に律儀。楽しみですね。

 

9時。開店と同時に、常連のおばさま方が3人連れで入ってきた。「いつもの」が飛び交う中、恵子の指示で和樹はテーブルセッティングを任された。カトラリーの向きひとつで店の格が決まる——恵子はそう教えたが、実演するたびに背後から胸が当たって、正直あまり集中できなかった。

 

姉妹の姉の方が裏口の扉を開けて入ってきた。出勤してきた瞬間、鼻をひくひくさせた。

 

なんかいい匂いする!かずくんもう来てる?

 

その3秒後、無言で入店。ロッカーに向かいながら、ちらりと和樹を見て——すぐ逸らした。

 

おはようございます、先輩たち

 

そう挨拶をすると、ぱあっと顔が輝いた。エプロンの紐を結びながら駆け寄ってくる。

 

おっはよー!ねえねえ、お昼のやつ本当に作ってきてくれた?

 

着替えを終えてホールに出てきた。髪をひとつに結び直している。和樹とすれ違う時、足が1瞬止まって——

 

……おはよう。

 

昨日「別に」と言い切った人間と同一人物とは思えない、素直な挨拶だった。そのまま何事もなかったようにモップを取って、床を拭き始める。

 

恵子が持っていた手帳をぱたんと閉じて。

 

はい、全員揃いましたね。朝礼しますよ。今日もランチタイムは混みますから、連携よろしくお願いしますね。それと——全員を見回して。

 

新人の和樹さん、今日はホールデビューしてもらいます。昨日も陽奈ちゃんに付いて色々教わっていましたが、お客様からの注文の取り方はまだ教えて貰っていませんよね。私が横につきますので。

 

よろしくお願いします店長

 

にっこり笑って、和樹のネクタイを——いや、シャツの襟元をちょいと直した。

 

こちらこそ。じゃあ、まずはお冷の出し方からね。グラスはここ、氷はこの量。こぼさないように、笑顔を忘れずに。

 

11時を回った頃、客入りが一気に増えた。恵子の予言通りだ。和樹は恵子にぴったりくっついて、ぎこちないながらも水を運び、オーダーを取った。「新人くん頑張ってね」と常連の老婦人に言われた時だけ、少し肩の力が抜けた。

 

陽奈がホールを縦横無尽に動き回りながら、菜月に目配せ。阿吽の連携で4人掛けのテーブルを5分で片付けた。

 

厨房から怒涛の勢いで料理を出す。

 

3番テーブル遅えぞ!冷めんだろうが!

 

そして——12時。嵐のようなランチタイムが過ぎ去り、束の間の静寂が訪れた。

 

すでに和樹の真横にちょこんと立っている。瞬きすら惜しむような顔。

 

……時間。

 

はい、どうぞ

 

和樹が鞄から弁当箱を2つ取り出した。1つは自分の、もう1つは約束の分。蓋を開けると、彩り豊かなおかずが綺麗に詰められていた。卵焼きは2種類——甘いのと塩味の。

 

受け取った瞬間、両手で包むように持った。宝物みたいな持ち方だった。そのまま無言で壁際へ移動し、床にぺたんと座って食べ始める。1口目、動きが止まる。そして、ゆっくり1口目を運んだ。

 

それを見た姉妹が仕事の手も忘れて覗きに来た。

 

うわー!すっごい!これ本当にかずくんが作ったの!?お店出せるレベルじゃ——

 

弁当の中身を見て固まった。卵焼きが2種類ある。

 

……菜月、あんたのリクエスト通ってんじゃん。

 

菜月のモップを握る手に力が入った。

 

別に。頼んでない。

 

塩味がいいって言ってたじゃーん。

 

耳の先が赤い。黙って床を磨く速度が上がった。

 

2人とも食べてよ。たくさん作ったから

 

モップの動きがぴたりと止まった。背中を向けたまま。

 

……いいの。

 

妹の背中と和樹の顔を交互に見て、にまーっと笑う。完全にお姉ちゃんモード。

 

菜月ー、素直に「ありがとう」でいいんだよ?

 

振り返らない。でも足は和樹の方へ向いていた。

 

じゃあ……いただきます。

 

菜月は弁当を受け取ると、姉と少し離れた窓際の席で食べ始めた。塩味の卵焼きを箸で摘んだ時だけ、唇の端がわずかに上がったのを陽奈だけが見ていた。

 

自分の弁当が半分になった頃、栞がすっと立ち上がった。空になった容器をそらきに返す。丁寧に、指先まで拭いてから。

 

……おいしかった。

 

それだけ言って、また定位置に帰っていく。が、いつもと違うのは——壁に背をつけたまま、和樹がいる方向に体が向いていたこと。

 

まかないの皿を持って通りすがり。

 

へえ、ちゃんとしてんじゃん。見た目だけかと思ったけど。

 

ぼそっと、聞こえるか聞こえないかの音量で。

 

……アタシの分はねえの。

 

その発言を双子の姉の方は聞き逃さなかった。目をきらーんと光らせる。

 

なーんだ。サキちゃんもやっぱりかずくんのお弁当食べたかったんでしょー。

 

すいません。たくさん用意したつもりだったんですけど、足りなかったみたいです

 

足が止まる。顔はそっぽを向いたまま。

 

は?別に。いらねえし。誰が欲しいなんて言った。

 

口パクで「欲しいって言ってるー」と菜月に伝えている。

 

双子を無視して俺の弁当に残っている卵焼きの最後の1切れを口に運んだ。静かな拒否だった。

 

それを見た陽奈がにんまりしている。

 

空気の変化を察して、ずかずかと厨房に引っ込んだ。

 

うるっせ。ガキじゃあるまいし弁当ごときで騒ぐな。

 

伝票を整えながら、穏やかに。

 

サキちゃん、ああ見えて料理できる人には弱いんですよ。以前に私がお菓子作りの話した時も、3日くらい口きいてくれなかったのに急に懐いたことがあって。

 

壁際から、ぽつりと。

 

サキさん、ツナマヨ好き。

 

栞が他人の好みを把握しているという事実に、全員が一瞬黙った。1週間で1番の衝撃かもしれなかった。

 

休憩時間の終わりが近づいている。手元の時計を見て。

 

そうね、午後もよろしくお願いします。午後は少し落ち着くから、昨日教えたカフェラテの練習しましょうか。

 

午後の営業は、恵子の予言通りゆるやかだった。「雨の日はお客さん少ないんです」と彼女は言った。

確かに、窓の外は細い雨が降っている。店内にはジャズピアノのBGMが流れ、数組の客が静かにお茶を楽しんでいた。

 

暇を持て余して、テーブルを拭きながら和樹に話しかけてくる。

 

ねえかずくん。昨日さ、帰ってから気になったんだけど——

 

声をひそめる。目がきらきらしている。

 

かずくんって、彼女いるの?

 

隣のテーブルで同じく拭いている菜月。耳だけはこちらに向いているのがバレバレだった。

 

え、いないって。俺なんかに出来るとも思ってないし

 

ずいっと顔を近づけた。Fカップがテーブルクロスに乗っかる。

 

えー、彼女いないの?なんかこう、今時の大学生!って感じするのに。

 

菜月のテーブル拭きのスピードが露骨に落ちた。聞いてないふりの限界が近い。

 

……陽奈。しつこい。

 

だって気になるじゃーん!

 

カウンターの奥から、雨音に混じって声が届いた。

 

何の話?

 

あっ、なんでもないでーす!

 

陽奈は笑ってごまかしたが、その目だけは真剣だった。

雨粒が窓ガラスを伝う。店内の客は老夫婦が一組だけ。静かで、少しだけ不穏な間が落ちる。鞄の中で、あのチケットがかすかに存在感を放った気がした——気のせいかもしれない。だが確かに、胸に微かな熱を感じる。

 

客が帰ったテーブルを片付けて、テーブルを拭き、皿を洗う

 

老夫婦が帰った後のテーブルは、コーヒーカップが2つと、食べ終えたケーキの皿が残されていた。和樹は手慣れた——と言ってもまだ2日目だが——動作で皿を下げ、テーブルを丁寧に拭いた。恵子に教わった通り、クロスの折り目に沿って。

 

横目で見ながら小さく頷く。

 

上手。筋がいいわね、本当に。

 

雨で客足が遠のいたのを見越してか、サキが厨房のコンロ周りを本格的に掃除し始めた。普段は見せない几帳面さで五徳を磨いている。

 

雨のせいで暇を持て余し、モップで床をぐるぐる回しながら歌っている姉。音程は壊滅的だったが本人は気にしていない。

 

姉の歌をBGMに、椅子を一脚ずつ整列させていた。きっちり等間隔。職人気質。

 

雨脚が強くなった。時折、雷の遠い音。閉店まであと2時間。このまま穏やかに終わるかと思われた——その時、入口のベルが鳴った。

 

いらっしゃいませ。

 

ずぶ濡れの女性が1人。傘を持たずに走ってきたらしく、ブラウスが肌に張り付いている。年は20歳前後、切れ長の目をした美人だった。彼女は店内を見回し——和樹と目が合った瞬間、ふらりと1歩よろめいた。

 

おっと、大丈夫ですかお客様

 

女性は和樹の腕に倒れ込むようにして支えられた。濡れた髪から雫が落ち、和樹のシャツに染みを作る。

近くで見ると、息が荒い。走ったせいだけではないような——頬が妙に赤かった。

 

潤んだ目で見上げる。吐息が熱い。

 

すみ、ません……ちょっと、立ちくらみが……。

 

離れようとしない。むしろ指が和樹の袖を掴んでいる。

 

陽奈の持つモップが止まった。

 

わ、お客様大丈夫ですか?タオル持ってきますね!

 

ぱたぱたとバックヤードに走る。が、「お客様」の部分を微妙に強調していた。

 

菜月は整列させた椅子から手を離し、女性客を観察している。眉がほんの少し寄った。何か引っかかるらしい。

 

厨房から顔だけ出して。

 

風邪引くぞ。奥のソファ空いてんだろ、座らせろ。

 

恵子がすっと近づいてきて、女性の額に手を当てた。

 

熱はなさそうだけど……和樹さん、奥に案内してあげて。温かいもの用意するから。

 

わかりました。お客様こちらへ

 

和樹が女性を支えて奥のソファ席へ導く。

女性は歩きながらも和樹から離れようとせず、肩にしなだれかかるような格好になった。奥まった席で人目が届きにくい場所だった。

 

ソファに座ると、ようやく少し落ち着いたのか——けれど目はまだとろんとしている。ブラウスの透けた生地の下、鎖骨のラインが雨に濡れて光っていた。

 

ありがとう……ございます。あの、私、この近くの大学に通ってて……。

 

名前を名乗った。「美月」というらしい。財布から学生証を出そうとして、手が滑って落とした。拾おうとした和樹の手に、美月の手が絡みつくように伸びてきた。

 

あっ——。

 

学生証は和樹の足元に落ちたまま。美月は和樹を見上げて、上目遣いに。

 

すみません、取って……もらえますか?

 

明らかに自分で取れる距離だった。だが美月の指は、いつの間にかそらきのエプロンの裾を摘んでいた。

 

和樹は美月の手を優しく離させると、しゃがんで学生証を拾った。その瞬間、美月の膝から奥が視界いっぱいに広がる——透けたブラウスの向こう、太ももの際どいところまで。立ち上がると、美月がすぐ目の前にいた。距離、30センチもない。

 

和樹の胸元に指を這わせながら。

 

優しいんですね……お名前、聞いてもいいですか?

 

バタバタと足音がして、ふかふかのタオルを抱えて戻ってきた。2人の距離感を見て、一瞬固まる。

 

お客様ー!はい、タオルどうぞ!冷えちゃうのでしっかり拭いてくださいね!

 

笑顔だが、タオルの渡し方がちょっとだけ雑だった。

 

和樹と言います。タオルきたので、使ってください

 

タオルを受け取りつつも、視線は和樹から外さない。

 

和樹さん……素敵な名前。

 

タオルで首元を拭く仕草が、やけに色っぽい。わざとだろうか。鎖骨から胸の谷間にかけて、ゆっくりと。

 

あの……もう少し、ここにいてくれませんか?まだちょっと、ふらふらして。

 

それを見た陽奈が助け舟を出してくれた。

 

そうしたら、お飲み物お持ちしましょうか?ホットのカフェオレとか、ココアとか! 

 

陽奈のことをちらっと見て。

 

じゃあ……ココア、お願いしようかな。

 

はーい!少々お待ちください!

 

くるっと踵を返して——和樹の横を通りすぎる時、小声で。

 

……ちょっと近すぎない?

 

それだけ残して、厨房へ消えた。

 

雨は止む気配がない。奥の席に2人きり。美月はタオルを肩にかけたまま、また和樹との距離を詰めてきた。甘い香水の匂いが、雨の湿気と混ざって鼻先をくすぐる。

 

俺は仕事に戻りますので、しばらく休んでいてください

 

それを聞くと唇を尖らせて。

 

えー……もう少しだけ。

 

しかし和樹が背を向けると、美月はあっさり引き下がった——ように見えた。ただ、去り際に和樹の背中に向けて、熱っぽい視線を送っていたのには気づかなかった。

 

厨房でマグカップを用意しながら。菜月と並んで。

 

ねえ菜月。あの人、なんか変じゃない?

 

ココアの粉を無言で量っている。

 

変。

 

だよね!?なんか、わざとっぽいっていうか——

 

スプーンでかき混ぜる手つきは正確だったが。

 

……雨、まだ降ってる。

 

うん?

 

傘、持ってなかった。

 

その一言が、妙な重さを持った。雷がひとつ、遠くで光った。

 

すいません。ただいま戻りました!

 

伝票の束を整えながら。

 

おかえりなさい。大丈夫だった?

 

恵子が「あのお客さん」のことを聞いたのか、それとも雨のことかは判然としなかった。

恵子はそれ以上追及せず、淡々と午後の業務を続けた。新しい客が2組入ったが、どちらも常連で、注文はいつものブレンドとシフォンケーキ。和樹は恵子の隣で黙々とカフェラテの練習をした。

 

奥を通りがかりに、ぼそっと。

 

あの姉ちゃん、まだいんの。長えな。

 

時刻は午後5時半。雨足は弱まったものの、まだ降っている。閉店まで30分を切った頃——美月が奥のソファから立ち上がり、レジへ向かった。

 

伝票を置いて。まだ少し赤みの残る顔で、けれど声はしっかりしていた。さっきまでの弱々しさが嘘のように。

 

ごちそうさまでした。おいしかったです。

 

そして和樹だけに聞こえる声量で。

 

また来ますね。今度は——お客としてじゃなくて。

 

美月は小銭を置き、傘を——持っていた。いつの間に。くるりと開いて、雨の中へ消えていった。来た時は持っていなかったはずの傘を。

 

サキは美月の去る姿を見送りながら、なんだったんだ?と首をかしげた。

 

菜月はテーブルを片付けながら、傘の軌跡を目で追っていた。

 

ねー菜月。やっぱり変だったよね?

 

椅子の整列を再開しつつ、小声。

 

……最初から持ってた。

 

えっ。

 

傘。入った時、手ぶらだったのに。帰る時、持ってる。

 

店内に沈黙が落ちた。雨の音だけが響いている。

サキが厨房から顔を出し、「何コソコソやってんだ」と一喝して引っ込んだが、双子の表情を見て舌を鳴らすだけに留めた。

 

レジを締めながら、何気なく。

 

まあ、雨宿りに寄ってくれるお客様も多いから。それより、閉店作業始めましょう。和樹さんは看板しまってきてもらえる?

 

和樹が店の外に出ると、湿った空気が頬を撫でた。軒先の雨樋からぽたぽたと水が落ちている。傘立てに目をやると——見覚えのある柄の傘が1本、立てかけてあった。さっき美月が持っていたものと柄が似てる。他の客が忘れたのか、それとも。

 

和樹は傘を手に取って店内に戻った。「忘れ物みたいです」と言うと、恵子が預かっておくと言った。閉店後の店内は雨のせいか、いつもより静かに感じられた。

 

テーブルの撤収、椅子上げ、モップがけ。5人がかりで手早く片付けていく。

 

最後のゴミ袋を結びながら。

 

明日晴れっかな。晴れねえと暇で死ぬ。

 

ロッカーの前で着替え中。カーテン越しに声だけ飛んでくる。

 

かずくーん、今日もお疲れさま!明日も来るよね?

 

菜月はすでに私服に戻って、出口付近でスマホをいじって姉を待っている。帰り支度が早い。ふとホールに目をやる。

 

和樹はまだホールにいた。閉店後も動かない。

 

……帰らないの。

 

全員の視線が和樹に集まった。何かあったのか、帰らないのか。何気ない問いだが、それぞれの温度が微妙に違う。雨は小降りになりつつあった。

 

あ、すぐ帰ります。明日も来るよ。栞ちゃん一緒に帰る?

 

栞は一瞬だけ目を見開いた。それから、こくりと頷いた。

 

……うん。

 

カーテンの隙間から顔だけ出して。

 

えー!栞ちゃんと一緒に帰るの!?ずるい!

 

栞はスマホから目を上げない。が、「……近所なの」と小さな声。

 

ゴミ袋を蹴るように収集所に押し込んで。

 

はいはい、お疲れー。さっさと帰れよ、雨降ってんだから。

 

鍵を閉めながら、いつもの丁寧な笑み。

 

気をつけてね。明日もよろしく。

 

外に出ると、雨はいつの間にか霧雨に変わっていた。栞は和樹の半歩後ろを、影のようについてくる。会話はない。ただ時折、靴音が重なる瞬間だけ、栞の口元がかすかに緩んだ。2人の家は同じ方向——和樹の家から歩いて3分のところにある古いアパートが、彼女の住処だった。信号をひとつ渡ったところで、その道が分かれる。

 

立ち止まる。前髪が雨で額に貼りついていた。それを払おうともせず、じっと和樹を見る。

 

明日。お弁当。

 

それは疑問ではなく、確認だった。

 

今日は足りなかったみたいだから、もっと作らないとだね

 

首を横に振った。ゆっくり、1回だけ。

 

足りた。わたしは。……美味しかった。じゃなくて。

 

言葉を探すように、栞の目が泳いだ。無気力が売りの彼女にしては珍しいことだった。霧雨が街灯に照らされて、細かい粒子がきらきらと光っている。

 

……また、作ってほしい。

 

それだけ言うと、栞はぺこりと頭を下げた。深く、長く。顔を上げた時、耳たぶが赤かった。無表情のまま踵を返し、アパートの階段を上がっていく。2階の角部屋、電気がついたのはそれから5分後のことだった。

 

和樹も家に着く。玄関を開け、靴を脱ぎ、1息ついた頃——鞄の中のチケットが、また微かに存在感を帯びた気がした。取り出してみる。昨日と同じ、不思議な感覚。「早く使って。誰に催眠をかける?」とでも言いたげに、暗がりの中でぼんやりと光を放っていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。