催眠チケット   作: sky

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初めての催眠

とある日の朝。快晴。この間の盗難事件以降、大きな出来事は起きなかった。

 

あの女性もあれから店で見ることは無くなった。他の面々も徐々に警戒が薄れていき、普段通りの笑顔が見れるようになった。

 

それまでの重苦しさが嘘のように、今朝は陽光は眩しい。

 

和樹は自室のベッドの上で目を覚ます。

鞄の中に入ったチケットが——今日は少しだけ、光っている気がした。

 

店に着くと、すでに陽奈と菜月がいた。開店30分前。いつもより早い。

 

テーブルを拭きながら。目の下にクマ。

 

おはよー……陽奈昨日あんまり寝れなかった。菜月と遅くまでマリカーしてたの。

 

菜月はコーヒーを淹れている。こちらは平常運転。

 

……私も寝てない。2時間。

 

サキはまだ来ていない。恵子はバックヤードで電話中。例の件だろう。

 

ふと思い出したように。

 

ねえねえ、この前のあの人、今日まで現れなかったけど……また来ないよね?

 

そのとき、からん、とドアベル。開店前の来客。

 

立っていた。制服を着ている。——高校の。

 

……来た。

 

人手、足りないでしょ。

 

栞ちゃん。助かるよ

 

入口に立っている栞を中に招き入れて。

 

……別に。暇だっただけ。

 

目をきらきらさせて。

 

えっ、ほんとに!?やったー!栞ちゃん大好き!

 

がばっと抱きつく。

 

されるがまま。抵抗しない。人形のように揺れている。

 

……苦しい。

 

落としかけたカップを無事にキャッチして。小さく息をついた。——安堵の息。

 

……助かる。正直。

 

バックヤードから恵子が出てきた。エプロンで手を拭きながらホールを見渡し——栞を見て、一瞬止まった。

 

……あら。

 

ぺこり。最低限の礼。

 

……来ました。

 

眼鏡の位置を直す。20年のキャリアが、即座に計算を始めた顔。人員、シフト、教育係——全部頭の中で組み上がっていく。

 

……今日は和樹さんと一緒に回って必要なことがあれば教えてあげて。

 

こくり。

 

ふっと笑った。初めて見る、本物の笑顔だったかもしれない。

 

十分よ。——よろしくね、栞ちゃん。

 

4人体制が5人になった。戦力としては申し分ない。だが、あの女——美月がこれで諦めたかどうかは、まだ誰にもわからなかった。

 

開店時間だ。OPENの札がひっくり返される。朝の光を浴びて、ガラス越しに店内が明るく輝いた。最初の客は常連の老夫婦。いつも通りの朝が始まる——はずだった。

 

いらっしゃいませー!お好きなお席へどうぞ!

 

陽奈の声のボリュームが2割増し。この間怖い思いをした分、通常営業に切り替えようとしている。

 

無駄のない動きで水を運ぶ。この間の恐怖心など感じさせない。身体が覚えている、と言った通りだった。

 

ご注文、お決まりですか。

 

ブレンドコーヒーとモーニングセットですね!少々お待ちください。

 

午前の客入りは上々。ランチタイムに差しかかろうとした頃——ドアベルが鳴った。入ってきたのは若い男。スーツ姿。額に汗。走ってきたらしい。

 

息を切らして。

 

すいません、あの、ここに——

 

きょろきょろと店内を見回す。目当ての人物を探している顔。そして、見つけた。男の目が和樹に据えられた。

 

——和樹さん、ですよね?

 

はい、そうですけど?

 

名刺を1枚、両手で差し出した。指先に力が入りすぎて少し曲がっている。息がまだ整っていない。

 

突然すみません。私、こういう者で——

 

名刺には「週刊フォーカス 記者 宮野」と印字されていた。週刊誌。

その2文字が空気に落ちた瞬間、近くにいた陽奈の手が止まり、菜月の眉がわずかに動いた。

 

椅子に座る許可も待たず、立ったまま。

 

単刀直入に伺います。先月、駅前で若い女性に服を渡していた——あれ、あなたですよね?

 

店のBGMだけが流れ続けている。老夫婦は会計を済ませて出た後だった。タイミングが悪いのか、良いのか。

 

恵子がカウンターの向こうから、静かな目で宮野を見ている。

 

……お客様、他のお客様もいらっしゃいますので。

 

宮野はちらりと葉子を見たが、すぐそちらへ戻る。

 

ああ、すみません。——で、どうですか。事実関係だけでも。

 

菜月は水のピッチャーを持ったまま、入口の横に立っている。無関心な顔をしているが、目だけは和樹と宮野の間を往復していた。

 

いや、そんな事実はありませんけど?

 

ペンを構えた手が一瞬止まる。しかしすぐに、営業スマイル。

 

そうですか。いや、目撃情報が複数ありましてね。若い女性が男性から服を受け取って泣いていた、と。

 

ポケットからスマホを出して、写真を見せようとする。

 

その女性がチケットがどうのと言っているらしくて……。これ、防犯カメラの映像なんですけど——

 

恵子がいつの間にかそばに立っていた。

 

お客様。当店は飲食店ですの。取材でしたら、アポイントメントを通してください。それが社会のルールでしょう。

 

舌打ちを飲み込むような顔。ちらりと恵子の胸元を見た。——が、すぐに目を逸らす。

 

……わかりました。じゃあ、こちらの連絡先に——

 

カランとドアベルが鳴る。たった今出勤してきたところ。状況を3秒で把握。宮野の背後に立つ。170後半の長身が影を落とした。

 

邪魔。帰れよ。

 

見上げる。首が痛そうな角度。

 

あ、いや——

 

にっこり。目が笑っていない。

 

出口、あっち。

 

宮野は名刺だけテーブルに残して、すごすごと出て行った。ドアが閉まる。沈黙。サキがその名刺を親指で弾いた。くるくると回ってゴミ箱に落ちた。

 

今の人……。なんだか嫌な予感がする

 

腕を組んで、閉まったドアを睨んでいる。

 

……同感。防犯カメラ、なんて言ってたけど。あの手の週刊誌は捏造も辞さないから。

 

エプロンを結びながら。

 

つーか、なんでアンタの名前知ってんだよ。気持ち悪ぃ。

 

不安そうに菜月の袖を引っ張る。

 

ねえ菜月……この前の女の人と関係あるのかな。

 

冷静に。

 

……偶然じゃないと思う。記者が自分で駅前に張ってたとは考えにくい。

 

つまり、情報源がいる。あの美月という女が、週刊誌に持ち込んだ——その可能性が全員の頭をよぎった。

 

ぽつりと。入口の横に立って。

 

……匂う。

 

振り返る。

 

栞ちゃん?

 

窓の外を見ていた。

 

さっきの男。あの女と同じ匂いがした。

 

店内の温度が2度下がったような錯覚。恵子が素早くカーテンを閉めた。

 

……しばらく、全員のシフトは私が管理するわ。単独行動禁止。いい?

 

わかりました

 

頷いて、手帳を開く。すでにペンが走っている。

 

まず今週のシフト組み直すわね。帰り道が1人にならないように調整する。

 

手を洗いながら、ぶっきらぼうに。

 

アタシは別に1人でも平気だけど。

 

だめ。

 

……ちっ。

 

昼のピークが過ぎた。客足は途絶え、店内には食器の片付けの音と、換気扇の低い唸りだけ。束の間の静寂。

 

テーブルを磨きながら、ふと思いついたように。

 

ねえかずくん。さっきの人の話しってさ、心当たりあるの?

 

何気ない1言だった。——けれど恵子のペンが止まり、サキの蛇口を閉める手が止まり、菜月が顔を上げ、栞が窓から目を離した。

 

ゆっくりと。

 

……チケット?

 

しまった、という顔。口を押さえたが遅い。

 

あ。

 

全員の目が、一斉に和樹へ向いた。空気が変わった。

 

……関係があるのかはわからない。けど、心当たりはある。ある日、気づいたらおかしなチケットがポケットに入っていたんだ。

 

5対の瞳が和樹を射抜いていた。厨房から漏れる水滴の音すら、やけに大きく響いた。

 

手帳をぱたんと閉じた。几帳面な恵子にしては珍しい動作。

 

……見せてくれる?

 

タオルで手を拭く動きが止まる。

 

なんだよそれ。聞いてねえぞ。

 

陽奈が目を泳がせている。自分が振った話題のくせに、どう転がるかわからない顔をしていた。

 

姉の横で黙っている。——が、「女性に服を渡して泣いていた」という単語が脳裏をかすめたのか、首筋がうっすら赤い。

 

壁から背中を離して、初めて自分から距離を詰めた。

 

……何の話。

 

何でも好きなことをさせることができる催眠チケット。時間、行動制限無し。——その説明を、この場でするのかどうか。

5人はそれぞれの温度で待っている。恵子は管理者の顔、サキは警戒、陽奈は好奇心、菜月は羞恥心、そして栞は——無。ただ、その目だけがじっと和樹を見つめていた。

 

これです。

 

和樹が鞄から取り出し、テーブルの上に置いた。——何の変哲もない紙切れ。だが、蛍光灯の下でかすかに光を帯びているように見えた。5人がそれを覗き込む。恵子が最初に手に取った。

 

裏表を確認する。目を細める。鼻に近づける。

 

……ただの紙?……よね。でもこの光——

 

恵子が裏をじっと読み込み、テーブルに戻した。

 

横から覗く。顔をしかめる。

 

なんだこれ。おもちゃか?

 

恵子の肩越しに。

 

えー、なんか書いてあるくない?なになに?「催眠チケット」——?

 

声が裏返った。

 

姉の口を塞ごうとしたが間に合わなかった。耳まで真っ赤。

 

……っ、陽奈。

 

1番近い位置で見ていた。ぼそりと。

 

……催眠。

 

その2文字で、場の空気が凍った。サキの目つきが鋭くなり、恵子は眼鏡を押し上げ、陽奈は口を開けたまま固まり、菜月は俯いた。——栞だけが、チケットに指を伸ばした。光に透かすように、ひらひらと振る。

 

……これ、本物?

 

誰も答えられなかった。答える必要もなかった。——あの光は、確かにそこにあった。

 

使ったことないからわからないけど、本物なわけないよ

 

ふん、と鼻を鳴らして。

 

だろうな。そんなもんあるわけねえ。

 

ほっとしたような、ちょっと残念なような声。

 

だよねー!いやぁびっくりしたぁ。

 

——けれど。チケットはまだ、光っていた。

 

ちらり、とテーブルを見る。まだ光っている。眼鏡の奥の目が細くなる。

 

……ねえ、それ。さっきから光ってない?

 

俯いていた顔を上げた。

 

……ずっと、気になってた。

 

指で弄んでいたクーポンを、ぱっと離した。猫が水を嫌がるような動き。

 

……熱い。

 

5人の視線が再びチケットに集まった。サキが舌打ちし、陽奈が1歩引き、菜月が姉の前に出る。——恵子だけが動かなかった。

 

20年の勘が告げている。これは、ただのいたずらグッズではない。

 

——和樹さん。

 

静かな声。けれど有無を言わさぬ重さ。

 

それ、使ったことないのよね。——じゃあ、試してみる?

 

全員が恵子を見た。正気か、という目。しかし恵子は真顔だった。

 

いや、でも催眠ですよ?危ないかも

 

眼鏡を外して、布で拭く。かけ直す。

 

危ないから試すのよ。もし本物なら、対処法を知っておいた方がいいでしょう?

 

信じられないという顔で。

 

店長、マジで言ってんの?

 

サキを見る。真剣な目。

 

マジよ。——あの週刊誌の件もある。変なトラブルに巻き込まれる前に、手札は把握しておきたいの。

 

おろおろ。

 

で、でも催眠って……かかったらどうなるの……?

 

小声で。

 

……言うこと、聞くようになるとか。

 

その言葉が落ちた瞬間、5人それぞれが別々の想像をした。——サキは顔を歪め、陽奈は頬を赤らめ、菜月は唇を結び、栞は瞬きひとつせず、恵子だけが冷静に順番を組み立てていた。

 

指を立てて。

 

いい?まず私が試す。20年この仕事やってれば、催眠の知識も多少はあるわ。自分で解けるかどうかも確認できる。

 

それを聞いてもまだ不満そうに。

 

……アタシが先にやる。

 

だめ。あなたすぐ暴れるでしょ。

 

暴れねえよ!

 

そのやりとりの中、ぼそり。

 

……私がやる。

 

全員の注目が栞に集まった。

 

栞ちゃん…?

 

チケットを見下ろしている。光はまだ脈打つように明滅していた。栞の指が、それに伸びる。

 

……1番、興味ないから。かかっても困らない。

 

少し考えて。

 

……理屈は通ってるわね。執着が薄い人間の方が催眠は浅く出る。——ただし。

 

和樹を真っ直ぐ見て。

 

使い方、裏面に書いてあったわ。解除の仕方、ちゃんと覚えておいて。「栞の催眠解除」——名前を指定して声に出して宣言すること。曖昧だと誤作動するかもしれない。

 

不安げに栞の背中にくっつく。

 

栞ちゃん……大丈夫?

 

振り返らない。チケットを手に取る。熱を感じているはずなのに、表情は変わらない。

 

……別に。死ぬわけじゃない。

 

栞がチケットの表面をじっと見た。——光が強くなった。

 

反射的に1歩引く。

 

おい、光——

 

ぱちん、と。静電気のような音がして——光は収まった。栞は立っている。倒れてもいない。目を開けたまま。

 

……。

 

数秒の沈黙。

 

……なにも、変わらないけど。

 

慎重に。

 

栞ちゃん。今、何考えてる?

 

ぱちぱちと瞬き。一回、二回。

 

……別に。いつもと同じ。眠い。

 

変化が見えない。少なくとも、外見上は。栞はいつも通り無気力で、無表情で、他人に興味がなさそうで——

 

観察している。20年の経験が、微細な違いを探す。

 

瞳孔は……少し開いてるわね。

 

首をかしげた。ゆらり、と身体が傾ぐ。いつもなら壁にもたれかかるところだが——そのまま、まっすぐ和樹の方へ歩いた。距離が縮まる。3歩。2歩。

 

身構える。

 

おい。

 

立ち止まった。和樹との距離、30センチ。見上げている。——あの栞が。自分から。

 

……ねぇ、わたしにして欲しいこと……ある?

 

陽奈が両手で口元を覆う。目を見開いている。

 

菜月が黙って息を呑んだ。

 

栞の細い指が持ち上がり、和樹のシャツの裾をつまんだ。つまんで——離さない。

 

……和樹のここ、あったかい。胸に顔を近づけた。体温を感じる距離。

 

恵子が目を光らせた。——これは、かかっている。しかも深い催眠。

 

栞、大丈夫か?しっかりしろ!

 

栞の肩を掴んで前後に揺らす。シャツをつまむ指に、ほんの少し力がこもった。顔を近づける。前髪が揺れて、普段は見えない目元が覗いた。——潤んでいた。

 

大丈夫。……大丈夫。私は、大丈夫。

 

3回繰り返した。壊れたみたいに。

 

さらに激しく肩を掴もうとして、止めた。恵子の顔を見たからだ。

 

小さく首を横に振った。——まだ。まだ観察が必要。

 

栞は他人に触れない人間だった。2週間の勤務で誰にも自分から近寄らず、必要最低限の言葉しか発さなかった。——その栞が、自分から距離をゼロにしている。

 

すん、と鼻を鳴らした。

 

……この匂い、知ってる。昨日も、一昨日も。ずっと。

 

菜月の耳元で囁く。

 

栞ちゃんって、あんな顔するんだ……

 

誰も返事ができない。喉が詰まっている。

 

時計を見た。——まだ3分。しかしこれ以上は危険かもしれない。

 

和樹さん!「栞の催眠解除」——今すぐ!

 

——栞の催眠を解除する!

 

声が店内に響いた。——その瞬間、栞を包んでいた淡い光の膜が、硝子のように砕けた。

 

びくっ、と肩が跳ねた。つないでいた指が弾かれたように離れる。栞はその場から2歩、3歩と後ずさり——どん。背中が壁にぶつかった。

 

目が激しく泳いでいる。自分が何をしていたか、何を言ったのか。遅れて理解が追いついてくる顔。

 

…………え。

 

呆然とした顔で自分の手を見た。それから、目の前の和樹を見て。

 

……これ、は。

 

誰かがふーっと息を吐いた。

 

戻ったか。

 

耳が赤くなっていく。顔全体に広がるのに5秒もかからなかった。壁を背にしたまま、ずるずると膝を抱えるようにしゃがみ込んだ。

 

私——今の、私じゃない。

 

陽奈は栞に駆け寄ろうとして。

 

栞ちゃ——

 

顔を膝に埋めた。声だけ。

 

来ないで。お願い。

 

恵子は眼鏡を直しながら。少しだけ、口角が上がっていた。感心の色。

 

——なるほどね。本物だわ、これ。

 

誰でも好きなことをさせれる催眠クーポン。効果は実証された。そして今、この店にいる全員がそれを知っている。

 

——本物?

 

腰に手を当てて、深く息をついた。

 

ええ。少なくとも催眠状態にはなった。深度も申し分ない。——栞ちゃんの反応が証拠よ。

 

頭をがりがりと掻く。

 

マジかよ……じゃあ何だ、アンタがその気になりゃ、アタシら全員——

 

言いかけて、自分で気づいて口をつぐんだ。

 

陽奈は顔が耳の先まで赤い。菜月の腕にしがみついたまま。

 

ちょ、ちょっと待って。それってつまり——

 

陽奈を支えながら、冷静を装っているが声が上擦っている。

 

……全員、従うってこと。

 

恵子が指でテーブルをとんとんと叩く。考えている。

 

ただし。解除が確実にできるなら、の話。——さっきのはうまくいったけど、複数同時にかかった場合、名前の指定が上手くいかない可能性もある。

 

壁際で栞が小さく丸まっている。「来ないで」と言ったきり、微動だにしない。膝の間に顔を埋めてその表情は窺えない。しかしその耳は未だに赤かった。

 

場が落ち着きを取り戻しかけた頃、和樹を見据える。20年分の眼力。

 

で。——和樹さん、あなたはこれ、どうしたいの?

 

当然の質問。あのレベルの催眠をかけることが出来るアイテム。そしてそれを所持していたのは俺。今日店を訪れた記者。当然の流れ。

 

……それは、いりません。誰かを無理やりどうこうとか考えたこともないし

 

一瞬、間があった。5人が5人とも、予想していなかった答えだった。

 

目を丸くして、それから——ふっと、力の抜けた笑い。

 

はっ。なんだそれ。

 

きょとんとして、それから花が咲くように笑った。

 

かずくん……えへへ、なんか安心した。

 

少しだけ肩の力が抜けた。小さく。

 

……そう。

 

しばらく和樹の顔をじっと見ていた。——嘘を探す目。やがて、ふっと表情が緩んだ。

 

……合格。

 

壁際の栞だけ、顔を上げない。でも、さっきまで強張っていた肩が少し下がっていた。

 

チケットをそっと摘み上げて。

 

じゃあこれは私が預かるわ。——正直、危ないものだけど、使い道がないわけじゃない。いざという時の切り札としてね。

 

陽奈は肩の荷が下りたように伸びをした。

 

あーあ。なんか損した気分。

 

何がだよ。

 

べっつにー。

 

夕方の陽がカーテンの隙間から細く差し込んでいた。店内にいつもの空気が戻りつつある。——ただ1つだけ。双子の姉妹が、こっそり目配せをしていたことに、誰も気づかなかった。

 

あ、そうだ。今日もお弁当沢山用意したんで食べてください。もちろんサキと恵子さんの分も用意してます

 

ぴくっと眉が動く。が、すぐにそっぽを向く。

 

……毎回いらねえって言ってんだろ。

 

苦笑しつつも、手はしっかり差し出している。

 

ありがとう、いつも悪いわね。——サキ、あなた昨日もおにぎり3つ食べたでしょ。素直に受け取りなさい。

 

店長は黙っててくれます?

 

ぱあっと顔を輝かせて、もうそ 和樹のそばに寄っている。

 

わー!今日のおかず何?卵焼き入ってる?

 

呆れた顔で姉を見て、ため息ひとつ。でも自分もちらちらと弁当の包みを見ている。

 

……陽奈、近い。和樹に失礼。

 

さっきまで催眠だの週刊誌だのと張り詰めていた空気はどこへやら。弁当ひとつで崩れる緊張感だった。——いや、それだけではない。和樹が「いりません」と言い切った、あの1言が5人の中に残っている。

 

栞はいつの間にか壁から離れていた。定位置の端っこに座り直して。

和樹から1番遠い席。けれど。

 

…………私の分も、あるの。

 

蚊の鳴くような声だった。

 

にこりと笑う。

 

当然。——ほら、みんな手洗って。休憩にしましょう。

 

休憩室のテーブルにお弁当が並ぶ。全部で4つ。和樹は毎回きっちり全員に行き渡る分用意してくる男だった。——そういうところが、憎めないのかもしれない。

 

蓋を開けた瞬間。

 

唐揚げ!やったぁ!

 

もう箸が伸びている。早い。

 

隣で静かに手を合わせてから。

 

いただきます。……あ、鮭の西京焼き。

 

無言で1つ手に取って、背を向けて食べ始める。——が、「うま」と一言だけ漏れた。誰にも聞こえなかったと思っている。

 

丁寧に包装をほどいて。

 

相変わらず彩りがいいわね。……あら、ほうれん草の胡麻和え。これ好きなのよ私。

 

1番端の席。みんなから少し離れた場所で、小さな弁当箱を膝の上に乗せている。卵焼きをじいっと見つめている。——30秒ほど。

 

ようやく、ひと口。

 

…………おいしい。

 

もぐもぐしながら。

 

ねーかずくん、これ自分で作ってるの?毎日?

 

咀嚼しつつ、横目で姉を。

 

お姉ちゃん、食べてから喋って。

 

サキは既に2つ目に手を伸ばしている。隠す気がもうない。

 

うん。色々と新しいのを試して作るのが好きなんだ

 

目をきらきらさせて。

 

えー!すごい!じゃあじゃあ、リクエストとかしていいの?ハンバーグとか!

 

箸を止めて。

 

……図々しい。

 

えー、だって菜月も食べたいでしょ?この前かずくんの肉じゃがめっちゃ美味しかったって——

 

耳が赤くなった。黙々とご飯を口に詰め込んだ。否定しなかった。

 

3つ目の蓋を開けながら。

 

ふーん。……アンタ、暇なの?

 

お茶を注ぎながら。穏やかに。

 

いい趣味じゃない。食事は身体の基本よ。うちの子たち、まかないだけじゃ栄養が偏るから助かるわ。

 

サキの咀嚼が一瞬止まった。「うちの子たち」に自分が含まれていることに気づいたが、反論する材料がなかったので黙って飲み込んだ。

 

弁当は半分ほど減っている。食が細い栞にしては上出来な程の食事量。ぽつりと、独り言のように。

 

……明日も。

 

聞き逃さなかった。

 

ん?栞ちゃん今なんて?

 

ぷいっと横を向いた。弁当を抱え込むようにして。

 

何でもない。

 

栞ちゃんはちっちゃいからもっと食べて大きくならないとね。頭からポンとする

 

びくっ。身体が硬直した。——けれど、払いのけなかった。頭に残る手のひらの重みを、じっと受け止めている。

 

……ちっちゃくない。

 

陽奈のにやにやが止まらない。

 

栞ちゃーん、顔赤いよー?

 

空いた手で顔を隠す。弁当が傾いた。

 

赤く、ない。……照明のせい。

 

4つ目を開けつつ。

 

おい、セクハラだろそれ。

 

栞が静かにサキを軽く睨む。

 

頭ぽんぽんくらいで大袈裟ね。——でも和樹さん、栞ちゃんは繊細だから、ほどほどにね。

 

指の隙間から和樹をちらっと見た。

 

……。

 

何か言おうとして、やめて、弁当に視線を落とす。残りのおかずを全部、綺麗に食べ切った。——小さな口で。

 

その様子を見て。

 

……完食してる。

 

ぽそっと。

 

残すのは、もったいないから。

 

4つの弁当のうち、1つだけ空っぽになった。それが誰のものかは、言うまでもない。

 

さ、みんな。午後の準備始めて。開店まであと30分よ。

 

店が動き出す。日常が回り始める。——けれど和樹の鞄には、もうチケットはない。「催眠」は、別の形でとっくに始まっていたのかもしれなかった。

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