催眠チケット   作: sky

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嵐収まらず

午後、店が再開される。看板の灯りが点いた。「本日のおすすめ:手作りデザートフェア」——恵子の几帳面な字で書かれた黒板が、店先に置かれている。

 

常連がぽつぽつと入ってくる。いつもの喧騒。コーヒーの香り。グラスの触れ合う音。

 

エプロンを結び直して。ぱん、と頬を両手で叩いた。

 

よしっ。午後も頑張るよ菜月!

 

もうホールに出ている。無駄のない動線。

 

3番テーブル、オーダー入った。——陽奈、ケーキ2つ。

 

りょーかい!

 

双子は別々の持ち場でも息が合う。片方が皿を運べば、もう片方はすでにフォークを並べている。連携プレイの真骨頂。

 

カウンターで豆を挽きながら、舌打ち。

 

4番、ブレンド追加。はいはい。

 

和樹はいつもの様にテーブルクロスの角を直し、空いた食器を片付け、オーダーを取り、完成した料理をテーブルへ運ぶ。——バイトを始めて約1月。もはやベテランの風格。

 

伝票を抱えて通りすがりに、和樹に小さく目配せした。目だけで「流石、期待の新人ね」と言っている。——その視線が、ふと入口に向いた。新しい客が来たらしい。

 

いらっしゃいませ。何名様ですか?

 

入ってきたのはスーツ姿の男が2人。恵子が営業スマイルで迎える。——が、「お2人様」の案内をした直後、男の1人がメニューも見ずにこちらを見た。

 

いらっしゃいませ! 午前の件もあり、無意識に声に力が入る。

 

男2人は和樹の挨拶を完全に無視した。——客ではない。胸ポケットから名刺入れではなく、黒い手帳を取り出した。

 

40代半ば。顎髭。にやりと笑って。

 

あー、すんません。客じゃないんすわ。——「週刊スキャンダル」の者ですけど。

 

笑顔のまま。だが目は笑っていない。

 

……取材のご予約は承っておりませんが。

 

若い方。ひょろっとしていて、スマホをもう構えている。

 

いやいや、予約とかいらないっしょ。ここ最近、ネットでちょっと話題になってんのよ。「誰でも何でも好きなことをさせることが出来るチケットがある」ってさ。

 

店の空気が変わった。陽奈のトレイが止まる。菜月が振り返る。サキのミルが止まった。——全員の目線が、2人に集まった。それから、自然と和樹へ。

 

ずいっとカウンターに肘をついて。

 

お兄さんが持ってるって噂なんだけど。——見せてくんない?1枚でいいからさ。

 

低い声で。

 

おい。営業妨害だろそれ。帰れよ。

 

そんなものはありませんが

 

目を細める。値踏みするように、和樹の顔を舐め回した。

 

ない、ねえ。——じゃあなんでこの店、急に評判良くなったの?SNS見てみなよ。「あの店の看板娘がやばい」とか「期待の新星?新人男」とか、書かれてんのよ。

 

スマホの画面をぐいっと突き出す。

 

ほら。このアカウント。常連っぽい書き込み。——「今日も弁当持ってきてた」だって。アンタでしょ?

 

すっと男Aと和樹の間に入った。背筋が定規のように真っ直ぐ。

 

お客様。当店は飲食店です。取材も撮影もお断りしております。——お引き取りください。

 

恵子の胸元をちらっと見て。

 

おお、店長さん?いいねえ。——ねえ、チケットの話だけでもさ、記事にしたら——

 

男Bの横に立った。175センチの長身が影を落とす。

 

聞こえなかったか?帰れっつってんだよ。

 

サキを見上げる。——見上げて、にやつく。

 

おお怖。ねえお兄さん、本当にないの?ポケットの中、確認してみてよ。——あるなら売ってくれてもいいんだぜ?百万で。

 

お引き取りください。警察呼びます

 

一瞬たじろいだ。が、「警察」の2文字を噛み締めるように笑った。

 

警察ねえ。まあまあ、そうカッカしなさんな。——別に犯罪じゃねえだろ?ちょっと話聞いてるだけじゃん。

 

まだスマホを構えたまま。店内をぐるっと撮っている。

 

いい画いただき。——「謎のチケットを巡る攻防」って見出しでいけますよこれ。男2人でスマホを見ている。

 

すでに恵子が動いていた。レジ横の電話に指をかけている。110番の短縮ダイヤル。

 

さすがに顔色が変わる。

 

ちょ——マジで呼ぶの?

 

出口を塞ぐように立つ。腕を組んで。

 

呼ぶに決まってんだろ。不法侵入と盗撮。——あとなんだ、恐喝か?

 

陽奈が和樹の傍に来て、さりげなく前に出た。

 

お客様、怖いです……。

 

菜月も反対側に立つ。双子が壁を作った。——陽奈は震えているが、菜月の目には怒りがあった。

 

ようやくスマホを下ろす。

 

え、やばくないすか先輩。ガチっぽい——

 

舌打ち。頭の後ろを掻いて。

 

——チッ。わかったよ。今日は帰るわ。でもな、兄ちゃん。

 

和樹を指差す。

 

——また来るからな。

 

ドアが閉まった。ベルが乱暴に鳴って、静寂が落ちた。——恵子は受話器に伸ばした手を、ゆっくり下ろした。

 

はぁー……。 深いため息。

 

ふっと肩を落として。それからすぐに、店長の顔に戻る。

 

みんな、大丈夫。——何事もなかったわ。通常業務に戻って。

 

ドアを一瞥してから、カウンターに戻った。豆の挽き直し。

 

ったく。2度と来んな。

 

陽奈はまだ和樹の前に立っている。はっとして。

 

あっ、ごめんね。勝手に前に出ちゃって——

 

妹の肩にぽんと手を置いて。

 

いい判断だよ。——戻るよ、3番のオーダー。

 

双子が持ち場に散る。店は少しずつ、いつものリズムを取り戻していった。——けれど。

 

栞がずっと黙っていた。カウンターの奥、食器を拭く手が止まっていた。布巾をぎゅっと握ったまま。

 

……。

 

和樹を見ていた。何か言いたそうに口が動いた。——でも結局、布巾に目を落とした。

 

和樹の席まで来て。テーブルに水のグラスを置いた。

 

災難だったわね。——でも、毅然としてたわ。かっこよかったわよ。

 

少し間を置いて。声を落とす。

 

あの手の連中、1度で諦めないのが厄介なの。しばらく気をつけてね。

 

……店長、すいません。午前に続いて今のも。俺のせいですよね。……俺この店やめた方が、これ以上変な噂とか流れたらまずいし

 

ぴしゃり、と。水を置いた手がそのままテーブルを軽く叩いた。音は小さいが、鋭い。

 

馬鹿言わないの。

 

腰に手を当てる。20年の貫禄。

 

あなたのせい?どこが。——勝手に嗅ぎ回ってきたのはあっち。あなたが謝る筋合いは1ミリもない。

 

カウンターから、背中越しに。

 

そうだぞ。やめるとか言い出したらぶっ飛ばすからな。

 

ホールから振り返って。

 

えっ、やだやだ!かずくんやめないで!

 

3番テーブルの片付けをしながら。

 

……お弁当、なくなる。

 

菜月の1言が妙に重かった。全員が一瞬黙ったのは、それが本音だったからかもしれない。

 

少し声のトーンを落として。柔らかく。

 

ここはあなたの職場でしょう。——来たい時に来ればいいの。変な虫がついたなら、私が追い払うから。それが店長の仕事。

 

栞が布巾を畳みながら。ぽつり。

 

……来なくなったら、困る。

 

小さい声だったが、今度はちゃんと届いた。

 

みんな……。 涙が堪えきれない、視界がぼやける。

 

陽奈ももう我慢できなかったらしい。ぱたぱたと駆け寄ってきて。

 

泣かないのー!ほら、ハンカチ!

 

ポケットからうさぎ柄のハンカチを引っ張り出して、ぐいっと和樹の頬に押し当てた。力加減がめちゃくちゃだった。

 

ため息。でも口元がほんの少し緩んでいる。

 

……陽奈、押しすぎ。痛いでしょそれ。

 

挽きたてのコーヒーを和樹の前に置く。どん、と。

 

飲め。砂糖多めにしといた。——文句は聞かねえ。

 

恵子が何も言わず、向かいの椅子に腰を下ろした。自分の分の紅茶を淹れながら。ここにいるわよ、という顔で。

 

栞だけがカウンターに残っていた。——けれど、さっきまで握りしめていた布巾が、いつの間にかきちんと畳まれて所定の位置に戻されていた。

 

棚のカップを1つ取って。ミルクを温め始めた。——誰に頼まれたわけでもない。ただ、なんとなく。そうしたかっただけ。

 

家から5分のこの店。涙ぐむ常連客と、6人の店員。窓の外はもう暗い。ベルの閉店を知らす音がもう1度、今度は優しく鳴った。

 

時計の針が9時を回った。最後の客が帰り、ドアのベルが静かに揺れた。——閉店。

 

んーっ、と両腕を上げて伸び。

 

終わったー!今日なんか長かったね。

 

テーブルを1つずつ拭き上げながら。手際がいい。

 

あの人たちのせいでしょ。——早く片付けて帰ろう。

 

看板をCLOSEDにひっくり返す。乱暴に。まだ怒りの残滓。

 

あー疲れた。あいつらの顔思い出したら腹立ってきた。

 

レジを締めながら。

 

みんなお疲れ様。戸締り確認したら上がっていいわよ。——あ、明日のシフト表、裏に貼ってあるから各自見てね。栞ちゃんは明日お休みだから。

 

もう着替え終わっていた。私服のパーカー。フードを半分被って。

 

……お先に。

 

小さく頭を下げて、裏口から出ていった。和樹とすれ違う瞬間、一瞬だけ足が止まりかけて——そのまま、夜に消えた。

 

エプロンを外しながら、ふと和樹を見る。

 

かずくんは?帰り気をつけてね。——あの人たち、まだうろうろしてるかも。

 

鞄を肩にかけて。もじもじと指を弄っている。

 

……近くだけど。暗いし。

 

ふっ、と笑顔を浮かべて。一緒に帰ろうか

 

店を出た。夜風がぬるい。——街灯がぽつぽつと並ぶ住宅街。確かに、5分の距離だ。

 

その角を曲がった時だった。

 

電柱の影から。ひょろっとした体がぬっと出てきた。スマホをいじっていた顔を上げて。

 

あっ。

 

偶然ではない。——待っていた顔だった。もう1人の姿は見当たらない。1人で張っていたらしい。

 

へらっと笑う。昼間の勢いはない。どこか卑屈な笑み。

 

いやあ、奇遇っすね。——ねえお兄さん、ちょっとだけ。5分でいいんすよ。先輩には内緒でさ。

 

スマホをポケットにしまって。両手を見せるポーズ。敵意はないですよ、のジェスチャー。

 

あのチケットの話さあ、マジもんなんすか。それともガセ?——俺、正直あの先輩より話わかるっすよ。金の話じゃなくて。

 

街路樹の葉がかさりと鳴った。男Bの目が、暗がりの中でやけに光っている。——和樹の家まで、あと50歩。

 

陽奈ちゃん。陽奈の目を見て頷いて、目の前の男を無視して通り過ぎる。

 

足を揃えて踏み出して、ピタリと横についてくる。距離を詰めすぎないように——でも離さないように。

 

ねえねえ、無視はひどくないすか。——俺ただのジャーナリストっすよ?別に危害加えるとかじゃないし。

 

40歩。35歩。男はしつこかった。早歩きに合わせて、ぺたぺたと革靴の音が続く。

 

声のトーンが少し下がる。粘っこい笑い方。

 

あの店さ、調べたら結構おもしろいんすよね。女性スタッフばっかで、しかもみんな若い。——お兄さんだけ特別扱いされてんの、外から見ててもわかるっつーか。

 

20歩。15歩。——家の明かりが見えた。玄関まであと少し。

 

立ち止まった。さすがに家までついていく度胸はなかったらしい。でも声だけ投げてくる。

 

まあいいや。また来ますわ。——あの店に。取材って名目なら追い返せないっしょ?

 

にやっと笑って、踵を返した。ポケットからスマホがちらりと見えた。画面には、あの店の間取り図が映っていた。

 

次の日、朝。10時。和樹が店に着くと、いつもと違う空気が漂っていた。

 

カウンターで腕組み。眉間に皺。開店前の店内に、珍しく全員が揃っている。——栞もいた。

 

スマホを見せながら。顔が青い。

 

これ……見て。

 

画面にはネットニュース。——「話題の飲食店に潜入!謎の『チケット』の真相に迫る」という見出し。昨日のスーツの男Bが書いた記事だった。店内の写真、スタッフのシルエット、ぼかし入りの客の証言。——和樹のことだ。——「特定の人物だけが特別なサービスを受けられる」という書き方をしている。

 

椅子を蹴るようにドカリと座って。

 

ふざけんな。盗撮じゃねえかこれ。

 

ニュースを読んで唇を噛んで。

 

……店の場所も特定されてる。

 

静かに、しかし明確に怒っていた。

 

弁護士に連絡したわ。——今日の営業は予定通りやるけど、みんな気をつけて。変なお客が来る可能性がある。

 

壁にもたれて。いつもよりさらに無気力に見える。けれど。

 

……来たの。朝から1人。追い返した。

 

恵子が頷く。

 

ありがとう、栞ちゃん。——今日は全員で対応しましょう。

 

わなわなと震える和樹を見て。——ふ、と息を吐いた。怒りを1度しまい込むように。

 

和樹さん。

 

真っ直ぐ目を見た。

 

あなたが怒ることじゃない。——怒っていいのはこっち側。

 

ぎろっと入口の方を睨んで。

 

つーかアイツだろ。ひょろい方。——ぶっ潰す。

 

和樹に近づいて。袖をちょんと引く。声が震えていたのは陽奈の方だった。

 

大丈夫。大丈夫だから。——陽奈たちがいるから。

 

ぱん、と自分の頬を両手で叩いて。気合を入れ直す音。

 

……よし。開店準備しよ。いつも通り。

 

11時。——開店と同時に、客が押し寄せた。普段の2倍。いや、3倍。——記事を見た野次馬と、便乗した冷やかし。女性スタッフ目当ての男性客。そして。

 

店の端の席に座っていた。ちゃっかり客のフリをして。——手にはスープ。もう片方の手で、テーブルの下からスマホを構えていた。

 

1目で気づいた。——だが、訴えるにも証拠がいる。今は泳がせる。

 

男Bと目が合った。——じっと見つめた。男は一瞬たじろいだ。

 

湧き上がる良くない感情を抑えつけ、空いたテーブルを片付ける。

 

和樹は黙々と皿を下げていた。震えはまだ残っている。それでも手は動く。——この場所を守りたいという気持ちが、体を突き動かしていた。

 

カメラアプリを起動したまま、スプーンを口に運ぶ。——味なんかわかってない。

 

その時。入口から、また1人。——今度はスーツじゃない。キャップを深く被った若い男。その後ろにもう2人。

 

きょろきょろと店内を見回して。仲間に小声で。

 

マジで可愛いじゃん。記事ガチだったんだ。

 

ちらっと振り返って。——小さく顎を引いた。合図。増援。

 

目が細くなった。4人。——いや、外にもう1台、車が停まっているのが見える。

 

トレーを持ったまま、恵子の横を通り過ぎざまに。

 

あ?何人来てんだ。

 

囁くように。

 

5人、6人。——どんどん増える。

 

こんな状況にも関わらず笑顔を貼り付けて接客している店長。プロだった。——でも和樹とすれ違った瞬間、指先がそっと和樹のエプロンの裾を掴んだ。

 

その様子を見ていた。——ぎゅ、と唇の端を結んだ。

 

は?なんなんだ、いったい

 

更に他の客が入ってきた。——もう席が足りない。立って待つ客まで出始めている。異様な光景だった。

 

仲間が揃ったのを確認して、ゆらりと立ち上がった。——もう客のフリは終わり、とばかりに。

 

仲間の男が隣のテーブルを陣取って。

 

なあ、ここってマジで何でも持ち帰れんの?——あの子とか。

 

振り返った。過去1番の怖い顔。

 

あ?

 

にやにやと陽奈を指差して。

 

双子の看板娘って書いてあったじゃん。双子揃って巨乳とかヤベーな。片方くれよ。

 

店内が一瞬、凍った。——他の客たちも静まり返る。

 

トレイを抱えたまま固まった。

 

姉の前にすっと立つ。——背中で隠すように。

 

全員がもう限界だった。静かな、けれど底冷えする声。

 

——お客様。他のお客様のご迷惑になりますので。

 

スマホをテーブルに置いて。

 

いやいや店長さん、俺ら客だよ?ちゃんと金払ってんじゃん。——ねえ、あの記事に書いてあったチケット。あれ見せてよ。俺らにも使わせてよ。

 

全員の視線が和樹に向いた。——持っているはずがない。ないのだ。なのに、この場にいる全ての人間が、まるで和樹が何かを隠しているかのように見つめている。

 

帰れ。お前らは客じゃない

 

男の口角が上がる。——待ってました、と言わんばかりの表情。

 

おー、怒った怒った。——でもさあ、それって答えになってなくない?本当に客じゃないなら、なんでそんな必死なの。

 

椅子の背もたれに体重を預けて、ぎいっと鳴らす。

 

なあ兄ちゃん、ちょっと見せるだけでいいって。減るもんじゃねーだろ。

 

もう動いた。——キャップの男の襟首を掴んで、椅子から引き剥がす。170超えの体格が影になる。

 

出ろ。3秒以内だ。

 

目を見開く。——が、すぐに仲間を見て。

 

おい、なんだよこの店——

 

動画を回している。赤い録画ランプが点滅していた。——暴力振るったね、これ記事になるよ、と言いたげな目。

 

恵子は携帯を耳に当てていた。——110。コール音。繋がった。

 

もしもし、昨日に引き続きで申し訳ございません。——はい、はい。住所は——

 

「昨日」という単語に、男たちの目の色が変わった。——通報済み。つまり前科がある。1人が舌を打った。

 

撤退の気配を感じて。それでもスマホは止めない。

 

——いい画撮れたわ。

 

陽奈の震える手で和樹の腕に触れた。小声。

 

……裏から逃げよ?

 

首を振る。だめだ。1番の当事者の俺が真っ先に逃げるわけにはいかない

 

目を見開いた。——それから、きゅっと口を結んで。離れない、という意思表示のように、腕を掴む手に力が入った。

 

姉を見て。——同じように、反対側の和樹の横に立った。

 

……馬鹿。でも嫌いじゃない。

 

仲間に目配せ。潮時だと悟ったらしい。だが去り際に、わざとらしく声を張った。

 

まあいいや。——でもさ、ネットって怖いよ?もう拡散されてっから。消せないよ、1回出たもんは。

 

サキに襟を離されて。首元を擦りながら。

 

覚えてろよこの店——

 

鼻で笑った。擦り傷のひとつも負っていない。

 

覚える価値があんのか?お前らに。

 

全員が出ていく。ベルが乱暴に揺れる。——最後にスーツの男Bが振り返り、にたりと笑ってスマートフォンを振った。動画はまだ回っていた。

 

車のエンジン音。タイヤが砂利を噛んで、遠ざかる。

 

受話器を置いた。——深く、長い息。

 

警察は来てくれるって。——でも。

 

和樹を見る。厳しい目。けれどその奥に、別の感情が滲んでいた。

 

……あなた、本当に馬鹿ね。

 

栞もずっとカウンターの裏にいた。——出てきて、和樹の後ろに立っていた。何も言わない。ただ、そこにいた。

 

ドン!壁を叩く音が店に響く。 くそっ!

 

拳が壁に当たる鈍い音。——痛みが走ったはずだ。けれど誰も、その手を見なかったふりはしなかった。

 

すかさず和樹の拳を取った。——赤くなっている。冷たい手が包み込んだ。店長としてではなく、年上の女として。

 

手、痛いでしょ。——冷やしなさい。

 

サキが無言で氷をビニール袋に詰めて持ってきた。——ぶっきらぼうに押し付ける。

 

陽奈の目に涙が溜まっている。でも泣かなかった。ぐっと堪えて。

 

壁は悪くないよ……。

 

菜月が壊れたベルを見上げた。——あの音、もう鳴らないかもしれない。

 

……弁償、あいつらにさせよ。

 

遠くでパトカーのサイレンが聞こえた。近づいてくる。——だが、それだけでは足りない。ネットに撒かれた火は、サイレンでは消えない。

 

栞が口を開いた。——和樹の背中に向けて。

 

……悔しいのは、わかる。

 

ぽつりと。

 

でも、殴るのは壁じゃなくていい。——あいつら。

 

無気力な栞の声にしては、はっきりとした輪郭があった。全員が少し驚いた顔をした。——けれど誰も茶化さなかった。

 

ああ、ごめん壁は悪くないのに

 

赤い手を包んだまま、小さく笑った。——こんな状況なのに。

 

わかればよろしい。——壁も、あなたの手もね。

 

ぱっと顔を上げて。

 

あ、ちょっと待って!救急箱!

 

ばたばたとバックヤードに走っていく。

 

サキはベルを見つめたまま。

 

あれ、お気に入りだったんだけどな。

 

ぼそっと呟いた1言は、たぶん誰にも聞かれていないと思って言った。——陽奈には聞こえていたけれど。

 

戻ってきた。消毒液と絆創膏を抱えて。なぜかうさぎのシールまで貼ってある。

 

はい!手出して!

 

サイレンの音がすぐそこまで来ていた。——店の前に赤色灯が映る。

 

手を離して。すっと店長モードに切り替わる。

 

警察が来たわ。——みんな、通常営業に戻れる子は戻って。無理な子は奥にいて。

 

残った客を見渡す。数人、まだ座っている。居心地悪そうに。——それでも、帰らずにいてくれている。

 

……あの人たち、帰らないでくれてる。ちゃんとお客さんだ。

 

残った客の1人が、静かにコーヒーを啜った。——その横顔は、記者でも野次馬でもなかった。ただ、この店が好きで来た客だった。

 

残った客1人1人に頭を下げる。ありがとうございます。帰らないでくれて

 

1人目。常連の老紳士。新聞を畳んで、穏やかに首を振った。——「気にしなさんな。ここのコーヒーが飲みたいだけだよ」

 

2人目。若い女性。目元を赤くしながら、ぐっと親指を立ててくれた。

 

3人目——

 

カウンター席で。帽子を目深に被っていた。——和樹が頭を下げた時、初めて顔を上げた。30代くらい。目の下に隈。

 

……頭下げんのはこっちだよ。

 

男が立ち上がった。——和樹より先に。深々と。

 

俺、前にここで飯食って、すげえ救われたことがあんだよ。——だから、あいつらが許せねえ。

 

ポケットからスマホを出した。画面にはSNSの投稿画面。

 

俺のアカウント、フォロワー五万いる。——あの記事、拡散元ごと潰してやる。

 

目がきらっと光った。——この人、知ってる。たまに来る、寡黙だけどいつも同じ席の。

 

少しだけ、口の端が上がった。

 

よろしくお願いします! もう1度深々と頭を下げた。

 

頭の上にぽん、と手を置いた。軽い。でも温かい。

 

任せとけ。——あと、顔上げろ。店員が客に頭下げっぱなしじゃ、店の格が落ちるだろ。

 

そう言って、男はカウンターに戻った。——指が画面の上を走る。「いいね」がみるみる増えていく。リポスト。引用。反論の嵐が、男のスマホから放たれていた。

 

恵子が警察への説明を終えて、戻ってくる。——残った客を見渡して。少し、目尻が潤んだ。すぐに拭った。

 

メニュー表を整えながら、ぼそっと。

 

……まだ、大丈夫だ。ここ。

 

鼻をすすって。笑顔を作り直した。今度は本物の。

 

よしっ。——じゃあ、ちゃんとおいしいの作らなきゃ!

 

新しいベルを棚から出した。——予備。ちょっと安っぽいやつ。

 

……ちっ。こっちのやつ音小さいんだよな。

 

ちりん。——小さいけれど、確かに鳴った。壊れたベルの代わりに。それはたぶん、さっきの鈍い打撃音より、ずっといい音だった。

 

カプチーノを1つ、黙って和樹の前に置いた。——頼まれていない。メニューにもない。ただの、ミルクの泡がふわふわのやつ。

 

……サービス。

 

上手くアートできている。栞は照れているのか顔をふいっと背けたまま。でもその場に立っている。

 

はは、ありがと

 

目を逸らしたまま。——耳がほんの少し赤い。

 

別に。余ったミルク、捨てるのもったいないだけ。

 

それを見て、にまぁっと笑う。

 

栞ちゃん、それ3回練習してたよね?ラテアート。

 

……してない。

 

横から覗き込んで。

 

してた。ハート描こうとしてぐちゃってなって、4回目で諦めてた。

 

無言。カウンターの奥へ消えた。——逃げた。

 

ぷっ、と吹き出した。——すぐに咳払いでごまかす。

 

束の間の平穏。——けれど、外ではまだ終わっていなかった。パトカーは去ったが、代わりに1台のバンが店の向かいに停まった。中から数人の人影が降りてくる。手にはカメラとマイク。

 

窓の外を見た。——顔色が変わる。テレビ局。

 

同じ方向を見て、ひっと小さな声を上げた。

 

サキ。ちっ、と舌打ち。

 

……次から次へと。

 

恵子もエプロンを整えて、入口へ向かった。背筋が伸びている。——戦場に出る顔だった。和樹へ振り返る。

 

和樹さん。——あの子たちを、奥の部屋に。お願いね。

 

……行こう。

 

一瞬ためらった。——でもすぐに、頷いた。

 

うん。

 

陽奈の手を取る。——自然に。 奥に入っていく。

 

今日という1日は、まだ終わらない——

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