「ケイ~! ケイーーーっっ!!!」
明くる日。当番でシャーレにやってくるも、忽然と消えた先生の姿を探すクエストに出ていたケイの背中に、聞き慣れぬ幼い子供の声が届いた。
(シャーレに子供なんてめったにいないはず……それも、男の子?)
ケイが振り返ってみると、廊下を駆けてくる自分よりも小さな……それもぶかぶかなワイシャツを着た男の子だった。
しかしその顔にとても見覚えがある。どういうわけか、ほんの少しだけ胸がときめく感覚が走る。こんな感覚を抱く対象といえば、不本意……というのは嘘だが、たった一人しかいない。
「……先生?」
「ケイ! 分かってくれるんだね!」
と、息を切らしながら目の前で急停止する少年。ケイよりも頭一つ以上小さく、その服はワイシャツ一枚で汗だくだった。
「な、なんでそんな姿になってるんです……?」
「山海経って言ったらたぶんケイちゃんなら理解してくれるはず!」
「あぁ……」
と、ケイはすべてを察した。兎にも角にも何かしらのトラブルが発生し、先生は山海経のサヤが作った薬を飲んでこんな姿になってしまったのだろう。ちらっと聞いたことがあったが、生徒が幼女になる事件があったとか。
随分と素っ頓狂な事に巻き込まれているなと思ったケイだったが、三度ほど世界の危機を迎えた学園都市キヴォトス、それくらいのことが起きても別に不思議ではなかったかと思い直す。
「で、そんなに急いでどうされたんです?」
「こんな姿になったものだから、みんなで俺のことを世話すると言い出して追いかけてくるんだ、もうすごい数!」
「まぁ……そんなことだろうと思いましたよ。とりあえずこちらに」
と、ケイは先生の体をひょいと持ち上げると、自身の腕の中に抱えてミレニアムのジャケットを先生に被せる。丁度いいことに、眼の前にあった自販機にルミナス・ノヴァを立てかけて飲み物を買う仕草をする。
「先生~~! 先生、どこいったんですか!?」
と、角からユウカが息を切らして飛び出してきた。次いでその後ろからも数名の生徒。よくもまぁ逃げ切れたなと思う。
「服がブカブカだったりしたからそれを利用して逃げてきたんだよ!」
と、胸の中で囁く先生(ショタ)。なるほど、加えて小さいということは距離感も狂うので、腕を伸ばしたらひらりと届かない、なんてこともあり、それが功を奏したのだろう。
「経験が生きてますね。とりあえず大人しくしててください」
「あ、ケイちゃん!」
ユウカが声をかけるとほぼ同時に先生を胸に押し付ける。もごぉ! という声が聞こえた気がしたが、ケイは構わず通常モードでユウカに向き直り、会釈をする。
「こんにちは、ユウカ。ちょうど飲み物を買おうとしてたのですけど、なにか飲みますか?」
「いや、それどころじゃないのよ! さっきこの辺に小さな男の子来なかった!?」
「ああ、ユウカのお知り合いでしたか。それなら非常階段の方に走っていきましたよ」
「しまった、まだあっちは手薄だった! 飲み物はまた今度、ありがとうね!」
と、ユウカと率いる生徒たちは再び駆け出していく。私がママだ、いいや私だというわけのわからない声と足音が遠のき、先生は大きなため息をついた。
「すごいねケイちゃん……ジャケットとルミナス・ノヴァの巨体を使って俺を隠して、更に飲み物に誘って逆に意識を反らせるとは……」
「これくらい当然ですよ。さて」
どうしたものかとケイは考える。恐らくシャーレ内部に隠れることは不可能だろう。盗聴器、監視カメラ、この場もすぐ危なくなるだろう。
「……恐らくすぐにこの情報はキヴォトス全域に広がって逃げ場がなくなりますね」
「サヤの話では明日の朝には効果が切れるらしいんだけど……」
「でしたらなんとかなりますね。みんな、シャーレ内部を駆け回ってますので、それを利用します。端末と監視カメラを掌握しますね」
「しれっと言ってるけど、シャーレのセキュリティ大丈夫なのかなぁ……」
「私は悪用なんてしませんので」
そう心配する先生をよそに、ケイはポケットからスマホを取り出し、ちょちょいのちょいとシャーレの一部情報端末、及び監視カメラの乗っ取りに成功。偽の映像と匿名情報を流す。
「『先生はどうやら、誰かの手を借りて外に出た模様』っと。これでシャーレ内部は手薄になりますね」
「もしかしてケイちゃん……」
「はい。あえてシャーレ内で過ごします。もちろん行動は制限されますが……ざっとあと一晩でしたらなんとかできます」
「頼もしい!!」
ぎゅ、と先生はケイの腕にしがみつく。いつもなら頭に手を置かれているのだが、今回は左腕に小さな手がすがりついている。そのいつもと違う感覚にケイは少しばかり戸惑いを受けたが、悪い気はしない。
(頼ってくれるのは、ありがたいことですからね)
階段やエレベーターホールで聞こえる生徒たちの声を尻目に、二人はそそくさとその場を後にし、居住エリアへと向かった。
*
結果として、居住エリアについてからはパタリと静かになり、先生はようやく一息吐いてソファに転がり込むことが出来た。
「つ、疲れた……体力的には余裕を感じるけど、精神的な方がしんどい……」
「薬がどんなものかはわかりませんが、身体に露骨に影響が出るなら、精神に何も影響がないなんてことはありませんからね。言い換えてみれば年上の女性に、それも大人数に追いかけ回されていたら、どんな男の子でも恐怖します」
スマホを確認するケイ。SNSには先生はどこだどこだという書き込みが溢れている。モモトークにも何人からか連絡が来ていた。
「念押ししておきましょう」
ケイはまたスマホをちょいちょいといじり、シャーレ内にあるドローンを数台掌握。部屋に呼び寄せると、ありあわせではあるが、先生の背丈に見えるようにシャツをかぶせ、モップや黒ビニール袋を使って頭部を作り、窓を開けて出撃。
「もしかしてダミー?」
「即席にしては、なかなかうまく作れたと思いませんか?」
しばらくして、ニュース速報で「小さくなった先生がシャーレの外に逃げ出した」という通知が顔を出す。画像にはさっき飛ばしたダミーが上手いことブレて先生っぽく見えた。
「あとはこの居住区に近づく対象に対してのセキュリティも整えました。とにかくじっくり休んでください」
「うわぁあぁああん!! ケイちゃんありがとうぅぅう!!」
と、先生はケイに抱きつく。ぽすっ、という加減がわからないような勢いのある抱きつき方だった。ぞわ、とケイの背中が良くわからない震え方をする。
(なんか、なんていうか……)
自分より小さい存在を相手にすることなんてまずなかったので、その感覚が新鮮だった。先生に抱きしめられることはあったが、いつもなら上にあるはずの頭が下にある。つやつや、さらさらとした髪の毛の森の向こうに、ひっそりと見えるつむじが妙に可愛く見えて、
「け、ケイちゃん?」
「…………はっ!?」
ケイは無意識にその頭の上に手を載せていた。
「す、すいません。なんだか、身体が……えっと……」
表現し難い自分の行動に、ケイは目が泳ぐ。あまりふんわりとした表現をしないケイだったが、今の自分の行動を振り返り、何度か脳内に血液を循環させて出た答えが、
「身体が……その、勝手に動いたんです」
だった。リオがいたら、「非合理的な回答ね」と言うだろうが、だって仕方ない。そう言うしか無いのだから。
「嫌だったらごめんなさ……」
「大丈夫! 嬉しかった! だからもっとやって!」
「も、もっとですか?」
自身でも不明な行動を起こしてるのだから、向こうだって戸惑うはず……と思っていたケイだが、帰ってきたのは屈託のない笑みで、思わず息を飲んでしまう。
(まるで、アリスの向けてくれる笑顔のような……いや、それよりもどういうわけなのか、魅力を感じてしまします……でも)
「じゃ、じゃあ……」
と、ケイは再度頭を撫でてみる。先生……だった幼い子どもは、目を細めて嬉しそうに腹へと頭を擦り、胸の奥がぽっと暖かくなる。体温の発熱? いや、違う。なんだか心が落ち着くような……アリスの髪の毛を結っている時に近い?
サラサラと指を流れる、自分よりも短い髪の毛だが、何度も何度も梳かしてしまう。人の頂点なんて、アリス以外で見たことなど殆どないし……その相手が、幼くなった先生だという事実が、言葉にし難いノイズとなってケイの脳幹に流れ込む。
ただ。そのノイズは、どうも安らぎを覚えてしまうものだった。もっと、もっと、触りたい……。
(……だめ、ちょっと落ち着かないと)
「……あ、その、先生。とりあえず座りましょうか。立ちっぱなしもあれですし」
「あ、そうだね。ごめんごめん。ケイが撫でてくれるのすごい嬉しくて」
「う、嬉しい……ですか?」
うん。と言う彼の背中が、どうも愛しく見えた。触りたい、という囁きが、再び駆け抜ける。
「……なら、良かったです」
と、ケイはそっと後ろから抱きしめてみる。一歩間違えたら自分や……アリスよりも小さいかもしれないその背中に、守っていかなければという使命感が蓄積していく。
「こうしてみると、今の俺ってケイより小さいんだね。背が高い」
「まあ……物理的に先生が小さくなっていますからね」
「ははは。俺も生徒を見上げる時が来るなんて微塵も思わなかったよ。でもなんかこんな目には今後も遭いそうな気もする……」
流し目でバツの悪そうな顔になる先生。可愛い。ケイはそっと天を仰いで思考する。
「……既にキヴォトスが三回くらい終わりかけてますから、あと五回くらいは先生が小さくなってもおかしくなさそうですね」
そうつぶやいた瞬間、ケイははっとする。
今私は。
先生のことを、可愛い、と思ったのですか?
*
「うーん! こうしてみると子供の感覚でやるゲームも乙なものだね!」
と、先生はコントローラーを握り、巧みにボタンを操作して画面内のカートレースゲームを楽しむ。
「そんなものですか?」
その隣で、ケイも同様に2P用コントローラーを握り、右に左へと匠にドリフトを行い、ゲージを貯めて加速。先生を追い抜く。
「んあぁっ、独走だったのに……そうだよ、まだ子供の頃、こんな感じで少し大きめのコントローラーに必死に慣れようとしたのを思い出すよ。ボタンが遠く感じる」
アイテムボックスを拾う音。妨害用の雷が、ズババーンと画面を駆け抜ける。
「んなぁっ!!??」
「いぇーいケイちゃんおっさきー!!」
「ええい小癪な手を! 追い抜いたからには同様の報復が来ることを理解するんですよ!!」
ファイナルラップに突入して、ケイは虎視眈々と1P側のカートに張り付く。先生が緑たわしを構えている。追い抜いた瞬間にあれを使う気だ。
「くっ……」
「ふふふ、ケイちゃんなら知ってるよね? 俺は追い抜いた瞬間にこれを投げつるのが死ぬほど得意だと。その正確さはゲーム開発部含め、ユズにすら勝ることを!」
「そんなの、知ってます! それすらも乗り越えてやります!」
最終コーナー前のアイテムボックス。ケイが手にしたのは……一位を高速追尾し、ほぼ確実に撃破する青鉄たわしだ。
「なっ!?」
ふふん。とケイの鼻が鳴る。横目で驚愕する少年の目を見て、得意げな顔にならずにはいられなかった。
「どうやら、勝利の女神は私に微笑んでくれたみたいですね」
「どんだけ低確率ぶち当ててるの!?」
「それでは先生。さようなら」
と、ケイがたわしを投げた瞬間。投げたはずのたわしが、その場で……正確に言えば、ケイを爆破したのだ。
「んなぁにぃぃぃっっ!!?」
「残念だったねケイちゃん」
その「後方」から先生が追い抜く。そう、青鉄たわしの効果は「一位を追尾する」こと。
「時に、完璧な勝利を得るために、一瞬だけでも相手に道を譲ることだって必要なんだよ」
先生の減速で一位になったケイは、アイテムを投げ、そして投げたアイテムは正確に「一位のケイ」を爆破。
その横をゆうゆうと走り抜けていった先生のカートは、何者にも邪魔されることなく、ゴールラインを超えた。
「~~~~ちくしょう!!」
「あーっはっはっは、相当悔しかったみたいだねぇ!」
ニヨニヨと微笑むその顔。子供にしか出せない、腹の立つ渾身のドヤ顔。ケイは歯ぎしりしながら「このガキンチョがぁあ!!」と震える。
「次は負けませんから!!」
「いいだろう……その熱くなった魂、受け止めてやる! 最終決戦にふさわしいコース……なら次はニジイロードで……」
先生が選択画面を操作する横顔を見つめる。若返ったからなのだろう。いつもどこか疲れた顔をしている彼が、キラキラとした笑顔でゲームを楽しんでいる様子は、文字通り童心に帰っているように見えた。
(いつもはどこか一歩引いたような距離感でみんなとゲームをしているけど……悩むものがなかったら、先生はこんな顔で楽しむんですね)
「クラスは200cc、飛ばしていくよ~」
「アイテムは無制限、シンプルイズベストの三周で行きましょう」
と、二人でコントローラーを握り直した時だった。ブーブー、とケイのスマホが点滅と振動を繰り返す。この組み合わせはパターン赤、生徒接近警戒。すぐさま彼女の顔が真剣になり、通知内容を見つめる。生徒が居住区に接近していた。
「……ケイ?」
「誰かがこちらに向かってるみたいです。先生はとりあえず隠れてください。様子見をしてきます」
「え、ケイ……でも」
「すぐ戻ります。仮眠室が一番安全だと思いますから、とにかくそちらに!」
言うとケイは先生の手を引き、仮眠室のドアを開け、念の為室内に誰もいないか確認して先生を入れる。
「出てきちゃだめですからね!」
「う、うん……」
ドアを締め、ケイは鏡を見て髪の毛を少し整える。先生に用事があって探しに来たが、騒ぎのこともあって部屋の掃除をしてた、そう言ってごまかす段取りを脳内で構築し、自分のカップのコーヒーを煽って呼吸を整える。
「よし、上手くやれる」
ケイは自然を装い、外に出ようとドアノブに手をかけて……。
「待って、ケイ!」
「せ、せんせ……!?」
先生が仮眠室から飛び出し、ケイにすがりつく。なんで、隠れてと言ったのに……と思うケイだったが、先生の手が震えていてもしかしてと察する。
「……まずは隠れましょう。こっちに!」
ケイは先生を抱えて、一か八かだが机の下に潜り込む。それと同時に「かちゃり」とドアの開く音がして、二人の胸が軽く跳ねる。
「静かに……いいですね?」
先生の口元を苦しくない程度に抑え、ケイはじっと息を潜める。いざとなれば正拳突きの一撃必殺で相手を昏倒させようと覚悟を決める。
「あれー、やっぱりいない。じゃあ先生が小さくなったのって本当?」
「それはそれで可愛いじゃん! 見れるなら見に行きたいな!」
「なんかドローンまで使って撹乱して、二機は捕まったけどもう一人と思わしき先生がゲヘナの風紀委員の建物に……」
と、二人いるであろう生徒はそのままドアを閉め、足音が遠くなる。ケイはスマホで先程の二人の動向を確認し、階層からいなくなったのを確認してほうと息をついた。
「先生、もう大丈夫ですよ」
「……うん」
と、胸の中で小さく震える姿。目元が少しだけ潤んでいる。ゾゾゾ、と名状しがたい感覚が背筋を撫で回し、それはじゅくじゅくと胸の中に溶け出していく。
(先生が、泣いている……)
ケイは朗らかな笑みを浮かべ、そっと指で拭ってあげた。
「……もしかして、怖かったですか?」
こくり、と無言でうなずく小さな頭。ケイはそっと後頭部に手をおいて、よしよしと落ち着かせる。
「な、なんだか……急に、怖くなって……しずかで、一人で、またなきゃって……それでケイが帰って来なくなったら、なんだか、その……」
言葉がうまく浮かばず、苦戦をしているような様子だった。
(恐らく薬の影響で精神年齢が幼くなってる……具合を見るに、今がピーク? または私と離れそうになったのがきっかけで何かしらの負荷が作用したのでしょうか?)
目の前の先生は、なんとか涙をこらえている様子だった。ちく、と胸が痛い気がして、ケイは自身の胸に彼の頭を押し込んだ。
(ああ……私は、悪いことをしてしまいました……守るのはいいことでも、今の彼にとって私が離れることは何よりの恐怖で……それから守れるのは、私だけだったというのに)
ケイは自身の頬も先生の頭にこすりつけ、マーキングのようにその存在を示す。
「大丈夫。大丈夫ですよ、先生。一人にしようとしてごめんなさい。もうどこにも行きませんから」
「ほんと?」
まだ不安そうな先生に対し、より強いハグでその意思を伝える。
(離さない。絶対に。今、この夜はなんとしてでも……私が、あなたを守ります。だから)
「はい。明日の朝になればきっと元通りです。だから今日は一緒に寝ましょうね」
「……うん」
さぁ、部屋に戻りましょうとケイは幼くなってしまった先生を抱えながら机の下から出ると、しっかりと抱え直して歩みをすすめる。彼の手は、ケイの背中になんとか両手が届きそうな程度にしがみつく。
(手が届くのもギリギリ……必死に、私を頼ってる……嬉しい)
甘えてる仕草にケイは無意識に「よしよし」とその頭を撫でる。大人ではない、子供特有の優しい香りが無性に落ち着く。
(……念を入れましょう。施錠、消灯、ここには誰もいないということを徹底、バックアップ体勢、必要であれば迎撃も行えるようにしなければ)
ケイは戸締まりを確認し、仮眠室に戻ると先生をベッドに乗せ、少し待つようにお願いすると端末を取り出し、シャーレ内部の防犯機器の全てを掌握。明確にこの部屋に先生がいることを察知し、侵入しようとする者に対して迎撃措置を取らせるようにした。
「はい、お待たせしました。これできっと大丈夫」
「うん……」
うつら、うつらと船をこぐ子は、既に限界に近いだろうに必死にケイのスカートを掴んで離さないようにしていた。
「まったく……添い寝コースですね」
とケイはジャケットとブレザーを脱ぎ、ネクタイを外して布団の中に入るよう促す。先生の方は……もう起こしてまで着替えさせる必要もないし、ブカブカではあるがシャツ一枚で十分だろう。そんな彼だが、もう9割型は睡眠に入っている様子ではあるが、ケイの服だけは離さずにいた。
「ケ……イ……」
先生の顔を見ると涙が一滴だけ浮かんでいた。怖い思いをさせてしまってしまってごめんなさい。ケイは涙を拭い、そっと手を握る。子供特有の、柔らかく体温の高い掌は、じんわりとケイの心も温めてくれた。
「……大丈夫、私はここにいますよ。だから安心して眠ってください」
「……」
その言葉が届いたかはわからないが、心地よさそうな呼吸音が聞こえてきて、ケイはほっとし、握る手の感触を再度認識する。
「……おやすみなさい」
今まで、こんな風に頼られたことがあっただろうか。普段から、これだけ甘えん坊ならもっと無理せず仕事が出来るだろうに……いっそ、仕事の大半はこちらに任せて、必要なときだけ業務をしてもらったほうが、きっと彼の心身は健康になれるだろうと思い……
「……いっそ、朝が来なければこのまま……」
そう呟いて、ケイははっとする。今、自分はなんて……それは、つまり……戻らなくてもいいとでも言っているのか?
「……だめですね、私……卑怯者、です」
幸い、というべきか、自分の発言を思い返し、ゾッとするだけの理性は持っているようだった。
ケイは自嘲気味に笑った。結局、自分も欲しがりか。彼がこの姿なら、もっと素直に物事が言えるのだ。彼が甘えると、自分も甘えやすくなる。そして、甘える自分に彼も愛情を感じてさらに返してくる。
ケイはこの数時間で幾度となく抱いた母性を思い返し、苦笑いする。ただ、彼はまだこの姿のままだ。朝になれば、きっと元通り。
「でも……たまになら……」
またこんな風に、頼ってほしい。どうか身体は大事にして……それに便乗しようとした、私を許してほしい。
そう思いながら、ケイはかRネオ小さな手を握りしめたまま、睡魔の暗闇の中へと意識を沈めていった。
*
翌朝。目を覚ました先生は若干痛む頭に悩まされつつも、上体をなんとか起こして周囲を見回す。窓のシェードの隙間から朝日が差し込み、ふと手を見てみる。
「……戻ったぁ」
間違いない、大人の自分の手。昨日の大騒ぎがまるで夢のように頭を駆け巡り、なんとか穏やかに過ごせたことに安堵する。
「ん……せん、せい……?」
と、隣でケイの声がして振り向く。そうだ、ちょっと記憶が曖昧ではあるが、ケイがあの後ずっと匿ってくれていたんだと思い出す。たしかゲームしていたら生徒が近づいてきてちょっと危なそうになって……。
(あれ、あの後のことが良くわからない……)
確かケイが一人様子見に行く姿を見送った辺りでの記憶がない。どこか寂しい気がして、なぜか一瞬だけ鋼鉄大陸の情景が浮かび、思考がそれ以上進むことを拒絶した。
(なんだ……なんだか、ケイが遠くに行くような……恐怖を感じた?)
だが、やはり腑に落ちない。まるで散らかった部屋に画鋲一つを落としてしまったかのように、抜け落ちた記憶の断片の存在が気になる。先生は思考を巡らせる。と、ふわりといい香りがした。かと思った瞬間。
「!?」
ケイが先生の頭を自身の胸に抱きしめていた。とくん、とくんと聞こえてくる心音が心地よく、一瞬何かを思い出しかける。
「よしよし……大丈夫ですよ……」
と、ケイは先生の頭に手を置き、その小さな手で優しく撫でてくれる。柔らかくて、暖かくて、そしてすべての不安を包み込んでくれるような囁き。もっと、ついさっき、聞いたような気がして。
「……ケイ」
思わず肩の力が抜け、一瞬で脳内の制御が安定する。ケイの心音と、香りに包まれている心地よさ。ここにいていい、こうしてていいという、肯定。
叶うなら、このままもう一日埋もれていたい。きっと記憶が曖昧な間、自分はこの安らぎを覚えていたのだろう。
だが。残念ながら、今の自分は「大人」に戻っているのだ。大変名残惜しいのだが、状況的にはまだ不安定。後のことを考えるとこのまま意識を委ねると、きっとシャーレの建て替え工事が必要になりかねない事態に発展する。
「……ケイ」
「なぁに?」
「ケイ、あの……起きて」
「大丈夫ですよ、私がいますから……ずっとずっと、一緒にいます……」
「ケイ……あの、ケイちゃん?」
「……なんですか、せんせ……」
と、ようやくケイのマゼンタの瞳が自分をまっすぐ見つめる。しばしぼんやりとまだ濁ったような目で先生を見つめ、徐々に焦点が調整されていき……ぴしっ、という音が聞こえた気がした。
「…………」
「あ、の……おはよ?」
「…………ます」
プルプルと震える肩。あ、これは! これは、あのお決まりの! 先生は自分がこの後辿る顛末を察して指で耳をふさぐ。
「先生を殺して!! 私も死にます!!!!」
「ケイちゃん落ち着いてぇ!!」
どうか冷静にという言葉が届くはずもなく、ケイは布団を全てひったくると先生に向けて投げつけ馬乗りになり、しかし本人もどうしたらいいかわからずとりあえず布団越しに目を押さえて動きを封じる。しれっと口を抑えない辺り、優しさを感じるが。
(あああああああなんで、なんであんな考えを!!? あんなに抱きしめたくて、離したくなくて、というかさっきも、戻った先生に、私なんて!?)
「ケイちゃん、とりあえず昨日のあれは必要処置だったし、さっきのもその影響というかなんというか……!」
と言われ、納得できるわけがないだろうとケイの血液は溶岩のように血肉を駆け巡る。
「忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ、忘れろぉおぉ!!!」
どうしたらいいかわからず、とにかく身体を上下に揺さぶってその口を封じようとするのだが。
「んなこと言ったって、人間心理学的に無理だよぉ!!」
「ならさっきの私の行動のすべてを今すぐ消してください、排除してください、除外してください!!」
「そんな事できないってケイちゃんだって分かってるでしょ、てか俺より人体に詳しいでしょ!!」
「ええそうですよ、ならば手段は一つしかありません!! 先生を殺して、私も死にます!!!」
「大事なことだから二回言いました、ってかそうじゃなくて、結果的に今日まで助かったんだから、一旦なかったことにして落ち着かないかな!? かな!!?」
「出来たら苦労しないからこんな風になってるんですよ!!」
だめだこれ、ケイが喚き散らしてオーバーヒートするまで止まらない勢いだ。こうなってしまうと、先生にできることはこの場面を誰にも見られずに終わるのを祈ることしか……。
「先生、ケイ! こちらにいらっしゃいますか?」
オーマイガーこの愛らしい声。ミレニアムの誇るゲーム開発部部員にして、ケイの仕えていた元王女、そして現建前上姉である天童アリスの声。
「ほらね、やっぱりケイが先生のことはなんとかしてくれるって言ったでしょ?」
「そうだけど、なんだか騒がしすぎな……」
プラス、モモイ&ミドリ愉快なコンビ。ドアを抜けた一行と、ばっちり目があった。
「あ、アリっ……!!!?」
ザ・ワールド。時が止まる。アリスは何が起きたのかわからず、笑顔のまま硬直し、モモイは口をあんぐり開けて硬直し、ミドリは顔を真赤にしながら口元を手で抑えつつ、この現場をその目に焼き付けるべく硬直していた。
「せ、せんせ……ケイ……そ、そのかっこ……」
かろうじて口を開いたのはモモイだ。ケイと先生は同時に服を見る。ケイはシャツとスカート、これはまだいい。なんとか言い訳できる。
だが、先生の方はワイシャツ一枚の、素肌がチラつきやすい恰好なうえに、ケイはそんな先生の上にまたがって体を押さえつけて身体を上下に揺さぶっていたわけで……。
「……ぁ、ぁあ、ち、ちちちち、ちがっ、ちが!!」
プルプルとケイの手が震える。目をぐるぐるして涙が浮かんでいる。きっと先生の方に向き直り、「なんとかしてください!!」と目で訴えるも。
「みんな……ケイちゃんは、いいお母さんになれるよ」
「あなたバカなんですか!!? どう考えても今それ言ったら違う意味になりますよね!!?」
訂正しろおんどりゃと肩を揺さぶるケイ。先生は、考えるのをやめていた。
「アリス知ってます!」
びしっ、とアリスが手を挙げる。
「これが、修羅場というやつなんですね!」
「~~~~~~~~~~~~~~っっっっ!!!」
ケイは顔を茹でダコ、茹でエビのように真っ赤に染め、プルプルと震えて涙を浮かべ、その声帯を人生において初の最大可動を行う。
「違うんです、アリスーーーーーーーっっっっ!!!!!!!!」
ケイの絶叫は、シャーレ居住区内に虚しく響き、溶けて消えるだけだった。
了