ードクンー
体が重い。
鉛を括り付けたように、身体が進まない。
ノイズのような頭痛に絶えながら、瓦礫の中をもがき、進み、かすれた視界の向こうで倒れる彼女のもとに向かおうと必死にあがく。
ードクン……ー
口から生暖かい液体を吐き出し、地面を赤黒く染めながらも進む。
『ケイ……ケイ……』
愛する人の名前を口にしながら、地面に転がって動かない彼女のもとへと向かう。
『せん……せ……』
おぼろげな目でこちらを見つめるマゼンタの瞳から色が消えていく。その前に、その前に彼女に触れなければならないと必死に手を伸ばす。
『ケイ……いま、いく、から……』
ード……ク…………ー
それ以上腕が伸びない。彼女の身体から広がる血溜まりが広がり、瞳から光を吸い取っていく。
『せん、せい……いき、て……』
消え入りそうな声で彼女が言う。いやだ、そんな事を言わないでくれ。
『ケイ!! ケイ、だめだ、ケイ!!!』
ード…………ー
耳鳴りがひどくなっていく。視界がぼやけ、ほんの小指一本の距離なのに手が届かない。後もう少しが動けなくて、自分の無力さに絶望する。
『あいして……ま……』
ー…………ー
まるで、魂が抜けていくかのような言葉。それを言い終わる前に、ケイの瞳から光が……ヘイローが、消滅した。
*
「ケイっ!!!?」
深夜。荒い呼吸音が部屋に響き、シャーレ顧問の先生は飛び起きた。
「はぁ……はぁ……」
薄暗い空間に一瞬身体が強ばるが、枕元にあるケイと撮った写真の存在を見て、間違いなく自室であることを認識し、大きく息を吐いた。
「ゆ、め……また、夢、か……」
額に手を当て、滲みでた汗で埋め尽くされてることに気づく。続いて感じる、身体に張り付く冷たい感覚。額と同様、全身から大量の汗が吹き出して寝間着を湿らせていた。
蓄光ライトで光る時計の時刻は午前4時前後。間違いなく自室にいて、さっきまで見ていた物は夢で間違いないと再認識し……
「……っっ」
その記憶の中に、血溜まりに沈む恋人……天童ケイの姿があったことを思い出し、歯を食いしばる。
この一ヶ月で……六回目の悪夢だった。
「……プレナパテス……シロコ……二人とも、この地獄を見たのか……」
手で顔を覆い、落ち着かせようと数回の深呼吸を行う。まだ心臓が体内で騒ぎ続けている。あれが夢で良かったと、何度も頭の中を駆け抜けて……。
(……夢で、済まなくなる日が……もしも来たら……)
この平穏は、保証されていない……明日にも、それは起きるかもしれないぞ……。
そんな囁きが聞こえた気がして、直ぐに頭を振る。頭痛が響いたが関係ない。
いまは忘れたいと無理やり足をベッドの外に投げ出し、床に転がっていた空き缶を数個蹴飛ばす。
(……こんなのじゃもう寝るのも無理だ)
先生はベッドから降り立ち、缶をかき集める。 こうでもしないと、この手に持ってるアルミニウムの容器のように、自分が押しつぶされそうだったからだ。
*
「……やっぱりおかしい」
天童ケイが、ここ数日ほど覚えていた違和感が気の所為ではないと確信したのは、非科学的ではあるが『直感が働いた』からだった。
最近、先生が仕事をこなしているのだ。いや、それはいい。生徒を導く教育者たるもの、自身の仕事を迅速にこなし、対応出来るのは素晴らしいことだと思う。
ただ……その様子を見ると、以前の集中して作業をしている様子とはどこか違う。
ケイはPC作業用の眼鏡を外し、ちらりと机に向かう先生の表情を見る。
(いつもより集中が深い様に見える……いつもならあと一回くらいはコーヒーを淹れにいくのに……いや、仕事に打ち込めてるのはいいことなんですけど……なんだか……)
その違和感の言語化が出来ず、モヤモヤとして後頭部を掻き回す。元名もなき神々の王女の侍女として様々な知識を蓄え、肉体を得てからはその知識を遺憾なく発揮していたが、それが全く役に立たなるのが先生との……つまり、恋人との間柄で発生するエトセトラである。
(前の私なら、本人の成長、教師としてさらなる自覚を強化した、と解釈していましたが……)
嫌な予感というのは、自身に対してこうも不愉快な気分にさせられるのかと、ケイは眉間にシワを寄せる。
「ケイ、修正終わったよ」
ほう、と息をつく先生。やや疲れた笑顔は、少しだけケイの胸をチクリとさせるも、自分がそんなのではだめだと思い直し、眼鏡をかけ直して共有フォルダに出力されたファイルを確認する。
「……はい、大丈夫です。あとはこちらで整えますね」
「たすかるよ……ふぅー……」
ため息交じりに顔に手を当てて皮膚を伸ばす仕草をする先生。ケイはそれを見つめて、やっぱり我慢できないと、まずは当たり障りのない事を聞いてみることにした。
「……先生。最近眠れてますか?」
「え、まぁ深夜まで仕事してるのはいつものことだけど……」
と、少しだけ目をそらす彼の表情は、まさにバツが悪い時のそれだった。つまるところ、今日は眠れてないのだろう。以前過労で倒れた時以降、彼のバイタルの変化を見逃さないようにしたおかげでそれが手にとるように分かる。
そして、寝ろと言っても簡単に寝ないのもだ。このままぐいぐい聞いてもかわされるだけ。なら別角度から調べを入れるのが一番だと、ケイはアプローチを変える。
「そしたら先生。今日は最低限のノルマは終わってますし、今晩お邪魔してもよろしいでしょうか?」
「え……お邪魔って……俺の家に?」
「はい。なんだかんだ忙しくて、行ったことがありませんでしたよね。私が夕飯を作ります。温かい手料理を食べるのも。立派な休息ですよ」
「……そうだね……うん、助かる。お願いしようかな」
よし、成功。素直に提案を受け入れてくれて、ケイは少しだけホッとした。
「そしたら、定時までもう少し頑張りましょうか。ただ、先生は無理しなくてもいいですからね。ほぼ二重チェックを行うだけのようなものですので」
「そうだね……コーヒーでも淹れようかな。ケイは?」
「ならココアで。糖分で頭をぶん回します」
了解と立ち上がる先生に、自身のマグカップを渡し、ケイは肩を回す。さぁ、この嫌な予感が気のせいなら良いのだがと、眼鏡をかけ直して身体のスイッチを入れ、キーボードを叩き出した。
*
ー数時間後、夕方ー
「……意外と片付いてるんですね」
それが、恋人となり、初めて先生の自宅に入った天童ケイの最初の感想だった。
「まぁ、帰れる日も少ないからそもそも散らかりはしてなかったけど……ただ、食器とか食べ物のゴミとかは溜まってたから、朝起きてなんとかしたよ」
「……やれば出来るじゃないですか」
「たまたま目が覚めてやっただけなんだけどね。結果としてケイちゃんと少しでもゆっくり過ごせるから正解だったよ」
「ん、ん゛んっ……そ、それなら……なおさら、よく頑張りまし、た……」
「顔赤いよ?」
「んあーーっっ!! もう、からかわないでください!」
ぽかぽかと背中に叩きつけられる、小さな拳。本気を出せば床を突き破ってめり込ませることも出来るであろうに、彼女の繰り出す一撃は優しく、凝り固まった腰がほぐれそうな力加減。ケイの優しさを感じたのだろう。先生は笑顔で、ごめんごめんと靴を脱ぐ。
「入ろう。今更だけど、本当にご飯は任せて良いの?」
「はい。王道ですけど、やっぱりカレーはハズレがないと思うので。今日はそれで英気を養ってください」
「そしたら、お風呂はこっちで用意するよ。任せ切りも落ち着かないしさ」
「そうですね。お願いしますね、先生」
二人は玄関に入り、食材やビジネスバッグをそれぞれの位置において、先生はジャケットを脱ぎながら寝室に入っていく。
ケイはその間に髪の毛をまとめ上げ、スーパーで適当に見繕って買ったエプロンを取り出し、手早く紐を結んで食材を取り出しはじめる。そのタイミングで部屋着に着替えた先生が出てきて、じっくりと視線を送ってきた。
「……ふーむ」
「な、なんですか……」
「……ふふ、いやね。本当に奥さんみたいだなって」
「~~~~っっ!!」
と、顔を赤くするケイ。先生は察する。「先殺私死!先生を殺して私も死にます!」がやってくるのかと身構えたが……。
「……い、いずれ!! 本当に、そうなる日が来ると、私は、思ってますので……」
後半は蚊の鳴くような声で言い放つケイ。気にしたら負けだとなんとか心を落ち着かせながらピーラーを手に取り、じゃがいもの皮を剥き始める。
(参ったな……ケイもすっかり女になって……)
などと考えているのだろうか。彼がじっとこちらに視線を送り、うんうんとうなずくような気配を感じる。二個目のじゃがいもを手に取ったあたりで、ケイは視線に耐えかねて声を上げた。
「は、はやくお風呂掃除してください!!」
「あ、やっぱ限界ギリギリだったんだ」
「※△○■✕@”3/25$%~~~~!!」
と、爆発したケイの声がキッチンにこだまし、先生はそれを背中に受けながら浴室へと飛び込んでいった。
しばしの間、ケイはふー、ふー、と息が荒かったが、実のところまんざらでもないので気を取り直し、調理を再開する。
「…………」
ふと、もう一度脱衣所の方を見る。中から風呂掃除を始めたであろう、シャワーの音が聞こえてくる。ケイは人参を手に取って皮を剥きながら呟く。
「……ここまでは、いつもと変わらないような気がしますけど」
やり取り自体は、心地よい日常と何ら変わりがなかった。人間、職場から解放されたあとは清々しい気分になるし、ましてや恋人が初めて家に来て食事を作ってくれるといったイベントが有るなら、大半の男は喜ぶものであると、ミドリが熱く語っていた。
(少なくとも、喜んでくれているのは間違いない……けど)
ケイはやはり腑に落ちなかった。彼は男であり、それ以上に「大人」である。
大人というのは心配をさせないために隠し事をしたりする物だ。一度、過去に無茶をした先生を見逃してしまったことがある。今度はそんな事をさせないように、可能な限り立ち回っているが……。
(……けど、過度に探りを入れるのも、信頼してないみたいで良くないですね)
モヤモヤは残る。しかし、過剰な詮索もするものではない。今自分にできるのは、美味しいご飯を作ってあげることだと、ケイは玉ねぎを手に取り、包丁を入れた。
*
翌朝。身支度する先生は、冷蔵庫の中にあるカレーがぎっちり詰まったタッパーを見ながら、ニコニコと笑みを浮かべながらネクタイを締めていた。
「んー、二日目のカレーが楽しみだ!」
そんな彼を横目に、ケイはブレザーに袖を通し、ボタンを締め、鏡の前で軽く襟を整えながら、昨晩のことを思い返す。
(昨日は、結局特におかしなところはなかった……やっぱり気のせいだったのでしょうか?)
鏡に映る先生の姿を見つめる。うきうきとした様子で中身を見つめるそれは、本当に雰囲気だけ見れば少年のそれだった。
「先生、ご飯できてますよ。それは夜までのお楽しみにして、朝の方済ませてください」
「ありがとう。今日は……先に出るんだよね」
「はい。ゲーム開発部の方の制作がギリギリらしいので、その手伝いに」
「ははは、プロデューサーも大変だね」
「まったく、入部した覚えはないはずなんですけどね」
ケイは鞄の中身を確認し、ジャケットを掛けたままのルミナス・ノヴァを引ったくり、ソックスに足を入れる。
「みんなによろしくね」
「はい。朝食をご一緒に出来ないのは残念なんですけど……」
「気にしないで。こうしてご飯を作ってくれるだけでも嬉しいから」
その声色に、ケイは少しだけときめくのを感じ、満更でもない笑顔を浮かべながら立ち上がった。
「……また作ってあげますよ。って、ああもう先生、ネクタイが……もっと見栄えの良い結び方があるでしょうに……」
「あっちは窮屈で……それにこっちのほうが楽だし……」
「シャーレの顧問であろう方が、これくらいは整えてもらわないと……」
ほんと、手がかかるんですから。とケイは先生の胸元に手を伸ばし、手早くほどいて左右のバランスを整えて再度結び始める。
「いやでも、もう皆にバレてる……」
「なおさらです。『やる時はやる』という示しをつけるんですよ」
はい、できました。ケイは先生のネクタイを結び直し、満足げに見つめる。シワがちょっと残ってるが、まぁ許容範囲だろう。
「そしたら行ってきますね」
「あ、玄関まで行くよ」
荷物を抱え、後ろに先生の気配を感じながらケイは玄関に向かい、自身の靴に足を入れて手早くかかとを整える。
「あとで時間があればシャーレにお伺いします。お昼、ちゃんと栄養のある物食べてくださいね?」
「ははは、善処するよ……その、ケイ」
「はい?」
「…………よ、よければだけど」
ぽりぽり、と頬を指でひっかきながら少しバツの悪そうな顔をする先生。なにか言いたいことがある? と思ったが、唇がほんの少しモゴモゴしているのを見て察した。
「……意外とベタなことが好きなんですね」
「王道って、一番だから王道って言われるんだよ」
「モモイもそんなこと言ってましたね……」
ちょいちょい、と手で屈むように促す。先生はちょっと照れた様子で中腰になると、すかさずケイは先生の唇に自身の唇を軽く触れ合わせた。
「……はい、朝はこれくらいにしてください」
「け……ケイちゃんったらいきなり俺の唇を奪っちゃって……」
「バカ言ってないで、先生も早くお仕事に行くんですよ!」
「あいたぁ!!」
ぱぁん、と軽く尻を叩き、ケイはドアノブをひねって外に出る。本日は快晴、傘も何もいらないだろう。
「そしたら先生、いってきま……」
「ケイ!」
ぎゅ、と手を捕まれ、ケイは引き止められる。少し驚きながら振り向くと、なぜか同じ様に自分の行動に驚いた様子の先生がいた。
「……どうかしました?」
「あ、いや……あのさ。迷惑じゃなかったら……また来ない?」
「え?」
「ほら、ご飯美味しかったし、家で一緒にプライベート過ごせるのって……けっこう、嬉しかったからさ」
と恥じらいと戸惑いを混じらせた表情で言う先生。その姿が、寂しさを訴える子供の様な表情と重なった。
「……構いませんよ。というか、可能なら今晩もまた来ようかと思っていたくらいです」
しばらく、通って見て彼の様子を伺おう。ケイは悟られないように決心する。
「ほんと、良かった。そう言ってくれると仕事も頑張れるよ」
「ただ、今日はゲーム開発部の修羅場に付き合うので、ちょっと何時に来れるかわからないんですけども……その都度連絡しますね。カレーは先に食べてて大丈夫ですから」
「楽しみにしてる。ありがとうね、ケイ」
「それではいってきます、先生」
「いってらっしゃい」
玄関を抜け、ゆっくりしまっていくドアの向こうに手を振り、ケイはそれが閉まり切る直前で前を向き、ミレニアムに向けて走り出した。
*
「まったく……モモイだけでなくミドリまで納期に間に合わないようなデザインで押し通そうとするんですから……!」
夜10時を回ろうかという時間。住宅エリアを走りながら、ケイは才羽姉妹の愚痴をこぼさずにはいられなかった。修羅場でおかしくなった二人が、土壇場で新要素やデザインをねじ込もうとし、それを止めるために押し問答してこんな時間になってしまった。
先生の自宅に続く道を息を切らしながら進み、ようやく彼の自宅が目に入る。リビングの窓が明るくなっていたので、とっくに帰宅していることを察して飛び込むようにインターホンを押した。
「……あれ」
応答がない。あれだけケイが来るのを楽しみにしていたのに、30秒経過しても応答がなかった。
「…………」
もう5秒ほど……ケイは待機しようかと思った。しかし、以前似たような状況で中に入ると、先生が過労で動けなくなっていたことを思い出し、背筋が冷たくなって反射でドアノブに手をかけた。
(待って……落ち着いて。こういう時の最悪な事態は大半は起きない、まずは落ち着いて……)
ドアノブを捻る。カチャ、と扉が開く。鍵もかけずに、不用心にもほどがある……と思い、もしも鍵をかけられないような状態だったら? とまたも不安がよぎる。
「先生? 先生、いますか?」
玄関に靴がある。外出の線はまず消える。ケイも素早く靴を脱いでスリッパに履き替えると、脱衣所、リビングの順番で部屋を確認する。机の上には数個ほど転がったビールの空き缶。朝にはなかったから、少なくともさっきまではいたはず……。
(……いつもより、多い?)
ただ、今は先生の存在を確認することが最優先だと、意識を振り切る。残るは寝室となり、ドアノブを掴む。すると
「ーーケイ」
向こうから先生の声が聞こえた。よかった、と思わずケイは安堵する。やっぱり心配のしすぎだったかとため息を吐き、とりあえず様子を見ようとドアを開こうとしたときだった。
「ケイ……血……きて……」
「私……?」
一体何を? ケイはドアノブをひねり、部屋に入ろうとしたときだった。
「ケイッ!!」
「っ!?」
ほぼ同時だった。ドア開いた瞬間、先生が上体を起こしてベッドの上で飛び起きる。その顔からは汗が吹き出し、半端に脱いだシャツをびっしょりと濡らし、放心した顔でケイと目があった。
「せ、先生?」
「……ケイ……ぁあ……そうか……夢か……また……」
「夢……」
その言葉と、汗に包まれ、疲れ切った彼の顔を見てケイは理解した。
(やっと見つけた……)
これだったのか。彼の心に負担を押し付け、じわじわと蝕み逃げ場を奪っていこうとした物は。この様子、間違いなく一度や二度の事ではない。ケイは荷物を放り出し、先生の元へと駆け寄ると、彼の汗でにじんだ手を構わず握りしめた。
「先生、しっかりしてください。まずはちゃんと呼吸をして」
「ああ……ありがとう……本当に、ケイだ……」
バツの悪そうな笑みを浮かべ、空いている手で顔を覆う先生。その呼吸はようやく落ち着きを取り戻しつつあるようだった。
「……先生。教えて下さい。最近、どこかあなたの様子に違和感を覚えていました。その悪夢が原因で間違いないですか?」
「……そう、だね………」
「……お水を持ってきます。そのまま待っててください」
ケイはすぐに駆け出すと、一旦脱衣所に入ってタオルを取り出し、次いで買い置きしておいたミネラルウォーターを引ったくる。寝室に戻り、タオルを手渡し、ボトルの蓋をひねり、先生に渡した。
「ゆっくりでいいですから飲んでください。隣にいてもいいですか? ……いえ、やっぱり答えなくていいです。私が座りたいから座ります」
「は、はは……こりゃ敵わないな……」
すとん、とケイは隣に座り、肩を寄せる。先生はさっきまで見ていた夢を飲み込むように、ごく、ごく、ごくと喉を鳴らし、サイドテーブルにボトルを置いて語り始めた。
「……ケイが、死ぬ夢を見たんだ」
絞り出したその一言。沈黙が数秒続き、ケイは彼の手を今一度強く握った。
「もう……今月で7回目だ。俺は動けなくて、必死に手を伸ばすのに、ケイの身体から血がどんどん溢れて……同時に頭の中で声がするんだ。今の幸せは明日にも終わるかもしれないっていう囁きが。自分でも、おかしいと思う。ケイはここにいる……毎日も平和……と言うには少し賑やかすぎるかもしれないけど、誰かの命が危なくなることは最近はない。でも……」
そこで先生の言葉が止まる。ケイはそれ以上は彼の負担になると判断し、自ら代弁する。
「……実際、明日はどうなるのか……分からなくて、それが怖くなってしまった、ということですね」
「……本当にそのとおり」
自嘲気味に笑う彼の横顔が、ケイの胸にチクリと刺さった。
「ほんと、明日はどうなるかわからない……そんな事は起きさせはしない……この心は忘れないようにしてる。けど、起きたんだ……『あちら側』では」
「……アトラ・ハシースのプレナパテス……」
自分もかつて世界を滅ぼす『鍵』として存在したものとして、アリスを送り出した後に起きたことを知るために、特異現象捜査部で閲覧したレポートを思い出す。
「ケイといると本当に幸せで……けど、得たものを失うという怖さに気づいてしまった……」
「先生……」
ケイは昨晩の先生の行動を思い出す。密着したかったのは、ケイの存在を強く感じていたかったから。その一方で、触れれば触れるほど、失ったときの恐怖も増すことを彼は抱えていて……。
「あの世界は、形こそ違えど……今の俺が恐れている結末を迎えた世界で……シロコは……あっちのシロコは、それを見て……」
「先生、どうか……」
しっかりして、と言いかけてケイはその声帯を封じる。今彼にその言葉をかけるのは違う。しっかりしなければならないというのは、先生が一番知っているからだ。
(先生……私は……ここにいます……でも……)
この世に絶対はない。ケイはこの世に生を受けた今、何が何でも生き延びると決意している。その考えに揺るぎはない。
今こそ、鍵として蓄えた知識を活用して、彼の心を救う言葉をかけるべきなのに……
その思考の結果が……『どんな言葉をかけても、彼の行き着いた可能性を否定することは出来ない』だった。
(ちくしょう……)
肉体を得て、人を知り、人を愛さないと得られない、感情を理解して得た思考の結果がこれなのか。
(この人は、こんなにも脆いのに……やっと、私にその危うさを見せてくれたというのに……)
ケイは歯を食いしばる。
(今の私には……先生をこの苦しみから解放する言葉が、ない……)
時計の針の音が、やたら大きく聞こえる。ケイの腸は煮えくり返りそうだった。これがもし、誰かの仕組んだことだったら、塵一つ……いや、原子に戻すことすら許すつもりはない。
(でも…………)
それでも、切り札じゃなくても、ケイにはまだ手札がある。自分が存在する以上、決して消えることのない手札が。
「先生、少し手を離します。すぐ戻ります」
ケイは、一旦先生の手を離して立ち上がる。彼が胸を痛めたような表情を浮かべたが、直後にブレザーのボタンを外すと、ジャケットと一緒に脱いでまとめて床に放る。
その手は止まらず、胸元のネクタイを緩めて同様に放り投げる。その突拍子もないケイの行動に先生はぎょっとする。
「け、ケイ……?」
驚く先生をよそに、ケイはシャツの第二ボタンまで開けたところでベッドに乗り、先生の後ろに回る形で座りなおした。
「……先生。こっちに来てください」
「え?」
「いいから、来てください」
ケイは両手を伸ばし、じっと見つめる。
「……わかった」
先生は自身もベッドに乗り、這い寄るようにケイに近づく。その光景が一瞬血溜まりに沈むあの夢と重なり、頭が冷たくなり、手が止まりかけて……。
その隙を与えずケイは先生の頭を包み込み、自身の胸に押し込んだ。
「先生。まずは謝ります。今、あなたが至ってしまった可能性を消すことは私には出来ません」
すり、とケイは鼻を先生の頭に押し付けながら言葉を重ねる。
「私は、どんな手を使ってでも生き延びます。あなたの前から消えることは、絶対にしません。でも……それでも、別れは来ます。明日かもしれない、何十年も後かもしれない……人である以上、訪れる結果はやってきます」
抱きしめる力を少しだけ強める。先生の手がケイの腰に回り、それに答えるように力を込める。
「それに気づいた時、人は備え続け、怯え、一生背負って生きていく……先生は、それに気づいてしまったんです。この先を歩むには必要なこと……でも」
全ての人間が、それに耐えられるわけじゃない。人はいびつだ。自身を覆う曇りや、闇に耐えきれなくなる時が訪れる。
(なら、私に出来ることは……)
「……先生。よく聞いてください」
ケイはぎゅっと力を込め、自身の心臓の位置に先生の耳が当たるようにする。
「聞こえますか?」
先生が目を閉じる。すぐに、『ドクン、ドクン』という音が、ケイの胸の向こうから聞こえてきた。
「……ケイの音が……聞こえる」
「はい。しっかり聞いてください。『いつか』を考えるのは必要なことです。それに心を打ちのめされることもきっとあります。これは人に与えられた平等な呪いなのでしょう。でも、忘れないでください」
ケイは一層腕の力を強め、すがりつくように、離さないようにと彼の頭を包み込む。
「今、この瞬間……『私』は、生きています」
ケイの切り札。それは、『ここにいる自分そのもの』。
「どうか、私を見失わないでください」
いつか、を打ち砕くことは出来ない。それでも……それでも『今』はこうして側にいる。
その『今』を与え続け、這い寄る闇に包まれそうになる彼の心を何回でも晴らしていく。
それが、ケイの持つ手札。自身がいれば消えることのない、彼の心をつなぐ鎖。
(離さない……絶対に諦めてたまるもんか……)
ケイは、この終わりのない可能性に抗い続けることを覚悟する。この先、愛する人を害する存在は全てなぎ倒してやる。
(この身が朽ち果ててでも……屍になってでも守り続けてやる……)
「……ケイ」
彼がシャツを掴む。少しだけ、胸元が温かいなにかで湿っていく感じがしたが、構わず彼の頭を撫でる。
「……しばらく、そうしてて」
「はい。いくらでも」
ードクンー
その日……先生は夢を見なかった。深く、沈み込んで何も感じない、まるで死後の世界のような空間だった。
ードクンー
ただ。恐怖はなかった。
むしろ、心地よかった。
ードクン……ドクン……ー
その闇の中で響く恋人の心音が、途切れることなく響き続けていた。
まるで、『絶対に彼を諦めない』と。
忍び寄る闇を蹴散らすかのように、響き続けていた。
了