「ケイちゃんと……海に行きたい……むにゃぁ……」
学園都市キヴォトス、連邦生捜査部シャーレ執務室内。買い出しを終えて執務室に戻った天童ケイを迎え入れたのは、本当に寝て言われる寝言だった。
「正しく言われる寝言なんてあるんですね……」
呟きながらケイはルミナス・ノヴァをガンラックに立てかけると、買い出した荷物を所定の場所に収納していく。さて、睡魔がほんのりとやってくる昼食後の目覚ましに、コーヒーでも淹れようかとメーカーの電源を入れたあたりで、先生が起きる気配がして。
「ケイちゃんと海に行きたい!!」
と、リプレイをしながら飛び起きた。ごぼごぼと豆を砕き、ドリップする音を聞きながらケイはモーニングコールを返してやる。
「先生。おはようございます」
「おはようケイちゃん、買い出しお疲れ様!! というわけで」
「海に行くにはだいぶ早いと思いますよ」
「なぜバレたし!?」
「さっき寝言で言ってましたので」
「言ってたんだ!!?」
言ってましたよ。と答えながらケイは注がれた一杯目のカップを取り出し、自分の分を淹れる。
「あなたが欲求に正直な人間で助かります」
「いやぁそれほどでも……というわけで!!」
「どういうわけなんですか……」
「海に!! 行こう!!」
「…………はぁ」
この勢い。それなりな日数共に過ごしたケイは察する。多分、これは聞かないやつ。
しかし当番生徒兼恋人として、それなりに対話をこなさなくては手綱の意味はないし、こういう時は形を少し変えて対応するものだと言うことも学んだので、淹れ終わったコーヒーを差し出し、自分も一口入れる。
「では行くことのメリットを聞きましょうか」
「まず。癒やされる! 見てよこの書類の数! やってもやっても減らない!! 先生だってたまには羽を伸ばしたいんだ!」
「シャーレの宿命みたいなものですからね」
「続いて、今年のゲーム開発部はケイちゃんの参入もあり、この前出した新作泣きゲーの実績で部費もアップ。それに伴って夏合宿を計画していると聞いた。なら、その下見に行くのはより円滑で安全な郊外活動に繋がるのではないかな!!」
「……それは一理あります」
「そして、なにも四六時中遊ぶわけじゃない! いいかい『ワーケーション』という休暇もいまはあるんだ!」
「ワーケーション……働くことの『Work』と、休暇の『Vacation』を組み合わせた造語ですね。つまるところ、旅先で休暇の合間に仕事をする用意はあると」
「そのとおり! だから昼は海を見て心を癒やし、夜には宿に戻ってから持ってきた仕事をこなして……しご、とを……こ、こなして……」
それまでの勢いが急に減速する。ケイはやっぱりなと思いながらもう一口コーヒーを淹れる。
(ワーケーションなんて言葉、そもそも矛盾だらけなんですけどね)
ケイがその思考を終えるのと、先生が机に突っ伏し、おいおいと声を上げるのはほぼ同時だった。
「なんで休暇しに来て仕事しなきゃいけないんだよぉおおぉおお!!!」
「美しい自爆ですね」
「いやだぁあああケイちゃんと海に行きたあぁああい!!」
「建前もひったくれもない情けない本音……」
がばっ、と先生は起き上がり手を大きく降って『それに!』と熱く語りはじめる。
「仕事仕事、仕事ばかり! ケイちゃんと交際してそろそろ良い時間も経って、それなりにデートや自宅デートもしてきた……でも、たまには遠出したいじゃん!! 遠くの地で、すべてを忘れて、愛し合う二人で、デート!! 夕日の海を眺めながらロマンティクスしたい!!」
「もはや隠す気もない」
「それに!! ケイちゃん、海見たことないでしょ!」
「鋼鉄大陸では散々氷河の合間にある海なら見ましたけど……」
「ちがあぁあああうう!! 否、断じて否!! 学生が見に行くべきは常夏の日差しに照らされたギラギラの青空と入道雲、そしてその白く輝く砂浜!! そこをケイちゃんと歩きたいんだ、わかる!? 分かって!? あ、でも『今は夏じゃないですよね』ってツッコミはなしね! それは分かった上で今行こうって思ってるんだ、で す の で !!! ご理解の程よろしくお願いいたします!!!」
ぜーぜーと息を切らしながら、先生は再度机に突っ伏した。
(やりきった感出してますけど、言ってること丸切り欲望なんですね……)
ただ、言っても野暮なだけなのでケイはそっとしておく。するとさっきとは打って変わって、か細い先生の声が机を響かせながら漏れ出した。
「……夏休みなんて、忙しくなるの確定で時間取れないだろうし……行くとしたら今くらいしかないと思うんだ……」
切実な本音だった。はぁとケイはため息をつく。さて、本人からしてみれば海に行きたくないのかと問われれば……
(行きたいに決まってるじゃないですか)
ケイも今や華の女子高生。その身を持って経験した人としての日々は、かけがえのない青春の1ページとしてその厚みを増し続けている。
その厚みを先生との思い出で増やすのはこの上なく幸せだし、願ってもいる。
が。下手にそれをすると、今度は仕事という書類の厚みが物理的に増えていくのだ。
(ただでさえ、先生に毒されて最近甘くなってしまってるのに……)
ずずず、とケイはコーヒーの苦味を味わう。ああ、もう少し砂糖を入れて思考に回したら、もっと自分に厳しく出来たかなと考え、カップを机におく。
(……また何日までに仕事終わらせたら、とか条件つけたら前みたいに無茶しかねないのは目に見えてますし……)
仕方がない。また先生があんな目に遭うよりはましかと、ケイは嘆息した。
「そしたら先生。来週に提出予定の予算関連の書類がありましたよね」
「え、うん。まだ半分以上終わってないけど」
「週末、それを持って海に行きましょう。ゲーム開発部のための視察旅行……も兼ねた、ワーケーションというやつです。私も手伝いますから」
「…………ほんと!!!!?」
ドカンと立ち上がり、勢いづいた椅子が壁にぶつかって倒れかけるのを先生は慌てて抑え込む。
「ならすぐ宿を予約する!! ちょうどいいところがあって、合宿もOKなんだ! 近くにはハイランダーの鉄道も通ってるし、宿までタクシーもバスもあって……ああでもバスは少ないからタクシーのほうが一番便利だけど、あとごはんがそれでこれであれでこれで……」
ずばずばとキーボードを叩いていく先生。随分と手際が良いが、おそらくこれは以前から計画していたな? とケイは察する。
(……ほんと、この人は私のためだったら音よりも早く動くんですから)
ケイは微笑むと、そっと先生の背後に周り、予約画面を一緒に覗き込む。どうやら夕食のメニューで悩んでいるようだったので、ケイも指差し、二人でどれを食べようかと花を咲かせることにした。
*
「春だ、海だ!!」
こてこてのテンプレを言いながら、先生とケイは砂浜にいた。青い空、白い雲……は、まだ冬の残り香を残した優しい輪郭だったが、じりじりと照りつける初春の日差しは心地良い程度に肌を焼いていて、海に訪れるには程よい気候だった。
「気温も丁度良いですね。上着があると少し暑いくらいです」
「そう! いやいいね、風もそんなに冷たくない……し……」
と、先生はケイに顔を向けると、上から下までじっくりとその目線を張り巡らせた。
「……なんですか?」
「ケイちゃん」
「はい」
「なんで制服?」
「視察ということは宿や各交通網に挨拶をするので、正装で行くべきかと」
「ノン!!!」
首を大きく振り、身振り手振りを使って先生は声を張り上げる。
「ノン……ああ、『Non』、ですね。仏語の『No』や『いいえ』を意味する単語。先生よくご存知でしたね」
「そうそう、割とそこは英語っぽいんだねって違う!! ケイちゃん!? こういう時の色白系白髪美少女の服装って麦わら帽子に白ワンピじゃないの!? 透き通るような世界観は!?」
「アニメの見過ぎです。それに、今日はあくまで視察がメインで休暇がサブです。メインを優先するのは当然ですよ」
秒殺である。この建前のために来ているのだから、リンも納得して承諾してくれた。成果として、ゲーム開発部の合宿を円滑に進めなければならないのだから、適当は出来ない。
「うっ……うっ……おっしゃるとおりです……」
肩をがっくりと落とす先生。しかしそれ以上は何も言わず、唇をぎゅっと紡いでケイの考えを飲み込んでくれているようだった。
「……まったく」
そっとケイは先生の手を握り、軽く引っ張る。
「先生。それより見せてくださいよ。本物の海を」
ケイはじっと先生の瞳を見つめて期待の眼差しを向ける。しょぼくれていた顔に光が戻った。それ以上、言葉はいらない。先生はそっと手を握り返した。
「……上手だね、ケイちゃん」
「何のことですかね」
「……ありがと。近くまで行こうか」
「はい!」
盛り上がっている砂地に向けて歩き出し、時折柔らかい砂の感触にケイは足を取られながらも、先生がその手を握って支えてやる。
「結構深いところもあるんですね……」
「爪先からいくとこけやすいから、かかとから行くと良いよ」
「はい……あと、もう少し寄ってください……」
と、ケイは先生の腕にギュッとしがみつくようにする。先生は少し照れ笑いを浮かべて「エスコートしますよ」と歩みを進める。すると……。
「……あ」
砂の山を超えた瞬間だった。ケイの耳に、波と波がぶつかり合う音が鼓膜をくすぐり、足を止める。
「聞こえた?」
「はい」
そのまま耳を澄ませてみる。ザザ、ザザ……と打ち寄せる波の音がまるで鼓膜の中から聞こえてくるようだった。
目を下ろすと、エメラルドグリーンの海水が揺れ、白波を立てて何度も何度も海と陸の境目の形を変えていて……。
その沖合の向こうに目を向けると、エメラルドグリーンからコバルトブルー、そしてはるか深く吸い込まれそうな濃紺が、はるか彼方まで続き、空との境目を作っていた。
「あれが……水平線なんですね」
「うん。もっと先まで行こうか」
ゆっくりと砂浜を下り、やがて海水で固められた波打ち際のすぐ目の前までたどり着き、ケイは一人先に進んでみる。
「これが、潮の香り……」
駅に降りた時点で、ほんのりと香りはしていた。しかし、目の前まで来るとその密度はぐっと増して、まるで生命力そのものが鼻腔に流れ込んでくるかのような物量で鼻腔をくすぐった。
「わ、わ……っと」
気づくとケイの足は波打ち際ギリギリまで進んでおり、つま先に海水があたっていた。ひやりとした感触に、思わず一歩下がる。
「ははは、あんまり行くと派手に食らうよ」
「もう……」
と少し顔をふくらませるケイは、少し距離を置いてもう一度波打ち際を見つめる。白波が砂の上にかぶさる瞬間で、少しだけ乾いた地面を濡らし、巻き上がると同時に砂も一緒に巻き込んで押し寄せて透明になる。
勢いをなくした海水は、そのままシュワシュワと炭酸のような音を立てて砂の中に溶けて消え、そしてまた波がそれを上書きして……。
波が二回……三回と打ち寄せられて……一切同じ動きが訪れない波の動きにケイは魅入っていた。
「……本当に、生きてるみたい」
そのマゼンタの瞳を塗りつぶすかのようなディープブルーがいっぱいに広がっている。この水面を進み続けても、きっとしばらく景色が変わらない。こんな膨大な水が広がり続けていると思うと、ため息を漏らさずにはいられなかった。
「どう?」
「……はい。本当に……綺麗です」
「これが……ケイや……皆が守った景色なんだよ」
そう言われ、ケイはもう一度水平線を見つめ、鋼鉄大陸で見た光景と重ねる。ビルの上で見つめた、鉄と空の境目。それは冷たく、暗く、見るだけでも冷たさを覚える印象のそれで……。
あの時、止められなければ……ここも、そうなってしまっていたのだ。
「……だから、私をここに」
「……まぁ、理由の一つだよ。ケイちゃんと海に行きたかったのは本当だしね」
何度思い返しても、辛い戦いだった。キヴォトスを守るために、失った物はきっと小さくない。先生は、時折現れるトラウマにさいなまれるとしても……向き合い続けて、それすらも糧にして生徒たちを導こうとして……。
(私に……ここで生きていく為の糧を、いくらでも教えてくれる……)
ケイは胸に手を当て、きゅっと握る。
「ありがとうございます、先生」
すると、ケイはソックスをおろし、そのまま靴のジッパーも開けると、ソックスごと靴を脱ぎ、反対も同様にして裸足になる。
「足だけ浸かりませんか?」
「お供するよ」
先生も革靴を脱ぎ、裾をまくりあげるとケイの手を取って波打ち際に歩んでいく。まだ冬が僅かに染み込んでいる砂に足裏が触れると、ひやりとシャーベットのような冷たさを感じた。
「んっ……さ、すがに……」
「んひぃい、やっぱり多少日差しがあるとは言え、冷たい……」
ケイは不慣れな冷たさに耐えかね、ちゃぷちゃぷと水音を立て足で跳ね回る。するとどうだろう、意外と砂の肌触りが気持ちよく、動いてみれば体温も上がって意外と早く慣れてきた。
「……なんか、変に楽しくなりますね」
「『ぴっちぴっち、ちゃぷちゃぷ、らんらんらん』って言うし、生き物の性なのかもね」
「……いやそれ雨の歌ですよね? 『あめふり』ですよね?」
「さっすがケイちゃん、博識ぃ」
突っ込み役よ、ありがとう! と言いたげな笑顔。なるほど、掌の上で私を踊らせたのですね。ケイは少しだけ癪だったので、波が寄ったタイミングで思い切り足を振り上げた。
「うわっぷ!! く、口に、しょっぱ!!」
「私で遊ぼうなんて考えるからですよ」
「おのれお返し!」
「わっ!? ちょっと!」
「先に手を出したのはケイなんだからね?? こっちは口しか出してないからね??」
「こ……の……白々しい大人が!」
そういうケイの表情は笑顔で、もう一度足を振り上げて海水を巻き上げる。
「おっぶ、うおおズボンが!」
「くらえ、海水攻撃!!」
「ネーミングセンス! くらえ海水拳!!」
「っぷはっ、そっちも大概じゃないですか!」
「お互い様だ! 争いは、同じレベルの人間同士でしか、起きないんだ!」
「時には身の程を知らない格下に、その愚かさを分からせることも必要なんですよ!!」
手で、足で海水をひっかけ合う2人。バシャバシャと音が鳴るたびに、海水と大気が触れ合っては落ち、砂が混ぜられて渦を巻き、ほんの少しだけ地形が変えられていく。
その地形はやがて人の足のバランスを奪うのに最適な形状へと変化していき……ケイの沈んだ踵を、ぐにゃりと飲み込んだ。
「っ、わ、きゃっ!?」
「ケイ!?」
ざぶんと音を立てて先生は大きく一歩踏み込み、なんとかケイの手首をつかむ。ジャケットがギリギリ海水に触れていたが、なんとか身体は入水せずに済んだ。
「……あ、ありがとうございます、先生」
「ごめんケイちゃん」
「……はい?」
ケイは先生の足元を見る。プルプルと震える膝下。2人で起こした海中の地鳴らしは、ずる、ずるずると先生の足も飲み込もうとしていた。
「……2人でお風呂入ろうか」
「……あ゛あ゛ーーーー」
ざぶん。誰もいない初春の海岸に、2人分の入水音が響き……よせる波の音が、まるで何事もなかったかのようにその喧騒をかき消した。
*
「ううう仕事したくない……」
「休暇は終わりですよ。ほら、手を止めないで」
派手に海水を被り、2人で入浴して夕食を終えた夜。机の上にはノートPCとシッテムの箱……その他提出用の予算案書類が並べられ、その束を切り崩すべく二人は奮闘していた。
「先生、ここの桁が間違ってます」
「うおおお訂正印……」
「これは……はい、大丈夫です。あと半分ですよ、これなら日付をまたぐ前に終わります」
「終わったら枕投げしよ……」
(逃避に意識が向きすぎて思いつくことが小学生並みになってますね……)
やれやれと思いながらも、ケイは腰を上げて急須を片手に魔法瓶を手に取ると、あつあつのお湯を注いで持ち帰る。
「先生、追加のお茶です」
「ん……」
ずずず、と一気に半分ほどお茶を飲み込んだ先生は、最後のスパートをかけるつもりなのだろう、ついに無言になって目をギラつかせて中身を読み漁る。
(見てて飽きない……オンオフが分かりやすい)
さり気なくケイは真正面に周り、先生の顔をじっと見つめる。ひょいとチェックを終えた書類が手渡され、それをチェック。問題なし。もう一枚、二枚とケイの手元に書類が送られる。ふむ、いい調子。
さらにその流れをもう一時間。気づけば先生の目の前にあった書類はすっかり切り崩されていた。最後の一枚がケイの手に渡り、修正箇所にチェックをして訂正印。処理済みのファイルケースに入れて、ついに憎き書類達の殲滅を完了した。
「はい、お疲れ様でした」
「お、おわったぁぁあぁ……」
どさりと畳の上に転がる先生は、目をぐるぐると回していた。
「ふふふ、ふふふ……これで、これで正真正銘のばけいしょんに入れるんだ……」
「帰りの電車は明日の午前ですから、早寝してくださいね」
「今すぐ山海経から子供になれる薬取り寄せてくれないかな、俺もうね、逃げる……」
「寝言は寝ていってください。それに、いいんですか?」
ケイは立ち上がり、密かに用意していた保温ケースの中から温まった徳利を取り出した。
「子供になったら、熱燗なんて飲めませんよ?」
「……ケイちゃん!!」
「宿の人に用意してもらいました」
「出来る女!! 侍女の鑑! 俺のお嫁さん!!!」
はいはい、嬉しいですよと言いながら、ケイはお盆に載せた熱燗を先生の前に置く。ご丁寧に枝豆付きだ。
「私は気分だけ味わうので、お猪口にラムネで失礼しますね」
「それも美味しそう……子供の頃やったなぁ」
「では先生、注がせていただきます」
「ん、くるしゅうない」
とくとくとく……と流れ落ちる日本酒。波々と貯まり、しかし絶妙にこぼさない量を注ぎきったケイは、ラムネ瓶に持ち替えて自身の分を注いだ。
「それでは……この世の全てとケイちゃんに感謝を込めて……」
「はい、お疲れさまでした」
キン、と陶器が触れ合う音がして先生はその一口を一気に煽る。口の中がかっと熱くなり、鼻を通る香りが心地よく、そして喉を通る焼けるような熱とアルコールが染み渡った。
「っ~~~~、!!」
にっかりと出た白い歯が、その喜びをこれでもかと表す。
(まったく分かりやすい)
愛する人の笑顔を肴に、ケイもなんちゃってブドウ糖オンリーノンアルコール日本酒(ラムネ)を口に入れる。溶け込んだ二酸化炭素が口の中で弾けて心地よかった。
「染みるぅ……」
「おじさん臭いですよ」
「いいじゃん、やり遂げたあとのお酒はやっぱり格別だ……」
ケイが空いたお猪口に向けて徳利を傾け、先生は軽く会釈してもう一杯口に含んだ。
「なら用意した甲斐がありましたね。この地元でよく作られてる種類らしいですよ」
「へぇ、後味がいいから、こういう解放された気分で飲むのと相性がいいね」
「旅館の方が運営してる、隣の酒屋で買えるそうです」
「ええい女将さんにしてやられたな……三本は買おう」
「二本にしてください。持って帰れないですよ」
「あい……」
「……そうだ」
ケイは立ち上がり、それまで集中するために閉めていた障子を開ける。
「……おお」
「太陽の位置からして、今晩辺りいい位置で見えるかと思いまして……先生と一緒に、月を眺めながらともに過ごすということをしてみたかったんです」
窓の外に広がるのは夜の帳で覆われた海岸と海。そしてその帳を月明かりが照らしていた。
「ケイちゃんって……ロマンチストだよね」
窓辺に腕を置き、先生は窓を少し開けて、入り込んだ夜風が体を撫でた。
「それを言うならあなたが、ですよ」
ケイは先生の隣に座り、同じく月を眺めるとお猪口の一口を含んだ。
「先生の方こそ、『ケイと一緒に眺めたい』とか『一緒に行きたい』など、言うものですから、すっかり私にも移ってしまいました」
「あれ、そうだっけ……」
「そうです。ま、先生にとってはほぼ呼吸と化してますから、ほとんど気づいてないのでしょうけど」
どうぞ、とケイは徳利を傾けてもう一杯を注ぐ
「ははは、面目ない」
「お陰で、私の方もすっかり毒されてしまいました。先生と見たいものが、いくらでも浮かんでしまいます」
「……へ、へへ、こうして言われると……照れちゃうね」
少し酔いが回ったのか、いつもの軽口が出てこなくてケイは少しだけ戸惑い、思わず口にしてしまう。
「……ああもう、なんでそこはいつものあれを言わないんですか」
「あれって?」
「あ、あれといえば……あれですよ……」
もじもじと居心地が悪そうに体が揺れるケイ。お手洗い? とアルコールの回った先生は素でそう思ったが、ぴこんとひらめいて、彼女の頭の上にぽんと手を乗せる。
「……ケイちゃんって可愛い」
「……もう一回言ってください」
「ケイ、可愛い」
「……よし」
負けた気がするが、わしわしと撫で回されるその手の感触が心地よくて……ケイは羞恥に目を瞑り、その大きな手を頭でじっくり味わいながら、ケイは先生の言葉を思い返す。
『これが……ケイや……皆が守った景色なんだよ』
ああ、そうか。
(私達が守ったのは、この景色だけじゃなかったんですね……)
*
翌朝。いい気分で眠りに就いた先生は、モモトークの通知音で目を覚ます。時刻は夜明け前、窓の外がほんのりと光を浴び始めている頃だった。
「……ケイ?」
隣を見ると、ケイの姿がなかった。どこかに行ったのだろうかとあたりを見回すが、先程眠りながら聞いたモモトークの通知音を思い出して画面を開く。
『海岸で待ってます』
先生はすぐに起き上がると、ケイが畳んでくれていた新しいシャツとスラックスを手に取り、ばたばたと外へ出る。海の方を見ると、曙を迎えた空と海がゆっくりと目覚めていくように色づいている。
その砂浜の上に、目に入れても痛くないであろう、見慣れた白髪が見えて、先生は足を踏み入れる。
「ケイ?」
先生の呼びかけに、ケイは振り向く。それと同時に水平線から太陽が現れ、世界に朝が来たことを告げる。
「おはようございます、先生」
朝日に照らされた、透き通るようなケイの笑顔が眩しく光る。その輝きと、彼女の纏う衣に、先生は息を呑んだ。
「その服……」
「こういう格好が、お好みなんですよね?」
ひらり、とスカートを揺らす彼女の服装は、白いワンピースに薄いピンク色のショートカーディガンを羽織り、その頭には麦わら帽子を被っている……まさに、昨日先生が所望してやまなかったすべてを着こなしていた。
「綺麗ですね」
言葉を失う先生をよそに、ケイは呟きながら海へと向き直り、冷たさと暖かさの入り混じった潮の香りを大きく吸い込んだ。
「天童ケイになって、今日までのことを考えていました。身体を得て初めて理解できる、『経験』を、もう数え切れないほどしたつもりでした。でも、結局のところ、その経験は知識の1%にも満たず……それを100%にすることは、きっと叶わないんだと理解しました」
少しだけ目を伏せ、ケイは先生の瞳を見つめる。その仕草は先生の心臓を撃ち抜く。もう、何度も撃ち抜かれて耐性がついていたと思っていたのに……。
彼女の魅力は、まるで無限の可能性で溢れているかのように、先生を掴んで離さなかった。
「でも、それは不幸なことじゃないということも、同時に分かりました。人は、手に入らないからこそ胸を躍らせる。それを力にして、生きていくことが出来るんだと」
「昨日先生が言ってくれましたよね。鋼鉄大陸で、私達のおかげでこの景色を守れたって。その言葉と、今の私の思考でもう一つ理解できたものがあります」
「それは、『可能性の存在そのものを守ること』の大切さ……」
「鋼鉄大陸を止められていなければ、今この瞬間に立ち会うことも……そもそも、先生と私がこの関係に至ることも……何もかもが、成り立たなかった」
ケイはゆっくり先生に歩み寄り、両手を握りしめる。
「きっと……一つを守れたら、その先に広がるありとあらゆる可能性を守ったのと同じなんだと。先生が見たいと言った私の姿。私が共に過ごしたいと思ったこの瞬間。そして、私達ではない誰かがここに訪れて、愛を囁いていく瞬間……きっとそれは、誰かが望んだ鳴りたい姿の一つで」
ふわり、と春風が吹く。スカートが波のように揺れている。
「私達は、誰かの『なりたい自分』を守れたんだと、認識できました」
「……そっか」
先生はそっと手を握り返し、ケイの額に自分の額を重ねる。いっぱいに広がった瞳と白い肌が、彼を受け止めていた
「すごいね、ケイ。先生は目の前の事で手一杯なのに、見えなかったものを見てくれる。俺も教師としてまだまだ勉強が足りないね」
「でも、たった今経験しました。この経験はいつか他の生徒の大切な道標として機能します。それに……あなたは目の前に手一杯でいいんです。教師として目の前のことに立ち向かってください。その間に見逃したものは、私がもう一つの目として、導きます」
ケイがそっと背伸びをするのと、先生が顔を下ろすのはほぼ同時だった。
「ケイ。これからもどうかよろしくね」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
ルージュで飾られ、宝石のように輝いていた唇がそっと重なる。
登りきった太陽が、重なった二人の影を、暖かく砂浜に落としていた。
*
おまけ
ー帰りの電車にてー
「ところでケイちゃん」
「はい?」
「その服、なんで用意してたの?」
「……その……私も、海辺のシチュエーションと格好、ちょっと憧れてたので……」
「……やっぱり……やっぱりケイちゃんって」
「待ってください先生、ここは公共の車内です。それはやめたほうが……あ、こら!! なに大きく息を吸い込んで……ちょっ、窓開けて叫ぼうとしないでください、みっともないです、こらやめろ!!!」
「やっぱりケイちゃんって、可愛いぃぃぃいぃーーーー!!!」
「あ゛あ゛ーーーーーーー!!!」
了