「まったく……仕方ないとは言え、何をどうしたら数日で部屋をこんな状態にできるのでしょうか……」
掃除用に束ねたポニーテールを揺らし、今日も今日とて天童ケイはシャーレ執務室……その仮眠室と休憩室の掃除に明け暮れていた。
出張中だからやるなら今だと訪れてみればこの有様。予定が建て込み、少し疲労に満ちていた彼女だったが、やらねば心が休まらず、結局こうしてシャーレにやってきていた。
「時間ができたので来て見れば……せめて、もっとこう……なんとか……やりようが、っと」
ケイはゴミ箱を持ち上げ、どさどさと袋の中に入れる。その中にモモイが食べ残したであろう、『サワークリームオニオンガーリックスナック納豆チーズくさや』が現れて、妙な匂いはこれが原因だったのかと顔をしかめた。
(この匂い、まともに吸い込むと思考が止まるんですよね……アリスなんてフレーメン反応起こしてましたよ……)
匂いを封じるべく、できるだけ奥に押し込みんで口を縛り、次いで時計を確認。今日は先生が他の学園への出張から帰ってくる。帰社予定時刻まで二時間もない。それまでに環境を整えて何か軽食を作ろうかと献立を考える。
「これで……終わり……!」
ケイはあたりを見回し、己の成果を確認する。とりあえず掃除機を充電スタンドに置いて台所に赴くと、束ねていた髪の毛を開放する。
「あっつ……」
季節が移り変わったこともあり、額にほんのりと汗が浮いていた。ケイにとって初めて経験する夏の気配は、露骨に身体へと影響を及ぼし、腕で汗を拭った。
「なにか飲み物は……」
冷蔵庫を開けてみる。ひやりと冷気が肌をなでて目を細めてしまう。今ならエイミの気持ちが分かった気がして中を見る。
どうもストック不足らしく、飲み物の残量は乏しかった。少し休んだ後に買い出しに行かなければと、脳内リストを整理する。すると、
(これは……)
目に入ったのは、ローヤルゼリー配合の炭酸ドリンクだった。エナジードリンクの親戚だが、カフェインの過剰摂取を抑えるならこちらのほうがマシ、とケイが先生に勧めていたものだ。
「ちゃんと人の話聞いてくれていたんですね」
ご丁寧に二本置いてあり、先生から冷蔵庫の中身は「好きなように飲み食いして構わない」と言われていたので、今回はお言葉に甘えようと手を伸ばし、迷わずプルタブを開けて一気に流し込む。
「んぐっ、んぐ、んぐ……」
ごきゅごきゅと音を鳴らしながら、喉を駆け抜ける弾けた炭酸を味わうのは格別だった。
「ん、んっ、んっ……っはぁぁ……先生が喉を鳴らしたがる理由がよく分かりますね」
体に染み渡る糖分に浸る、悪魔的快楽感。中毒レベルで愛する人が出るのも納得な構造だと、深く息をついたときだった。
「……?」
ケイは鼻腔を抜けたジュースの香りに違和感を抱いた。甘味料特有の香りに、芳醇な香りが混じっている。まさかと思い、缶の表記を見ると、握っていた指の下から『お酒』の文字が現れた。
「まっ、これ!!?」
まずい。天童ケイ、ミレニアムサイエンススクール1年生、未成年飲酒の文字が駆け抜ける。いや、そうじゃない、それより気にするべきは身体への影響だ。
すぐさまケイは手近にあったカップを引ったくると、蛇口を捻って注ぎ、がぶ飲みをする。万が一誤ってアルコールを摂取した場合は、水分を増やして薄めるのが対応策。さらにあと二杯分の水を流し込み、胃袋がたぷたぷになってケイは息を吐く。
「あとは……横になって安静にすること……」
その前に、ケイはアルコール度数を確認する。5%……特段強いわけでもないので緊急性は無いと判断。というか、お酒なのに味自体はジュースそのままのそれで、危険を感じるレベルだった。表記を見るに、『あの炭酸がそのままお酒に!』というコンセプトらしい。デザインも通常のものと比べて、少しだけ色味が変わっている程度だった。
(ややこしくはありますが……私もよく見ないで飲んだのも事実。メーカー側は表記の義務を怠ったわけではないですし……)
ケイは自分のミスだと受け入れるしかなかった。とりあえず、できることはしたので仮眠室で横になろうと足を向け、ジャケットとブレザーをハンガーにかけてベッドに乗る。
幸い、すぐに露骨な影響が出るわけでも無さそうだった。先生が帰ってくるまで、あと数時間。何かあればあとは彼に頼ろうと、軽い動悸を感じながらも深呼吸を繰り返し、瞼を下ろした。
*
「あ゛あ゛ーーーーっ……疲れた……」
時計の針が10の数字を示そうとした、その寸前のタイミングで先生はようやくシャーレに帰還することができた。予定よりもだいぶ遅い帰還の理由は、言うまでもなく突発的な生徒たちのトラブルの発生であり、鎮圧と処理に時間を要して今に至る。
「確か昼にはケイが掃除に来るって言ってたけど……」
今日一日、ほぼ着ることのなかった上着を椅子にかけ、周囲を見回す。掃除をされた形跡はあったが、ケイの姿が見えなかった。モモトークも確認するが、帰還のメッセージを送って以降、既読がついていない。
「珍しいな……何かあったのかな?」
とりあえず電話をしてみようかと通話ボタンを押す。すると、近くで聞き覚えのあるバイブ音がなる。仮眠室の方だ。
(ああ、寝てたのね)
と、先生は音のする方に向かい、仮眠室の扉を開けようとした、その瞬間だった。
「んぅせんせぇーーぃ!!」
「ッブッフォっ!!?」
バコン!! と扉が勢いよく開き、中から渾身の飛び込みを見せた天童ケイが顔いっぱいに広がり、先生がぎょっとする間もなく、彼女の質量まるごとが衝突。なんとか転倒せずに済む……かと思われたが、ケイはもう一押し足に力を入れ、そのままソファーに先生ごと自分を押し込んだ。
「け、ケイ!?」
「せんせ、せんせ、せんせーい!!」
熱烈なハグをしながら、ケイは頭をグリグリと胸板に押し付けて甘える仕草をする。見たことのない勢いに、先生の頭は機能不全に陥りそうだったが、あからさまな異常事態への対処が最優先とであると、教師としての本能が冷却装置として機能した。
「ケイ、ケイちゃん……まって、落ち着いて」
「好き!! だいすきです!!」
「んんんぅぅ、ツンの一切ない、ナチュラル直球告白ぅ!!」
確かに異常ではあるのだが、リミッター全解除、いつもの体裁なんて知らんがなと言う勢いで甘えるケイの姿は、それはもう魅力的だった。誰かボイスレコーダー持ってないか? いや、ヴェリタス辺りに粗品折々持ってデータ提供の依頼に行くか?
「いやいや、じゃなくて!」
危うく教師から男に戻りかけたが、このツンとデレが服着て歩いたかのような天童ケイが、この様になっているのだ。ここは解決最優先と、先生は自分を奮い立たせる。
「ケイ、ね、落ち着いて。グリグリしててもいいから聞いて、ね? どうしたの、疲れてるの? 何が起きたの?」
「せんせいが……帰ってくるのおそくて……さみしかったんですぅ」
ぐでんと体重をかけて、ケイは再び先生の胸板に顔を擦り付ける。まるでパートナーに自分の匂いをこすりつけてマーキングする、フクロモモンガのようだった。
「えっと……その、遅くなってごめんね?」
「撫でてください」
「え?」
「いっぱいなでてください! わたしは、なでなでをきぼうします!!」
「えーっと、はい、では……」
戸惑いながらも、先生は言われたとおり彼女の髪の毛を撫でてやる。ツヤツヤでふさふさな白髪は、いつもどおりの感触。胸板に「んへへへ」とご機嫌な声が聞こえる。
(なんか……アリスみたい……)
確かにケイは、しばらくアリスの中から世界を見ていたのだから、多少なりとも影響を受けたものはある。が、こんなにも露骨に人格へ影響が出ることがあるのかと考える先生だったが……。
「……せんせい」
「う、うん? なに?」
「たりません」
「え?」
「たりません!! わたしは、まだまださみしいんれす!!」
「なんか、舌が回ってなくない??」
「したぁ???」
顔をうずめていたケイの目が、ちらりとこちらを見て起き上がる。その時になって、ようやく先生はケイの顔をしっかりと見ることができた。
「あれ……ケイ、なんか顔赤く……」
「せーんせ」
「あっはい」
「舌、って……」
のそのそと身体を引きずるように、ケイは先生と同じ位置に顔を持ってくると、垂れ下がったもみあげを書き上げて耳を晒す。やけに甘ったるく、耳に絡みつくような声と、艶めかしい動作で……。
「こぉいうことれすかぁ?」
「え、まってケイちゃん、ここオフィス、んんっ!!!」
有無を言わさず、ケイは舌を伸ばしながら先生の制止をぶった切った。
「んんんぅ!!?? んーー!! んんーーー!!!?」
突然の出来事に、嬉しさよりも困惑が上回った先生はジタバタと身体を振り回す。
しかし、ケイは暴れる両手首を握りしめ、足を絡める形でホールド。伸ばした舌は先生の口内をなぶり、まるで捕食するかのように唇を甘噛し、それでも足りないと先生の舌を自身の口内へ誘うと、吸い上げる。その際、先生はケイから漏れた吐息を吸い込み、その中にアルコール臭が混じっているのを確かに確認した。
(まさか、お酒!!? なんで、ケイが!?)
可能な限りで視線を巡らせる先生。そして、簡易キッチンのシンクの上に、無造作に転がったお酒の缶二つを見た。
(あれかぁーーーーっっ!!?)
買い置きして持って帰るのを失念していたやつだ。そしてお酒に興味がないケイがこうなってるということは、過程は不明だが事故が起きたのだと合点が行く。
そんな先生をよそに、ケイはもっともっとと顔を押し込む。絶対に離さないと両頬に手を置いて完全に固定し、蹂躙が始まった。
「んう……ん、じゅるっ……じゅぷっ……っ」
先生の舌を吸い上げながら、自身の舌を絡ませる。
「ちゅ、ちゅ……んくっ、じゅるるっ……ぐちゅっ」
開放したと思えば、今度は唇を余すことなくなめずりし、挟み込んで唾液で湿らせ、
「ちゅくちゅく……、はぁ、んむっ……せんせ……」
はむはむ、と甘えるように何度も唇をついばみ、
「すき……」
ケイは溢れんばかりの想いをその唇をもって流し込み続け……
「……んぁ……」
ようやくケイが口を離してくれた頃には、先生の口は吸われ、ねぶられ、しゃぶり尽くされ、自分の物ではないなにかに作り変えられたかのように、じゅくじゅくと良くわからない反応をしていた。
(た、耐えた……! なんとか、耐えた!!)
性欲に訴えかける、容赦のない情熱的なキスは、あまりにも強烈過ぎた。あと数十秒吸いつくされていたら、理性が死んでいてどうなっていたかなんて想像に難くないだろう。
もちろん、先生にしてみればケイとまぐわうこと自体、大歓迎である。だが流石に場所がまずい。背徳的なシチュで考えなかったのかと言われたらあるのだが、教師の枠を超え、彼女と交際することを決めた以上、ライン引きだけは徹底しなければと誓ったのである。
故に、誰が来るかもわからないシャーレの執務室でおっぱじめるのは流石に、流石にまずいと踏みとどまった。
「……なんでぇ」
そんな堕ちない先生が信じられなかったのだろう。ケイはずびび、と鼻をすすりながら目に涙を浮かべていて、良心が痛んだ。
「せんせいから……ちゅーしてくれないんれすかぁあ……」
「ケイ、あのさ……ね、お願い。聞いて? ここじゃ、その……ほら、ケイも辛そうだし、お布団にいこ、ね?」
「……おふとん」
「そ、お布団」
とりあえずはケイの拘束から逃れなければならない。先生は可能な限り平静を作り、そっと彼女の肩を持って、ゆっくり、ゆっくりと身体を起こしていく。上手いこと抜け出して、一旦距離をおいて誰かに助けを求めに行くことさえできれば……!
「……です」
「え?」
「いやです!!」
「いやでしたかぁ……!」
南無三。打つ手なし。再びケイは先生をソファーに沈めると、によによ、ニコニコと屈託のない笑みを浮かべて頬ずりをする。
「せんせいはですねぇ……わたしを、こうしてしまった、せきにんを、とるべきなのです……だからぁ……」
ぎろり、と見慣れた瞳が食物連鎖の王のものへと変わる。ああ、もうダメだ。万事休す、袋のネズミ。こうなったら……明日、ケイが正気に戻り、発狂しないように心に寄り添うことしかできない……と覚悟を決める。
「わたし、とぉ……っ、お、ぉ……」
「……ケイ?」
すると、どうしたことだろう。
それまでノリと勢いで口を開いていたケイが、突如としてフリーズする。見るとその目はうつろになり、けふ、けふとしゃっくりを上げている。
猛烈に、嫌な予感がした。なぜかって?
自分が一度、それを彼女の前でやらかしたことがあるからだ。
「ケイ……ケイちゃん、まさか……」
警報。緊急回避、なにか受け皿になるもの……間に合わない。ケイの頬が、こぷっ、と膨らむ。
「ォロロロロロロロロロ…………」
「あああああああケイぃぃいいいいいいいいい!!!」
キラキラと降り注ぐ、彼女の血肉になるはずだった物体たち。それらは、本来なら戻ることのなかった現世へと送り返され、先生のシャツへと降り注ぎ……望まれない帰還を果たす。
先生は、もうなりふり構っていられなかった。
「セリナ!! メディィィィーーーーーーッック!!!!」
*
「では、お大事に」
呆れた顔を浮かべるセリナに、何度目かわからない頭を垂れて、先生は彼女を見送った。お礼に食事デートを所望されたが、それでケイのことを助けられるのなら安いものだと承諾した。
「……せんせい」
「あ、起きた?」
ベッドの中から、さっきまでの元気が嘘のようなうめき声が聞こえる。先生がそっと布団を覗くと、顔を青くしてげっそりとしたケイのうつろな目があった。
「…………」
「大丈夫、何も言わなくていいよ」
「……いっそ殺してください」
「いやだよ、どんな手を使っても生き残ってやるんでしょ?」
「今に限り、否定させてください……失態です、生涯の恥です、穴があったら入りたいです」
もふ、とケイは布団を頭からかぶる。先生はそんな彼女に、よしよしと布団越しに頭を撫でてやった。
「ごめんね。俺の管理も悪かったから……一言残しておくべきだったと思うよ」
「またそうやって……よく確認しなかった私の責任です……それなのに自分のせいでもないのに庇おうとして……押しつぶされちゃいますよ」
「そうならないように、ケイがいてくれるんでしょ?」
帰ってくるのは沈黙。布団の中でどんな顔をしてるのか定かではないが、うっすらと『ぐぅ』という音が聞こえた気がした。
「暑い中掃除してくれてありがとうね」
「……大事な、役目ですから」
ちらり、と布団の隙間からケイの目が先生を覗いている。やれやれと先生は息をつきながら、布団の中へと手を入れ、ケイの手を探り出した。
「今日はここで寝ようか。頭は痛む? 水とかいるかな?」
「……とりあえず、薬が効いてるので……今は大丈夫です」
「起きたらなにか食べに行こうね。何が良い?」
「……柴関ラーメンの新作が食べたいです」
「お、限定豚骨ラーメンだよね。朝からいきなり重いのいっちゃうねぇ」
「……食への執着には、貪欲でありたいと思ってますので」
「良いことだ。お邪魔するね」
先生はシャツのボタンを外し、インナー姿になってするりとケイの布団の中へ入る。
「また吐いても知りませんよ……」
「そしたら何回でも俺が手助けするだけだよ」
「……ほんとに、あなたという人は」
もぞもぞとケイは先生に顔を向け、その胸板に顔を押し付ける。
「そういうところなんですよ」
「知ってる」
「……ばか」
きゅ、と決して強くない力で服を掴むケイの手を、先生の手が包み込むように握りしめる。
そうして、数分もしないうちに二人分の寝息が仮眠室に溶けては消えていき…………
翌朝。
「……私って、ケイと先生がイチャついてる朝に、必ず遭遇する呪いでも掛けられてるの?」
と、ぼやくモモイに起こされるまで、夢すら見ることもなく、深い深い眠りにつくのであった。
了