そのすみれを摘んではいけない。
時期に関係なく、その森にはすみれが生えている。慎ましい、濃い紫の、可愛らしいすみれ。どこにも忌まわしさのない、ごく普通のすみれ。薄い霧のかかった森の中、小さな祠の前に生えているすみれ。
そのすみれを摘んではいけない。摘んでしまったら、それは──
「お、あったあった、このすみれだよ」
軽薄そうな男が、そう言ってしゃがみ込んで、無遠慮にじろじろとすみれを眺めた。
今は真夜中。森は暗い。闇夜に木の姿が、黒く濃く浮かび上がっている。男はスマホのライトを頼りにそのすみれを見ていた。すみれの奥にある祠は、静かなのに、何かを醸し出す。何かある。黙して語らず、しかし犯しがたい。神聖さと忌まわしさを持ったモノ。
「お、おい。やっぱりやめようぜこんなこと・・・・・・」
その友達はビクビクしながらそう言うが、
「へっ、何言ってんだよ。あんなおとぎ話信じてるなんて、普通にバカだぜ。バカ」
そう言って取り合わない。
「俺がこのすみれを摘んで帰ったらさあ、あの村で英雄になれるんじゃねえのかな。あの村で」
「そんなわけないって・・・・・・絶対に怒られるよ・・・・・・」
「はっ、お前はほんとにビビりだなあ・・・・・・まあいいや。お前がやらねえってんなら、俺1人でやるぜ」
男は無造作にそのすみれのうちの一つを引っ掴むと、ぶちっと乱暴にそれを摘んだ。
その瞬間だった。
《あーあ、摘んじゃったね》
声がした。少女の声だ。
振り向くと、祠の上に少女が座っていた。着物をきた、このすみれのような濃い紫の長い髪と同じ色の目を持つ、少女。どことなく神聖な雰囲気を感じる。けど、目を背けたくなるような忌まわしさも感じる。甘く柔らかい匂いの中に、血腥い匂いが混じっているような、この感覚は・・・・・・
「な、なんだ!? お前、どっから来た! いつからここにいたんだ!?」
《いつから? 私はさっきからここにいたよ。そしていつまでもここにいる》
「何を言ってんだ・・・・・・?」
軽薄そうな男はその少女の言っていることがよくわからず、怪訝な顔をする。
「ヒイイ!!」
ずっと怯えていた男の友人は、ここに来て恐怖が頂点まで達したようで、その場から逃げようとした。しかし──
《逃げられないかな》
少女は言った。その言葉通り、男はその場から一歩も動くことが出来ずにへたり込んでしまった。
「あ、足に力が入らない・・・・・・」
少女の声が響いた。
《大丈夫だよ。私は優しいんだ。私が、君たちを、いつも優しく抱きしめていてあげるから・・・・・・》
ほっと安心するのに、心が騒いで仕方がない。少女は、祠から降りてきて、まず怯えている方の男を優しく抱きしめた。
母の胸に抱かれている時のように安心する。だけど忌まわしい。恐ろしい。その優しさ、安心感がこの上なく恐ろしい。
「ヒッ・・・・・・」
《よしよし、よしよし・・・・・・》
優しさの奥に、何か忌まわしく血腥いものがある。
男たちは、少女の胸に抱かれながらいつの間にか眠ってしまった。
・・・・・・
男たちはその日から、常に視界の端にすみれを見るようになった。起きている時にも見えたし、夢の中でも見た。2人にはなぜかそのすみれが怖くて仕方がなかった。そこにあるだけなのに、怖くて仕方がなかった。
そのすみれを摘んではいけない。
◇
《あー、今日も仕事したなあ》
少女はそう言って伸びをした。
《あんな感じで良かったんかな。なんか普通に赤ちゃんプレイをしただけだったような気がするけど・・・・・・でも、殺すわけにもいかないしなあ・・・・・・》
少女の名前はすみれ・・・・・・今はすみれだ。
しかし、少女は少し前までは全然違う名前で、しかも少女ではなく普通のおじさんサラリーマンとして生きていた。名前は谷谷シュロ。ごく普通のおっさんサラリーマンだった。
不慮の事故から亡くなってしまい、なぜか女体化して因習村の怪しげな神をすることになってしまったのである。
なぜこんなことになってしまったのか。話は少し前まで遡る・・・・・・。