言峰綺礼のラストダイブ   作:みそそ

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垂直落下

オースの街の空気は、いつでも薄い死の匂いが混ざっていた。

巨大な大穴『アビス』を囲むように作られたこの街では、今、奇妙な現象が起きていた。

 

「誕生日に死ぬ病」

 

そう呼ばれる原因不明の病気により、幼い子供たちが次々と息絶えているのだ。

 

黒い法衣をまとった男、言峰綺礼は、教会に集まるその死亡記録を冷徹に処理していた。彼の脳は、感情ではなく論理を組み立てる計算装置として動く。

 

「生まれてすぐに、世界の理から存在を否定される命。修正されるべき欠陥品か」

 

彼は自分の胸に手を当てた。彼もまた、生まれながらに普通の人間が感じる「善や美しいもの」を愛せなかった。

 

他人の不幸や、世界の歪みにしか喜びを感じられない。生まれついての悪。

この世界の神という設計者が植え付けた、致命的な欠陥品。それが自分という存在だった。

 

「なぜ、私は悪として生まれたのか。この歪んだ思考回路に、神は何の意図を込めたのか」

 

考えるのをやめられないこと。謎が湧き上がること。

それ自体が、彼の自覚なき生存本能だった。彼はこの問いの答えを得るために、大穴のフチへと歩を進めた。

 

足元に広がるのは、直径一キロメートル、深さはどこまで続くかも分からない暗黒の底。

 

人類最後の秘境と呼ばれるアビスである。

 

言峰は、探窟家たちが作ったジグザグの階段を一歩ずつ下り始めた。

道端に、干からびた骨が転がっていた。両手を合わせて、穴の底に向かって祈るような姿勢のまま息絶えた「お祈り骸骨」だ。何千年も前の人間だという。

 

言峰は、その骸骨を冷たい目で見下ろした。

 

「考えることを放棄し、神に祈るしかなくなった敗北者か」

 

彼は迷わず、その骸骨を靴の底で踏み越えた。

同時に、頭の中でアビスの絶対的なルールを組み立てる。

 

この穴には『呪い』がある。下りる時は何もないが、少しでも『上に上がる』と、全身の穴から血が吹き出したり、人間でなくなったりする致命的な負荷がかかる。それがアビスの呪いだ。

 

普通の探窟家は、斜面を歩く。

 

しかし、自然の道には必ず小さなデコボコがある。下りているつもりでも、数センチメートル、数ミリメートルほど「登ってしまう」瞬間がどうしても発生する。そのわずかな「上への移動」が、呪いを呼び寄せるのだ。

 

「ならば、一ミリも登らなければいい」

 

言峰の出した答えは、あまりにも単純で、狂っていた。

彼はジグザグの階段を捨て、何もない垂直の崖のフチへと進んだ。

眼下は、数百メートル先まで何もない空間だ。

 

言峰は、ためらいなく身体を前に傾けた。

重力に身をまかせ、真下へと落下する。

ごうごうと風が耳を突き抜ける。体感速度が跳ね上がる。

 

普通なら、地面に激激突して肉塊になるだけの自殺行為だ。

 

しかし、言峰の身体は並の人間ではなかった。中国拳法の一派『八極拳』を極めた鋼の肉体。そして、彼が持つ特異な魔術。

 

時速百キロメートルを超える速度で、一層の底にある硬い岩盤が迫る。

激突のゼロ点一秒前、言峰は両足を真下へ突き出した。

 

「――開傷。そして、癒着」

 

呪文を唱えた瞬間、彼の両足の骨が、激しい衝撃でバキバキと粉砕された。肉が裂け、内出血した血が肌を突き破って飛び散る。脳を揺さぶる凄まじい激痛が走る。

 

だが、言峰は眉一つ動かさない。

 

彼の脳は、その激痛を「ただの電気信号」として客観的に処理していた。

彼が持つ魔術属性は「傷を開き、それを強引に接着すること」だ。

 

砕けた骨と、引き裂かれた筋肉。その隙間に、自らの魔術的なエネルギーを強力な接着剤のように流し込み、強引に元の形へ「縫い付け」て固定した。

 

ドシン、と重い音が響く。

時速百キロメートルの運動エネルギーは、言峰の肉体が自ら潰れることで完全に相殺された。

 

そして、破壊された瞬間に魔術で肉体を完全にフリーズさせたため、一歩も、一ミリも、身体が上へと跳ね返ることがなかった。完全に、真下へのベクトルだけで着地したのだ。

 

言峰は静かに立ち上がった。魔術で強引に固定された足は、すでに痛みを感じない。骨が軋む音だけが暗闇に響く。

 

アビスは、彼が「一ミリも上に上がっていない」と認識した。当然、呪いは発動しない。

 

「私という悪の肯定者の答えを解き明かすまで、私は考えるのをやめない」

 

言峰は法衣についたチリを払い、人間の姿のまま、さらに深い第二層の闇へと、まっすぐに落ちていった。

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