言峰綺礼は、さらに深い第二層「誘いの森」へと侵入していた。
ここは空間そのものが狂っていた。巨木が逆さまに生い茂り、下から上へと不気味な風が吹き上げてくる。普通の人間の三半規管なら、一瞬で上下の感覚を失うような異常な環境だ。
アビスのルールでは、この層で少しでも身体が浮き上がれば、激しい吐き気と全身のしびれという呪いに襲われる。
だが、言峰の脳は、下から吹き付ける風の風速と、自身の体重にかかる重力のバランスを瞬時に弾き出していた。
「風による浮力が、私の自重を上回る瞬間。それが呪いの引き金か」
ガサリ、と頭上の茂みが揺れた。
逆さに生えた木の枝から、怪鳥「ナキカバネ」が鋭い爪をむき出しにして飛びかかってくる。
獲物を空中に吊り上げ、巣へ運ぼうとする習性を持つ原生生物だ。
もし連れ去られ、わずかでも「上に」持ち上げられれば、その瞬間にアビスの呪いが言峰の全身を破壊する。
言峰は、逃げなかった。
怪鳥の爪が彼の肩に食い込み、その強靭な翼が上空へとはためく。言峰の身体がふわりと地面から離れそうになった。
「――沈墜勁」
激突の直前、言峰は中国拳法『八極拳』の極意を発動した。
足の裏で大地を踏みしめるように空気を蹴り、自身の肉体の重心を爆発的に下へと落とす。あたかも自分の質量が数十倍、数百倍の鉄塊になったかのように、真下への重力を強制的に発生させる技術。
ドスン、と空気が爆発するような音が響いた。
上へ持ち上げようとする怪鳥のパワーと、真下へ落ちようとする言峰の質量が真っ向から衝突する。ベクトルの向きは、完全に真下へと相殺された。
バキバキと、言峰の肩の骨が怪鳥の爪の圧力で砕け散る。肉が引きちぎられ、黒い法衣が赤く染まっていく。鋭い激痛が脳髄を突き刺すが、言峰の表情は鉄のように冷徹なままだった。
「開傷。そして、癒着」
言峰は、肩の肉に食い込んだ怪鳥の爪そのものを、自身の砕けた骨と引き裂かれた筋肉に魔術のエネルギーで直接「縫い付け」た。
鳥の爪を、自分の肉体の一部として強引に接着したのだ。
自由を奪われた怪鳥は、言峰の圧倒的な質量に引きずられるようにして、悲鳴を上げながら真下へと墜落していく。
ドスッ。二層の底にある硬い岩盤に、怪鳥がクッションとなる形で言峰は着地した。怪鳥の肉は潰れ、言峰の両足の骨もまた、凄まじい衝撃で粉々に砕け散った。
「が、は……っ」
口から大量の血が噴き出す。
全身の骨が悲鳴を上げ、筋肉が引き裂かれる地獄のような苦痛。並の人間ならショック死するレベルの激痛が、彼の生きている証拠として脳を白熱させる。
しかし、彼の計算装置は作動し続ける。
「一ミリも、上に上がっていない。よし。」
言峰は自分の足に魔術を流し込み、砕けた骨をボンドのように再固定した。アビスのシステムは、彼が「下がり続けている」と判定し、呪いを発動させることはない。
彼は肩に癒着した怪鳥の爪を、バリバリと肉ごと引き剥がして捨てた。
そして、目の前に広がる第三層「大断層」の入り口へと歩いていく。
そこは、四千メートルに及ぶ完全な垂直の壁だった。
下を見ることもできないほどの暗黒の絶壁。空を飛ぶ危険生物「マドカジャク」の群れが、新たな獲物の気配を察知して、壁の穴から無数に湧き出してくる。
言峰は、その地獄のような崖のフチに立った。
彼には、ロープも、安全帯もない。
「私は神に愛されていないかもしれない。だが、この歩みを止めるわけにはいかない」
言峰は不敵に口元を歪めると、四千メートルの虚空へと、自ら背中から飛び降りた。
重力という名の絶対的なルールに身をまかせ、人間の形のまま、さらなる奈落の奥底へと加速していく。