言峰綺礼のラストダイブ   作:みそそ

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癒着

四千メートルの垂直な壁を自由落下で突き抜けた言峰綺礼は、第四層「巨人の盃」へとたどり着いていた。

 

そこは、巨大な湯飲みのような形をした植物が立ち並び、熱水が激しく噴き出す異様な湿地帯だった。

 

アビスのルールでは、この四層での「上への移動」は、全身の穴から血が吹き出すほどの劇烈な負荷がかかる。さらにこの層には、最悪の原生生物が潜んでいた。

 

「タマウガチ(穿ち香)」

 

体長数メートル、無数の鋭い針を背負った異形の獣が、熱水の霧の向こうから姿を現した。

 

この生物は、アビスの『力場(目に見えないエネルギーの流れ)』を読むことができる。相手が次にどう動くかという「未来の回避行動」を完璧に予測し、絶対に避けられない角度から猛毒の針を放ってくるのだ。

 

言峰には力場が見えない。当然、敵の予測を外して避けることは不可能だった。

言峰の脳は、瞬時に最悪の確率を弾き出す。

 

「避ければ、敵の予測通りに針が刺さる。さらに熱水の噴射に巻き込まれれば、身体がわずかに上に浮かび上がり、四層の呪いで即死する」

 

ならば、どうするか。

言峰の出した答えは、やはり常人の理解を超えていた。

 

「――避ける必要などない。最初から、未来を一つに固定すればいい」

 

言峰は回避を完全に放棄し、タマウガチに向かって真っ正面から突進した。

シュッ、と空気を切り裂く音が響く。タマウガチが放った巨大な毒針が、言峰の左腕と脇腹を深く貫いた。

 

「――ガハッ……!」

 

内臓を破壊する激痛。同時に、触れただけで肉を腐らせる猛烈な致死毒が、言峰の血管へと流れ込む。全身の細胞が悲鳴を上げ、視界が真っ赤に染まる。普通の人間なら一歩も動けずに絶命する苦痛だ。

 

しかし、言峰は冷酷に笑った。

 

針が刺さったその瞬間、言峰は地面に倒れ込み、自身の魔術を発動させた。

彼は、自分を貫いた毒針ごと、自身の腕の骨と脇腹の筋肉を、アビスの硬い床に対して直接「縫い付け」て固定したのだ。

 

ズズズ、と魔術のエネルギーが接着剤となり、彼の肉体とアビスの地面が一体化する。その直後、足元から凄まじい熱水が噴き出した。

 

まともに喰らえば、身体が数メートル上に吹き飛ばされるエネルギー。

 

だが、言峰の身体はアビスの地面に「癒着」して完全に固定されている。上へのベクトルは、1ミリも発生しない。

 

「ぐ、ああああああ……っ!!」

 

皮膚が熱湯で焼けただれ、体内では毒が暴れ狂う。骨が軋み、肉がちぎれかける地獄の苦痛。生きながらにして腐り落ちていくような絶望的な痛みが彼を襲うが、言峰の思考は止まらない。

 

タマウガチは混乱していた。自分の予測では、敵は熱水から逃れるために「上か横に避ける」はずだった。

 

しかし、目の前の獲物は、あえて毒針を受け、自ら地面の盾となってその場に留まり続けている。未来の予測回路が、言峰の異常な行動によって完全にバグを起こしていた。

 

「毒の壊死速度が時速十キロならば、私はそれを上回る速度で、肉体を再生・固定し続けるだけだ」

 

言峰は血まみれの右腕を突き出し、袖から魔術の剣「黒鍵」を抜いた。

 

そして、混乱して動きを止めたタマウガチの眉間に向けて、容赦なく黒鍵を投擲する。

 

ドスッ、と鈍い音がして、黒鍵が獣の脳を正確に貫いた。タマウガチは短い悲鳴を上げ、巨大な巨体を激しく揺らしながら、四層の斜面を転がり落ちていく。

 

言峰は、地面に癒着させていた自分の肉体を、バリバリと強引に引き剥がした。

ちぎれた皮膚と血が地面に残る。信じがたい激痛。

 

しかし、彼の足はすでに、タマウガチが転がり落ちた「真下」へと一歩を踏み出していた。

 

「次は五層……『なきがらの海』か」

 

血を流し、骨を軋ませながらも、言峰は人間の形のまま、確実に奈落の底へと進んでいく。

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