言峰綺礼のラストダイブ   作:みそそ

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白笛

深界五層「なきがらの海」。

 

そこは、どこまでも冷たい氷の壁と、不気味に広がる泥のような海が行き止まりを形成する、極寒の世界だった。

 

この層から先、第六層へと下りるためには、専用のエレベーターを起動させなければならない。しかし、それには特別な鍵が必要だった。

 

「白笛」

 

それは、自分を心から慕い、その人のために命を捧げてもいいと願う人間の肉体からしか作られない、呪われた石の笛だ。アビスのルールでは、他人の白笛を使うことは絶対にできない。自分だけの白笛が必要だった。

 

言峰綺礼の脳は、ここで一つの物理的な「詰み」に直面していた。

 

「私を慕い、私のために命を捧げる人間など、この世界には存在しない。私は他人の不幸しか愛せない悪だからだ。ならば、私はここで立ち往生するしかないのか」

 

言峰は、凍てつく氷の海を見つめながら、冷徹に胸元へと手を伸ばした。

彼の法衣の奥、自身の肉体の奥深くには、この世界へ来る前から埋め込まれていた、ある「聖遺物」があった。

 

それは、かつて彼の妻であり、彼の目の前で自ら命を絶った女性「クラウディア・オルテンシア」の遺骨だった。

 

彼女の死の動機は、普通の人間には理解できないものだった。

彼女は、生まれつき悪しか愛せない言峰を救うため、「あなたを愛している人間がここにいる」という事実を証明するためだけに、自ら命を絶ったのだ。

 

「クラウディア。お前の死は、純粋な愛と執着だった」

 

言峰は、自身の魔術「開傷」を使い、胸の肉を強引に引き裂いた。

バキバキと自らの肋骨をへし折り、その中から冷たい妻の遺骨を取り出す。肉がちぎれる凄まじい激痛と、凍るような冷気が彼の体内を襲う。

 

しかし、彼の顔はどこまでも無表情だった。

 

言峰は、流れる自身の血と魔術のエネルギーを触媒にして、妻の遺骨をアビスの力場へと近づけた。

 

「――癒着」

 

呪文を唱えた瞬間、アビスの力場が、クラウディアの魂の残滓と反応して激しく渦を巻いた。アビスのシステムが求める「純粋な愛の条件」を、クラウディアの遺志は100%満たしていたのだ。

 

遺骨が、バチバチと音を立てて変形していく。

言峰の魔術によって力場と魂が強引に融合させられ、それは一本の「石の笛」へと再構成されていった。

 

手の中に残ったのは、鈍く光る白笛。

言峰がそれを指先で触れた瞬間、笛は彼の魂に響くような、美しい音を静かに奏でた。

 

それは、妻が彼を心から愛していたという、絶対的な「愛の証明」だった。

 

しかし、その音を聞いた言峰の心には、悲しみも、寂しさも、1ミリも湧き上がらなかった。代わりに彼の脳を満たしたのは、どこまでも冷ややかな、けれど底なしの「愉悦」だった。

 

「ああ、そうか」

 

彼は、完璧に納得していた。

妻の無償の愛を向けられてなお、自分は美しいとも悲しいとも思わず、ただ「他人の破滅」として愉しんでいる。

 

アビスという世界によって、自分が「救いようのない絶対的な悪」であることが完璧に実証されたのだ。

 

「私は欠陥品ではない。最初から、こういう仕様として作られた存在なのだ」

 

言峰は、手に入れた妻の白笛を静かに握りしめた。

これで彼は、真理への知の狂気、常識外れの肉体固定、そして愛の属性を、歪んだ形で一つの器に内包したことになる。

 

言峰は白笛を掲げ、エレベーターの起動装置へと差し込んだ。

 

ガガガ、と重い音を立てて、ラストダイブ(還らずの旅)への門が開く。

 

言峰は血まみれの法衣をなびかせ、人間の姿のまま、光の届かない第六層の深淵へと静かに下りていった。

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