深界六層「還らずの都」、そしてその先の深界七層「最果ての渦」。
そこは、人間が人間の姿のまま帰ることを許さない、究極の絶望の領域だった。
六層の環境は狂っていた。周囲からの原生生物の攻撃や衝撃によって、ほんの数センチメートルでも身体が「上へ」弾き飛ばされれば、その瞬間に人間性を失い、異形の怪物「成れ果て」へと変貌するルールだ。
だが、言峰綺礼の脳は、その無理なルールすら攻略していた。
「力場が動く。衝撃が来る。そのゼロ点一秒前に、ベクトルを固定する」
ドガッ、と巨大な原生生物の爪が言峰の横腹を直撃した。普通なら数十メートル吹き飛ばされる衝撃。
だが、言峰はあらかじめ、自身の袖から放った魔術の剣「黒鍵」をアビスの地面に突き刺していた。
「――開傷、そして、癒着」
激突の瞬間、彼は自分の骨、筋肉、そして内臓そのものを、黒鍵を介してアビスの岩盤に直接「縫い付け」た。
上への移動を、百分の一ミリメートルすら許さない空間固定。
「ガ、はっ……!」
肉体が引きちぎれるような凄まじい衝撃。内臓が破裂し、大量の血が口から溢れ出る。全身の細胞が焼け付くような激痛の悲鳴を上げるが、言峰の表情は鉄のままだ。
彼は破壊された肉体を、その場で魔術のエネルギーを使って縫合し、人間の姿のまま強引に歩みを進めた。
他人の価値を交換する「成れ果ての村」も、彼はただのデータサンプルとして一瞥し、スルーした。
そしてついに、時間と空間が相対化し、下りているはずなのに「過去」へと逆走する歪んだ第七層の宇宙すら、自身の固有時間と空間座標を力場に直接「癒着」して凍結するという荒技で突き抜けた。
――アビスの最奥、極点。
そこは、ひたすら「未来(下)」へ進み続けた果てに、「過去(自分が生まれた2000年前の瞬間)」へと繋がっている、永遠に終わらない輪っか、ループ構造の世界だった。
言峰の肉体は、すでに細胞レベルで崩壊を始めていた。法衣はボロボロに裂け、全身から赤い血が絶え間なく流れ出している。死は目の前だった。
しかし、その最果ての光景を見た瞬間、彼の脳は、かつてないほどの歓喜で満たされていた。
アビスの本質。それは、全人類の生存へのエゴや願い、そして悪意を集めて結晶化する、巨大な魔術回路(ろ過装置)だった。
そして言峰は、自分が生まれた本当の理由を、そのシステムの中に見た。
人類の集合無意識(みんなの生きたいという願い)は、善や秩序に偏りすぎた世界が停滞して滅びるのを防ぐため、強制的なバランス調整として、言峰綺礼という「絶対的な悪の肯定者」をこの世に生み出したのだ。
彼の生への異常な飢餓感も、すべては人類全体の生存本能の残響だった。
「――ああ、そうか」
言峰は、どこまでも冷めきった、しかし完璧な納得を口にした。
かつての彼は、自分を孤独な欠陥品だと思い込んでいた。
だが、この世界のシステムにおいて、自分の存在は最初から必要不可欠なものとして肯定されていたのだ。
「それを証明するものは、ここには何もありませんよ」という不条理なルール。決定された答えではなく、永遠の謎(パラドックス)だからこそ、彼の「考えるのをやめられない」という生存本能は、次の周回でも永遠に駆動し続けることができる。
完璧な美しさを前にして、言峰は自嘲と最高の愉悦を込め、静かに呟いた。
「――愉悦」
探求を終えた計算装置は、人間の形のまま、光の渦へと静かに崩落していく。
その魂は、世界のシステムと同化し、あるいはまた次の周回の生命へと再誕するために、奈落の底へと消えていった。