駿府の館は広く暗い。評定の間でも自分の屋敷一軒分あるくらい大きかった。上座には父であり、当主である今川義元が座っている。その前で家臣たちが一斉に頭を垂れていた。
「皆そろっておるな。今から重大な方針を発表する」
貴族趣味のある義元は白い顔にお歯黒をつけていた。
「なんでございましょう」
右手側にいた義元の嫡子。氏真が答える。
それに対し、義元は静かに口を開いた。
「将軍家の衰微には目を覆うものがある……」
義元はさらに続けた。
「我が今川の家は、元々足利将軍の一門として将軍を助けるべき家柄である。これは、皆も知っておろう」
義元はもともと仏門に入っていたこともあってか、その言葉は流暢ですっと頭に入ってくる。
足軽組頭だった氏勝はそれを下座で静かに聞いていた。
「そこで、諸国に幕府の権威を思い知らせるため、上洛しようと思う」
家臣たちに衝撃が走った。目を丸くして義元を見つめる。
「……上洛、でございますか?」
氏真が静かに答える。
家臣たちは口をかたく閉ざしている。
「しかし、御館様、もはや足利将軍の権威など風前の灯ですぞ」
家臣たちは必死に止めるが、義元の野望は止められなかった。氏勝だけはそれを最後まで静かに聞いていた。
「……ならば、このわしが将軍となろう」
足利が駄目なら吉良が継ぎ、吉良が駄目なら今川が継ぐ、と昔から言われていた。すでに吉良家の権威は失墜しており、義元は自分こそが将軍に相応しいとまで思っていたのである。氏勝はそんな父上を尊敬しつつも、なんとなく胸の奥がざわついた。
「まずは尾張の道を開かねばならん」
義元は駿府を出て三河岡崎城へたどり着いた。そこで義元の命を受けて、三河の松平元康は尾張鳴海城を攻めた。4日後、鳴海城落城の報せを岡崎城で受けると、義元は岡崎を出た。そして三河と尾張の国境の桶狭間にて、鳴海城落城の宴を兼ねて休息をとった。
数時間が経った頃だろうか。急な強い雨が桶狭間を襲った。六月の雷雨は近づく不穏な足音を消していた。
「今川義元はどこじゃ!」
突然、そんな声が響いた。氏勝がその方を振り向くと、見知らぬ無数の兵士がいた。その中心にいた永楽通宝の旗印。織田信長だった。
「御館様!信長でございます!」
「な、なんじゃと!」
義元は焦りに焦った。すでに織田軍は本陣の目と鼻の先にいた。寝首をかかれるとは当にこのことだ。その時大きな雷鳴が鳴った。その音で兵士たちは不吉な予感を感じて手が震えはじめた。
「これ!皆、御館様をお守りせぬか!」
氏勝は混乱して右往左往する自軍の兵士に怒声をかける。しかし兵士の混乱はおさまらない。その怒声に織田軍が気づいたらしい。目の前の黄色い旗のあるところから大きな声があがった。
「いたぞ!かかれ!」
敵の泥の跳ねる音が聞こえてきた。自軍の混乱がおさまらぬまま、ついに織田軍との戦闘になった。
今川軍は混乱しながらも必死に戦った。が、連携がとれぬまま各個撃破されていく。その中に氏勝の姿もあった。刀を振るって懸命に戦った。しかし、織田軍はかなり手強く、氏勝も支えきれず、ほかの家臣と同じように落ちのびるほかなかった。そして今川本陣にまで敵がなだれ込んできた。
「御館様をお守りせよ!」
数人の兵士が義元の周りを囲む。義元も自ら刀を引き抜いて応戦していた。既に足元には数人の死体が転がって、血の匂いが雨の匂いに混ざっていた。
「うっ!」
隙をついた織田軍の槍が義元の腹に刺さった。「御館様!」兵士の悲痛な叫びが聞こえた。さらに数人の織田軍が義元に斬りかかった。義元は一人の首を斬り伏せた。返す刀でさらに一人。しかし横から伸びた槍に刺され倒れこんだ。義元は血を吐きながら顔を上げた。
「五郎……源次郎……わしはまだ……死、ねぬ……」
氏勝は兜も脱ぎ捨てボロボロになりながら敵の追手を警戒していた。もう本陣からだいぶ離れている。「源次郎どの……よかった……」同じように胴鎧に砂ぼこりのへばりついた兵士が後ろから追いついて来た。
「……お、お味方が、総崩れとなりました」
「父上は。御館様はいかがなされた!」
精神もすっかり弱った氏勝は怒りに身を任せて兵士を揺すった。兵士は顔を逸らして涙ぐんでいた。その瞬間、桶狭間の辺りから兵士の声が響いてきた。
「敵の大将、今川義元の首は、この服部小平太が挙げた!」
氏勝の目の前は真っ暗になった。ほかの兵士に退却を急かされるままに尾張を後にした。