「父上が亡くなった……どうすれば良いのじゃ」
梅木の屋敷にいた氏勝は一人、ぼんやりと黒い木の床を見つめていた。家督を継いだ氏真は父上ほどの度量がないことは誰の目にもわかっていた。それでも氏真は彼なりに頑張っていることもわかっていた。
そんな氏勝のもとに、廊下から走る足音が聞こえてきた。柘植殿は黒装束に身を包んだ忍者であった。少し口元が震えていた。
「松平元康、ご謀反の様子……」
「なんじゃと!?」
松平元康は、三河の国衆だった。祖父である松平清康の代に一気に勢力を拡大した。が、その清康は家臣に暗殺された。それ以降、松平は今川を頼るようになっていた。
「あの元康が裏切った……」
氏勝は呆然となって座り込んだ。元康は一門である瀬名家の娘を娶っていた。事実上、三河の国主だった。
「三河をうしなえば今川は……」
柘植殿はしずかに氏勝の青くなった顔を見つめながら震える口を開いた。
「遠江も危うくなるやもしれませぬ……いずれ駿府も……」
氏勝は息を飲んだ。いずれ戦いに巻き込まれることを予感させた。氏勝は大きく息を吐いてから「わかった。下がれ」と柘植殿を下がらせると、額の冷や汗を拭って立ち上がった。
「今のままでは、我が家がどうなるかわからぬ……とにかく力をつけねば」
氏勝は岡部屋敷へと走った。そして──
「五郎兵衛、軍学を教えてくだされ!」
──元信に頭を下げていた。
「教えてさしあげますから頭をお上げくだされ」
元信は苦笑を浮かべながら氏勝を宥めた。顔を上げた氏勝の真剣な表情に、緩んでいた頬がかたくなった。
そして十日間、氏勝は岡部屋敷で必死に軍学を学んだ。
「『兵は詭道なり』これは孫子の言葉でございます」
「きどう?どう書くのじゃ?」
「危い道 とでも書けばよろしいのです。問題はそこではございませぬ。要は騙し合いを、……」
容易には身につかなかった。さらに十日続けて、やっと初歩が身についた。
「これで、大丈夫でしょう」
「いや、五郎兵衛の全てを教えてくだされ」
頭を下げる氏勝に、元信は真剣な顔でつぶやいた。
「若殿、そなたは本気なのか?」
それに頭を少し上げて、元信の顔をしっかり見た。
「はい。兄上や父上に冷遇されているとはいえ、ワシだって今川の血が流れているのじゃ」
元信は笑いながら答えた。
「……わかりました、全てをお教えしましょう。ただし、キツいですよ」
それからというもの、氏勝の修行が始まった。──とにかく強くならねばならぬ。その一心で、修行を重ねていく。
「あー、疲れた……」
自身の屋敷の布団に横たわっていた。屋敷内はボロく、木でできた壁には小さな穴が空いてあり、そこから隙間風の音が聞こえていた。月の評定まで残り6日。修行は最低でも十五日かかる為、今回は抜きである。
手持ち無沙汰になった氏勝は、岡部正綱に会いに行った。正綱は元信の兄であった。
「おお、若殿ではありませぬか」
「次郎右衛門、剣の手合わせを願いたいのだが」
「ほほう、手合わせでございまするか……一戦致しましょう」
氏勝はいつもの如く、太刀筋を左右にかわしながら、下から上へ木刀を振るった。正綱の手に当たり、持つ刀が飛び上がった。
「ううむ、お見事!……また相手致しましょう」
こういう手合わせは武士の嗜みだった。木刀を握る度、父の姿を思い出した。が、以前ほど胸は痛まなくなっていた。