家臣たちはいつも通り頭を下げていたが、当主の座る上座にはいつもの白い顔はなかった。家臣たちは互いの顔色を伺いながら座っている。
「皆、揃っているようだな。ご苦労である」
高い声が響いた。氏勝が顔をあげると兄が座っていた。赤い衣の上に白を重ね着している彼の姿に、少しだけ義元の面影を感じた。
「それでは、今後についてだ。知ってのとおり我が家の最終目標は天下統一である」
「ははあ」と家臣が頭を下げた。義元が残していった方針だ。跡を継いだ氏真もそれを否定することができず、なあなあのままに続いていた。
「さて、ではどうしようか……」
氏真が困り気味にそう問うと、一番前に座っていた茶色の衣を着ていた壮年が口を開いた。関口氏広は今川の庶家であり、伯父でもあった。
「まずは三河の沙汰が肝要かと」
「うむ」と家臣一同が頷いた。「あのにっくき松平を討伐せよ」と男たちの声が上がった。
「そ、そうじゃな、松平討伐を果たそう。じゃが、今回は内政を行いたい」
家臣はまた「ははあ」と声をあげて、頭を少し下げた。
「この方針に意見のあるものはおるか?」
家臣たちは頭を下げたまま、口を開かなかった。それを見て、氏真は「うむ」と小さく声を漏らした。
「何もないようだな。では、わしの考えどおり今月は内政を行う」
氏勝は頭を下げながら、兄を眺めていた。兄の額には汗が滲み出ていた。見た目こそ父の面影を感じるが、その姿に父のような威厳や覇気はなかった。
氏勝にくだされた命は修行をすることだった。命がくだされた時、隣からこんな言葉が聞こえてきた。
「源次郎さまにその主命が果たせるとは思えぬが……」
黒色の衣に身を包んだ彼は菅沼定盈である。年は氏勝より3歳上だが、同じ足軽組頭だったこともあり、何かと氏勝に難癖をつけていた。氏勝は彼を見ることもなく、「ははあ」と兄に返事した。
「では、解散」
氏真の声で家臣一同はもう一度深く頭を下げた。氏真は音もなく立ち上がり、上座から去っていった。それを確認すると、関口氏広から立ち上がり順に評定の間を後にする。氏勝が出たのはいちばん最後であった。
氏勝は誰もいなくなった廊下から岡部屋敷に向かおうとして、ふと元信が氏真から命がくだされていたのを思い出した。そこでその兄である岡部正綱に教えを乞うことにした。
「若殿ではございませぬか、修行ですか?」
オレンジ色の羽織を羽織った顔の白い男は目を細めていた。
「そうなのだ……実は五郎兵衛に乞おうと思っていたのじゃが……兄上の命を受けていたのを思い出してな」
「なるほどそれで私のもとに……良いでしょう」
正綱のもとで軍学の教えを受けた。十五日間の修行で、何とか軍学を学ぶことができた。
「まだまだですな……」
「やはり軍学は一筋縄ではいかないか」
「将に必要なのは何も学問だけではござらぬ。……模擬戦を行いましょうか」
三十五日間模擬戦の修行も行った。足軽の技術を身につける為だった。それだけでなく、これならばと正綱からはじめて技の伝授を受けた。
正綱と別れを告げ、氏真に報告へ行く頃、柘植殿からある噂が届いた。出雲の太守、尼子晴久が亡くなったという報せだった。晴久は出雲国だけでなく、伯耆・備前・備中など中国の大半を支配していた名君だった。氏勝は、暗い廊下の中で、父である義元のことを思い浮かべていた。何とかして駿府を守らないといけない、そう強く決心した。