ヴィザインの街並みは車窓越しに見ると、まるで巨大な回路基板のようだった。タクシーのシートに背を預け、私は手元にある薄いタブレットの画面を指で弾いた。青白い光が暗い車内で私の顔を無機質に照らす。
学園都市ヴィザイン。表向きは、最新鋭の技術が集約された教育と戦術の聖域だが、巨大企業たちの実験場である一面も持つ。私の勤め先であるアイギス・バイオティクスも、その実験に参加しているハイエナの一体に過ぎない。
今回の私の任務は、ヴィザイン内で囁かれている不気味な都市伝の真偽を確かめること。――曰く、銃をメンテナンスするナノマシンが暴走し、銃と生徒の肉体を癒着させている。馬鹿げた話だと最初は思った。だが、アイギスの上層部は血眼になっている。もしその噂が本当なら、ナノマシンを独占供給しているヘパイストス・インダストリーにとっては、破滅的なスキャンダルになる。アイギスとヘパイストスは、表面上は協力関係にある。だが、その裏では互いの喉元にナイフを突きつけ合っている。アイギスが私を送り込んだのは、ライバル社の不祥事をいち早く掴み、それを交渉材料にするため。あるいは、その暴走した技術を横取りするためだ。
「お客さん、もうすぐ到着します。ヴィザイン中央区のゲートです」
運転手の声に顔を上げる。ゲートの向こうには銃を肩にかけ、笑い合いながら歩く少女たちの姿があった。彼女たちの左手首には、一様に白い特殊なストラップが巻かれている。バイタルデータ、銃の使用許可証、電子マネー、学籍情報。この都市で生きるためのすべてが詰まったその白い帯は、ヴィザインのシステムに従順であることの証明だ。
私立ヴァルプルギス技術兵装学院
中央区を抜けて数時間の移動の後、ようやく目的地へと着いた。荷物を全て持ち、ネクタイを整えてタクシーを降りる。
私は迷いのない足取りで、私立ヴァルプルギス技術兵装学院の校門をくぐった。登校中だった少女たちの視線が、一斉に私へと突き刺さった。目を丸めてこちらを凝視する彼女たちの戸惑いはもっともだ。カラフルな青春が横溢するこの学区において、仕立ての良いスーツを纏った大人の男はあまりに不釣り合いだった。さらに、彼女たちの目を引いたのは、私の漆黒のストラップだろう。それは彼女たちが享受する自由を、上から塗りつぶすことができる上位特権の象徴。私は彼女たちの平穏な日常という薄氷を踏み砕きにきた異物なのだ。
さざめきを背中で聞き流しながら、目的の場所へと向かう。校舎の最上階。重厚なこげ茶のオーク材で作られた、古めかしい理事室の扉の前に立った。三度、ノックを刻む。
「装備監査課、特任オブザーバーだ」
返答を待たず、私は静かに扉を開けた。部屋の奥、巨大な窓を背にして一人の少女が座っていた。豪奢な革張りの椅子には不釣り合いなほど、その体躯は細い。だが、彼女が纏っているのはこの学園の標準的な華やかな制服ではなく、厳格な印象を与える詰襟の学生服だった。机に肘を突き、組んだ指の上に顎を乗せた彼女の瞳は、私を品定めするように射抜いた。
「朝の挨拶にしては少しばかり威圧的ね、監査官様」
彼女は唇の端をわずかに上げた。都市全体がまだ眠りの中にあり、あの「おぞましい噂」が影の形すら成していないこの時期。彼女たちにとって私の来訪は、せいぜい鬱陶しい政治的干渉の一つに過ぎないのだろう。
「お望みなら、今からでもノックのやり直しから始めようか。もっとも、時間は有限だが」
彼女の正面へ立ち、自分のストラップを軽く叩いて見せた。
「ヴィザイン安全保障委員会より通達があったはずだ。今日からこの学園における銃器の取り扱い、および治安維持体制の監視を実施する。私はそのための目として派遣された」
「建前としては聞き飽きた言葉だわ。この平和なヴァルプルギスで一体何を警戒しているのかしら? 生徒同士の喧嘩に目くじらを立てに来たの?」
「いや、私が求めているのはもっと本質的な安全だ。君たちの愛銃が正しい持ち主の元で、正しく道具として機能しているかどうか。それを確かめに来た」
私は彼女の視線から逃げることなく、言葉を続けた。癒着、暴走、肉の胎動。その言葉を口にするのはまだ早い。真実は、日常の仮面が剥がれ落ちる瞬間にこそ、最も美しい残酷さを放つのだから。
「いいわ。自由になさい」
彼女はそう言うと万年筆を手に取り、デスクの上の厚手の書簡箋に滑らせ始めた。
「必要ないはずだが」
「ええ、貴方のその黒いストラップがあれば、あらゆる扉は開くでしょうね。けれど、ここは私の庭。私の庭を歩くなら、私の認印が必要。それが規律というものよ」
彼女は淀みない動作で書類を書き進めていく。それは特権階級という暴力的な正論を、ローカルな形式という瑣末なルールで塗りつぶそうとする、彼女なりの小さな抵抗であり、崇高な茶番だった。
「形式に乗っ取った手続きこそが、混沌を防ぐ唯一の防壁よ。監査官様、あなたなら理解できるでしょう?」
「中身のない箱ほど、美しい装飾が必要だからな」
彼女は最後の一文字を書き終え、朱肉の香りが残る印を力強く押し当てた。出来上がったのは、外部監査官としての学園内滞在許可証。上位組織の命令にただ従うのではなく、自分の許可を得てここに居るのだという既成事実を、彼女は作り上げたわけだ。
「さあ、これで貴方は晴れて私のゲスト。治安維持を楽しんでちょうだい」
彼女は机の引き出しから、古めかしい金属製の鍵を取り出し、それを放り投げるようにして寄越した。
「校舎の離れにある宿直室よ」
宿直室の中は、古い離れという外観から予想していた埃っぽさは微塵もなかった。窓から差し込む淡い光に照らされた室内は、驚くほどに生きた空気を保っている。隅々まで手入れが行き届いた小綺麗な空間。一人で過ごすには十分すぎる広さのキッチンに、清潔なソファ、壁掛けの薄型液晶テレビ。浴室や寝室の設えを確認していくうちに、ここが単なる一時的な休憩場所ではなく、一つの完成された生活の場であることを理解した。
「……ふぅ」
安物ではないが、お世辞にも着心地が良いとは言えないスーツの上着を脱ぎ、クローゼットのハンガーに掛けた。ずしりと、ハンガーを伝って逃げていったはずの重みがまだ両肩にこびりついている。会社という組織に、あるいは監視人という役割に縛り付けられている重み。何年着続けても、この布切れが自分の肌に馴染む日は来ないだろう。
ネクタイを緩め、シャツの第一ボタンを外す。ようやく肺の奥まで空気が入るのを感じた。
「やはり、こっちの方が性に合っている」
私は独りごちた。上着を脱ぎ捨てただけの身軽な姿。何者でもない、ただの男としての時間。かつて戦場で、あるいは泥にまみれた潜入先で、明日をも知れぬ命を繋いでいた頃に着ていた服。それに近い軽さだけが唯一、私に正気を保たせてくれる。
冷蔵庫のドアを開け、唸りを上げるコンプレッサーの音を聞きながら、私は冷え切ったミネラルウォーターのボトルを取り出した。
喉を鳴らして水を流し込みながら、ふと窓の外を見る。あの学び舎のどこかで、ヘパイストス社のナノマシンが、今この瞬間も少女たちの銃を最適化し続けているのだろうか。
私はキッチンカウンターに置いた鞄から、愛用のポータブル端末を取り出した。アイギス・バイオティクスへの定期連絡。そして、先ほど廊下ですれ違った生徒たちのバイタルログに不可解なノイズが混じっていなかったかの解析だ。
画面の隅で点滅する時刻を見て、ようやく意識が現実へと引き戻された。いつの間にか夜の帳は下りていた。キーボードを叩く指を止め、無機質な着信音を響かせている端末を手に取る。ディスプレイに表示された名は、私をこの戦場へ送り出した上司のものだった。
『さて、一日が終わったわけだが......。どうだ?』
『いえ、まだ手がかりすら掴めていません。噂は噂、今のところは静かなものです』
『ふむ、ゆっくりでいい。だが、必ずヘパイストスよりも先に真相を掴むのだ。もし成功すれば、君の昇進を上に強く推薦しよう。期待しているよ』
一方的な激励を残して、通話は切れた。静まり返った部屋に、端末が発する微かな熱だけが残る。もし失敗したら。あるいは、真実という名の果実をヘパイストスの連中に先に刈り取られたら。その時、この犬の首輪はどれほどの強さで締め上げられるのだろうか。責任という名の廃棄処分か、それとも名もなき閑職への追放か。
「……いっそ、そのまま逃げ出して、一生ここで隠居するのも悪くないな」
背もたれに体重を預け、凝り固まった背筋を伸ばしながら、自分でも驚くほど投げやりな思考が口をついて出た。学園都市の片隅、古い宿直室。企業の陰謀も、銃器の変異も、すべてかき消して眠り続ける生活。
だが、空腹の合図がそんな逃避行を霧散させた。胃袋の要求は、いつだって生存本能に直結している。
「まずは、エネルギーの補給か」
デスクに戻り、ヴィザインのローカルネットワークへアクセスする。この未来的な学園都市の美点は、どれほど夜が深まろうとも金を払いさせすれば、全てが保証されていることだ。検索窓に並ぶ無数のデリバリーショップの中から、評判の良さそうなスパゲティの専門店を選んだ。ミートソーススパゲティ。洗練された美食よりも、今は挽肉とトマトの濃厚なソースが絡まった、あの暴力的なまでの炭水化物が欲しかった。注文を確定し、決済が完了したことを手元のストラップが微かな振動で知らせる。あとは到着を待つだけだ。
数十分後、静寂を切り裂くように電子音が鳴り響いた。インターホンだ。私は眉をひそめた。注文履歴を確認すると、画面には「配送完了」のステータスが表示されている。近頃の配送ドローンは、仕事を終えた後にわざわざ呼び鈴まで押して挨拶をするほど多機能になったのだろうか。奇妙に思いながらも、私はドアのロックを解いた。
「こんばんわぁ~! お届け物で~す!」
扉が開くやいなや、弾けるような声が滑り込んできた。反射的に身を引いた私の脇をすり抜け、ずぶ濡れの少女がリビングへと躍り出る。
「いやぁー、酷い雨ですねぇ。少し雨宿りさせてください!」
「おい、君――」
私の静止も聞かず、彼女は背負っていた巨大なデリバリーリュックを下ろし、リビングの机に容器を置いた。滴る雨水が手入れの行き届いた床に小さな水溜りを作っていく。
「ささ! 冷めないうちにどーぞ! ウチのスパゲティは美味しいですよ!」
濡れた髪を振り払いながら、彼女は屈託のない笑顔を向けてくる。制服の上にデリバリー業者のジャケットを羽織ったその姿は、紛れもなくこのヴァルプルギスの生徒だった。
「君、勝手に上がり込まれると困るのだが。仕事は終わったんだろう? さっさと帰ってくれないか」
私は努めて冷徹な声を出した。ここは私の拠点だ。どこの馬の骨とも知れない生徒を夜中に、しかも許可なく招き入れるわけにはいかない。
「え~、でも外は豪雨ですよ? ほら、雷まで鳴り出しちゃって。こんな中を帰ったら風邪ひいちゃうじゃないですか」
彼女は窓の外を指さし、大げさに身を震わせてみせた。
「ちょっとだけでいいので、ね? 雨が小降りになるまで、ね?」
そう言って、彼女は断られることを露ほども疑っていない様子でちゃっかりとソファの端に腰を下ろした。私はため息をつき、頭を抱えた。ヴィザインの生徒は自由奔放だとは聞いていたが、これほどまでに距離感が欠如しているものなのか。それとも、私が纏っているはずの異物の気配が、この少女には届いていないのだろうか。
彼女は濡れたジャケットを脱ぎながら、まるで昔からの知り合いであるかのように私に話しかけてきた。
「……あ、お客さん。もしかして、今日やってきたっていう監査官さんですか?」
彼女の瞳が私の手首にある黒いストラップを捉えた。
「理事長から聞きましたよ。ええっと……、なんか銃の管理とか使い方とか見るって」
「あぁ、そうだ。今日から君たちを監視する。それが私の仕事だ」
「キャー! エッチ! 監視だってぇ、監視! いやだなぁ、覗きとかは勘弁してくださいね?」
彼女は顔を赤らめる素振りを見せながら、わざとらしく自分の肩を抱いて身をよじった。
なんだこの子は。明らかにおかしい。自由奔放という言葉では片付けられない、どこかネジの抜けたような違和感が全身から漂っている。下手に刺激すれば、遊びの延長線上で私の眉間に風穴を開けかねない危うさ。
溜息を飲み込み、視線を鋭くした。噂を確かめるために派遣された身ではあるが、かつては企業の泥臭い現場で武器管理官をしていたこともある。理屈ではなく経験が、あるいは昔の血というやつが、彼女の帯びている兵器の気配に反応していた。
「君、銃を所持しているか? 出したまえ」
「もちろんですとも! 配達員には防犯が必須ですからね、腰につけた愛銃がありますよ! ……あ、そういえば監視官様も、腰に立派な銃をつけてますよね?」
彼女は茶化すように私の腰元を指さした。
「ふざけるのは無しだ。さっさと許可証と一緒に見せろ」
私は一切の冗談を排した声で命じた。彼女は「ちぇー、厳しいなぁ」と唇を尖らせながらも、手首の白いストラップを私の端末にかざし、腰のホルスターから一挺の拳銃を抜き出した。
「はい、どうぞ。私の相棒です!」
差し出されたのは標準的なポリマーフレームの拳銃だ。
「最後にこの銃をメンテナンスしたのはいつだ?」
「4ヵ月くらい前です! バイトが忙しくって、つい後回しにしちゃってました!」
彼女は悪びれる様子もなく、エヘヘと場違いな笑い声を上げた。だが、私は笑えなかった。
「毎日メンテナンスをするのが正しい銃の扱い方だ」
端末のライトを点け、そのポリマーフレームの拳銃を検分した。酷い有り様だ。一見してわかるほど、スライドの溝にはびっしりと埃が詰まり、放置された古いオイルが固着して黒い泥のようになっている。さらに、排莢口の周囲には湿気で浮いた赤錆がこびりつき、ざらついた感触が指に伝わる。おそらく、雨の日の配達で濡れたまま拭き取りもせずに放置していたのだろう。
「これは、いざという時にジャムを起こして死ぬぞ」
私がスライドを引こうとすると、ガリッという不快な金属音がして、何かが噛み合っているような重い抵抗があった。単なる油切れだ。だが、その金属同士が擦れる感触の奥、ほんのわずかに泥をこねるような妙な粘り気を感じた気がした。
「明日すぐにでも学校のメンテナンスブースへ持っていけ。これは命令だ」
「えぇ~! そんなぁ。厳しいなぁ! 私の相棒、これでもちゃんと動くんですよ?」
彼女は不満そうに頬を膨らませ、私の手からひょいと銃を奪い返した。その時、彼女の指先が私の手に触れた。熱い。風邪でも引いているのか、それとも雨の中を走ってきた高揚感のせいか。少女の指先は、まるで沸騰したお湯を湛えたかのような異様な熱を帯びていた。
「じゃあ、雨も少し小降りになったみたいだし、私はこれで! スパゲティ、冷めないうちに食べてくださいね!」
彼女は立ち上がってジャケットを羽織ると、空になったデリバリーリュックを背負って玄関へと向かった。
「……おい、君」
「あ、名前はミナです! ヴァルプルギス学院の2年生! また明日、学校で会いましょうね、監視官さん!」
嵐のような勢いで、彼女は外の闇へと消えていった。後に残されたのは床に点々と残った水溜りと、テーブルの上に置かれたミートソーススパゲティの香りだけだった。
湯気を立てる巨大な紙容器を私は改めて見つめた。デリバリーのリュックから取り出されたときはそれほど意識していなかったが、いざ机に置かれると、それは一食分という言葉から遠くかけ離れた質量を誇っていた。
蓋を外すと、濃厚なトマトと挽肉の香りが一気に部屋の空気を塗り替えた。容器の縁までぎっしりと、文字通り山盛りにされたスパゲティは、まるで何かの儀式で供えられる供物のようだ。
「さすがに多すぎる」
私は同梱されていたプラスチックフォークを手に取り、その赤い山へと突き立てた。さすがに上げ底だろう、と高を括っていた。近未来的な外見を装った容器だ。二重構造になっていて、実際の中身は一回り小さい内箱に収まっている――そんなありがちな欺瞞を期待していたのだ。だが、現実は違った。フォークを深く差し込んでも、先端は容器の底に届かない。ひと口、ふた口。挽肉の旨味を凝縮したソースが絡んだ麺を無心で口へ運ぶ。味は確かだ。あの少女の自信満々な言葉通り、ジャンクだが確かな充足感がある。だが、食べても食べても、麺の山が低くなる気配がなかった。下から熱を孕んだ新たな麺が湧き上がってくるような錯覚に陥る。
「……馬鹿げている」
私はフォークを止め、唇を拭った。これはデカ盛りなんてレベルではない。容器の底まで、一切の隙間なく、この赤い糸が充填されている。
静まり返った宿直室に、雨音と私が咀嚼する音だけが響く。ふと、先ほどの少女――ミナの言葉が頭をよぎった。
『ウチのスパゲティは美味しいですよ!』
あんな華奢な少女がこの重い容器を背負って雨の中を走ってきたのか。そして、あの異様な指先の熱。私は再びフォークを動かしたが、胃の腑に溜まっていくスパゲティの重みが、先ほど感じたスーツの重みと重なり、妙に胸が詰まった。
朝、昨夜のスパゲティがまだ胃の端に残っているような感覚を覚えながら、私は朝の光の中へと踏み出した。今日はあの肩を圧し潰すようなスーツをクローゼットに置いてきた。代わりに選んだのは、動きやすい半袖のワークシャツだ。これなら生徒たちの警戒心も少しは和らぐだろう――と思ったが、剥き出しになった左手首のストラップが、そんな私の甘い期待を嘲笑うかのように鈍い光を放っている。結局、私がヴィザインにおける特権的な異物であることに変わりはないのだ。
向かったのは、巨大な屋内射撃訓練場。近づくにつれて硝煙の匂いと、鼓膜を叩く乾いた銃声が押し寄せてきた。そこには汗臭い教官やむさ苦しい兵士の姿はない。代わりに、華やかな制服の裾を翻した少女たちが、真剣な眼差しで標的を凝視している。彼女たちの手に握られているのは、ヴィザインの最新兵装から、歴史の闇に消えていったはずの遺物まで様々だ。スタンダードなポリマーフレームの拳銃。精密な光学サイトを載せた最新の小銃。そして、その中に一際目を引く一挺があった。
「あれは……、ステン・サブマシンガンか」
どこまでも合理性を追求し、鉄パイプとバネだけで作り上げられた、歪で美しい短機関銃だ。低コストと量産性のみを至上命題として生み出され、そのあまりの不安定さから戦場を混乱させた傑物。私はあの横に突き出した独特なマガジンのシルエットが好きだ。あれはヴィザインの技術で現代風にリメイクされたレプリカだろうか。それとも、どこかの倉庫で眠っていた本物の掘り出し物だろうか。
少女がトリガーを引く。ガシャンという不器用な連射音が訓練場に響き渡る。銃身が跳ね、制御しきれない暴力が彼女の華奢な肩を揺らしていた。
「安定性に欠けるが、引き換えに余計な虚飾がない。今のこの街にはお似合いかもしれないな」
異常なし。これ以上の滞在は、単なる時間の浪費に過ぎない。私は踵を返し、硝煙の充満した射撃場を後にしようとした。
「あ、監視官さーん!」
その屈託のない声が、銃声の合間を縫って届いた。振り返ると、そこには昨夜のデリバリー少女ミナが立っていた。まさか、この技術兵装に特化したクラスの生徒だったとは。
彼女が細い肩に担いでいたのは、華奢な体躯にはあまりに不釣り合いな対物ライフルだった。重機を思わせるその銃身は彼女の背丈ほどもある。
「そんなものをまともに扱えるのか?」
「ううん、まだ練習中! ちょっと見てってよ!」
本来なら、生徒との個人的な交流は避けるべきだ。馴れ合いは時として監査官の目を曇らせる。だが、私は考えを改めた。生徒たちと距離を縮めておけば、いずれ噂の核心に触れる際、重要な情報源になるかもしれない。
「反動が普通の銃とは桁違いだぞ。気を付けて撃てよ」
「もちろんですとも!」
彼女は快活に答えると、あろうことか、その巨大な鉄塊を立ったまま構え始めた。
「馬鹿野郎、肩が外れるぞ。しっかりバイポッドを立てて、伏せて撃つんだ」
私の制止に対し、彼女は不敵な笑みを浮かべてみせた。
「んなもんいらないっすよ。私たちヴィザインの生徒は、普通の人間より丈夫にできてるんですから!」
直後、鼓膜を震わせる轟音が響いた。射撃場に凄まじい土煙が舞い上がる。発砲のたびに凄まじい反動が彼女の体をじりじりと後方へ押し流していた。だが、彼女はその衝撃を力任せに押さえつけ、逃げようとする銃身を強引に標的へと向け続けていた。凄まじい筋力だ。
スコープで確認すると、放たれた巨大な弾丸のほとんどが遠く離れた標的に食い込んでいた。
「どう? 私、すごいでしょ!」
全弾を撃ち尽くし、熱を帯びた巨大な薬莢が床に転がる。彼女は息を切らしながらも、誇らしげに鼻を鳴らした。
「ああ、大したものだ」
訓練が一段落すると、私はいつの間にか4人の生徒に囲まれていた。ミナとその友人たちらしい3人組だ。正直、あの嵐のようなミナに友人が存在したことに驚きを禁じ得なかったが、話を聞けば案の定、彼女の自由奔放さに日々振り回されている被害者たちのようだった。それでも「一緒にいて楽しいから」と笑い合えるのだから、彼女たちの絆は案外、鋼鉄よりも強固なのかもしれない。
まず、私の視線を引いたのは、グループの中で最も背が低く、足元まで届きそうなほど長い髪を湛えた少女、ククだ。彼女の左手首には白でも黒でもない、紫色のストラップが巻かれていた。ヴィザインにおける紫。それは何らかの異常を抱えた個体であることを示す色だ。何が決定的に違うのか。それは身体的な欠陥か、精神的な特異性か、あるいはもっと別の何かか。だが、例え異常者としての烙印を焼かれていようと、彼女たちにも人権はある。倫理的な制約により、異常の詳細を第三者が口にすることは厳格に禁じられている。本人に問うこともご法度だ。
「よろしく、監査官さん」
ククは私を見上げた。その長い髪が風もないのに生き物のように微かに揺れた気がした。
次に、紫色のメッシュが鮮やかな髪を跳ねさせているのが、リョウ。彼女はごく普通の白いストラップを巻いた一般生徒だった。多趣味だと自称する通り、その立ち振る舞いからは特定の型に嵌まらない柔軟さと、どこか達観したような余裕が感じられた。この個性豊かな面々を繋ぎ止めているのは、案外彼女のような普通なのかもしれない。
そして最後の一人は、透き通るような銀髪が印象的なイスズ。彼女は学年でも有名な「ぼんくら」で通っているらしい。だが、それは決して怠け者という意味ではない。勉学、バイト、そして部活にも彼女は人一倍真面目に取り組んでいる。リョウ曰く、単に本人の能力がそれに追いついていないという、なんとも世知辛い不器用な努力家だという。
「あ、あの……。不肖、イスズ。精一杯、監視されます……!」
「ねえねえ、監視官さん! この後、私たちとお昼食べに行きませんか?」
ミナが私の袖をぐいと引いた。どうやらこの奇妙なカルテットに呼び止められた理由は、昼食の誘いだったらしい。
「監視官さん、まだお腹空いてるでしょ?」
昨夜の、減らないスパゲティの残像が脳裏をよぎる。本来なら断るべきだった。だが、紫色のストラップを持つクク、そして何よりヘパイストス社の製品を日常的に使い、摩耗させている彼女たちのそばにいることは、任務においてこれ以上ない好機だ。
「いいだろう。ちょうど、君たちの日常をもう少し詳しく観察したいと思っていたところだ」
「やったぁ! 決まりですね! さあ、行きましょう!」
目の前に並んだ光景を前にして、私はため息を吐くしかなかった。昼食に連れてこられたのはまさかのイタリアンレストラン。イタリアンを自称してはいるが、壁のメニューを見渡してもパスタ、それもスパゲティのバリエーションしか存在しない。昨夜、デリバリーを頼んだあの店の実店舗だった。
「この店を選んだのは私への嫌がらせか?」
「えー、違いますよー! だって昨日の夜、あんなに大盛りのスパゲティ頼むんだから、相当好きなんでしょ? 好きなものはお店で食べたほうがもっと美味しいと思います!」
彼女は一切の悪意を感じさせない、眩しいばかりの笑顔で言い切った。
「あはは……。すみません。ミナが何か決定的な勘違いをしているようで……」
向かいの席でリョウが申し訳なさそうに、だがどこか諦めを含んだ苦笑いを浮かべて付け足す。そのやり取りの間、ククは卓上のタブレットを操作していた。何を注文したのかを問う間もなかった。数分後、電子音を響かせながら滑らかに近づいてきた配膳ロボットが、私たちのテーブルに4つの皿を並べていった。
視界が真っ赤に染まる。そこに並んでいたのは、見事なまでに統一された5人分のミートソーススパゲティだった。
「……アホすぎる」
思わず独りごちた。昨夜、胃袋を限界まで拡張させたあの濃厚なソースの香りが、再び鼻腔を支配する。イスズは「わあ、美味しそう!」と目を輝かせ、ククは無言でフォークを手に取り、リョウは遠い目をしている。
「さあさあ! 監視官さんも食べて食べて! ここのは挽肉がたっぷりなんですから!」
促されるまま、私はフォークを手に取った。
「君の味覚の基準はどうなっているんだ。昨夜あれだけ食べた人間に、また同じものを勧める神経が理解できない」
「えー? 美味しいものは毎日食べても美味しいですよ! ほら、イスズちゃんなんて、三食これでもいいって言ってるし!」
「えっ、あ、私!? う、うーん。ミートソースは好きだけど、三食はちょっと……。あ、でもミナちゃんが言うならそうなのかなぁ」
イスズが銀髪を揺らしながら、おろおろとフォークを動かしている。彼女のぼんくらと評される危ういバランス感覚が、この場のカオスを助長させていた。
「監視官さん、あまりミナの言葉を真に受けないでくださいね。この子は自分が『これだ』と思ったら、周囲の状況なんて全部書き換わっちゃうタイプですから」
「君たちの学園では、銃の整備不良が流行っているのか?」
私はふと気になっていたことを口にした。店内のあちこちで、生徒たちが空いた椅子やテーブルの端に自分の銃を置いている。よく見ればどの子の銃も、ミナのものと同じようにどこか薄汚れているように見えた。
「整備不良? ああ、最近なんかみんな面倒くさがってるのかも。ヘパイストス社の新しいナノマシン・オイル、あれを一回塗るだけで『しばらくは何もしなくていい』って業者さんが言ってたし」
リョウが思い出したように答える。
「そうそう! あのオイル、すっごく便利なんですよぉ。一回塗れば、汚れが勝手に浮いてくるっていうか。だからみんな、掃除をサボっちゃってるのかも」
ミナが口の周りを赤く染めながら笑う。
なるほど。ナノマシンによる自動洗浄の謳い文句が、逆に生徒たちの怠慢を招いているというわけか。
「道具というものは、自分の手で触れて状態を確かめるものだ。機械任せにしていると、いつか手痛いしっぺ返しを食らうぞ」
「あはは、監視官さん、おじいちゃんみたい!」
確かに彼女たちの言う通りなのかもしれない。私が感じている違和感は、最新技術についていけない旧世代の監視人が抱く、ただの被害妄想なのか。泥のようなオイルも、不気味な錆も、単なるメンテナンス不足が生んだ、ありふれた汚れに過ぎないのだろうか。
背後で別の生徒が立てかけた銃がガタンと床に倒れる音がした。
「あ、やだ。また手が滑っちゃった」
あまりに平和なヴィザインの昼下がりだった。
「あ、私お金持ってきてないかも! イスズ、持ってる?」
ミナが自分のポケットをパタパタと叩きながら、上目遣いで隣を見た。その軽薄な手つきを見るに、最初から払う気などなかったに違いない。
「えっ、持ってるけど……。ミナちゃん、今度はちゃんと返してくれる?」
「ミナ、またイスズに返してないの? これから貸し借り禁止ね。甘やかしちゃダメだよ」
リョウが呆れたように嗜めるが、当のミナは「えへへ」と笑って誤魔化すばかりだ。ククは相変わらず無言で、そもそも財布という概念すら持ち合わせていないように見える。
「アタシは今、バイト代前払いで使い切っちゃって金欠だしなぁ……」
リョウまでもが申し訳なさそうに視線を逸らした。そして、4人の視線がゆっくりと吸い寄せられるように私へと向けられる。なるほど、これが監視人がカモに変わる瞬間というわけか。
「仕方がない。今回だけだぞ」
私は座席の決済タブレットにストラップをかざそうとした。
――その瞬間。鼓膜を突き破るような破砕音と共に、向かいの席の大きな窓ガラスが粉々に弾け飛んだ。
光り輝く破片の雨の中、猛スピードのセダンが店内に突っ込んでくる。テーブルが、椅子が、凄まじい衝撃で粉砕された。
「な、なんだ!」
舞い上がる土煙と硝煙の中、リョウは避けるどころか、飛んできた破片を面倒そうに手で払いながら溜息をついた。
「あー……、一部の不良とか他校に恨みがある生徒とかがたまに暴れ回るんですよね。ヴィザインではよくあることなので気にしないでください。監視官さんはアタシと避難しましょう」
「よくあることだと?」
「オッケー! じゃあ、こいつらは私らで何とかしておくね! リョウ、監視官さんを頼んだよ!」
ミナはすでに拳銃を構えていた。ククも無表情のまま、どこから取り出したのかサブマシンガンを構え、その銃身を車から降りてくる武装集団へと向ける。イスズに至っては「ええっ、もうお昼終わっちゃうのぉ!?」と半べそをかきながらも、機械的に小銃のボルトを引いていた。
「早くこっちへ!」
リョウに腕を引かれ、私は混乱したまま崩壊したイタリアンレストランの奥へと誘導された。背後では食事を楽しんでいたはずの生徒たちが一斉に武装し、日常の一部として銃火器の応酬を始めている。
「狂ってるな、この街は」
裏口から外へ出ると、ヴィザインの冷たい空気が頬を打った。背後ではつい数分前までスパゲティの香りに満ちていた店から、乾いた銃声と怒号が響き続けている。
「これじゃあ、毎日死人だらけなんじゃないか?」
思わずこぼれた私の問いに、リョウは歩調を緩めることなく、さも当然のように肩をすくめた。
「大丈夫ですよ。アタシたちヴィザイン人はそう簡単には死なないですから。ヴィザインの外にも、そういう頑丈な人たちっていますよね?」
「いるにはいるが……。ここまで平然と銃撃戦を日常に組み込んでいるのは君たちくらいだろうな」
リョウはふと思いついたように足を止め、覗き込むように私の顔を見た。
「監視官さん。……いや、呼びにくいし面倒だから『しーちゃん』って呼びますけど、しーちゃんは普通の人間なんですか?」
不意に投げかけられたその響きに、思考が一瞬停止した。社会に出てからというもの、私の名前は書類上の記号になり、誰もが私を監視官やオブザーバー、あるいは貴様と役職名で呼んだ。名前ですら呼ばれる機会を失って久しいというのに、あだ名で呼ばれるなど子供の頃以来だ。あまりに馴れ馴れしく失礼な呼び方だった。だが、不思議と不快感はなかった。むしろ、心の隅の方で埃を被っていた感情がわずかに震えるような奇妙な高揚感があった。
「全くの普通の人間だ。食事のついでに銃撃戦ができるほど頑丈ではない。私にはまだやり残した仕事が山積している。死ぬわけにはいかないからしっかり守ってくれ」
リョウは私の左手首、黒いストラップに視線を落とした後、薄く笑った。
「自分の身は自分で守らなきゃダメですよ。と……、言いたいところですけど。普通の人間なら仕方ないですね。ボディガードになるつもりはありませんが、せっかくこうやって縁がかかってるわけですし。少しの間くらいは守ってあげますよ。行きましょうか、他の連中も寄ってきますから」
緑豊かで静かな広場。戦火の喧騒を遠くに聞きながら、私たちは並んでベンチに座り、ただ時間が過ぎるのを待っていた。ふと、リョウが左手で耳元に触れた。髪に隠れたイヤホン型のトランシーバーで誰かと通信を始めたらしい。ヴィザインの高度な通信インフラは、こうした非常時でも途切れることがない。
「うん、うん。分かった。了解、今から戻るね」
「やっと終わったのか?」
「そのようです。あらかた片付いたって」
私たちがレストランに戻ると、そこはまさに悲惨の一言に尽きた。イタリアンの看板はひしゃげ、壁という壁には無数の弾痕が刻まれている。充満する火薬の匂いが鼻の奥をツンと刺した。
「監視官さーん! 大丈夫でしたかー?」
瓦礫の山からひょっこりと顔を出したミナが、汚れ一つない笑顔で駆け寄ってくる。その後ろでは、ククがサブマシンガンの残弾を確認し、イスズがどこから持ってきたのか箒でガラス破片を掃いていた。
「それはこっちのセリフだ。怪我はないか?」
「大丈夫!」
「そうか。……それで、襲撃してきた生徒たちはどうした?」
「車の中に押し込んどきましたよ! ほら!」
ミナが誇らしげに指さしたのは、無残にも壁に乗り上げたあのセダンだ。扉を開けた瞬間、文字通りぎゅうぎゅう詰めにされていたボロボロの生徒たちが意識を失ったまま雪崩のように地面へ転がり落ちた。
「あ! せっかく詰めたのに! 隙間なくパズルみたいにするの大変だったんですよぉ?」
事態を収拾すべく、倒れた生徒のストラップに自分の黒いストラップを近づけた。システムを強制介入させ、彼女たちから銃器の使用権限を剥奪しようとしたのだ。
だが。
『――アクセス拒否。所有権の侵害は許可されていません』
無機質なエラー音が鳴り響いた。
「操作を拒否されただと? 監査官の権限だぞ」
「知らないんですか? 最近、ヴィザインの基本法が見直されて……。たしか、
結局、襲撃した生徒たちは後から到着した青い回転灯を光らせる機動隊によって事務的に拘束された。彼女たちは護送車に詰め込まれ、現場から去っていく。
「そういえばさー、変な生徒がいたよねー」
ミナがひしゃげたセダンの屋根に腰掛けて足をぶらつかせながら言った。
「やけに動き回る生徒だったけど、絶対に右手から銃を離さなかったし、持ち替えたりもしなかったよね。何もあそこまで銃を死守しなくても、近接格闘くらいなら授業で習ってると思うのにさ」
その言葉に私は僅かな違和感を覚えた。ヴィザインの戦闘訓練は外よりもキツく行われているはずだ。弾切れや故障、至近距離での戦闘になれば、銃を捨ててナイフや体術に切り替えるのが定石のはずだ。それをしないのはよほどのこだわりか、あるいは――。
「へーえ、珍しい生徒もいるもんだね」
リョウが興味なさそうに、だが鋭い目で私を振り返る。
「しーちゃんは近接格闘とかできます? 銃を奪われた時とかに」
「ある程度は」
「え、なになに! しーちゃんって!」
ミナが目を輝かせて、私たちの間に割って入ってきた。
「監視官さんのあだ名だよ。そのまま呼ぶの面倒だし長いじゃん? だからみんなでしーちゃんって呼ぼうよ」
リョウの淡々とした提案に、ミナは「それ採用!」と言わんばかりに両手を叩いた。
「私はしばらく慣れなそうだけど……。し、しーちゃんさん?」
イスズが髪をいじりながら、恐る恐る私の顔色を伺う。彼女にとって、国家機関のような威圧感を放つ大人をあだ名で呼ぶのは相当なハードルなのだろう。
「イスズったら気にしすぎだよ! ちょっと失礼くらいが仲良くなれるって。ほら、ね!」
ミナがイスズの背中をバシバシと叩く。
「好きに呼んでもいい。ただし、仕事の邪魔だけはしないでくれ」
「やったぁ! 許可出ましたー!」
「さて、しーちゃん。お昼も食べ損ねちゃったし、次はどこへ行きます?」
リョウが事も無げに尋ねる。
「学校はどうしたんだ? まだ昼を過ぎたばかりだろう」
「今日みたいに実弾訓練がある日は午前で終わりなんです! 午後の座学は任意だし、そんなの受けるのは頭のいいガリ勉さんたちだけですよ。それに……、なんと明日から長期休暇!」
「待て、私は遊ぶためにこのヴィザインへ来たわけではないのだぞ」
「えー、でも案内は必要ですよねぇ? 監視官なんだから、一つの学園だけじゃなくて他の学園もちゃんと見て回らないと仕事にならないんじゃないですか?」
ミナの屁理屈に私は思わず額に手を当てた。大人の仕事の重みを知らない子供の無邪気さ。だが、彼女の言うことには一理ある。一箇所に留まっていては、噂の尻尾を掴むことはできない。
「まったく。大人の責任すら知らないくせに」
「まぁまぁ。そーいうわけで、どこか行きません?」
リョウが促すが、あいにく私はヴィザインの組織構造には通じていても、地理的なロケーションには疎い。返答に窮していると、それまで一言も発さず、ただ機械のように状況を眺めていたククが口を開いた。
「叢雲。隣接区にある、伝統校」
「あ、いいじゃん! 落ち着いてて、お団子も美味しいんだよね!」
行き先はなし崩し的に決まった。本来の担当はヴァルプルギスのみだが、噂の出所が不明である以上、別の文化圏を持つ学園を洗うのは調査として正しい。出発の準備をする彼女たちから距離を置き、私は上司へ連絡を入れた。
『……そうか、他学区へ足を伸ばすか。いいだろう、承認する』
上司の声は上機嫌だった。私が「噂はまだ表層化しておらず、時間は十分にある」と報告すると、彼は満足げに鼻を鳴らし、驚くべき手を明かした。
『君の熱心な働きに免じて、こちらでも少し動こう。ヘパイストス社に、量産型ナノマシンの仕様変更を正式に提案する。外見はそのままだが、中身を暴走の危険がない旧世代の安定版へ差し替えるように指示させる』
一見、競合他社を助けるようなこの提案。だが、これこそがアイギス社の、そしてこの企業戦争の汚い真実だった。ヘパイストスが最新型の「暴走リスクのあるナノマシン」を抱えたまま事故を起こせば、彼らは一時的に没落するかもしれない。しかし、それでは暴走した兵器という未知のデータが手に入らない。アイギス社が狙っているのは、ヘパイストスの失脚ではなく、彼らが作り出した不完全な神の技術を、安定した状態で奪い取ることだ。ヘパイストスに旧型を強制することで、アイギスは彼らの最新研究を未完成の不祥事として封じ込めつつ、その間に自分たちが最新型の欠陥を修正し、完成版を市場へ叩きつける――。
安全を確保するという名目の人道的な提案を隠れ蓑にした、技術の囲い込みと収奪。 それが上司の狙いだった。
結局、誰も彼女たちのことは考えていないわけか。
通話を切り、私は少女たちの方を向いた。
天神坐・叢雲八重垣大宮
隣接する区と言っても、地下鉄とリニアを乗り継いでも数時間はかかりそうだった。窓から見える景色が、機能的な高層ビル群から、徐々に瓦屋根の意匠が混ざるの古い町並みへと変わっていく。
リニアの最新鋭な駆動音から解放され、ホームに降り立った瞬間、肺を満たしたのは濃厚な緑の匂いだった。そこはヴァルプルギスとはあまりにかけ離れた、古びた無人駅だった。周囲を深い山々に囲まれ、蝉時雨が降り注ぐその光景は、どこか遠い過去へタイムスリップしたかのような錯覚を抱かせる。
「ここは本当に、あのヴィザインの中に含まれているのか?」
「もちろん、よゆーで入ってます! 正確には、ヴィザイン第17学区
「ヴィザインは本当に広くて、大陸一つ分の面積があるとも言われています。しーちゃんは中央区を通ってきたと思いますけど、あそこは物理的な中心じゃないんです。ただ中枢機能が集まっているだけで、私たちヴァルプルギスも、中央区も、ここも、実はヴィザインという広大なパズルの東端に固まっているだけなんですよ。西や北、南には、まだまだ私たちの知らない自治区がぎっしり詰まってます」
リョウが博識な一面を見せて解説してくれる。広大すぎる学園都市。その全容を把握している者など、運営理事会の最深部にもいないのではないか。
「案内しますよ。行きましょう」
意外にも案内役を買って出たのはイスズだった。普段のぼんやりした様子とは打って変わり、その足取りには迷いがない。聞けば、彼女の生まれ故郷なのだという。
「本当は私もここの学園に入りたかったんですけど……。叢雲学園の方針や将来の進路が、私のやりたいこととは全然違ったんです。だから勘当同然で家を出て、ヴァルプルギスで一人暮らしを始めたんですよ。へへ、意外でしょ?」
駅舎を出ると、そこには見渡す限りの田園風景と、その奥に鎮座する朱塗りの大鳥居が見えた。
「イスズ、君のやりたいこととは何だったんだ?」
「私、本当は銃なんて持ちたくなかったんです。でも、ヴィザインで生きていくならそれは無理なことで、だったらせめて一番機械として銃を扱っているヴァルプルギスで、理屈で銃を理解したかった。叢雲の銃はなんていうか、もっと別のものに近いんです」
「別のもの?」
「ええ。百夜では銃を神籬、つまり神様を降ろす依代として扱うんです」
道を歩くにつれ、すれ違う生徒たちの装束は制服から、機能的に改造された巫女服へと変わっていった。彼女たちが背負っているのは、ヴァルプルギスで見かけたような実用一辺倒の鉄塊ではない。銃身には精緻な細工が施され、ストックには注連縄や紙垂がついている。
「学園って名前に付いていないのに、行政上は学園扱いなんだな」
私はその特殊な景観を見渡して呟いた。近代的な軍事拠点だったヴァルプルギスとは対照的に、ここは信仰がシステムそのものを規定している。
「学園というより、ここは神を降ろす地、そして神に仕える者を教育する地としての扱いなんです。ヴィザインの自治区の中でも、かなり特殊な階位に置かれていて……」
「でも、正式名称は長いから、みんな叢雲学園って言うよね。アタシもそう呼んでるし、一番しっくりくるよ」
「叢雲学園、か」
その通称が耳に残る。天叢雲剣――三種の神器の一つであり、武力の象徴。銃を神籬と見なすこの地の住人にとって、それ以上に相応しい名前はないのかもしれない。
「ここへ案内した理由は?」
ククがいつになく感情の乗った、ニマニマとした表情で短く答えた。
「お団子」
「団子がうまいということか?」
「そうです! 叢雲は団子と神楽で稼いでいるんですよ。形式上、神職の徒が舞う神楽で直接お金を徴収するのは無作法とされているので、建前としては『神事を後世に残すための奉納金』という名目で見物料をもらっているんです。でも、叢雲の生徒たちは根が真面目というか、それでもお金を受け取るのを少し嫌がるんですよね~。贅沢なやつー」
ミナが茶化すように笑うが、その横でイスズは複雑な表情を浮かべていた。彼女にとって、自らの信仰や技を商売に結びつけることは、誇りと葛藤の狭間にあるのだろう。
「それと、実用面での大きな資金源もあります。特殊な弾丸を高く売っているらしいですよ。
「そんな呪いなんてもんが、本当にあるのか?」
「亜人がいるこのヴィザインなら、呪いがあってもおかしくはないと思いますよ。そこらへんはイスズが詳しいはず。ね?」
「え、あ、うん。……詳しくは言ってはいけないのですが、たしかに呪いなどといったものはあります。でも、それらはこの閉鎖された叢雲の中でしか発達していない排他的な技術なんです。数年前から各地の学園がこの呪いについて解明しようとしたのですが、あまりにも抽象的な概念すぎてほとんどの学園が断念しました。誰も分からない未知の技術を持っているので、ヴィザインの中でもそれこそ特殊な立ち位置だし、一部の学園からはここの解体をするデモが行われたりしました」
科学と魔術、あるいはそれに類する何かがこの山奥では未分化のまま銃口から吐き出されているのか。
「団子、早く行こ。なくなる」
ククが私のシャツの裾をクイと引き、現実に引き戻した。
「分かった。話の続きは団子屋で聞かせてもらっていいか? ちょうど、私も喉が渇いていたところだ」
案内されたのは、茅葺き屋根の古びた茶屋だった。軒下には赤い毛氈が敷かれた縁台があり、そこでは生徒たちが銃を傍らに置いて、のどかにお茶を啜っている。
お茶の会計を済ませようと財布に手を伸ばしたが、店主は「ククちゃんの連れならいいよ」と笑って受け取らなかった。どうやら無口なククはこの茶屋の隠れた常連、あるいは特別な客として扱われているらしい。
時刻は午後5時。切り立った山の稜線に紅い太陽が重なり、深い木々の影が急速に伸びてきた。
「君たちはもう帰りなさい。じきに夜になる」
「せっかく時間かけて来たんだから、帰りませんよ! リョウもイスズもククも私も、叢雲に滞在する予定ですから!」
「滞在って、こんな田舎に宿でもあるというのか?」
「もちろんです! 神楽を見に来る観光客がいるんだから、叢雲もそこには目を光らせてるんですよ! しーちゃんがリニアの中で寝てる間に、アタシたちで滞在プランを考えたんです! あ、もちろんしーちゃんも一緒ですよ?」
「勘弁してくれ。私は遊びで来たのではないんだぞ」
「分かってますよ。だからちょうどよくエンジョイできて、しーちゃんの仕事の手伝いになりそうなプランを考えたんです。ククのタブレットを見てください」
差し出されたタブレットを覗き込む。
【叢雲滞在プラン】
1:叢雲学園本殿・武器庫
【しーちゃん単独行動】
目的:各学園理事長への訪問、および、兵装管理の監査・運用評価。
詳細:しーちゃんは監査官の特権を使い、本殿奥の武器庫および管理記録の閲覧を行う。叢雲の生徒は排他的なので、部外者の随行は逆効果。
※ここはビシッと決めてきて!
2:巡回
【ミナ・リョウ・イスズ・クク 4名行動】
目的:しーちゃんの「武器監視業務」の補佐。※独自判断
詳細:しーちゃんが偉い人と話している間、アタシたちが外で「変な使い方をしている生徒」や「手入れがなっていない問題児」をチェック!
※ヴァルプルギスのやり方で、叢雲の甘い管理に喝を入れてあげるプラン!
3. 合流・宿泊:民宿・あはれ
【全員合流】
目的:夜間の神楽奉納の監視。
詳細:神楽は実戦形式で行われるため、ここでも武器の運用評価ができるはず。まずは全員、民宿に集合!
《/font》
「なるほど。私を学園へ送り込み、その間、君たちは外で仕事の手伝いと称して遊び回るというわけか」
「哨戒です! 哨戒! ほら、しーちゃん一人じゃ、影でコソコソ悪いことしてる生徒まで見きれないでしょ?」
彼女たちはまだ、私の本当の任務――「ナノマシンによる変質の調査」という不穏な真実を知らない。ただの武器の良し悪しを判定する厳格な管理官だと思っているのだ。だからこそ、こうして良かれと思って調査の舞台を整えてくれたのだろう。
「分かった。そのプランで行こう。ただし、叢雲の生徒と揉め事だけは起こすなよ」
「了解です。それじゃ、本殿への突撃監査、頑張ってくださいね」
教えてもらった道を進み、石階段を登りきった先に待っていたのは、夕闇に溶け込みそうなほど美しい、古びた木造校舎だった。硝子窓が西日を反射し、まるで校舎そのものが内側から発光しているような錯覚に陥る。
一歩、正面玄関へ足を踏み入れたその時だった。床に貼られた一枚の御札がパシッと音を立てて弾け、そこから霧が立ち上がるように一人の生徒が姿を現した。
「そのストラップ……、特権階級か。何用だ?」
黒髪を几帳面に切り揃えた少女。その立ち居振る舞いには、学生というよりは神職としての冷徹な厳かさが宿っている。
「装備監査課、特任オブザーバーだだ。ヴィザイン全区の生徒における武器管理の評価、および実態調査に来た」
「つまりは監視官……、か。遠くから、わざわざこのような山奥までよく参られた。私は天神坐・叢雲八重垣大宮の代表を務める者だ。この施設、およびこの第17学区全域の統理を任されている」
「君が代表か。ならば話が早い。単刀直入に聞こう。最近、この地区で銃に関する不祥事、あるいは法に抵触するような事案を起こした生徒はいるか?」
「ここにそのような不心得者はいない。皆、己が魂を磨くように銃を慈しんでいる。皆、真面目だ」
彼女は揺るぎない口調で断言した。だが、その真面目という言葉の定義が、ヴァルプルギスのそれと同じである保証はどこにもない。
「では銃の動作不良はどうだ。予期せぬジャム、あるいは部品の損壊。何か特筆すべき事象は?」
「
「聞いたことがないな。現物を見せてもらえるか?」
彼女は短く頷くと、すぐ隣の部屋へ消えた。そして戻ってきた彼女の手に握られていたものを見て、私は思わず絶句した。
「なんだこれは。火縄銃じゃないか。今時、実戦でこんなものを使っているのか?」
「なっ……! 外の生徒も、これと同じものを使っているのではないのか?」
彼女は心底驚いたように目を見開いた。その反応は演技には見えない。
「そんなわけがないだろう。他の区の生徒はもっと便利で、工学的にも洗練された未来的な銃を使っている。一体どれだけ閉鎖的な教育を施せばそうなるんだ。さっき道ですれ違ったここの生徒たちだって、もう少し近代的なボルトアクションやリボルバーを携帯していたぞ。こんな博物館にあるような骨董品を使っているのは、君だけではないのか?」
彼女は憤慨した様子で、その弐式・裏雅を私の目の前に突き出した。
「こんなもんを見ろと言われても困る。私は現代兵装の専門家であって、歴史学者ではない」
私が正直に白旗を掲げると、彼女は柳眉を逆立て、さらに銃身を私の鼻先に近づけた。
「装備監査課なのだろう? しっかり見てもらわねば困る。この裏雅が不機嫌な理由を解き明かすのも、務めのはずだ」
「分かった。だが、期待はするなよ」
私は窓際へ移動し、細部を検分し始めた。火縄銃の構造は単純だ。だが単純であるがゆえに、現代の銃器ではあり得ないような物理的な綻びが命取りになる。
「……まず、この火皿だ」
点火薬を置くための小さな皿を指先でなぞった。
「火縄銃の暴発や不発の最大の原因は、火薬の燃焼残滓……、つまりカスの堆積だ。見たところ、君は表面の煤は綺麗に拭い取っているようだが、火穴――火皿から銃身内部へ火を導くための細い通路が、古い火薬の脂分で狭まっている。ここに火が滞留すれば、意図せぬタイミングで引火する原因になる」
「毎日、お清めは欠かしていないはずだが……」
「表面を清めるだけでは足りない。それにもっと深刻なのはこれだ」
ストックの継ぎ目を凝視した。
「火縄銃は発射の瞬間、現代の銃とは比較にならないほどの激しい振動とガス漏れを起こす。見ろ、銃身を固定する目釘がわずかに緩んでいる。これにより、発射のたびに銃身が微細に躍り、火蓋の噛み合わせが狂っている。極めつけは、この火縄の調整だ。火縄が湿気を吸い、燃焼速度が不安定になっている。それだけなら不発で済むが、火皿に溜まった古いオイルと反応して、火蓋を閉じた瞬間にその隙間から熱が内部へ逆流している可能性がある。つまり、この裏雅は壊れているんじゃない。溜まった汚れと湿気という、極めて現実的な物理現象に悲鳴を上げているだけだ」
私は銃を彼女に返した。
「君はこの銃を神格化しすぎている。どんなに霊脈がどうのと言ったところで、火薬を燃やして弾を飛ばす以上、これはただの熱機関だ。そして、この火皿にこびりついている黒い泥。ヘパイストスのオイルだろう? 揮発性の低いこれと古い黒色火薬が混ざり合って、粘り気のある最悪の導火線を形成している」
「汚れだと? 神の吐息を溜めるための依代だと思って、あえてそのままに……」
「それが間違いだ。神を宿らせたいなら、まずは機械としての規律を守れ」
「さて、本題に入ろう。先ほど問題はないと言っていたが、あいにく私は疑うのが仕事でね。監査官として、しっかり確かめる義務がある。この学区の生徒は、ヘパイストス社製の製品を使用しているか?」
「一般の者はほとんど使っていない。だが、神楽を担当する一部の者は利便性を優先して導入していたはずだ」
「神楽、か。確か今日行われる予定だったな。場所はどこだ?」
「叢雲八重垣大宮の境内だ。時間は夜七時から。監査という名目での立ち入りなら、私から許可を出そう」
「許可も何も、私は上位特権を持つ。必要とあらば強制執行も辞さないが、君が協力的であるなら、それに越したことはない」
「可愛げのない男だ。好きにするがいい。我々にやましいことは何一つない」
「では、一度ここで失礼する。外で騒がしい連中が待っているものでね」
「待たれよ。まだ詳しい自己紹介が済んでいなかった。天神坐・叢雲八重垣大宮が代表、叢雲シヅだ。以後、よしなに」
差し出された小さな掌を握る。その瞬間、予期せぬ力強さで握り返された。ヴァルプルギスのあの四人。特に嵐のようなミナや底の見えないリョウとはまた違う、古風で、それでいて一本筋の通った義理堅さがその眼差しには宿っていた。企業という名の檻の中にいる私にとってその真っ直ぐな熱量は、少しばかり眩しすぎたかもしれない。
代表との会談を終え、ヘパイストス社製品を使用している生徒――神楽の担い手たちの存在を収穫として、私は四人が用意してくれた宿へと足を向けた。
軒先の古びたベンチには、ククがぽつんと座っていた。
「おかえり。どうだった……?」
「順調だ。にしても君、案外スラスラと喋れるのだな」
「失礼な。みんながいる時は、少し、言葉が迷子になるだけ」
口を尖らせて反論する彼女の声は、夜風に解けてしまいそうなほど小さかったが、日中の沈黙が嘘のように明確な意志を宿していた。
「そうか。では中に入ろう
「待って。……少し、二人で話さない?」
「私と何を話すことがある」
「ククのこと、知って欲しいの」
「……見て。これ、誰にも言っちゃダメだよ」
ククが左手首のストラップに手をかけ、ゆっくりと掌を上に向ける。彼女の白く小さな掌の上。そこには、硬貨ほどの大きさの真っ黒な小人が直立していた。
「なんだ、これは……」
思わず声が漏れる。それは影を切り取って凝縮したような、奥行きのない平面的な黒さをしていた。時折、霧のように薄く透けては、思い出したように濃くなって姿を戻す。何より異様なのはその造形だ。左に一本、右に二本。不自然に生えた計三本の腕が、だらりと垂れ下がっている。
「幼い頃から、ずっとこれが私の手の上にいるの」
「何か心当たりはないのか?」
「ううん。何も……」
ククは力なく首を振った。
彼女の話によれば、この不気味な同居人の存在を知るのは彼女自身と、診察した数名の医師。そしてストラップを管理するヴィザイン運営委員会のみ。
高度な科学技術が支配するこの街の権威をもってしても、この影のような存在が何であり、なぜそこにいるのか、その正体を突き止めることはできなかった。ゆえに、彼女は理由もわからぬまま異常者の烙印をその手首に巻かれ続けているのだ。
「あ、いたいたー! しーちゃん、遅いですよ!」
民宿の玄関扉が勢いよく開き、賑やかな声とともに三人の少女たちが駆け寄ってくる。その瞬間、ククは目にも止まらぬ速さでもう片方の手を被せ、小人を無慈悲に叩き潰した。まるで、見られてはいけない羽虫を殺すかのように。彼女がそっと手を離すと、そこにはもう、あの不気味な黒い影の痕跡すら残っていなかった。
「二人きりで一体何を密談してたんですか? ミナもイスズも、ずっと待ってたんですよ」
リョウの視線に、ククが慌てたように、あるいは困り果てたような顔を私に向けた。その瞳は明らかな助けを求めて揺れている。
「すまない。ここの団子の美味さについて、熱心に講釈を受けていただけだ」
「団子……?」
ミナが不思議そうに首を傾げる。ククがそんなに饒舌に食べ物の話をすることなど、まずあり得ないだろうからだ。私はその疑念を遮るように、腕時計の文字盤を叩いた。
「もうすぐ七時になる。そろそろ神楽を見に行こうか」
私の言葉に、少女たちの空気が一変した。
叢雲八重垣大宮の境内は、すでに異界の様相を呈していた。しめ縄で囲まれた舞台の上、水干を纏った少女たちが長大な火縄銃を手に舞い踊る。華麗な転回とともに銃身が月光を跳ね返し、一際高く響く太鼓の音を合図に夜空へ向けて一斉に火を噴いた。
伝統と火薬の匂いが混じり合うこの芸能に、観光客が心酔するのも頷ける。ミナに声をかけられるまで、自分が任務の渦中にいることを忘れかけていたほどだ。
「しーちゃん……、あの子、なんか様子がおかしくない?」
「どの生徒だ?」
「右から二番目。目線がっていうか。ほら、あんなに……」
ミナの言葉に視線を凝らした直後、平穏は爆音とともに霧散した。暴発だ。該当の銃を手にしていた生徒は、悲鳴を上げる暇さえ与えられず、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。騒然とする観客席。瞬時に駆け寄った関係者たちが、現場を覆い隠すように急いでブルーシートを展開していく。
絶句するミナ、驚愕に目を見開くリョウ、吐き気を堪えるように口を抑えるイスズ、そして、ただ静かに視線を足元へ落とすクク。
「君たちはここで待っていろ」
私は迷いのない足取りでブルーシートの壁を潜った。色めき立つ救護班や関係者に対し、黒色のストラップを突きつける。
「装備監査課、特任オブザーバーだ。銃器の自壊による事故と判断する。これより現場占有権限に基づき、本現場の即時封鎖、および当該兵装の優先的接収を行う」
ブルーシートを完全に展開し終えた救護生徒に対し、ガンケースとジップロックを用意するよう命じた。そして、横たわるソレへ視線を落とす。
「……酷い状態だな。ヴィザインの生徒は多少の弾丸ならものともしないほど頑丈だと聞いていたが」
「火薬を通常より多く使用する火縄銃ですから。それに、至近距離での……」
少女の両手は文字通り、粉砕されていた。さらに悲惨なのは頭部だ。その容貌はバナナの皮を剥いたかのようにおぞましく割れ、赤黒い中身を晒している。止まらない溢血が舞台をどす黒く染め上げていく。医学的な知識がなくとも分かった。彼女はもう、二度と踊ることはない。
「ケースを用意しましたっ……!」
駆け寄ってきた救護生徒の手からケースを受け取ると、私は歪みきった火縄銃を収容した。ついでに、周囲に飛散した燃え残りの火薬と、肉片の混じった微細な金属片を、ケースの中に入っていたジップロックに詰め込み、即座にブルーシートの外へと脱出した。
待ち構えていたミナたちが縋るような視線を私に向ける。
「しーちゃん、あの生徒……」
「聞くな。今見たものは全て忘れろ。いいから宿へ戻って、温かいものでも飲んで寝なさい」
彼女たちを無理やりにでも宿へ帰らせた後、私は血の匂いが漂う境内の隅へと移動した。端末を取り出し、ノイズ混じりの秘匿回線でコールを飛ばす。
『こちらオブザーバー。今すぐ特殊鑑識課のVTOL機を一台回せ。場所は叢雲八重垣大宮境内。派手な暴発事故だ。不良品を確保した』
数分後、夜の静寂を切り裂くような音が上空から降り注いだ。航空機のサーチライトが、散乱したブルーシートと血痕を無機質に照らし出す。
ハッチが開くと、そこから姿を現したのはブラックスーツに身を包んだ一人の少女だった。
「お疲れ様です。そちらが回収品ですね。行きましょう、時間は貴重です」
私は彼女に促されるまま機内へと乗り込んだ。
「最寄りの軍需鑑識室へ直行してくれ」
機体が浮上し、眼下の神社が小さくなっていく。移動中、私は隣に座る少女の横顔を盗み見た。いつからこれほどの若年層が監査課の現場に就くようになったのだ。ヴィザインが運営する監査課は、単なる実力主義の組織ではない。有力者からの極めて強力な推薦、あるいは軍需企業で相応の地位を築いた者でなければ、その門を叩くことすら許されないはずだ。
軍需鑑識室前のヘリポート。着陸と同時にハッチが開き、私はガンケースをそのまま受け渡し口へと滑り込ませた。
「中身は火縄銃だ。これより鑑識はアイギス・バイオティクスの専属チームが行う。それ以外の部外者は一人残らず施設から退去させろ」
ヘパイストス社のナノマシンに関する不吉な噂と、我が社アイギスの真の狙い――この二つの機密は、例え同じ鑑識課の人間であろうと、信頼に値しない者には決して明かしてはならない。これは学園都市ヴィザインという巨大な実験場を舞台にした、音の出ない企業戦争なのだ。
万が一、ヴィザイン運営委員会にこの実態調査が露見すれば、ヘパイストスもアイギスも、この聖域からの追放という破滅的な結末を迎えることになる。
幸いにして、私には監査課から付与された特任オブザーバーとしての絶大な裁量権がある。誰を解析に当たらせ、誰を現場から叩き出すか。その生殺与奪の権は今この瞬間、私の指先一つに委ねられていた。
中からやってきた無機質な人型ロボットに監査室使用の電子サインを残し、私は再び待機させていたVTOL機へと乗り込んだ。
「叢雲の学区まで戻してくれ」
「鑑識室には残らないのですか?」
「それは別チームの仕事だ。ブツは渡した。私の現場での役目は終わったさ」
離陸のGを受けながらシートに深く背を預けると、彼女が小さなプラスチックの容器を差し出してきた。
「これ、どうぞ」
「ボトルコーヒーか。今は水の方が良かったが貰っておく。ありがとう」
「失礼しました。次回からはボトルウォーターを常備させておきます」
淡々と答える彼女の横顔を、私は改めて眺めた。アイギスの泥をすすって生きてきた私からすれば、やはりその若さは異質に映る。
「気にするな。……ところで君、名前は? 監査課の人間でありながら、ヴィザインの生徒のようにも見えるが」
「イースタン・フィフィル・エンジニアリング。通称、EFE高等学院所属のザイツァルです」
「やはり生徒か。生徒の身分であっても、監査課の最前線に入れるのだな」
「ええ。ヴィザイン運営委員会はシステムとして役立つと判断した者であれば、例え生徒であろうと枠を与えてくれますから」
「楽なものだな」
コーヒーのキャップを捻り、自嘲気味に笑った。
「私は企業でそれこそ汗水流し、他人の足を引っ張り合って、上の役職にしがみついてからやっとここへの推薦を貰ったというのに」
「オブザーバーは外の人間ですから仕方がありませんよ」
「監視官でいい」
「失礼。では監視官。ちなみに、その席に就いて今何年目ですか?」
「数日前、就いたばかりだ」
「なるほど。通りで生徒が装備監査課の現場にいることに驚かれていたわけです。ですが驚きました。初っ端から特任オブザーバーを拝命しているなんて」
「上層部に従順な犬として努力して、後はなるようになっただけだ」
「ふふ」
彼女の口元に、初めて微かな笑みが浮かんだ。
「君こそ、その歳でよくこの席をもぎ取れたな。監査課は他の課よりもさらに狭き門だと聞くが」
「ええ、とても狭いです。……ですが監視官の言葉を借りるなら、私もただ、なるようになっただけですよ」
その言葉の裏に彼女が一体どれほどの歪なシステムを証明してきたのか。それを深く追及することは野暮というものだろう。機体は夜の闇を滑るように進み、再びあの静寂を湛えた叢雲の山々へと近づいていった。
プロペラの音が彼方へと遠ざかっていく。宮内に降ろされた私は、冷え込んできた夜気の中を急ぐようにして宿へと戻った。
すでに夜中だというのに女将が私の帰りを待っており、物静かに出迎えて部屋まで案内してくれた。通されたのは和を基調とした穏やかな部屋だった。まだ青さの残る新しい畳の匂いが鼻腔をくすぐる。部屋の端には低い木製の机と座布団。そして、いつでも潜り込めるように敷かれたふかふかの敷布団。調度品の充実さは、ヴァルプルギス技術兵装学院の宿直室とあまり変わらない。だが、漂う空気の落ち着き具合は天と地ほどの差があった。
「では、当旅館でごゆっくりとおくつろぎください」
「ここは民宿ではないのですか?」
女将は上品に目元を和ませ、小さく首を振った。
「さようでございます。よく皆様に民宿だと勘違いされるのですが、旅館として営んでおります。他の大層な宿と比べれば、施設も規模も、このような小さなものでございますから」
そう言って深々と頭を下げ、女将は足音を立てずに部屋を出ていった。
あの時、ミナたちに「先に帰れ」と言ったものの、果たして彼女たちは大人しく眠れているだろうか。
敷布団へ沈み込む前に、まだ片付けるべき仕事が残っている。ポケットから端末を取り出し、上司への定期報告の回線を開いた。相手は上司とは名ばかりの人間ではない存在だ。アイギスの企業運用向けに特別にチューニングされた、自己学習型高規格ビジネスアンドロイド。その皮膚の質感や声音は生身の人間と何ら変わりないが、胸の奥で動いているのは心臓ではなく、回路だ。血の通っていない正真正銘の仕事人であり、彼には夜中も、早朝も、真昼間も関係ない。休息を必要とせず、眠ることもない。当初は人件費削減のための実験的な導入だったようだが、現場の泥臭い調整や、理不尽な交渉ごとにおいては、やはり生身の人間が動いた方が都合が良いことも多い。そのため、ほとんどの同型機は廃棄された。だが、私の直属の上司であるあの個体だけは別格だった。与えられた仕事を完璧に遂行する。だからこそ、いつまでたってもさらに上の上層部から解雇されることなく、あのポジションに君臨し続けているのだ。
コール音は一回すら鳴らなかった。
『こんな夜中にどうした。緊急の要件かね』
『ヴィザイン第十七学区・叢雲において、ヘパイストス社製の製品を使用した生徒の兵装が、暴発する事故が発生しました。私が現場に居合わせたため当該兵装を即座に接収、軍需鑑識室へ搬入し、我が社の専属チームに最優先での動態解析を依頼しました』
『――把握した。鑑識結果が出次第、速やかにデータをこちらへ転送するように』
それだけ言うと、上司は業務的な余韻すら残さず回線を遮断した。
私はようやく敷布団の上へと深く腰を下ろした。
一応、会社の命令通りに鑑飾へ回しはしたものの、脳裏に焼き付いたあの凄惨な光景を思い返してみる。――客観的に見れば、あれはただの凄惨な暴発事故に過ぎないのではないか。代表であるシヅの弐式・裏雅があれほど劣悪な整備状態だったのだ。伝統を重んじるあまり、工学的なメンテナンスを軽視しているここの学区の気質を考えれば、神楽で使われていた他の火縄銃がどんな惨状にあったかなど、想像するに容易い。いや、逆に神事の道具だからこそ、表面の油だけは過剰に塗って中身の摩耗を見落としていた、という可能性もあるか。
なんにせよ、今ここでいくら仮説を立てたところで、ナノマシンの暴走の証明にはならない。結果を待つしかないのだ。
「……考えるのは一旦終わりだ」
思考を強制的に打ち切り、部屋の明かりを消した。
私は下腹部にズンと響いた、容赦のない質量と衝撃で跳び起きた。
「がはっ……!?」
肺の空気を強制的に搾り取られ、驚愕して目を開ける。視界に飛び込んできたのは、私の腹の上にちょこんと座り、こちらを見下ろしているククの姿だった。そして傍らではミナとリョウがゲラゲラと笑い転げており、イスズだけが文字通り青ざめた顔で立っている。
「きゃははッ! ククったら本当にやった~! 超ウケるんだけど!」
「マジかよ。普段あんなに無口な癖に、こういう悪ノリには率先して乗るタイプだったのか?」
「しーちゃんに怒られちゃいますよぉ……!」
私は寝起きの頭を押さえ、腹の上のククを脇へ退けながら、這いずるようにして上半身を起こした。
「君たち、一体何をしているんだ。なぜ鍵のかかった私の部屋に勝手に入り込んでいる」
「しーちゃん、時間見てくださいよ。もうお昼ですよ、お・ひ・る! 全然起きてこないから、女将さんからマスターキーを貸りたんです!」
「だからと言って、人の腹にダイブするような起こし方があるか。監査官に対する立派な襲撃行為だぞ」
私の抗議に、ミナはこれっぽっちも反省していない顔で、隣のククへと人差し指を向けた。
「いやぁ~、それはククが自分の意志でやったことだからぁ! 苦情ならククに言ってくださいな!」
「あえ……。ミナが、やれって……、言ったのに……」
ククが裏切られたと言わんばかりに小さな口を尖らせる。リョウがその肩をぽんぽんと叩いた。
「でもミナに言われた時、案外ノリノリで位置調整してたじゃん?」
「…………」
ククはばつが悪そうに、きゅっと口を紡いで視線を逸らした。その様子に頭痛を覚えつつ、私は敷布団を跳ね除けて立ち上がる。
「悪戯も大概にしなさい。私はもう起きて支度をする。用があるなら外で聞くから、一度部屋から出て行ってくれ」
彼女たちを部屋から追い出し、パタパタと騒がしい足音が廊下の彼方へ消えるのを待ってから、私は畳の上の端末を拾い上げた。画面にはアイギスの専属チームから届いた鑑識報告書が表示されている。添付されたエックス線写真や金属疲労の動態解析データを素早くスクロールしていくが、そこに期待していたような特殊なナノマシンの暴走痕跡や、ヘパイストス社製製品の異常な挙動を示す数値はどこにも見当たらなかった。
暴発の原因はただの度を越した手入れ不足。銃身内部に蓄積した煤と、劣悪な環境で変質した黒色火薬の圧力に、限界を迎えていた金属が耐えきれなくなったという、教科書通りと言える骨董品の自壊だった。
会社の利権としては完全な空振りだ。だが、監査官としての私の直感はこれが別の意味で最悪の結末であることを理解していた。同じ仕様の火縄銃を扱っている他の生徒たちの武器は、一律で同じ爆弾を抱えているようなものだ。放っておけば昨夜の惨劇が確実に繰り返される。
私は疼く眉間を指先で揉みほぐしながら、叢雲の学区管理委員会宛てに、私名義での「重要文化財級火縄銃の即時取扱停止、および一斉安全点検の勧告」という極めて強い警告文を作成し、送信した。
特任オブザーバーという大層な肩書きを持ってはいるが、あいにく、最近ヴィザインで改正された特例法のせいで、私の一存で銃を没収・制限することは特別な事変でも起きない限り不可能となっている。今の私にできるのはこうして官僚的な警告文書を送りつけることくらいだ。いくら取扱停止と強い言葉を並べたところで、そこに絶対的な強制力はない。
続いて上司へ「ナノマシンの関与は認められず、純粋な物理的損耗による事故」と、短く鑑識結果を転送する。案の定、既読は一瞬でついたが、返信のライトが灯ることはなかった。利益を生まない無駄な報告に割くリソースなど一秒たりともないということだろう。
「さて、動くか」
浴室へと向かった。熱いシャワーを浴びて、肌の奥にこびりついていた昨夜の硝煙の匂いと、昼まで貪り眠った怠さを一気に洗い流す。
急ぎ足で服を着替え、部屋の扉を開けると、廊下の曲がり角からは彼女たちの呑気な話し声が聞こえた。
四人と合流した私は旅館のチェックアウトを済ませ、そのままヴァルプルギスへと戻る途路に就いていた。リニアが長い長いトンネルへと滑り込む。窓の外が完全な暗黒に包まれたその時、隣に座るククが呟いた。
「ちょっと良くないことが起きたね。……あの子」
昨夜の惨劇。バナナの皮のように裂けたあの少女の姿が、リニアの微かな振動と共に脳裏に蘇る。私は前を見据えたまま、乾いた声で答えた。
「君たちにとっては、『最悪』の一言に尽きるだろうな」
「――その言い方だと、しーちゃんにとっては最悪ではない、ということですか?」
向かいの席から、リョウがどこか棘のある視線をこちらに突き刺してきた。いつもの飄々とした態度とは違う、剥き出しの不信感がそこにはあった。
「私はプロだ。銃の暴発で負傷あるいは、物言わぬ肉塊に変わった人間を何度も見てきた。それに、今回叢雲に足を運んだことで、あそこで使われている火縄銃がまともに管理されていないという構造的な欠陥も知れた。監査官としては十分な収穫だ」
一拍置いて、私は小さく息を吐き出す。
「とはいえ、あの姿を見て、あまり気持ちの良いものではないさ。生きていればいいのだが」
私の本音混じりの言葉に、リョウはそれ以上追及するのをやめ、視線を窓の外の闇へと戻した。すると、それまでずっと俯いていたイスズが言った。
「そっか……。私の故郷ではあまり銃の手入れが行われていなかったんだ……」
自分のルーツが、昨日今日やってきた外部の監査官に欠陥と切り捨てられたのだ。銀髪の隙間から見える彼女の横顔は、ひどく傷ついているように見えた。その沈んだ空気を、ミナが持ち前の大声で強引に吹き飛ばす。
「大丈夫だってイスズ! それは汚点でも何でもないよ! これからぜーんぶ、改善していけばいーの!」
ミナはイスズの背中をバシバシと豪快に叩いた。その荒療治にイスズが「ふえっ」と情けない声を上げる。
ヴァルプルギスに到着したのは、やはり昼過ぎだった。私たちは駅の改札を出たところで、そのまま解散することになった。リョウ、イスズ、ククの三人はそれぞれの帰路へ。ミナは「昨日休んじゃった分のデリバリーを死ぬ気でこなさなきゃ!」と、元気よくバイト先へと駆けていった。
私は自分の拠点である宿直室へ戻るため、人気のないヴァルプルギス技術兵装学院の正門をくぐった。ふと、校舎の玄関口に人影があることに気づく。詰襟少女――この学院の理事長がこちらに静かに手招きをしていた。
「……君も他の生徒たちと同じように、休暇を取ってどこかへ羽を伸ばしに行っていると思っていたがね。まだ仕事が残っているのか?」
重厚なデスクを挟み、私たちは向かい合った。
「理事長だもの。いついかなる時でも、この学院を守る義務がある。自分の持ち場から離れるなんて真似はしたくないのよ」
「疲れないのか? ずっと同じ景色、同じ役割、同じ席に縛り付けられて」
「別に。それが私の仕事だから」
感情の起伏を取り除いたようなその返答に、私は微かに口元を歪めた。
「私と同じだな。……さて、わざわざ私をここに招き入れた理由は? 単なる世間話ではなさそうだが」
「叢雲へ行ったそうね。叢雲の代表から、直々に連絡が入ったわ。なぜあそこへ?」
「とある四人組の生徒に出会ってな。彼女たちのヴィザイン案内に付き合うついでに、叢雲の監査も並行して行おうと考えただけだ。結果として、向こうの兵装管理の実態という収穫もあった。……何か問題でも?」
「監視官様がヴァルプルギスの生徒と仲良く連れ立ち、さらには本来の管轄対象外である地域へ監査に赴く……」
「何が言いたい」
「端から見たら、何か企みでも進めているように見えてもおかしくはないわね。――まぁ、いいわ。監視官様にも、特別な事情や表に出せない思惑があるのでしょう。そこへ無粋に首を突っ込むような真似はしない。ただ、私はこの一連の動きを全て知っている。それだけは、忘れないでおいて頂戴」
微笑みすら浮かべない少女の瞳には、確かな威圧感が宿っていた。企業の利権争いに生徒を巻き込ませないという、彼女なりの警告なのだろう。
私は小さく肩を竦め、その視線を受け流した。
宿直室へ戻り、ヴィザインのローカルネットワークに接続されたWebブラウザを開いた。既にヴァルプルギス以外の学区における、広域監査の正式承認が下りている。せっかく手に入れた特権だ、この機を逃して他の自治区に足を運ばなければ損というものだろう。
検索窓のマップを見つめながら、次の標的を絞り込んでいく。まず一つ目は、ヴァルプルギスに隣接する
聖フラウエンは救護と医療に関する学園。そして、シャングリラは自治区そのものが巨大な商業機構として機能している特殊な学園だ。『ヴィザインでの暮らしに、圧倒的な便利を』をモットーに掲げる生徒らは、全区を網羅する広域物流ネットワークを自前で運営している。最先端の自動化コンテナとドローン配備数を誇り、「世界中のたいていのものは、シャングリラの中で手に入る」とまで噂される、文字通りのメガ・モール。
昨夜のような暴発事故が他でも起きているなら、聖フラウエンの膨大な医療データに何らかの不審な症例の書かれたカルテが残っているはずだ。そして、ヘパイストス社が新型ナノマシンをヴィザイン全域へ流通させているのだとすれば、シャングリラの広大な物流網のモノログを洗うのが最も手っ取り早い。
「……まずはフラウエンからか」