Fatal;Яitual   作:obelisk

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聖なる黒羊編

聖フラウエン神学区

 

 

 予備のバッテリーを満タンにした端末をポケットに放り込み、私はすぐさま次の目的地である、聖フラウエン神学区へと向かった。

 リニアの扉が開いた先、眼前に広がっていたのはヨーロッパの古都を彷彿とさせる荘厳な街並みだった。白亜の石畳、歴史の重みを感じさせる尖塔、そして見渡す限りの至る所に建てられた大聖堂の数々。清らかな鐘の音が響き渡るその光景は、一見すると信仰に捧げられた静謐な学舎に思える。

 だが、この神学区の本質は、ヴィザインのシステムから独立した自治区だ。この地を統べるのは、年に一度行われる『教皇選挙』によって選出された、たった一人の生徒。選挙を制した最高位の教皇は、区が保有する莫大な総資産とすべての特権を文字通り独り占めにできる。その絶対的な椅子を巡る内部事情は、ヴァルプルギスや叢雲の比ではないほど複雑怪奇にねじれているだろう。

 改札を抜けると、すぐに一人の少女が私の元へ近づいてきた。清楚なシスターの装束を纏った生徒だ。彼女はこの駅に降り立つ外区の人間を対象に、ボランティアで街の案内をしたり、小冊子を配って教義の勧誘を行っているのだという。

「改めまして、ようこそ聖フラウエンへ。もしよろしければ、この清らかな街の仕組みについて――」

 朗らかな笑みを浮かべていた少女の言葉が、唐突に途切れた。彼女の視線が私の左手首――剥き出しになった黒のストラップに釘付けになったからだ。少女の顔から、一瞬で血の気が引いていくのが分かった。生徒が享受する自由を上から塗りつぶし、あらゆる防壁を強制解除する、上位特権の象徴。それが黒いストラップだ。信仰の仮面でどれほど着飾ろうと、ヴィザインのシステムそのものを握る大人の異物を前では意味がない。

「あ、え、ええっと……! お、驚かせたらすみません! 私はただの案内係で、神学区の怪しい秘密とかは何も、本当に何も知らなくてっ!」

「私はまだ何も聞いていないが。何か知られてはまずい秘密でもあるのか?」

 少女は完全にパニックに陥った。泳ぐ瞳、激しく上下する肩。彼女は「どろどろとした内部事情」を、訊かれてもいないのに必死の早口で吐き出し始めた。

「ち、違います! 私が悪いんじゃなくて、全部上が悪いんです! ほら、今度の教皇選挙があるじゃないですか! あそこで現教皇を支持する正統派が、対立する改革派の有力な枢機卿を暗殺するっていう計画があるとかないとか、そういう噂が下層の教会で囁かれてて……!」

 怯えきった少女の口からは留まることなく、きな臭い情報が溢れ出てくる。

「選挙の日に会場周辺で大規模な爆弾テロが起きるって噂だってあります! どっちの派閥が仕掛けたかは諸説あって……。あ、でも全部ただの根も葉もない噂ですから! 私が考えたんじゃありません! だから、どうか異端審問とか、特権での学籍剥奪だけはご勘弁を!」

 涙目で手を合わせるシスターの少女を見下ろしながら、私は内心で深い溜息をついた。どこまでが真実で、どこからが妄想なのかもわからない、見事なまでの根も葉もない噂のオンパレード。だが、火のないところに煙は立たない。教皇選挙という莫大な利権を前に、この美しく厳かな神学区の裏側ではすでに生徒たちの狂気が限界まで煮詰まっていることだけは容易に想像がついた。

 

 

 

 

 

 

シャングリラ国際商科学区

 

 怯えきったシスターにそれ以上の追及はせず、私は顎をしゃくって彼女をその場から解放した。脱兎の如く逃げ出していく背中を見送った。

 問題は、教皇選挙が目前に迫っているということ。そして、今聞いたばかりの不穏な噂話だ。こんな時期に黒いストラップをぶら下げた大人の監査官が堂々と兵装監査に現れたとなればどうなるか。正統派と改革派、どちらの派閥からも「敵対派閥が送り込んできたスパイか、あるいは運営委員会が放った内偵か」と勘ぐられるに決まっている。ただでさえ選挙前で街全体の空気が限界までピリついているのだ。穏便に監査を進めることなど、到底不可能に思えた。特権を盾にして強制執行をすることは制度上は可能だ。だが、そんな大人の暴力を振るえばどのような反発を食らうか分かったものではない。下手をすれば、私がテロの引き金を引く組織の駒にされてしまう。監査に取り掛かる前からすでに目の前には問題が山積みだった。

 教皇選挙に関わる厄介事など、文字通り一銭の利益にもならない。絶対に関わりたくはない。いざ衝突が起きれば、この神学区の生徒たちだって躊躇なく引き金に指をかけるだろう。ヴィザインの住人は多少撃たれても死なないほど頑丈にできているのかもしれないが、あいにく私はただの生身の人間だ。そんな狂った権力闘争の火の粉を浴びようものなら、私の体は一瞬で穴だらけの肉塊に変わって終わる。

 この厄介な問題を一気に片付ける方法は……。多少手間がかかるし、大いなる賭けになるが、一つだけ泥臭い方法を思いつく。子供たちの茶番に付き合って穴だらけになるくらいなら、盤面ごと変えてやればいい。

 私はフラウエンの厳かな石畳を後にし、リニアへ飛び乗ってシャングリラ国際商科学区へと足を運んだ。

 到着したシャングリラは、ヴァルプルギスとは比較にならないほどの圧倒的な大都会だった。右を向いても左を向いても、隙間なく店や巨大なモールが軒を連ね、衣服から重火器のパーツに至るまで、ありとあらゆる物資が並んでいる。はるか上空を見上げれば、一分間に数回は段ボールを掴んだ配送ドローンが交差するように行き来しており、この街の血管である広域物流網の凄まじさを物語っていた。『暮らしの便利』を謳うだけはある。そんな完成された機能美に不覚にも目を奪われていた時だった。腹に硬い質量が突き刺さる。

「いでッ!」

 短い悲鳴を上げてよろめいたのは私ではなく、ぶつかってきた相手の方だった。

「おっと、余所見をしていた」

 反射的に手を差し伸べながら、衝突した相手を見下ろす。そこにいたのは、赤と白のチェック柄のシャツに、使い古されたエプロンを身に纏った一人の少女だった。

「もう! ちゃんと前見て歩いてくださいよ、大人なんだから!」

 少女はむっとした顔で私を睨みつけてくる。

「すまない。この街のドローンの多さに少し圧倒されていたものでね」

 私の謝罪を聞くや否や、少女の目がちろりと動き、私の手首の黒いストラップを捉えた。一瞬だけ警戒の色が走ったが、次の瞬間には悪戯っぽい笑みが浮かぶ。

「じゃあ、ぶつかった代わりにウチの店でなんか買ってってくださいよっ! それならチャラにしてあげますから!」

 彼女が親指で背後を指さす。その先には香ばしい小麦の香りを周囲に優しく振りまきながら、多種多様な焼き立てのパンをずらりと並べた路面店があった。

「いくら買えばいい?」

「いくらでもいいですとも! 1000Vz(ヴィズ)くらい買ってくれたら大喜びです!」

 ヴィザイン共通の通貨――Vz。価格表を薄く見遣ると、パン一つでおよそ200Vzといったところか。時計に目を落とせば、時刻はすでに午後四時を回っている。今夜はシャングリラで宿を取るが、まともな夕食にありつける保証はない。今のうちに夜食として買い込んでおくのも悪くないだろう。

「これと、これを。それから、そこのドーナツをいくつか頼む」

 私は品定めを終え、バゲット、手軽に作れる粉末のポタージュスープ、そして甘いドーナツを四つほど選んだ。ストラップを決済機にかざし、手早く1000Vz強の数字をスライドして支払う。

「お買い上げありがとうございます!」

 少女は手際よくパンを茶色のクラフト紙袋へと詰め込み、両手で大事そうに差し出してきた。その顔には先ほどまでのむっとした表情は微塵もなく、いかにも商人らしい満面の営業スマイルが咲いている。

「紙袋にちょっとしたおまけを入れておいたので、後で見てみてくださいね!」

「ああ、気遣いに感謝する」

 香ばしい小麦の熱がじんわりと伝わってくる紙袋を抱え、私は再びシャングリラの喧騒へと足を踏み出した。彼女の言うおまけが、単なるパンの切れ端なのか、それともこの商科の街らしい別の何かなのか。それを確かめるのは後回しだ。まずは今夜の根城となる宿を確保したい。

 

 

 

 

 

 

 宿はあえて少しいいところを選んだ。明日から私は、教皇選挙に付きまとう血生臭い大惨事を未然に防ぐためのカウンターとして、シャングリラのトップと交渉をしなければならない。街一つを巻き込むこれほど大規模な仕込みだ。長丁場になるのは目に見えている。少しでもまともなパフォーマンスを維持し、体を休めるためには、この程度の出費は必要な投資だった。

 部屋に入り、クラフト紙袋からドーナツを取り出す。その時、私の指の隙間に薄い紙切れが何かが挟まって一緒に滑り出てきた。畳まれた紙を開くと、そこには殴り書きの電話番号が記されていた。あの子の言っていたおまけとはこのことか。番号の羅列を見るに企業の公用回線ではなく、個人がプライベートで利用する020から始まるIP電話の番号だった。ひとまず紙切れはデスクの端に置き、電話をかけるのは後回しにした。砂糖の甘さが疲れた脳に染み渡るドーナツを味わい、部屋に備え付けられていたボトルウォーターで胃へと流し込む。それから服を脱ぎ捨ててシャワーを浴びた。

 今日やるべきことは全て済ませた。後は明日の交渉の場を待つだけだ。ベッドに寝転んだ私は、久々に個人用の端末を起動した。会社の監視から外れた私的な画面。ふと、チャットアプリのアイコンが目に留まる。画面の向こう、トーク履歴の最上部に残されたままの名前。私にはかつて同じ泥をすすった同僚がいた。彼もまた、私より少し前にとある任務でこのヴィザインへと派遣された男だった。だが、彼は私のようにヴィザイン運営委員会に入っておらず、特任オブザーバーのような特別な役職も持たされていなかった。

 そして数ヶ月前、何らかの良くないことに巻き込まれたのか、彼は忽然と姿を消した。未だにこの広大な学園都市のどこを探しても、彼の痕跡一つすら残されていない。私がこの街で特権と保身に異様なまでこだわるのは、彼という前例が頭の片隅にこびりついて離れないからでもあった。

 微かなエアコンのハミングだけが響く夜。明日からいよいよ、シャングリラの大物たちとのチェスが始まる。

 

 

 

 

 

 

 シャングリラの朝は恐ろしく早い。誰もかれもが1Vzでも多く稼ぎ出すため、日の出とともに店を開けているのだろう。窓の外から室内にまで響いてくる、威勢のいい客寄せの怒号とドローンの風切り音で、私は強制的に目を覚まさせられた。顔を洗い終えて外を覗いた時には、すでに眼下のストリートは人であふれかえっていた。まさか時計が狂っていて、実はもう昼過ぎなのではないか――そう錯覚するほどの熱気だったが、チェックアウトを済ませると同時にフロントの精巧なホログラム時計を見上げると、針はきっちり午前8時を指していた。ヴァルプルギスなら、まだ生徒たちが欠伸を噛み殺しながら登校している時間帯だ。

 リニアの駅から眺めた通り、このシャングリラもまた歪なシステムで成立している特殊な自治区だった。街全体が巨大なメガ・モールであり、同時に一つの学園でもある。生徒たちは個人で店舗を構えるか、あるいは有能な生徒が経営する企業や店に就職して日銭を稼いでいる。

 そして何より異質なのは、この自治区には校舎と呼べる学園の建物そのものが存在しないことだった。シャングリラのホームぺージによれば、ずっと前までは普通の校舎が存在していたらしい。だが、当時の理事長が「既存の義務教育の枠組みは、自由な経済活動の足枷にしかならない」と言い放ち、商売や広域物流を極限まで円滑化させるために、学園そのものを物理的にもシステム的にも閉鎖してしまったのだという。

 ゆえに、このシャングリラにいる少女たちは、形式上こそ生徒と呼ばれてはいるが、それは実態を持たないただの肩書に過ぎない。内言ってしまえば、彼女たちは単なる洗練された社会人だ。それでもなお、彼女たちが生徒の肩書を捨てない理由。それは、この街を統べる最上位システム――ヴィザイン運営委員会が定める絶対的な制約をクリアし、自治区としての生存権と特権を維持するための方便に過ぎなかった。

 私はそのまま、シャングリラの全物流と経済を統括する中央管理本部――セントラルへと直行した。学校が存在しないこの街において、事実上の理事長室にあたる超高層ビルだ。エントランスにいた受付の生徒へトラップを提示し、「CEOと話がしたい」と要件を伝える。ソファーに座って待つ間もなく、すぐに奥へと案内された。セキュリティエレベーターで最上階へと昇り、静寂の満ちた廊下を進む。案内役の生徒が示してくれた重厚なドアに手をかけ、中へと足を踏み入れた。

 そこは、壁一面が全面ガラス張りになった圧倒的な開放感のある執務室だった。部屋の中央には、高級感のある大きなデスクとチェアが鎮座している。しかし、肝心の話し相手の姿がどこにもない。

「案内された割には、もぬけの殻のようだが」

「申し訳ありませんッ! すぐに確認しますので、少々お待ちください……!」

 案内役の生徒が青ざめて端末を取り出そうとした、その時だった。

「――その必要はないよ」

 誰もいないはずの空間から、低く涼やかな別の声が響いた。直後、さっきまで確かに空席だったはずのレザーチェアの上が、陽炎のように不自然に歪む。スゥっとノイズを吐き出しながら現れたのは、一人の少女だった。

「シャングリラ代表のミモザだよ。ヴィザイン運営委員会の人だね?」

 ミモザは手にした奇妙な光沢を持つジャケットをデスクに放り出すと、悪戯が成功した子供のように薄く笑った。

「あぁ。運営委員会の監査課、特任オブザーバーだ」

「なるほどね。でも、せっかく来てもらったけれど、今日は早々に引き取っていただきたいな。今、うちの最優先プロジェクトでさ。シャングリラで次の覇権が取れそうな光学迷彩ジャケットの実証試験をしたいんだよ。ボクの時間はVzより高いと思ってほしいな」

「お取り込み中のところすまない。……だが、そんな不確定な新商品よりも、確実に儲かり、なおかつ隣の特大市場に特大の貸しを擦り付けられる案があるとしたら、聞く耳はあるか?」

 ジャケットを弄んでいた彼女の手が止まり、その切れ上がった双眸が値踏みするように私を捉える。一拍の静寂の後、ミモザの口元が、極上の獲物を見つけた商人のそれへと歪んだ。

「確実に儲かって、おまけに他区へ貸しを作れる、か。光学迷彩の市場価値を上回るだけの利益と、政治的アドバンテージ。なるほど、ボクの時間を買うには十分すぎるキーワードだね」

 彼女はレザーチェアに深く腰掛け直し、デスクの上で両手の指を組んだ。

「いいよ、オブザーバーさん。その儲け話、詳しく聞かせてもらおうか」

 

 

 

 

 

 

 ミモザがパチンと指を鳴らすと、何もない空間から光学迷彩を解かれたガラステーブルと黒革のソファが静かに浮かび上がるようにして現れた。さらに、上空からウォーターボトルを抱えたドローンが滑空し、テーブルの上へ正確にボトルを落としてから無機質な羽音を立てて去っていく。

「では話そうか。結論から言ってもらっていいかな?」

 ソファへ腰掛けたミモザが、脚を組んで先を促した。私はその向かい側に深く腰を下ろし、まっすぐに彼女を見つめる。

「私のプランは、フラウエンへヘパイストス社製の武器アタッチメントや、メンテナンスオイルなどを大量に流すことだ」

「フラウエン? どうせ流すなら、もっと武器の消費が激しくて市場の大きい他の学園の方がいいんじゃないかな?」

「理由を話すが……」

 私は言葉を切り、背後のドア付近で直立不動のまま待機している受付の生徒の方をちらっと一瞥した。ミモザは私の意図を瞬時に読み取ったようで、「下がってて」と短く指示を出し、彼女を部屋から退室させた。完全に二人きりになったのを見届け、私は声を潜める。

「フラウエンで教皇選挙が近い。噂では、今回の選挙は言葉ではなく、武力がものを言う結果になりそうだ」

「なるほどね。需要が急速に高まっているから、そこにウェポンパーツを流しにいくと……。だけどリスクがあるし、それは実質的に火に油を注ぐようなものだ。ボクはシャングリラのトップだ。いくら儲かるからって、そんな犯罪まがいなことに加担したくはないな」

「言い訳ならいくらでも用意できる。私たちは単に市場の需要に合わせてアタッチメントを一般販売しているだけだ、と。そして、キナ臭い教会へ直接卸すのではなく、フラウエンの民間ガンショップにだけ正規のルートで流せば、流通としての言い訳も十分に通りやすい」

「ふーむ……」

 ミモザは組んだ膝の上で指先をトントンと叩き、渋い顔のまま考え込んだ。さすがに一筋縄ではいかない。あと一歩、彼女の理性を揺るがす決定打が必要だった。

 私は小さく息を吐き、ソファの背もたれから少しだけ身を乗り出した。じっと観察して分かった。彼女の隙のない白シャツ、完璧に着こなされたスラックス、そして鮮烈な真っ赤なネクタイ。細部まで施された繊細な化粧や髪のセットに至るまで、彼女は驚くほど自分の見せ方を理解している。単なる自己満足の範疇を超えている。これは、誰かに「完璧で可愛い大人のCEO」として認められたいという、彼女なりの健気な武装なのだ。まだ子供のくせに、必死で大人のビジネスパーソンを演じている。私はあえて張り詰めた仕事の空気を緩め、笑みを浮かべた。

「なかなか首を縦に振らないな、ミモザCEO」

「当然さ。ボクはこれでも——」

「その真っ赤なネクタイ、実によく似合っている」

 不意に投げかけられた、ビジネスとは全く無関係な言葉に、ミモザは小さく目を見開いた。

「服も完璧だ。化粧も自分の魅力を100パーセント引き出すために計算されている。……とても素敵だ。誰かに自分の優秀さと、それから女の子としての可愛さを見せつけるための努力としては、これ以上ない満点だ」

 私はミモザのパーソナルスペースを侵さない程度の絶妙な距離を保ちつつ、しかしその瞳の奥を、すべてを見透かしたような、少し意地悪で優しい視線で射抜いた。

「な、何を言って……っ」

 案の定、ミモザの白い頬が胸元のネクタイと同じ色にじんわりと染まっていく。大人びたCEOの仮面が剥がれかけ、等身大の少女の動揺が覗く。

「まだ子供なのにこれほど巨大な街のトップに立ち、大人たちと対等に渡り合うために、そうやって背伸びをして振る舞っている。実に見事だ。健気だ。私は君のそういうプロ意識をとても魅力的だと思うよ」

「ボ、ボクを子供扱いするなんて、いい度胸じゃないか! セクハラで訴えられたいのかい……っ?」

「まさか。心からの敬意だよ。君なら、この火に油を注ぐというリスクの裏にどれほどの経済的リターンが隠されているか、もう計算できているはずだ。私に一度だけ、君のその有能さを貸してくれないか? 無理をして最初から冷徹な経営者のフリをする必要はない、と言っているんだ。君はまだ生徒で、そのままでも十分に優秀だ。だからこそ、リスクを恐れるポーズを取って、この私からさらに有利な条件を引き出そうとしているんだろう?」

「う……」

「安心するといい。火に油を注ぐ汚い役割は、すべて私――この特任オブザーバーの仕事だ。シャングリラはただ、注文された物資を右から左へ便利に届けるという、普段通りの正当な業務を全うするだけでいい。どうかな。これなら君のその綺麗な服を、一切汚さずに莫大な利益とフラウエンへの貸しが手に入る」

 ミモザは顔を赤くしたまま、しばらくの間、私から視線を逸らすように唇をきゅっと結んでいた。やがて、観念したようにふっと短い溜息を漏らす。

「大人はいつだってずるいな。そんな風に言われたら、ボクがただのわがままな子供みたいじゃないか。わかったよ。君の言う通り、シャングリラは普段通りの流通を提供するだけだ。具体的な物資のリストと、フラウエンの搬入先ショップのデータを送りなよ。今夜中にシャングリラ最速のドローン便を編成してあげる」

「話が早くて助かるよ、ミモザ」

 私が微笑むと、彼女は「もう、調子が狂うな……」と小さく毒づきながら、ボトルウォーターへと手を伸ばした。これでフラウエンを丸裸にするための最初の駒が完璧に配置された。

 

 

 

 

 

 

 だが、油断大敵だ。彼女はこれでも一区を統べるCEOであり、本質は抜け目のない商人だ。ここで少しでも不誠実な態度を見せれば、せっかく引き出したYESのサインをいつひっくり返されるか分かったものではない。今はとにかくミモザのプライドを完璧に満たし、彼女の機嫌を最高の状態に保つことに全力を尽くすべきだ。私は最後まで笑顔を崩さず、退室する際、自身の個人用端末の番号を記したメモをそっとデスクに置いた。

「今日は時間を割いてくれてありがとう、ミモザ。もし何か困ったことや、私にしか言えないような相談事があれば、その番号に連絡してくれ。君からのコールなら、最優先でいつでも出ると約束しよう」

「――っ、早く行きなよ、バカ!」

 再び同じ宿へと戻り、手続きを済ませて部屋に入った瞬間、私はようやく顔の筋肉を緩めて大きな溜息を吐き出した。デスクの上に残っていた冷めたバゲットを齧る。小麦の素朴な味が口内に広がるのを確かめながら、ついでにとポケットから昨日手に入れたあの「おまけのメモ」を取り出した。020から始まる、パン屋の少女の個人番号。少しの好奇心と息抜きを兼ねて、私は端末の通話ボタンを押した。二回ほどの呼び出し音の後、スピーカーから電子音混じりの賑やかな声が飛び出してくる。

『もしも~し! どちらさまでしょうか?』

「私だ。昨日、君の店でパンを大量に買い付けた男だよ」

『あぁ、あの時のお客さん! 先日はたくさんのお買い上げ、本当にありがとうございましたー!』

 電話の向こうの少女は、相変わらず元気が有り余っているようだ。

「それで、聞きたいんだが、あの紙袋に入っていたおまけというのは何だ? おそらく、今繋がっている君の電話番号のことだと思うのだが」

『大正解です! 実はウチの店、一度にたくさんパンを買ってくれたVIPなお客さん限定で、特別な裏ショップへの招待を行っているんですよ! 本当はもっと常連さんにならないとダメなんですけど、手首のストラップを見るに、すっごく偉い大人の方じゃないですか。だからちょっと媚びを売っておけば、またたくさん買ってくれるかなー、なんて!』

「恐ろしい商魂だな」

 シャングリラの申し子のような言い草に、私は思わず苦笑した。だが、監査官としてその裏という単語に微かな警戒のシグナルを灯す。

「一応釘を刺しておくが、その裏ショップとやらで、まさかヴィザインの法に触れるような違法なモノでも取引しているわけではないよな?」

『いえいえ、滅相もない! 銃密売とかそんな物騒なこと、ウチみたいな可愛いパン屋がやるわけないじゃないですか!』

 少女は心外だとばかりに声を弾ませ、自慢げに言葉を続けた。

『表の店よりも原材料にめちゃくちゃこだわって作った、職人の魂がこもった超絶美味しいパンを売っているんです! 実は前にシャングリラのパンコンテストへ匿名で参加したんですけど、並み居る有名店を抑えて金賞を取ったこともあるくらいなんですから! なんと今なら、特別にお安く買えちゃいますよ!』

 つくづく私は運が良い。ここでその金賞を取ったという極上のパンとやらを買い付ければ、昼間口説き落としたばかりのミモザへの個人的なプレゼントとして利用できる。YESのサインをより強固なものにするための点数稼ぎにはうってつけの品だ。おまけに、このパン屋の少女にも恩を売っておくことができる。今のうちに仲良く囲い込んでおけば、今後は私の注文に合わせて、よりこちらの都合の良いこだわったパンを用意してくれるかもしれない。やっていることは、未熟な子供の心理を誘導する文字通りのグルーミングのようで、大人としては若干の気が引けなくもない。だが、これは仕事だ。与えれれた任務をこなし、自らの保身をするための合理的な業務プロセスに過ぎない。個人的な感情を満たすためのものでは決してない。思考を切り替え、私は受話器の向こうの少女へ淡々と告げた。

「今から買いに行きたい。店は開いているか?」

『わ、本当ですか!? ありがとうございます! えっと、あと二時間くらいで表の店を閉めるので、閉店したらお店の裏側の方から回ってきてください!』

 通話を切り、約束の時間が訪れるのを待ってから、私は夜のシャングリラへと再び繰り出した。ドローンの羽音も遠のいた時間。道路に面した華やかな店舗の脇をすり抜け、薄暗い路地裏へと足を運ぶ。配管が剥き出しになった壁際でしばらく待っていると、カチリと重い金属音が響き、一枚の扉が開いた。

「いらっしゃいませ。ささ、こっちへどうぞ……。誰かに見られないうちに早く入ってくださいね」

 彼女に促されるままに足を踏み入れたのは、こぢんまりとした小さな部屋だった。コンクリート打ち放しの無機質な空間。だが、天井からぽつんと一つだけ吊り下げられたペンダントランプが、部屋の中央に置かれた大きな木のテーブルを温かく照らし出している。そしてそのテーブルの上にはランプの光を浴びて、まるで宝石のように艶やかに輝くパンたちが芸術品のようにずらりと並べられていた。甘美な香りが狭い部屋の中に充満している。

「ふふん、驚いたでしょう! これがウチの本当の裏の顔です!」

 少女はふんぞり返り、自慢げに胸を叩いた。

 並べられた芸術的なパンの中から、私はミモザの好みそうな、見た目にも華やかなデニッシュや甘い菓子パンを5つほど厳格に吟味して買い付けた。会計を済ませると、昼間の簡素なクラフト袋とは打って変わり、ブランドショップのような美しい幾何学模様が施された特製の紙袋へ型崩れしないよう丁寧にパンを収めてくれた。

 帰り道、ポケットの中で私用端末が小さく震えた。画面に表示されたのは個人番号だった。

「オブザーバーだ」

『ミモザだよ。例の件だけど、ボクとしてもできるだけ早く商品をあちらの市場に流したいんだ。だから、今から緊急のミーティングをしたいと思ってね。と言っても、もうセントラルの他の生徒たちは全員退勤しちゃったから、ボクたち二人しかいないんだけど。都合はつくかい?』

 予想以上の食いつきの早さだ。彼女の中で昼間の私の言葉がどれほど大きな呼び水になったかが窺える。

「問題ない、すぐに向かおう」。

 自動ドアをくぐると、広大なロビーの真ん中で、ミモザ直々がぽつんと立って私の到着を待っていた。

「夜遅くに呼び出して悪かったね。ボクのワガママだ。すぐに終わらせるから」

「気にする必要はない。ゆっくりでいい。焦って綻びが出るよりは確実に、丁寧に仕事をしよう」

 

 

 

 

 

 

 最上階の執務室に戻り、私たちは昼間と同じ黒革のソファへ腰を下ろした。

「これは私からの差し入れだ。夜食にでもしてくれ」

「差し入れ? 今、確認してもいいかい?」

「あぁ、構わないよ」

 ミモザは少し意外そうに目を瞬かせ、おずおずとした手付きで紙袋を開けた。彼女の目がぱっと輝く。

「……! 美味しそうなパンだね。ありがとう。これは最高の夜食としていただくよ」

 昼間のトゲが完全に丸くなった彼女を見て、胸の奥がチクリと痛む。やはり私は汚い大人だ。パンを傍らに置き、私たちはすぐに本題であるミーティングへと移行した。議題は、フラウエンの「どのガンショップに商品を流すか」だ。普通なら、駅前のショップを狙うのが定石だろう。だが、街の構造を鑑みるに、あの神学区において駅はただの「外の人間が利用するロケーション」に過ぎない。生徒たちの生活圏、そして派閥の権力闘争の本体はそれぞれの校舎、ひいては信仰の中心である教会の周辺にこそある。

「各派閥の校舎と、教会に近いガンショップにピンポイントで物資を流すのが一番いい」

 彼女は膝の上のノートパソコンを開くと、タイピングを始めた。画面の光に照らされた彼女の指先一つで、ヘパイストス社からアタッチメントやメンテナンスオイルが文字通り山のように一括購入されていく。動いたのは、小さな町が一つ丸ごと買い取れるほどの莫大な額のVzだ。それを顔色一つ変えずに容易く決済してみせる。その冷徹なまでの決断力には恐ろしさすら覚えた。

「さあ、注文完了。商品を運ぶドローンはもうフラウエンへ向かっているよ」

「待ってくれ。ついさっきヘパイストスから買い付けたばかりだろう。それに、まだフラウエンの各ショップからの正式な注文は入っていないはずだぞ? 倉庫から発送するにしても早すぎる」

 私の疑問に対し、ミモザは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

「ボクを誰だと思っているんだい? シャングリラの物流網を侮らないでほしいな。ボクはあらゆる企業から、あらかじめ商品を借りておいて、自前の巨大倉庫にストックしてあるんだ。必要な分の代金はさっきみたいに専用ページを経由して一瞬で送るだけ。中間の手続きなんて全て省略さ」

 彼女はガラス窓の向こう、夜の街を見つめながら人差し指を天へと向けた。

「さらに言えば、フラウエン行きの自動配送ドローンは、コンテナを抱えたまま肉眼では見えない遥か上空で24時間、年中無休で旋回・待機しているのさ。だから下のガンショップから注文が入り次第、上空から最短数分で直下して商品を渡すだけ。――『暮らしの便利』を舐めちゃいけないよ。待っていれば、勝手に爆買いしてくれるさ」

 

 

 

 

 

 

 ミーティングがひと段落すると、ミモザはそれまでの張り詰めた空気をふっと緩め、待ってましたとばかりに紙袋を引き寄せた。中から取り出したのは、表面が完璧にキャラメリゼされた大ぶりのデニッシュだ。彼女はそれを小さなお口で、しかし思い切りのいい勢いでパクリと貪り食った。

「いい食べっぷりだな。気に入ってもらえて何よりだ」

「……んぐっ。ふ、不意打ちでこんなに美味しいパンを差し入れてくる君がいけないんだよ。ボクの食欲を暴走させた罰として、責任を持ってボクの胃袋の中に納まってもらうだけさ」

 完全にこちらのペースだ。ミモザの警戒心がこれだけ解けている今なら、もう少し踏み込んだ「わがまま」を言っても通るはずだ。私は本題の罠をさらに完璧なものにするため、もう一つの布石を打つことにした。

「ミモザ、君の会社では広告業も取り入れているかい?」

「広告?」

 二口目のパンを口に運ぼうとしていたミモザの手が止まり、彼女は片目を細めてこちらを睨んだ。

「もちろん、シャングリラの主要産業の一つだよ。そして次に何を言いたいかも分かる。さっきフラウエンのガンショップに流したヘパイストス社製品の広告を大々的に打とうってことでしょ? 購買意欲をさらに煽るために」

「そういうことだ」

「いいアイデアだけど、それってちょっと面倒だな。他社の製品の広告を勝手に打つわけにはいかないのは、商売の当たり前だからね。一度ヘパイストス社の上層部と正式なプロモーション契約を結んで、承認を貰わなきゃいけない。彼らはお堅い大企業だから、手続きだけでも数週間はかかるよ。選挙には間に合わないんじゃないかな」

「その点なら心配いらない。私からヘパイストスの上部へ、素早く連絡を入れてパイプを繋ぐことができる」

「君が?」

「あぁ、今回だけ限定の格安広告枠として特別にねじ込んでおけば、あちらの営業部も喉から手が出るほど食らいつくだろう。私の持つ、オブザーバーとはまた違う立場を使えば、面倒な事前審査をすべてすっ飛ばして、すんなり契約を通すことも可能だ」

「へえ……。そんな便利なお使いまでしてくれるんだね」

 ミモザは感心したように息を漏らし、「じゃあ、広告の枠だけは今すぐ押さえておくよ」とタイピングを再開した。

 ミモザの前ではさも「自分にヘパイストスとの直通ルートがある」かのように大口を叩いたが、実態は少し違う。私がこれから連絡を入れるのは、あのアンドロイドの上司だ。私が「フラウエンでの兵装監査を円滑に進めるための偽装工作として、ヘパイストス製品のプロモーションをシャングリラ経由で即時執行」の提案と事務報告を上げれば、あの上司はマシーンのような迅速さでヘパイストス上へ話を伝えるだろう。「格安の特設プロモーション枠が空いた」と持ちかけられて、断る企業など存在しないだろう。

 これも一つの賭けではある。だが、これまでの経験上、上司の効率主義と、ヘパイストス社の利益至上主義を噛み合わせれば、この程度のマッチポンプは確実にうまくいくはずだという確信があった。

 これで、フラウエンの生徒たちへ「ヘパイストス製品が今なら安い、おすすめだ」と強烈に刷り込む、完璧な包囲網が完成する。

「よし、これでボクたちのやるべき仕込みは全部終わりだね」

 ミモザに断りを入れ、私は執務室のテラスへと一度席を外した。夜風が吹き抜ける中、社用端末から上司へと暗号通信を繋ぐ。フラウエンへのヘパイストス製品の大量密流、およびそれを一斉監査で刈り取るための罠。そこへシャングリラの広域広告を絡める一連のスキームを淡々と報告すると、上司は抑揚のない合成音声で最適解を返してきた。

『なるほど。だが、我が社からヘパイストスへ一方的にその格安広告のディールを持ちかければ、こちらの意図を不審がられるリスクがある。カモフラージュが必要だ』

「カモフラージュ、というと?」

『ヘパイストス単体ではなく、我が社とヘパイストスの二社による「合同プロモーション枠」としてシャングリラに広告枠を確保させなさい。それなら「アイギスが新規開拓した共同広告枠に、ヘパイストスを巻き込んだ」という建前が立ち、あちらも疑わずに飛びつく』

「シャングリラの広告枠をもう一枠、それも格安で開けさせろと?」

『君の特権と、その無駄に整った顔は何のためにあるのだ。期待しているよ、オブザーバー』

 一方的に通信が切れた。冷たい電子音を聞きながら、私はやれやれと頭を振る。本当にうちの上司は人使いが荒い。私は再び執務室へと戻り、残りのパンを愛おしそうに眺めていたミモザの前へと歩み寄った。ソファへ腰を下ろし、彼女の視線を真っ直ぐに受け止める。

「すまないがもう一つ、私のわがままを聞いてくれないか?」

「さらなるわがまま? 欲張りだね、オブザーバー。これ以上ボクに何を求めるんだい?」

「今回流すヘパイストスの広告の隣に私の会社、アイギスの広告枠も、もう一枠だけ同時に開けてほしいんだ」

「はぁ!? てか、君はアイギスの役員だったの!? ちょっと待ってよ、そんなの急に言われても枠の調整が――」

「単なる一企業の広告を代理するだけじゃ退屈だろう? シャングリラが仕掛ける、二大軍需企業の合同兵装フェア。どうだ? 君がヴィザインの軍需を代表する二大巨頭を両手に従えて、市場の最前線をコントロールしているように見せた方が――君のその完璧なCEOとしての格が都市中に轟くと思わないか?」

 ミモザは動揺を隠すようにソファの奥へと深く沈み込んだ。

「それに、この大きなプロジェクトの間中、私と君が裏で深く繋がっているという、特別な共犯者の証になると思わないかね?」

「っ……、な、にを……!」

「私はただ、君という魅力的なCEOと、もっと特別な仕事がしたいだけだよ」

 じっと見つめ、駄目押しのトーンで問いかける。ミモザは耳まで真っ赤にしながら、完全に私のペースに呑まれていた。彼女はフン、と力なくそっぽを向くと、キーボードを叩く指を不自然に震わせながら、消え入るような声で呟いた。

「最初からそれが狙いだったんでしょ! わかったよ、開ければいいんでしょ、もう一枠くらい……!」

 これでアイギスとヘパイストスを並べたカモフラージュの舞台は整った。

 

 

 

 

 

 

 ミモザとの夜の密談から二日後、彼女から「広告掲載の準備が整った」との連絡が入った。こちらが仕掛けた通り、アイギスとヘパイストス、本来なら犬猿の仲であるはずの両社と迅速に話をつけ、極めて円満に特例契約を締結させたとのことだった。フラウエンの上空には餌が、街頭にはそれを煽る広告が同時にバラ撒かれ始める。

 広告掲載前から、すでに商品の売れ行きは絶好調のようだった。

 フラウエンへ戻るリニアのシートに揺られ、これからの立ち回りを思案していた。その時、手元の私用端末が聞き慣れない通知音を鳴らした。画面を開くと、そこに表示されていたのは新規の受信メール。驚くことに、差出人はヴァルプルギスに残してきた4人組の一人、リョウからだった。

 連絡先はおろか、メールアドレスすら教えていないはずの彼女からの唐突なアプローチに、私は思わず驚いた。

:こんにちは。多分、しーちゃんのメールであってますよね? 今どこにいますか?

:アドレスを教えた記憶はないが

:やった。大正解。やっぱりしーちゃんのメールだったんですね

:なんでって、しーちゃんって徹底した仕事人だから、どうせドメインは運営委員会のもので、アドレスのローカルパートは役職名そのままの『[email protected]』だろうなぁって予測したんです。ほら、ヴィザインのインターネットって完全に隔離されたローカル回線だから、外部の一般的なメールソフトは使えないですし

:あてずっぽうにも程があるのでは?

:そうでもないですよ。一般の生徒たちは、システム上の制約で自分の名前でしかメールアドレスの登録ができない決まりになってるんです。だから逆に、しーちゃんみたいな特殊な大人の役職名をそのままシステムに打ち込んだら繋がるんじゃないかって説が、私の中で濃厚だったってわけです

 画面を見つめたまま、私は小さく溜息をついた。

:で、今どこにいるんですか?

:居場所を教えなければならない理由は?

:冷たいなぁ。いや、実はこの長期休暇、特に予定もないミナとイスズ、ククの三人が暇を持て余してまして。せっかくだからしーちゃんを色々な場所に連れ回そうって計画を立てたみたいです。特にミナが「絶対にこの休暇はしーちゃんと過ごす!」って言い張って、手が付けられない状態なんですよ。というわけで、今どこですか?

:今はフラウエンだ。そして、それはそっちの問題だろう。私の預かり知るところではないし、プライベートにまで首を突っ込むつもりはない

:そこを何とかお願いします。じゃないと、私の部屋のドアをミナがショットガンでぶち破りかねないので

:こっちは仕事中だ

:つれないですね。じゃあ、もしこっちに来てくれたら、銃を違法改造している生徒集団についての有力な情報を渡しますよ。しーちゃんがフラウエンに行った理由も、どうせ上からの命令で武器の監査か何かっぽいですし。だったら、その違法改造集団を一斉に取り締まれば、会社への良い点数稼ぎになるんじゃないですか?

:大人を舐めすぎだ。そんな安直な餌に乗ると思うな。私は行かない

 私はリョウからの返信を待たずに、半ば無理やり通信を遮断して端末をコートのポケットへと押し込んだ。だが、静寂が訪れたのは、ほんの数秒の間だけだった。ポケットの奥で、端末がけたたましく通知音を連発し始める。尋常ではない頻度のバイブレーションが、衣服越しに太ももを何度も叩いた。

「……諦めの悪い」

 再び端末を取り出し、画面をロック解除する。そこに表示されていたのは、先ほどのリョウの簡素な画面ではなく、明らかに別のアカウントから怒涛の勢いで送りつけられてきた、短いメッセージの連打だった。

:しーちゃん!? しーちゃんですよね!?

:リョウからフラウエンにいるって聞きました!

:一緒にヴィザインを回りましょうよ! 休暇ですよ、休暇!

:私がぜーんぶ案内しますから!

:ね?

:ね?

:お願いしますよぉ~! 生徒とのコミュニケーションだと思って!

:ダメですか?(´・ω・`)

 画面を一番上までスクロールし、送信元のアドレスを確認する。そこには、予想通り騒がしい突撃娘の名前が、これ以上ないほど分かりやすい形で登録されていた。『[email protected]

 リニアの窓に頭を打ち付けたくなる衝動を堪える。まさか強制的にヴァルプルギスの問題児たちとの「濃厚なコミュニケーション」の枠が勝手に開けられようとは夢にも思わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 このまま私のメールボックスが限界を迎えて爆破されるのも、今回の任務が終わってヴァルプルギスへ帰った時に針のむしろに座らされるのも御免だ。私は観念して彼女たちの計画に付き合うことにした。

:仕方ない。約束はする。ただし、こちらの仕事がすべて片付いてからだ。その時が来たら必ず私から連絡する。それまでは大人しく待っていなさい。

:やったぁ!!! ありがとうございます!!!

 ミナからの返信を確認したところで、リニアのブレーキ音が響いた。タイミング良く聖フラウエン神学区へと到着した私はプラットホームへと降り立った。まずは現状の視察だ。端末でマップを開き、街の中心にある「一番大きな教会」の真向かいに位置するガンショップへと足を運ぶ。そこは異様なまでの熱気に包まれていた。選挙を控えてピリついているはずの生徒たちが、長蛇の列を作って店に殺到しているのだ。人の出入りが激しい自動ドアの向こうから、出てくる生徒たちの手元を注視する。その多くが、ヘパイストス社の赤と黒のロゴが印刷された最新アタッチメントの箱を抱え、あるいは、まるで新品のように妖しく黒光りする銃身を自慢げに撫で回していた。シャングリラの物流網は伊達ではない。本当にもう行き届いている。

 他のガンショップを数軒回ってみたが、どこも同様の爆買いが起きていた。そして、そのショップのすぐ脇にある巨大な街頭デジタルサイネージには、シャングリラから最優先で配信された派手な広告が映し出されていた。

 今回のマッチポンプにおいて、絶対に満たさなければならない絶対条件が二つある。一つは、恐怖に駆られた生徒たちから「同意の上で、特例法に触れずに確実に武器を提出させること。そしてもう一つは、ヘパイストス社への致命的なネガティブキャンペーンを行う際、その黒幕がアイギス・バイオティクスであると絶対に察知されてはならないことだ。

 アイギスの影を完全に消し去り、かつフラウエンの生徒たちに恐怖を叩き込むための、民間かつ最強のインフラ。

「……シャングリラのショッピングアプリか」

 ヴィザインに生きる生徒であれば、右を向いても左を向いても銃器アタッチメントや日用品を買い漁る。その利便性を一手に担うシャングリラの総合流通アプリは、もはや学園都市の全生徒の端末にインストールされていると言っても過言ではない。私は教皇選挙の数時間前、ミモザの個人回線へと緊急の通信を入れた。

『ん、朝っぱらから何だいオブザーバー。ボクの睡眠時間を奪うからには、相応のディールなんだろうね?』

「ミモザ、今すぐシャングリラのアプリを使って、フラウエン全域に『ヘパイストス社製品の緊急使用停止勧告』のアラートを流してくれ」

『はぁ!? 何を言っているんだい。大量に売り捌いたばかりじゃないか!』

 寝起きの掠れた声が一瞬で弾け飛ぶ。私は叢雲学園から持ち帰った「頭部がバナナの皮のように裂けた凄惨な暴発事故データ」を、彼女のプライベート端末へと転送した。

「今まさに見つかった、ヘパイストス製最新オイルとアタッチメントの重大な製品欠陥だ。特定の環境下で手入れ不足の銃器に使用した場合、超高確率で暴発を起こす。嘘だと思うなら、そのデータをシャングリラのラボで検証してみるといい。これを見過ごしてフラウエンで一斉に暴発事故が起きれば、仲介したシャングリラの信用は文字通り地に落ちる。だが、今ここで『我が社が独自に欠陥を検知し、生徒の安全のために緊急アラートを出した』という形を取れば、シャングリラの危機管理能力の高さをヴィザイン全域にアピールできる。どうする?」

『理屈は通っているけど、これじゃボクの会社だって、不良品を一度は流通させたっていう小さな傷がつくじゃないか!』

「その傷の分は――この件が全て片付いた後、私が責任を取って君を口説き落としてやるさ」

『なっ――!?』

「時間が惜しい。頼む、ミモザ」

『ああもう! 本当に!』

 悪態をつきながらも彼女のタイピング音が響き、通信は切れた。これで導火線に火がついた。同時に私は秘匿回線を開く。

「これよりフラウエンにて、ヘパイストス製品の欠陥に伴う大規模な兵装回収をする。数時間以内に大型VTOL機を数十台、および武装鑑識チームを現地へ派遣されたし」

 

 

 

 

 

 

 

 聖フラウエン神学区は、ついに教皇選挙を始めた。正統派と改革派、すでに重々しい武装を施した生徒たちが続々と会場に現れ、教会の周囲を取り囲むように一触即発の陣形を敷きつつあった。

 会場にいた生徒たちのスマートフォンが、一斉に鼓膜を刺すような緊急警告音を鳴り響かせた。

 

『【緊急警告】シャングリラ流通管理局より、現在フラウエン区内に流通しているヘパイストス社製特定オイル、およびアタッチメントに関する重大な製品欠陥のお知らせ。対象製品を使用した状態で発砲した場合、即座に銃身が自壊し、使用者の頭部に致命的な肉体損壊を及ぼす暴発リスクが検知されました。対象の生徒は、直ちに武器の使用を停止してください――』

 

「な、何これ!?」

「ヘパイストスのオイルが爆発するって!?」

 さっきまで血生臭い戦争を始めようとしていた少女たちの顔が、一瞬で恐怖に青ざめていく。自分が握りしめている最強の武器が、次の瞬間には自分の頭を吹き飛ばす最悪の爆弾に変わったのだ。誰もが銃を地面に放り出し始めた。

 その大混乱の最中、上空から重々しいハミング音と共に巨大なVTOL機が数十台、次々と垂直着陸してくる。機体から降りてきたのは、白い防護服に身を包んだアイギスの大規模鑑識チームだ。彼らは次々と捨てられた銃の回収を始めた。

 特例法『兵争権身体不可侵法』があるため、生徒の同意なしに銃を没収することはできない。だが、死の恐怖に怯える子供たちが「自発的に手放した」武器を、安全確保のために大人が一時回収する行為を阻む法など、このヴィザインには存在しなかった。

 仕事は完璧に片付いたが、ここからは私個人にとっての本当の修羅場が始まる。私は端末を取り出し、案の定、烈火のごとく怒り狂った通知を連発しているミモザのアイコンを見つめた。彼女の会社についた小さな傷を癒やすため約束通り、今度はこのCEOを本気で口説き落としにいかねばならない。

 

 

 

 

 

 

 ドアを開けた瞬間、デスクに両手をついたミモザが烈火のごとく怒った視線をぶつけてくる。

「よくものうのうと戻ってこれたね! シャングリラのアプリのタイムラインは今も大騒ぎだよ! 不良品を一度は仲介したっていう履歴、どうやって帳消しにしてくれるんだい!?」

 息を荒げるミモザ。だが、私はむしろ楽しむように微笑みながら、ゆっくりと彼女のデスクへと歩み寄った。

「その件なら、もう答えは出ているはずだ。現にシャングリラの株価は暴落するどころか、株主たちからは『前代未聞の危機管理能力と、人道的な決断力』と大絶賛されている。違ったか?」

「それは結果論で、ボクが必死に裏で泥水を被って火消しをしたからだよ!」

「そう、君がやったんだ」

 私はデスクを回り込み、彼女のすぐ目の前で立ち止まった。至近距離で見上げるミモザの瞳が、私の突然の接近に小さく揺れる。

「普通の子供なら泣いて逃げ出すような企業間の大トラブルを、君はたった数時間で最高のプロモーションに昇華させてみせた。本当に恐ろしい経営手腕だ。君はもう、そこらの有象無象の大人なんかより、遥かに高みにいる本物のCEOだよ」

 私は躊躇なく手を伸ばした。彼女が完璧な大人であろうとして、その細い首元にきっちりと結んでいる真っ赤なネクタイの結び目に指をかけ、少しだけ、強引に自分の方へと引き寄せる。

「ひゃっ……!?」

 彼女の体が僅かに浮き、私たちの顔が、あと数センチで唇が触れ合うほどの距離に固定される。至近距離。まだあどけない彼女の顔がみるみるうちに耳まで真っ赤に染まっていく。

「な、何するんだい、離して……っ!」

「離さないさ。約束しただろう? 責任を取る、と」

 私は彼女のネクタイを緩く握ったまま、その潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめ続けた。

「君がどれほど有能で、どれほど完璧な大人として振る舞おうと、私には分かるよ。その小さな肩にどれだけの重圧を背負って、どれだけ無理をして背伸びをしているか。誰も君のその健気な努力を褒めてくれないなら、私が君のすべてを肯定してあげよう。これから私の前でだけは、そんなに無理をして完璧な大人にならなくていい」

 彼女の細い顎にそっと指先を添え、少しだけ上を向かせる。ミモザは怒ることすら忘れ、小さく震える息を吐き出すことしかできなくなっていた。

「ノーと言いたいかい?」

「言えるわけ……、ないだろ……」

 ネクタイを握っていた手を緩めると、そのまま彼女の頭へと手を移動させた。子供扱いされるのを極端に嫌いそうな彼女だが、こうして完全に懐に引き込んでしまえば、大人の優しい愛撫にはもう抗えないらしい。サラリとした綺麗な髪を、指先でゆっくりと慈しむように撫でてやる。

「よく頑張ったな、ミモザ。今回の迅速な火消し、本当に完璧だった。君の決断がなければ、フラウエンは今頃血の海だったよ」

「口先ばっかり。どうせそうやって、他の女の子にも同じこと言ってるんだろ」

「まさか。こんなに優秀なビジネスパートナーは、この広大なヴィザインを探しても君だけさ」

 そう囁きながら彼女の肩を優しく抱き、ソファへと並んで座らせた。私は胸ポケットから一枚の洗練された漆黒のデザインカードを取り出して、彼女の小さな手のひらにそっと握らせた。

「なに、これ?」

「私が個人的に利用している、ヴィザイン中央区にある会員制ラウンジの招待状だ。一般の生徒は立ち入れない、本物の静かな場所さ」

 ミモザの目が好奇心と憧れを孕んでわずかに見開かれる。背伸びしたい彼女にとって、「本物の大人の世界への招待」はこれ以上ない特効薬だ。

「私からのささやかなお詫びと、次なるディールだよ。今回の件が完全に落ち着いたら、またプライベートで話をしよう。もちろん、君が私の誘いに乗ってくれるならの話だがね」

「乗る……」

「よし、良い返事だ。では、私はそろそろ行くよ。これ以上ここにいると、君の有能な部下たちに不審がられてしまうからね」

「あ……、うん。気をつけてね、オブザーバー」

 名残惜しそうにこちらを見上げるミモザに最後にもう一度だけ微笑みかけ、部屋を後にした。

 これでシャングリラとフラウエンを巻き込んだヘパイストスの失脚劇は完璧に終わった。ヘパイストスは重大な欠陥を出したとして運営委員会からペナルティを受けることになり、アイギスは自社の関与を隠したまま、フラウエンの市場シェアを無傷で総なめにする。これ以上ない戦果だ。

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