【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした   作:昼夜健康

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第1話 前世、定時退社の男

火曜日の午後四時三十八分、地方都市の外れにある大きな工場では夕方のチャイム前の空気が流れ始めていた。

空調の風はどこか油の匂いを含んでいて、床には黄色い安全通路の線がまっすぐ伸びている。

コンプレッサーの息継ぎみたいな音が壁の向こうから聞こえていた。

LED電灯の下で、作業者たちのヘルメットがゆっくり動く。

 

俺はその通路の端で、クリップボードを片手に、部品箱の置き場を見ていた。

 

地方国立大学の工学部を出て、地元では大企業と呼ばれる工場に就職した。肩書きは生産技術。

響きだけなら何かすごいものを作っていそうだが、実際は

「ここで、毎回引っかかるんだけど」

「このチェックシート、二重で書いてる意味ある?」

「この治具、誰が持っていったかわからん」

といった、地味で切実な困りごとの横にいる仕事だった。

 

世界を変える発明はしていない。

ましてや、天才開発者でもない。

ただ、現場の人が毎日ちょっとだけ困っているものを見つけて、ちょっとだけ楽にする。

ネジ一本の位置、ラベルの貼り方、棚の高さ、点検表の順番。

そういうものに手を出して、たまに褒められ、たまに「余計なことをするな」と眉をひそめられ、最終的にはまあまあ現場に馴染む。

なるべくしんどい仕事はせずに、のんびり働くという生産技術では珍しい働き方をしている。

 

四時四十五分。作業台の横に置かれた端末で、俺は今日の確認結果を入力した。

棚の向き変更、ラベル位置変更、試行期間は一週間。

対象ライン、担当班、仮ルール、確認者。細かい。正直に言えば面倒くさい。

まともな人間なら、古い箱から使ってくれるんじゃないか。

新人でもないのに、ラベルくらい見るんじゃないか。

作業前に声をかければ済むんじゃないか。

昔の俺なら、そう思っていたかもしれない。いや、今でもたまに思う。

思うが、工場という場所は「忙しい日に、少し疲れて、少し焦って、少し見落とす」ことで動いている。

人間の善意と注意力だけに任せると、だいたい最後に誰かが謝ることになる。

 

謝罪は無料だが、怪我などされると鬼のような量の書類を書くことになる。

俺は定時退社を愛していた。

 

出世欲がないわけではない。給料が増えたら嬉しい。

賞与の査定が上がれば、帰り道に少し高い総菜を買うくらいの浮かれ方はする。

ただ、出世して毎晩遅くまで働きたいかと言われると、首を横に振る。全力で横に振る。

 

地元の大企業は、派手ではないが安定していた。

有名なため人手不足もなく、生産技術でも人が余っている。

俺がこうして社内ニートに近い働き方ができる。

社食は安く、寮も悪くない。

新規製品の立ち上げが年に一度くらい来ると、胃がきゅっとなるほど忙しくなる。

それ以外の時期は基本的に定時で帰れる。

五時十五分のチャイムを聞き、作業着から私服に着替えまだ明るい空の下を歩く。

あの瞬間の幸福はたぶん高級レストランのコースより満足感がある。

 

いや、高級レストランに行ったことはほとんどないので、比較は適当だ。

 

帰って、洗濯機を回し、風呂を沸かし、冷蔵庫の残り物で飯を作る。

動画を一本見て、気が向いたら積んだ本を少し読む。

誰にも褒められないが、誰にも叱られない。

 

五時を過ぎると、事務所側の空気が変わる。

電話が減り、キーボードの音が速くなり、誰もが今日中に閉じるべきものを閉じ始める。

俺は端末に最後のメモを打った。

 

部品箱の先入れ先出しが崩れる可能性あり。

ラベル位置と棚向きを変更して一週間観察。

作業者への説明は明朝朝礼で班長より実施。

効果確認は来週火曜。

 

これでいい。

 

五時十五分、チャイムが鳴った。

 

勝った。

何に勝ったのかはわからない。

納期か、電話か、急な会議か、あるいは人類が自分で作った労働という制度そのものか。

とにかく勝った。俺は心の中で小さくガッツポーズをし、タイムカードを押した。

更衣室では、同期の村瀬がロッカーを閉めていた。

 

「今日、飲み行かない?」

 

「行かない」

 

「返事早すぎ」

 

「今日は冷蔵庫に賞味期限が今日までの豆腐がある」

 

「豆腐に負けたのか、俺」

 

「豆腐は待ってくれない」

 

村瀬は呆れたように笑った。

俺は私服に着替え、作業靴からスニーカーに履き替えた。

 

工場の門を出ると、六月の夕方の湿った風が頬に当たった。

空はまだ明るく、遠くの山の輪郭が薄い青に沈みかけている。

敷地の端には社員用の駐車場が広がり、その向こうを国道が走っていた。

トラックが通るたび、熱を含んだアスファルトの匂いが動く。

 

いつもの道だった。

 

守衛さんに会釈する。

横断歩道の信号を待つ。

コンビニの前を通る。

スーパーに寄るかどうか考える。

豆腐だけでは夕飯が弱い。

鶏むね肉を焼くか。いや、惣菜の唐揚げを買えば、豆腐は冷奴でいい。

健康は明日からでも十分間に合う。

 

そんな、特別でも何でもない考えが頭の中を流れていた。

 

信号が青になった。

 

 

俺は横断歩道へ踏み出した。

 

 

その瞬間、やけに遠くでブレーキの音がした。

世界が急に静かになった、ような気がした。

いや、実際には音はあったのだと思う。

誰かの叫び声。タイヤの擦れる音。

自分の靴底が白線を踏む感触。手の中のスマホが震える小さな振動。

だが、そのどれもが水の中の音みたいに鈍くなっていた。

 

 

まずいな、と俺は思った。

 

 

人間、本当にまずい瞬間には、気の利いたことを考えない。

 

 

走馬灯もなかった。未練も、意外なほど具体的ではなかった。

豆腐。洗濯。明日の矢印。端末に入力した確認日。

そういう、どうでもいいものばかりが頭に浮かんだ。

 

 

どうでもいいものを、俺は案外、大事にしていたらしい。

 

◇◇◇

 

次に気づいたとき、油と金属とアスファルトの匂いは消えていた。

 

代わりに、甘い乳の匂いと、乾いた布の匂いがした。

体が妙に重い。いや、重いというより、自分の体の動かし方がわからない。

まぶたを開けようとしても、光がぼんやり滲むだけだった。

 

誰かが近くで泣いている。

 

いや、喜んでいるのかもしれない。

 

知らない言葉が頭上を流れた。

日本語ではない。

なのに、その響きの中に、なぜか意味の輪郭だけが浮かんだ。

 

 

「おめでとうございます、奥様」

 

 

柔らかな声。

 

 

「ご立派な男のお子様です」

 

 

男の子。

 

 

俺はそこで、ようやく一つだけ理解した。

定時で帰ったはずの俺は、どうやら帰り先を大きく間違えたらしい。

そして誰かが、厳かな声で名前を告げた。

 

「アーサー様」

 

その名を聞いた瞬間、俺は泣いた。

赤ん坊らしく、盛大に。

内心では、わりと冷静に叫んでいた。

明日の工程確認どうなる?

 




書き溜め分があるので、今日は6話まで更新予定です。
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