【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした 作:昼夜健康
ハロルド料理長が「鴨の脇に置いてみる」と言った翌々日の午後、グレイヴェル館の厨房では、鉄鍋がまた火床の前に据えられていた。
今日は家族だけの試食の日ではない。
父の客人であるヘイワード卿が夕食に来るらしい。
大きな晩餐会ではなく、領地の境の道と橋について話すための食事会とのことだ。
厨房にとっては皿を失敗できない合図だった。
作業台の上には、細切りにされたじゃがいもが布に包まれていた。
鴨はすでに下ごしらえされ、焼き汁を受ける皿が火床の近くに置かれている。
小鍋には、ベリーと葡萄酒と肉汁を合わせるための材料が並び、バターの黄色い角が燭の光を受けていた。
脂の匂い、灰の匂い、じゃがいもの青い匂い。
その中でハロルドは、いつもより静かに眉間へ皺を寄せていた。
「まず、試します」
ハロルドはそう言って、一枚目のガレットを焼いた。
ちりちり、と音がする。
芋の端が白から薄い金色へ変わり、油の泡が細かくなる。
厨房の者たちも、あの「焦げた敷物」を思い出しているのか、誰も急かさない。
ハロルドは広いへらを差し込んだ。
今度は丸いまま持ち上がる。
返した面は金色で、ところどころ濃い茶色がある。
いい。
とてもいい。
焼き上がったガレットを、ハロルドは布の上へ置いた。
油が少し染みる。
そこから銀の皿へ移し、鴨の切り身を仮に置き、赤茶色のソースを脇へ細く落とした。
「大きい」
ハロルドが言った。
俺は皿を見た。
ガレットは丸く、香ばしく、見た目は悪くない。
だが、鴨の脇にあると少し主張が強い。
肉の付け合わせというより、芋が「私が本日の主役です」と言っている。
ハロルドは帳面に書いた。
「一枚目、大きすぎ。鴨の脇で目立ちすぎる」
前世の俺は、食卓で皿の余白など気にしたことがなかった。
定時後に食べる惣菜は、皿より胃袋が優先である。
貴族の食卓は、団子より花らしい。
二枚目は小さく作られた。
端はきれいに立ち、中心も厚くない。
ハロルドはそれを鴨のすぐ横へ置き、ベリーと葡萄酒のソースを細く垂らした。
最初は美しかった。
金色の芋、飴色の鴨、赤茶色のソース。
だが、少し待つと、ソースに触れた端がじわりと重くなった。
かりっと立っていた芋の先が、しんなり沈む。
「近すぎます」
俺が小さく言うと、ハロルドはへらを止めた。
「よくお分かりで」
たぶん褒められた。
ハロルドは、ほんの少しだけ位置を直した。
鴨の切り口から出る肉汁の届くぎりぎり外側。
ソースは肉の脇へ。
ガレットの端には触れない。
上には塩をほんの少しだけ。
皿が急にまとまった。
ただの芋ではない。
鴨の脂とベリーの赤を横から支える、控えめだが頼れる脇役だった。
「悪くございません」
ハロルドが言った。
「かなり?」
「今は、かなりとまでは申しません」
厳しい。
「温度と時刻がございます。先に焼けば冷めます。皿に置いたまま待てば油じみます。遅れれば給仕が乱れます」
同じものを何枚も、同じ大きさで、同じ時刻に、同じ温度で出す。
それはもう、厨房の小さな戦であり、帳面と手順の領分だった。
「料理長に任せます」
俺が言うと、ハロルドは少しだけ目を細めた。
「賢くなられましたな」
「少しです」
◇
夕方、俺は着替えを済ませた。
子供用の上着はきちんとしていて、首元が少し苦しい。
晩餐の前に鏡の前へ立たされ、クララが襟を整え、ネルが袖口を直した。
俺は自分では何もしていないのに、礼儀正しい幼児が一体仕上がっていく。
貴族生活は、本人の努力より周囲の手で形が整うことが多い。
その代わり、中身が変だとすぐばれる。
リディアが廊下で俺を見て、くすりと笑った。
「お兄様、厨房の匂いがします」
「そうかな」
「します。油と、お芋」
兄が夕食前に油と芋の匂いをまとっている。
どう考えても普通ではない。
「家のためです」
俺は言った。
リディアは首をかしげた。
「お兄様がそう言う時は、おなかのためでもあります」
妹よ。
なぜ君はそんなに核心を突くのがうまいのか。
「少しだけ」
「やっぱり」
リディアは楽しそうに笑った。
その声を聞いて、廊下の端にいた母セシリアが振り向いた。
「アーサー」
「はい」
「今夜はお父様のお客様がいらっしゃいます。厨房のことを得意げにお話ししてはいけませんよ」
「はい」
「料理が褒められたら、料理長を褒めなさい」
「はい」
母は満足そうにうなずいた。
たぶん、俺が何か関わっていることには気づいている。
気づいた上で、食卓の手柄の置き場所を教えているのだ。
食堂の窓の外は日が暮れかけ、燭台の火が細く揺れている。
父エドマンドの向かいには、ヘイワード卿が座っていた。
白い口髭のある老紳士で、声は穏やかだが、橋の修繕費の話になると目が鋭くなる。
俺は子供用の席に座り、背筋を伸ばした。
普通の顔。普通の顔。
たぶん今日も無理だろうが。
前菜のあと、鴨の皿が運ばれてきた。
皮は濃い飴色で、切り口から淡い湯気が立つ。
ベリーと葡萄酒のソースは肉の脇に細く置かれ、赤茶色のつやを持っている。
そして、皿の片側に小さな金色があった。
ガレットだ。
大きすぎない。
ソースに浸かっていない。
鴨から離れすぎてもいない。
端は細かく立ち、中心はほどよくまとまり、ほんの少しの塩が表面に光っている。
厨房で見た三枚目より、さらにきれいだった。
ヘイワード卿が皿を見た。
「これは、芋ですかな」
父が少し眉を上げた。
母は穏やかに微笑んだ。
「料理長が、鴨に合わせて整えたものですわ」
母の声は軽い。
ヘイワード卿は、まず鴨を少し切り、ソースをほんのわずかにつけた。
それからガレットの端をフォークで割った。
小さく、かり、と音がした。
俺の耳には大きく聞こえた。
「ほう」
老紳士は一口食べた。
しばらく黙る。
父も食べる。
俺は膝の上で指を握った。
ヘイワード卿は皿をもう一度見た。
「うちの村では、芋は鍋に入るものと思っておりましたが」
悪い意味か。
俺の胃が一瞬沈む。
「これは、皿の上でずいぶん顔が変わりますな」
母の笑みが深くなった。
父も口元を緩める。
「ハロルドは昔から手堅い男ですが、近ごろ少し洒落たことをします」
父が言った。
手堅い男。
それはたぶん、父にとってかなりの褒め言葉である。
ヘイワード卿はガレットをもう一口食べた。
「外は香ばしく、中は柔らかい。肉の汁を受けても、崩れすぎない。なるほど、これはただの芋ではありませんな」
ただの芋ではない。
俺は心の中で万歳をした。
実際に手を上げたら、ロウリーが背後で気配を鋭くするので、心の中だけである。
父もガレットを割った。
端がかりっと砕け、中心の白い芋が見える。
彼は鴨の脂を少しつけて食べ、次にソースをほんのわずかに合わせた。
「重くない」
父は言った。
「芋は腹にたまるものだと思っていたが、これは鴨を邪魔せん」
母がうなずく。
「皿も明るくなりますわ」
食卓の空気が少し浮いた。
ただ、客人がもう一口食べた。
父が満足そうに黙った。
母が、ほんの少し誇らしげに笑った。
皿一枚で、家の顔は変わる。
俺はガレットを見た。
ただの芋、出世したな。
「お兄様」
リディアが小声で言った。
「はい」
「顔が、
「してない」
「しています」
ロウリーが背後で咳払いをした。
俺は慌てて鴨を食べた。
自分の皿のガレットは、小さく切られていた。
外側はかりっとして、噛むと焼けた芋の香りが広がる。
中はほくっと甘い。
鴨の脂を少し受けてもべちゃりとはならず、ベリーソースの酸味が来ると、芋の甘みが前へ出る。
俺は小さく息を吐いた。
「おいしい」
声は小さかったが、近くのリディアには聞こえたらしい。
「お兄様、やっぱりおなかのためです」
否定できないのがつらい。
◇
食後、父はヘイワード卿と書斎へ移り、橋の話を続けた。
俺は母に呼ばれて、小さな文机のそばに立った。
母は細いペンを取り、ルディオンに住む知人への手紙を書いているところだった。
「見てもよろしいですか」
「少しだけなら」
母は便箋を少しだけ傾けた。
そこには天気、父の客人、道のぬかるみ、リディアの刺繍のことが品よく並んでいた。
そして、その中に一行だけ、今夜の料理のことがあった。
鴨にベリーと葡萄酒の香りを添え、焼いた芋を小さなガレットにして合わせたところ、客人がたいそう興味を示した。
ただの一行。
だが、
その誰かが茶会で少し話すかもしれない。
「料理は、手紙にもなるのですね」
俺は言った。
母はペンを止めた。
「そうよ。だから、雑に出してはいけないの」
短い言葉だった。
厨房より怖い。
焦げた敷物なら笑って済むが、焦げた家名は笑えない。
「ハロルドを褒めます」
俺は言った。
母は少し笑った。
「よろしい」
そこへ、父が書斎から戻ってきた。
橋の修繕費の話を終えたあとらしく、少し疲れた顔をしている。
「アーサー」
「はい」
「料理に興味を持つのは悪くない。家の食卓を良くするのも、大事なことだ」
「はい」
「だが、厨房は仕事場だ。料理長の邪魔をしてはいけない」
「はい」
「それから、古典ヴァル語の稽古から逃げるために厨房へ行くのも、いけない」
ばれている。
「はい」
父は少しだけ笑った。
「お前は、食べ物のことになると目が動く」
「家のためです」
「半分くらいは、そうだろう」
父にも半分見抜かれた。
この家族、食い意地への検査精度が高すぎる。
「ただ、今夜の皿は良かった。ハロルドにも伝えておく」
「はい」
俺はほっとした。
俺が褒められるより、その方が次の厨房の扉は開きやすい。
◇
寝る前、ロウリーに連れられて廊下を歩いていると、厨房の前でハロルドに会った。
夕食の後片づけはほとんど終わっている。
扉の向こうからは、水音と、皿を棚へ戻す小さな音が聞こえた。
ハロルドは帳面を持っていた。
「若様」
「はい」
「旦那様より、お褒めの言葉を頂戴しました」
「よかったです」
「ヘイワード卿も、料理長の名をお尋ねになりました」
「すごい」
俺は素直に言った。
ハロルドは真顔のままだったが、耳のあたりが少しだけ赤い気がした。
「若様」
「はい」
「本日の皿は、厨房の仕事でございます」
「はい」
「ですが」
ハロルドは帳面を開いた。
ガレットの行に、今日の分が書き足されている。
芋は小さく円く。
鴨の脇、ソースより少し離す。
焼き上げは給仕直前。
油じみ注意。
庶民の芋でも皿映え可。
最後の一行の横に、短くこうあった。
若様、共犯。
「消してください」
俺は言った。
「記録でございます」
「料理長の成果です」
「若様の思いつきがきっかけでございます」
俺は帳面を見た。
チップスの行。
ベリーと葡萄酒のソースの行。
ガレットの行。
その横に、焦げた敷物もちゃんと残っている。
俺の恥が、少しずつ厨房の手順になっていく。
うれしいような、つらいような。
ハロルドは帳面を閉じた。
「若様」
「はい」
「次は、何をなさいます」
俺は口を開いた。
そして、すぐ閉じた。
聞くだけ、ではなかった。
料理長の方から聞いてしまった。
勝った。
たぶん勝った。
「少し、考えます」
俺は慎重に言った。
ハロルドはうなずいた。
「では、少しだけお考えください」
ロウリーが隣で、なぜか深いため息をついた。
厨房の奥で、最後の皿が棚へ収まる音がした。
ガレットは、ただの芋では終わらなかった。
そして俺も、ただ食べたいだけの若様では済まなくなりつつあった。