【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした   作:昼夜健康

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第11話 社交界に届く香り

◇◇◇

 

ハロルド料理長が「次は、何をなさいます」と聞いてくれた数日後の朝、グレイヴェル館の朝食室には、焼いたパンと濃い茶の香りが静かに広がっていた。

窓の外は薄く曇っている。

 

俺は子供用の椅子に座り、パンの端を少しずつかじっていた。

昨夜、料理長が自分から次を聞いた。

これは大きい。

蒸気機関を作れない俺でも、鉄道で一番乗りできない俺でも、厨房では少しずつ勝ち星を拾えている。

 

父エドマンドは朝から書類を見ていた。

橋の修繕、領地の道、来月の支払い。

紙が増えるたびに、父の眉間のしわも増える。

貴族の朝食は優雅だが、帳簿は優雅ではない。

 

母セシリアは、小さな封書を二通、銀の盆から取った。

封蝋を割る音が、パキリと響く。

 

「まあ」

 

母が短く言った。

その声は、驚いたというより、面白いものを見つけた時の声だった。

 

父が顔を上げる。

 

「何かあったか」

 

「ルディオンのマーロウ夫人からですわ。先日の手紙への返事」

 

俺はパンをかじる手を止めた。

ルディオン。

手紙。

料理について何か書いてあるだろうか。

 

母は便箋へ目を落とし、口元に小さな笑みを置いた。

 

「グレイヴェル家の鴨の皿が、近ごろ少し洒落たらしいと。ヘイワード卿からも、そのようなお話が出たそうです」

 

父は、なんとも言えない顔をした。

 

「ヘイワード卿は、道と橋の話をしに来たはずだが」

 

「道と橋の話だけを覚えて帰る方は、あまりいらっしゃいませんもの」

 

母は穏やかに言った。

強い。

評判はその後で手紙に入り、茶会に入り、誰かの耳に入る。

 

「料理長の名も、尋ねられておりますわ」

 

母が続けた。

 

俺は思わず背筋を伸ばした。

ハロルドの名が外へ出た。

それはつまり、グレイヴェルの厨房が褒められたということだ。

 

父は便箋を受け取り、短く読んだ。

 

「ハロルドには伝えておこう」

 

「ええ。使用人たちにも、少しだけ。家の食卓が褒められると、屋敷全体の格が上がりますもの」

 

母は俺を見た。

 

「アーサー、料理が褒められるということは、料理だけが褒められるのではありません」

 

「家が、褒められる」

 

俺は短く答えた。

 

母は満足そうにうなずいた。

 

「よろしい」

 

家が褒められる。

それは、橋の修繕費が消えるわけでもない。

だが、グレイヴェル伯爵家は古くて少し地味なだけではなく、食卓に手入れが行き届いた家だと思われる。

それはたぶん、招待状や手紙の返事や、面倒な相談のされ方を少し変える。

 

平和だ。

とても平和な名声アップである。

晩餐で客人が少し驚き、母が一行書き、誰かが茶の席で話す。

なんだ、これが俺の進むべき現代知識チートではないか。

 

俺は少しだけ得意になった。

本当に少しだけのつもりだった。

 

「お兄様」

 

隣のリディアが、パンに蜂蜜を薄く塗りながら俺を見た。

 

「はい」

 

「また勝った顔です」

 

していたらしい。

 

「してない」

 

「しています」

 

ロウリーが背後で、控えめに茶器を直した。

咳払いではない。

だが、今のは咳払いの親戚である。

 

 

朝食後、母はハロルドを呼んだ。

場所は厨房ではなく、廊下の奥の小さな控え室だった。

厨房の城主を、女主人が正式に呼ぶ形である。

 

ハロルドは白い前掛けを替え、手をきれいに洗ってから来た。

だが、厨房で鉄鍋と向き合う時より少し緊張している顔だった。

 

母は便箋を卓へ置いた。

 

「ハロルド、先日の鴨とガレットが、客人の印象に残ったようです」

 

「恐れ入ります」

 

ハロルドは深く頭を下げた。

 

「あなたの手が褒められています」

 

「厨房一同の仕事でございます」

 

即答だった。

 

母は微笑んだ。

 

「では、厨房一同へ。けれど、あなたが整えた皿です」

 

ハロルドの耳のあたりが、ほんの少し赤くなった。

俺は見なかったことにした。

 

父も控え室に来ていた。

腕を組み、少し困った顔をしている。

 

「ハロルド、食卓が良くなったことは喜ばしい」

 

「ありがとうございます」

 

「ただ、アーサーが厨房に入り浸るのは困る」

 

来た。

 

父の視線が俺へ向く。

俺は背筋を伸ばした。

子供として正しい顔。

中身の成人男性としては、かなり苦しい顔。

 

「アーサー」

 

「はい」

 

「お前は、厨房で何をしている」

 

俺は少し考えた。

正直に言えば、前世のあやふやな料理記憶を持ち込み、ハロルド料理長に現実へ直してもらい、ついでに古典ヴァル語の稽古から少し逃げている。

全部言ったら終わる。

 

「料理長の相談役です」

 

静かになった。

 

母が扇の先で口元を隠した。

父は眉を上げた。

ハロルドは顔を動かさなかった。

ロウリーは壁のそばで完璧な姿勢を保っている。

完璧すぎる姿勢は、時々とても冷たい。

 

「相談役」

 

父が繰り返した。

 

「はい」

 

「子供が相談役か」

 

「少しだけ」

 

父は額に手を当てた。

 

「ハロルド」

 

「はい、旦那様」

 

「実際のところは」

 

ハロルドは一瞬だけ俺を見た。

助け舟を出してくれるだろうか。

 

「若様は、思いつきをお持ちになります」

 

「思いつき」

 

「はい。それを厨房で試せるか、試すべきか、試してよい時刻かを判断するのは私でございます」

 

父はうなずいた。

 

「ならばよい」

 

よかった。

 

「ただし、アーサー」

 

よくなかった。

 

「はい」

 

「相談役ならば、相手の仕事の邪魔をしてはいけない。火床へ近づかない。刃物を持たない。給仕前に騒がない。古典ヴァル語から逃げない」

 

最後が本命だった。

 

「はい」

 

「それと、男が厨房に入り浸るのは、外では少し変わって聞こえる」

 

父は困惑を隠さなかった。

この国の貴族家では、厨房は家の内側の仕事場であり、若い令息が日々入れ込む場所ではない。

父が止めたいのは、料理そのものではなく、家の見え方でもあるのだ。

 

母が静かに言った。

 

「ですから、外へは料理長の工夫として伝えます。アーサーが厨房へ通っている話は、屋敷の内側まで」

 

「それがよい」

 

父は短く答えた。

 

俺は胸をなで下ろした。

平和な名声アップにも、ちゃんと取り扱い注意がある。

どこに危険源があるか分からない。

 

 

その日の昼過ぎ、厨房の近くを通ると空気が少し違っていた。

鍋の音、包丁の音、洗い場の水音はいつも通りだ。

だが、下働きの少年が薪を運ぶ足取りが、少し軽い。

侍女クララが廊下でネルに何かを耳打ちし、こちらに気づいてすぐ姿勢を正した。

 

「アーサー様」

 

「はい」

 

俺が返事をすると、二人は同時に礼をした。

いつも通りの礼なのに、どこか楽しそうだ。

 

厨房の扉は開いていた。

中からは、肉を焼く前の下ごしらえの匂いと、洗った根菜の土の匂いが来る。

ハロルドは作業台の向こうで、帳面を開いていた。

俺を見つけると、すぐに眉を寄せる。

 

「若様」

 

「はい」

 

「今日はまだ何も試しません」

 

先に言われた。

 

「聞くだけです」

 

「聞くものも、まだございません」

 

厳しい。

 

その横で、若い料理人がじゃがいもを洗っていた。

彼は俺と目が合うと、少し笑いをこらえた顔になった。

笑われるのは少し悔しいが、厨房の空気が温かいなら悪くない。

 

ハロルドが若い料理人を一瞥する。

 

「手を動かせ」

 

「はい」

 

少年は慌てて芋へ戻った。

だが、顔はまだ少し明るい。

料理長の名が外で尋ねられたことは、もう厨房に伝わっているのだろう。

自分たちの仕事が食堂の外へ届く。

それは、鍋を磨き、皿を運び、脂を拭き、薪を割る者たちにも届く褒め言葉だった。

 

ロウリーが俺の背後に立った。

 

「アーサー様、長居はなさいませんよう」

 

「はい」

 

「それから、屋敷内で妙な噂がございます」

 

「妙な噂」

 

「若様が料理長をお育てになっている、と」

 

俺は固まった。

どこからそうなる。

 

ハロルドの眉間のしわが深くなった。

 

「誰がそのような命知らずなことを」

 

厨房の空気が一瞬で引き締まった。

下働きの少年が芋を洗う手を速くする。

ネルが廊下の向こうでそっと方向転換した。

 

「訂正しておきました」

 

ロウリーは静かに言った。

 

「若様は料理長の邪魔をなさらぬよう、料理長から教育を受けている、と」

 

かなり正しい。

 

「ロウリー」

 

俺は小さく言った。

 

「それは、少し恥ずかしいです」

 

ハロルドは帳面を閉じた。

 

「若様の関わりは、厨房の内側で管理します。外へは出しません」

 

「はい」

 

「ですが」

 

彼は少しだけ声を落とした。

 

「次に試すものがあるなら、私へお話しください」

 

平和な名声アップは、俺の手柄にはならない。

それでいい。

むしろ、その方がいい。

 

 

夕方、俺は子供部屋で古典ヴァル語の短い文を写していた。

窓の外では、薄い雨が降り始めている。

紙の上の文字は相変わらず俺に優しくない。

古典ヴァル語は読み手に努力を要求してくる。

 

リディアは隣で刺繍の練習をしていた。

彼女は俺の横顔をしばらく眺めてから、針を止めた。

 

「お兄様」

 

「はい」

 

「相談役って、何をするのですか」

 

来た。

 

「相談します」

 

「だれが」

 

「料理長が」

 

「お兄様に?」

 

「少しだけ」

 

リディアはまったく信じていない顔をした。

母に似た顔である。

兄としてはつらい。

 

「お兄様は、料理長に怒られているのではありませんか」

 

かなり正しい。

 

「教わっています」

 

「では、相談役ではなく、生徒です」

 

その時、侍女クララが夕食前の軽い皿を運んできた。

子供用に、小さく切ったゆで卵、冷ました魚のほぐし身、柔らかく煮た根菜、薄いパン。

体に良い。

とても良い。

そして、少し物足りない。

 

魚は白く、淡泊だった。

塩はある。

少しの酢もある。

油を垂らせば、口当たりは変わるだろう。

卵は黄身がしっとりしている。

 

俺は皿を見た。

魚。

卵。

油。

酢。

塩。

 

前世の記憶が、ひょいと顔を出した。

野菜にも合う。

魚にも合う。

肉にも、たぶん合う。

何にでも少しつけたくなる、白いソース。

 

万能。

なんて甘い言葉だろう。

社交界に香りが届き、料理長が次を聞き、厨房が少し俺を受け入れ、妹には見抜かれているが父には一応許された。

 

俺はゆで卵を見つめた。

 

「お兄様?」

 

リディアが首をかしげる。

 

「少し、思いつきました」

 

「またおなかですか」

 

「家のためです」

 

リディアは即座に笑った。

 

「やっぱり両方です」

 

たぶん、その通りだ。

俺は魚の白身を小さく口へ運びながら、頭の中で卵と油と酢を混ぜていた。

まだ厨房へは行かない。

まだハロルドにも言わない。

でも、次の相談は決まった。

 

白い、万能のソース(マヨネーズ)

 

その名前を思い浮かべた瞬間、雨の音に混じって、どこか遠くでハロルド料理長のため息が聞こえた気がした。

 

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