【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした 作:昼夜健康
◇◇◇
ハロルド料理長が「次は、何をなさいます」と聞いてくれた数日後の朝、グレイヴェル館の朝食室には、焼いたパンと濃い茶の香りが静かに広がっていた。
窓の外は薄く曇っている。
俺は子供用の椅子に座り、パンの端を少しずつかじっていた。
昨夜、料理長が自分から次を聞いた。
これは大きい。
蒸気機関を作れない俺でも、鉄道で一番乗りできない俺でも、厨房では少しずつ勝ち星を拾えている。
父エドマンドは朝から書類を見ていた。
橋の修繕、領地の道、来月の支払い。
紙が増えるたびに、父の眉間のしわも増える。
貴族の朝食は優雅だが、帳簿は優雅ではない。
母セシリアは、小さな封書を二通、銀の盆から取った。
封蝋を割る音が、パキリと響く。
「まあ」
母が短く言った。
その声は、驚いたというより、面白いものを見つけた時の声だった。
父が顔を上げる。
「何かあったか」
「ルディオンのマーロウ夫人からですわ。先日の手紙への返事」
俺はパンをかじる手を止めた。
ルディオン。
手紙。
料理について何か書いてあるだろうか。
母は便箋へ目を落とし、口元に小さな笑みを置いた。
「グレイヴェル家の鴨の皿が、近ごろ少し洒落たらしいと。ヘイワード卿からも、そのようなお話が出たそうです」
父は、なんとも言えない顔をした。
「ヘイワード卿は、道と橋の話をしに来たはずだが」
「道と橋の話だけを覚えて帰る方は、あまりいらっしゃいませんもの」
母は穏やかに言った。
強い。
評判はその後で手紙に入り、茶会に入り、誰かの耳に入る。
「料理長の名も、尋ねられておりますわ」
母が続けた。
俺は思わず背筋を伸ばした。
ハロルドの名が外へ出た。
それはつまり、グレイヴェルの厨房が褒められたということだ。
父は便箋を受け取り、短く読んだ。
「ハロルドには伝えておこう」
「ええ。使用人たちにも、少しだけ。家の食卓が褒められると、屋敷全体の格が上がりますもの」
母は俺を見た。
「アーサー、料理が褒められるということは、料理だけが褒められるのではありません」
「家が、褒められる」
俺は短く答えた。
母は満足そうにうなずいた。
「よろしい」
家が褒められる。
それは、橋の修繕費が消えるわけでもない。
だが、グレイヴェル伯爵家は古くて少し地味なだけではなく、食卓に手入れが行き届いた家だと思われる。
それはたぶん、招待状や手紙の返事や、面倒な相談のされ方を少し変える。
平和だ。
とても平和な名声アップである。
晩餐で客人が少し驚き、母が一行書き、誰かが茶の席で話す。
なんだ、これが俺の進むべき現代知識チートではないか。
俺は少しだけ得意になった。
本当に少しだけのつもりだった。
「お兄様」
隣のリディアが、パンに蜂蜜を薄く塗りながら俺を見た。
「はい」
「また勝った顔です」
していたらしい。
「してない」
「しています」
ロウリーが背後で、控えめに茶器を直した。
咳払いではない。
だが、今のは咳払いの親戚である。
◇
朝食後、母はハロルドを呼んだ。
場所は厨房ではなく、廊下の奥の小さな控え室だった。
厨房の城主を、女主人が正式に呼ぶ形である。
ハロルドは白い前掛けを替え、手をきれいに洗ってから来た。
だが、厨房で鉄鍋と向き合う時より少し緊張している顔だった。
母は便箋を卓へ置いた。
「ハロルド、先日の鴨とガレットが、客人の印象に残ったようです」
「恐れ入ります」
ハロルドは深く頭を下げた。
「あなたの手が褒められています」
「厨房一同の仕事でございます」
即答だった。
母は微笑んだ。
「では、厨房一同へ。けれど、あなたが整えた皿です」
ハロルドの耳のあたりが、ほんの少し赤くなった。
俺は見なかったことにした。
父も控え室に来ていた。
腕を組み、少し困った顔をしている。
「ハロルド、食卓が良くなったことは喜ばしい」
「ありがとうございます」
「ただ、アーサーが厨房に入り浸るのは困る」
来た。
父の視線が俺へ向く。
俺は背筋を伸ばした。
子供として正しい顔。
中身の成人男性としては、かなり苦しい顔。
「アーサー」
「はい」
「お前は、厨房で何をしている」
俺は少し考えた。
正直に言えば、前世のあやふやな料理記憶を持ち込み、ハロルド料理長に現実へ直してもらい、ついでに古典ヴァル語の稽古から少し逃げている。
全部言ったら終わる。
「料理長の相談役です」
静かになった。
母が扇の先で口元を隠した。
父は眉を上げた。
ハロルドは顔を動かさなかった。
ロウリーは壁のそばで完璧な姿勢を保っている。
完璧すぎる姿勢は、時々とても冷たい。
「相談役」
父が繰り返した。
「はい」
「子供が相談役か」
「少しだけ」
父は額に手を当てた。
「ハロルド」
「はい、旦那様」
「実際のところは」
ハロルドは一瞬だけ俺を見た。
助け舟を出してくれるだろうか。
「若様は、思いつきをお持ちになります」
「思いつき」
「はい。それを厨房で試せるか、試すべきか、試してよい時刻かを判断するのは私でございます」
父はうなずいた。
「ならばよい」
よかった。
「ただし、アーサー」
よくなかった。
「はい」
「相談役ならば、相手の仕事の邪魔をしてはいけない。火床へ近づかない。刃物を持たない。給仕前に騒がない。古典ヴァル語から逃げない」
最後が本命だった。
「はい」
「それと、男が厨房に入り浸るのは、外では少し変わって聞こえる」
父は困惑を隠さなかった。
この国の貴族家では、厨房は家の内側の仕事場であり、若い令息が日々入れ込む場所ではない。
父が止めたいのは、料理そのものではなく、家の見え方でもあるのだ。
母が静かに言った。
「ですから、外へは料理長の工夫として伝えます。アーサーが厨房へ通っている話は、屋敷の内側まで」
「それがよい」
父は短く答えた。
俺は胸をなで下ろした。
平和な名声アップにも、ちゃんと取り扱い注意がある。
どこに危険源があるか分からない。
◇
その日の昼過ぎ、厨房の近くを通ると空気が少し違っていた。
鍋の音、包丁の音、洗い場の水音はいつも通りだ。
だが、下働きの少年が薪を運ぶ足取りが、少し軽い。
侍女クララが廊下でネルに何かを耳打ちし、こちらに気づいてすぐ姿勢を正した。
「アーサー様」
「はい」
俺が返事をすると、二人は同時に礼をした。
いつも通りの礼なのに、どこか楽しそうだ。
厨房の扉は開いていた。
中からは、肉を焼く前の下ごしらえの匂いと、洗った根菜の土の匂いが来る。
ハロルドは作業台の向こうで、帳面を開いていた。
俺を見つけると、すぐに眉を寄せる。
「若様」
「はい」
「今日はまだ何も試しません」
先に言われた。
「聞くだけです」
「聞くものも、まだございません」
厳しい。
その横で、若い料理人がじゃがいもを洗っていた。
彼は俺と目が合うと、少し笑いをこらえた顔になった。
笑われるのは少し悔しいが、厨房の空気が温かいなら悪くない。
ハロルドが若い料理人を一瞥する。
「手を動かせ」
「はい」
少年は慌てて芋へ戻った。
だが、顔はまだ少し明るい。
料理長の名が外で尋ねられたことは、もう厨房に伝わっているのだろう。
自分たちの仕事が食堂の外へ届く。
それは、鍋を磨き、皿を運び、脂を拭き、薪を割る者たちにも届く褒め言葉だった。
ロウリーが俺の背後に立った。
「アーサー様、長居はなさいませんよう」
「はい」
「それから、屋敷内で妙な噂がございます」
「妙な噂」
「若様が料理長をお育てになっている、と」
俺は固まった。
どこからそうなる。
ハロルドの眉間のしわが深くなった。
「誰がそのような命知らずなことを」
厨房の空気が一瞬で引き締まった。
下働きの少年が芋を洗う手を速くする。
ネルが廊下の向こうでそっと方向転換した。
「訂正しておきました」
ロウリーは静かに言った。
「若様は料理長の邪魔をなさらぬよう、料理長から教育を受けている、と」
かなり正しい。
「ロウリー」
俺は小さく言った。
「それは、少し恥ずかしいです」
ハロルドは帳面を閉じた。
「若様の関わりは、厨房の内側で管理します。外へは出しません」
「はい」
「ですが」
彼は少しだけ声を落とした。
「次に試すものがあるなら、私へお話しください」
平和な名声アップは、俺の手柄にはならない。
それでいい。
むしろ、その方がいい。
◇
夕方、俺は子供部屋で古典ヴァル語の短い文を写していた。
窓の外では、薄い雨が降り始めている。
紙の上の文字は相変わらず俺に優しくない。
古典ヴァル語は読み手に努力を要求してくる。
リディアは隣で刺繍の練習をしていた。
彼女は俺の横顔をしばらく眺めてから、針を止めた。
「お兄様」
「はい」
「相談役って、何をするのですか」
来た。
「相談します」
「だれが」
「料理長が」
「お兄様に?」
「少しだけ」
リディアはまったく信じていない顔をした。
母に似た顔である。
兄としてはつらい。
「お兄様は、料理長に怒られているのではありませんか」
かなり正しい。
「教わっています」
「では、相談役ではなく、生徒です」
その時、侍女クララが夕食前の軽い皿を運んできた。
子供用に、小さく切ったゆで卵、冷ました魚のほぐし身、柔らかく煮た根菜、薄いパン。
体に良い。
とても良い。
そして、少し物足りない。
魚は白く、淡泊だった。
塩はある。
少しの酢もある。
油を垂らせば、口当たりは変わるだろう。
卵は黄身がしっとりしている。
俺は皿を見た。
魚。
卵。
油。
酢。
塩。
前世の記憶が、ひょいと顔を出した。
野菜にも合う。
魚にも合う。
肉にも、たぶん合う。
何にでも少しつけたくなる、白いソース。
万能。
なんて甘い言葉だろう。
社交界に香りが届き、料理長が次を聞き、厨房が少し俺を受け入れ、妹には見抜かれているが父には一応許された。
俺はゆで卵を見つめた。
「お兄様?」
リディアが首をかしげる。
「少し、思いつきました」
「またおなかですか」
「家のためです」
リディアは即座に笑った。
「やっぱり両方です」
たぶん、その通りだ。
俺は魚の白身を小さく口へ運びながら、頭の中で卵と油と酢を混ぜていた。
まだ厨房へは行かない。
まだハロルドにも言わない。
でも、次の相談は決まった。
その名前を思い浮かべた瞬間、雨の音に混じって、どこか遠くでハロルド料理長のため息が聞こえた気がした。