【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした   作:昼夜健康

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第12話 白いソースの誘惑

グレイヴェル館の子供部屋で卵と油を見た翌日の昼前、俺は厨房の扉の前に立っていた。

廊下には、洗った根菜の土の匂いと、魚を下ごしらえする淡い潮の匂いが流れている。

扉の向こうでは、水音、包丁の音、薪が割れる音が、いつもの順番で重なっていた。

 

今日は、正規の相談であり無断侵入ではない。かなり成長した。

 

ロウリーが俺の横で、扉を軽く叩いた。

 

「料理長、アーサー様がご相談とのことです」

 

中の音が少し止まった。

すぐにハロルドが顔を出す。

白い前掛け、まくった袖、少し疑わしそうな目。

 

そこへ、廊下の向こうから侍女クララが急ぎ足で来た。

 

「ロウリー様、旦那様が書斎へお呼びです。ヘイワード卿への返書の件で、すぐにと」

 

ロウリーの眉が、ほんの少しだけ動いた。

父の書斎からの呼び出しは、使用人にとっても俺の面倒見より優先度が高い。

俺は心の中で、監督役がいなくなることに少しだけ拳を握った。

いや、違う。

これは偶然である。

とても都合のいい偶然である。

 

「料理長」

 

「承知しております。若様を火床へは近づけません」

 

「刃物も」

 

「持たせません」

 

「アーサー様」

 

「はい」

 

「相談だけでございます」

 

「はい」

 

ロウリーは俺を一度見てから、書斎の方へ歩いていった。

その背中が廊下の角を曲がるまで、ハロルドは扉を半分だけ開けたまま待っていた。

 

「若様」

 

「はい」

 

「何を思いつかれました」

 

聞くのが早い。

そして逃げ道がない。

 

「白いソースです」

 

ハロルドの眉が動いた。

 

「白い」

 

「はい。卵と、油と、酢と、塩で」

 

厨房の空気が、すっと冷えた気がした。

実際には火床の熱で温かい。

だが、ハロルドの目が明らかに冷えた。

 

「卵は、焼くのでございますか」

 

「焼きません」

 

「茹でるので」

 

「茹でません」

 

「煮るので」

 

「煮ません」

 

ハロルドは黙った。

厨房の奥で、若い料理人が魚の骨を外す手を止めかけ、すぐ動かした。

 

「若様」

 

「はい」

 

「卵を、生のまま、油と酢へ混ぜるのでございますか」

 

「はい」

 

「なぜ」

 

俺は昨日から考えていた白いソース(マヨネーズ)を説明しようとした。

前世では、卵黄と油と酢を混ぜると、とろりとしたソースになる。

野菜にも魚にも合う。

揚げ物にも合う。

ただ、外へ出せる言葉は短くする。

幼い若様が卵黄の乳化現象を語れない。

 

「混ぜると、とろっとします」

 

「とろっと」

 

「酸っぱくて、こくがあります」

 

「生の卵で」

 

「はい」

 

ハロルドは作業台の上の卵籠を見た。

今朝届いた卵らしく、殻にはまだ薄い汚れが残っている。

厨房では卵を割る前に拭き、必要なら火を通す。

それが普通だ。

 

「火を通さぬ卵は、腹に障ることがございます」

 

ハロルドが言った。

 

「氷室に入れれば大丈夫です」

 

言った瞬間、ハロルドの目が少し鋭くなった。

ハロルドの眉間のしわはさらに深くなる。

 

「少しだけ」

 

俺は追加した。

 

ハロルドは腕を組んだ。

 

「卵は今朝のものを選ぶ。殻は拭く。器は湯で温めてから拭く。手は洗う。多く作らない。残さない」

 

「はい」

 

「そして、食堂へ出すかどうかは私が決めます」

 

「はい」

 

ハロルドが扉の外へ目をやった。

ロウリーはいない。

つまり、ここで最後に止める大人は料理長だけである。

厨房の城門が、細く開いた。

 

 

作業台の端に、小さな器が置かれた。

白い陶器の器、木の小さな泡立て、酢の小瓶、塩壺、淡い色の油壺。

卵は一つだけ。

ハロルドは殻を布で丁寧に拭き、それでもまだ不満そうに眺めた。

 

「黄身だけです」

 

俺が言うと、ハロルドはさらに疑わしそうな顔をした。

 

「白身は」

 

「使いません」

 

「卵を半分捨てるのでございますか」

 

「別の料理に」

 

「それならばよろしい」

 

よかった。

貴族の厨房でも、食材を無駄にすると罪が重いらしい。

後でメレンゲを焼いてお菓子を作ってもらおう。

 

ハロルドは卵を小さな器へ割り、殻を開いた。

黄身は濃い黄色で、ぷるりとしている。

黄身だけが陶器の底に残った。

 

「塩を少し。酢を、少し」

 

俺は言った。

 

ハロルドは塩をほんのわずか落とし、酢を数滴入れた。

木の泡立てで混ぜる。

黄身がゆるみ、つやが出る。

 

「油を、糸みたいに入れながら混ぜて」

 

「糸」

 

ハロルドは油壺を傾けた。

最初の一筋が黄身へ落ちる。

木の泡立てがすぐに動いた。

ちゃ、ちゃ、と小さな音がする。

油は最初、黄身の表面に浮きかけた。

 

まずい。

早すぎるか。

 

「もっと少し」

 

俺が言うと、ハロルドは壺を止めた。

 

「なかなか厳しいことをおっしゃる」

 

ハロルドは、油を一滴ずつ落とすようにした。

泡立てが動く。

黄身の黄色が、少しずつ淡くなる。

最初はさらりとしていた液が、やがて木の先にまとわりついた。

 

厨房の者たちが、手を止めないまま目だけでこちらを見る。

白いソースは、まだ白くない。

淡い黄色だ。

だが、たしかにとろりとしてきた。

 

「油をもう少し」

「たぶん」

 

「たぶん」

 

ハロルドが低く繰り返した。

それでも彼は続けた。

油を細く。

混ぜる。

止めない。

酢をほんの少し。

また混ぜる。

塩を見直す。

 

器の中のソースは、淡い黄色から白に近い色へ変わった。

表面はなめらかで、泡立てを持ち上げると、ぽってりと筋が残る。

小さな器の中に、前世の記憶が急に形を持って現れた。

 

マヨネーズ。

 

「できました」

 

俺は小さく言った。

 

ハロルドは器を見つめた。

まだ喜んでいない。

正しい。

料理長は見た目では降伏しない。

 

「味を見ます」

 

ハロルドは薄いパンの端に、白いソースを針の頭ほどつけた。

本当に針の頭ほどだった。

それを自分で口へ入れる。

 

長い沈黙。

俺は息を止めた。

 

「……妙です」

 

負けか。

 

「悪い妙ですか」

 

「いえ」

 

ハロルドはもう一度、ほんの少しだけ取った。

今度は冷ました白身魚の欠片へつける。

口へ入れ、ゆっくり噛む。

 

「酸味があり、油なのに重すぎない。魚の匂いを丸めます」

 

勝った。

 

若い料理人にも、ハロルドはごく小さな欠片を渡した。

彼は白身魚につけて食べ、目を丸くした。

 

「料理長、これは……」

 

「手を動かせ」

 

「はい」

 

返事はしたが、彼の目はまだ器を見ていた。

厨房の空気が、ふわりと動く。

ベリーソースの時の赤い驚きとは違う。

ガレットの香ばしい勝利とも違う。

白いソースは、見た目が静かなのに、味が皿の向きを変える。

 

ハロルドは今度、茹でた根菜の端に少しつけた。

俺にも、ほんの少しだけ渡される。

 

俺は食べた。

 

酢の酸味が先に来る。

すぐに卵黄のこくと油の丸さが舌を包む。

塩が奥で締める。

淡い根菜の甘みが、急に前へ出る。

ただ柔らかく煮られていた根菜が、白いソースを少しつけただけで、もう一口食べたいものになる。

 

魚にも合う。

パンにも合う。

根菜にも合う。

 

万能。

 

その言葉が、また頭の中で甘く光った。

 

「おいしいです」

 

俺は言った。

 

ハロルドは器を見たまま、低く答えた。

 

「悪くございません」

 

「かなり?」

 

「かなり、危うくもございます」

 

喜びが半分、戻された。

 

「危うい」

 

「火を通しておりません。油も多い。酢があるとはいえ、どれほど持つか分からぬ。温かい厨房に置けば悪くなるかもしれません」

 

悪くなる。

前世では冷蔵庫が必須だったが、今は小さい氷室が厨房にあった。

ここに入れれば、悪くなるのは遅らせられるだろう。

 

ハロルドは帳面を開いた。

 

「白いソース。卵黄、油、酢、塩。油は糸のように少しずつ。混ぜ続ける。火を通さず。保存、冷所保存必須。多く作らぬ。残さぬ」

 

最後に、少し間を置いて書き足した。

 

「若様、大丈夫と言う。要注意」

 

「そこも書くのですか」

 

「記録でございます」

 

俺の発言が、厨房帳面の危険表示になった。

 

白いソースは小さな陶器の器に移された。

ハロルドはそれを氷室に入れた。

多くは作っていない。

本当に少しだけだ。

それでも、俺にはその器がやけに大きく見えた。

 

 

夕方、食堂の窓の外では雨が細く降っていた。

雨が季節外れの寒さを運んできていた。

 

父エドマンドは書類疲れの顔で席につき、母セシリアは皿の色を見てすぐ何かに気づいた。

リディアは、俺を見る。

なぜ見る。

 

皿には、冷ました白身魚の小さな切り身、柔らかく煮た根菜、薄いパンが置かれていた。

その脇に、白いソースがほんの少し。

雪のように白い、とは言えない。

淡い卵色を含んだ、つやのある白。

皿の上で、やけに静かに光っている。

 

父が眉を上げた。

 

「これは」

 

母が先に口を開いた。

 

「料理長の新しいソースかしら」

 

外向きには料理長の成果。

母は本当に線の引き方がうまい。

 

ハロルドは食堂の端で頭を下げた。

 

「少量の試みでございます。魚と根菜に、ほんの少しだけ」

 

ほんの少しだけ。

その言葉が頼もしく、同時に怖い。

 

父は白身魚に少しつけて食べた。

母も根菜の端に合わせる。

俺は自分の皿を見た。

 

俺は魚の端へ、ほんの少しだけつけた。

 

うまい。

 

やはり、うまい。

淡い魚の香りが丸くなり、酢の酸味で後味が軽くなる。

パンにつけると、油のこくが広がる。

根菜につけると、柔らかい甘みが急に皿の中心へ出てくる。

 

危ない。

これは、味として危ない。

食べる手が進む。

 

父は少し驚いた顔をした。

 

「油なのに、重くない」

 

母は白いソースを眺める。

 

「皿が明るくなりますわね。けれど、香りは強すぎません」

 

ハロルドの背筋が少し伸びた。

厨房の者たちが廊下の向こうで気配を殺している。

白いソースは、静かに勝っていた。

 

俺は勝利の顔をしないように、魚を小さく切った。

しない。

絶対にしない。

 

「お兄様」

 

リディアが小声で言った。

 

「はい」

 

「顔が、勝ちたい顔です」

 

惜しい。

 

「勝ってない」

 

「まだ?」

 

「まだ」

 

俺は小さく答えた。

 

リディアは自分の皿の白いソースを、根菜につけて食べた。

目が明るくなる。

 

「白いソース、おいしい」

 

来た。

 

嬉しい。

とても嬉しい。

 

「おかわりできますか」

 

リディアが無邪気に言った。

 

食堂の空気が、俺の耳には一瞬だけ遠くなった。

父はまだ魚を見ている。

母はリディアの皿を見た。

ハロルドが、食堂の端でほんの少しだけ俺を見た。

 

氷室には入れた。

卵は今朝のものを選んだ。

器は湯で温めて拭いた。

量も少ない。

酢も塩も入っている。

 

たぶん、大丈夫だろう。

 

「少しだけ」

 

俺は言った。

 

リディアは嬉しそうに笑った。

父も母も、白いソースをもう一口だけ試した。

俺も、自分の皿の魚へさらにつけた。

 

白いソースは、おいしかった。

 

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