【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした   作:昼夜健康

13 / 14
第13話 伯爵家、腹痛で沈黙する

白いソースが食堂で静かに勝利した夜、グレイヴェル館の窓には寒く細い雨が当たり続けていた。

寝室へ戻るころには、廊下の石床まで冷えを吸っている。

侍女クララが寝台に季節外れの陶器製湯たんぽを入れ、厚い掛け布を足してくれた。

まだ舌に残っている白いソースの酸味を思い出していた。

 

おいしかった。

とてもおいしかった。

 

そして夜はいろいろ物思いにふける時間帯で、

いろいろ心配性な面が頭に浮かんできた。

 

氷室には入れた。

卵は今朝のものを選んだ。

器は湯で温めて拭いた。

多くは作っていない。

酢と塩も入っている。

 

並べると、安心材料は多い。

だが、並べている時点で少し不安でもある。

どうも言い訳をしている気がする。

 

前世では、卵はきれいに洗われ、日付があり、店に並び、家へ帰ればすぐ冷やされる、それが当たり前だった。

今朝の卵は、前世の白く清潔な売り場から来た卵ではないかもしれない。

 

腹の奥が、きゅ、と鳴った。

 

俺は目を閉じた。

気のせいだ。

勝利の余韻が腹で鳴っているだけだ。

 

たぶん。

 

 

 

 

 

 

夜半、俺は目を覚ました。

雨の音が近い。

寝室の中は暗く、その中で俺の腹がもう一度、

 

「ぐるるる....きゅう......」

 

と訴えた。

 

これは、勝利の余韻ではない。

 

俺は寝台の上で固まった。

痛い、というほどではない。

だが、明らかに腹の中に会議が開かれている。

議題はたぶん、「若様の判断は正しかったか、門を開けるべきか?」である。

出席者の表情は全員険しいし、開門される(漏らす)かもしれない。

 

廊下で足音がした。

いつもの夜の足音ではない。

急いではいるが、急いでいないふりをしている足音だ。

グレイヴェル館の使用人は、奥ゆかしい足音で礼儀がある。

だが今夜の礼儀は、少しだけ壁にすがっていた。

 

「クララ」

 

俺は小さく呼んだ。

 

すぐに控えの部屋からクララが顔を出した。

燭台を持つ手が少し白い。

 

「アーサー様、お目覚めでございますか」

 

「廊下が、騒がしいです」

 

クララは一瞬だけ迷った。

そして、貴族家の侍女として正しい、しかし何も隠せていない顔をした。

 

「皆様、少し、お腹の具合が」

 

来た。

 

俺の背中に、冷たいものが流れた。

雨の冷えではない。

白いソース(マヨネーズ)だろう

 

「父上も?」

 

「旦那様は、寝室でお休みでございます」

 

「母上は」

 

「奥様も、侍女がついております」

 

「リディアは」

 

クララは目を伏せた。

 

「先ほど、白いソースをお恨みのご様子で」

 

妹よ。

もうそこまで到達したのか。

 

俺は起き上がろうとして、腹が軽く抗議したので、ゆっくり動いた。

クララが慌てて近づく。

 

「若様、横に」

 

「大丈夫です」

 

「大丈夫ではない方ほど、そうおっしゃいます」

 

最近、家の者たちが俺の言葉を信用しなくなってきている。

なぜだろう。

いや、原因は今夜、白く皿の上で光っていた。

 

廊下へ出ると、空気は冷え、燭台の火が揺れていた。

遠くで水差しを運ぶ音がする。

侍女たちは声をひそめ、使用人たちは姿勢を保とうとしている。

しかし屋敷全体が、静かな腹痛に沈んでいた。

 

階段のそばに、ロウリーがいた。

背筋はまっすぐで、服装も乱れていない。

だが、片手だけが壁に置かれている。

 

「ロウリー」

 

「アーサー様。夜更けに廊下へお出ましになるのは、感心いたしません」

 

いつもの声だった。

ただし、いつもより半拍遅い。

 

「具合が悪いのですか」

 

「職務に支障はございません」

 

「父上は」

 

「旦那様は、季節外れの冷えが少し腹へ障ったものと思われます」

 

ロウリーは静かに言った。

すばらしい。

 

「今日は寒いですからね」

 

俺は言った。

 

ロウリーの目が、ほんの少しだけ俺を見た。

その目は、こう言っていた。

 

『若様、あなたは今、どの立場でそれをおっしゃっていますか』

 

俺は目をそらした。

 

父の寝室の方から、低いうなり声が聞こえた。

父エドマンドは温厚な人だ。

大声を出さない。

その父が、今夜は腹の中の小さな反乱に対して、貴族的な忍耐で敗北しているらしい。

 

別の廊下では、母セシリアが侍女に支えられていた。

髪はきちんと整えられている。

夜着の上に羽織ったショールも乱れていない。

だが、顔色は少し白い。

 

「アーサー」

 

「母上」

 

母は俺を見てまず俺の顔色を確かめた。

自分が苦しい時でも子を第一に考える。

その優しさが今の俺にはとても痛い。

 

「あなたは」

 

母にも見抜かれている。

 

「夕方から冷えましたし...」

 

俺は言った。

 

「ええ、冷えましたわね」

 

母は穏やかに答えた。

穏やかすぎる。

社交界に強い女主人は、たぶんこの場で真実を追及しない。

だが、忘れもしない。

 

奥の部屋から、リディアの小さな声がした。

 

「白いソース、きらい」

 

俺はその場で石になりかけた。

 

「お嬢様は、先ほどまでは、もう食べない、とも」

 

付き添いの侍女ネルが小声で言った。

 

俺の胸が締めつけられた。

リディアはおかわりした。

嬉しそうに笑っていた。

俺が止めなかった。

 

いや、父も母も食べた。

料理長も味を見た。

厨房の若い料理人も試した。

それでも、止める一番最初の機会は俺にあった。

 

たぶん大丈夫。

 

あの言葉が、腹の痛みより重かった。

 

 

明け方近く、厨房前の廊下には、濃い茶と温めた湯の匂いが漂っていた。

腹に障る者へ薄い麦粥を用意するため、厨房は早くから動いている。

だが、いつもの活気はない。

 

俺はロウリーに止められながらも、厨房の扉の前まで来た。

正式には、見舞いのための確認である。

非公式には、犯人が現場へ戻ってきた。

 

ハロルドは作業台の横に立っていた。

白い前掛けはきれいだが、顔色は悪い。

寝ていない顔だ。

 

「若様」

 

「料理長」

 

ハロルドは深く頭を下げた。

 

「申し訳ございません」

 

違う。

その言葉は、俺が先に言うべきだった。

 

「料理長のせいでは」

 

「食堂へ出すと決めたのは私でございます」

 

ハロルドの声は硬い。

料理長は、自分の城で出したものに責任を持つ。

だからこそ、俺の逃げ道がひどく狭くなる。

 

「白いソースが原因とは、まだ」

 

俺は言いかけた。

 

ハロルドがゆっくり顔を上げた。

 

「若様」

 

「はい」

 

「昨日、白いソースを多めに召し上がった方ほど、腹に障っております」

 

やめて。

 

ハロルドは帳面を開いた。

そこには昨夜の皿、出した相手、量、反応が書かれていた。

父、母、リディア、俺、料理長、厨房の若い料理人。

その横に、小さく「夜半、腹痛」とある。

 

胃が痛い。

腹も痛い。

ついでに心も痛い。

 

「雨が冷えましたし」

 

俺は最後の防衛線へ逃げた。

 

「それもございます」

 

ハロルドは言った。

 

助かったか。

 

「しかし、季節外れの雨は毎年あります」

 

助からなかった。

 

「白いソースは初めてでございます」

 

完全に包囲された。

 

俺は作業台の上を見た。

昨夜の白い陶器の器はない。

洗われ、湯に通され、棚からも外されている。

酢の小瓶、油壺、塩壺、卵籠。

全部が昨日より少し怖く見える。

 

「白いソースは」

 

ハロルドが言った。

 

「はい」

 

「何でございましたか」

 

聞かれているのは、名前ではない。

何をしたのか。

なぜ危なかったのか。

俺は分かっている。

生の卵。

油。

作ってから食べるまでの時間。

氷室と食堂の温度差。

今朝の卵だといっても、殻の外の汚れは完全には消えない。

器を湯で温めても、前世の台所で言う清潔とは違う。

手を洗っても、木の泡立てや布や作業台には、見えない何かが残る。

 

現代知識は、現代の道具と習慣と流通の上に立っている。

そこだけ切り取って持ってくると、白くておいしい危険源になる。

 

「白いソースは」

 

俺は言った。

 

ハロルドが待つ。

 

「白かったですね」

 

沈黙。

 

厨房の奥で、若い料理人が手を止めた。

ロウリーが背後で、わずかに息を吸った。

ハロルドの眉間のしわが、昨夜より一段深くなった。

 

「色の報告を求めているのではございません」

 

「はい」

 

「若様」

 

「はい」

 

「昨日の『大丈夫』は、何を根拠におっしゃいました?」

 

刺さった。

 

俺は答えられなかった。

氷室があるから。

少量だから。

今朝の卵だから。

酢と塩があるから。

全部、根拠ではある。だが今考えるとすべて楽観的だった。

 

「前に、見たことがあって」

 

俺は小さく言った。

 

ハロルドは目を細めた。

本で読んだ、とは言わなかった。

昨日の腹痛の後で、これ以上うすい嘘を重ねる勇気がない。

 

「その見たものは、昨日の卵で、昨日の器で、昨日の氷室でございましたか」

 

「違います」

 

「では、昨日の皿とは別物でございます」

 

その通りだった。

料理は名前で同じになるのではない。

条件が違えば、別物になる。

ガレットの時も、ベリーソースの時も、ハロルドはずっとそれをしていた。

俺は今回、美味しさに目を奪われて、その手順を軽くした。

 

「申し訳ありません」

 

俺は頭を下げた。

 

ハロルドは少しだけ目を伏せた。

 

「私もでございます。火を通さぬ卵に不安を持ちながら、味に負けました」

 

「料理長」

 

「はい」

 

「白いソースは、しばらく止めましょう」

 

「しばらくではございません」

 

ハロルドは帳面へ筆を置いた。

黒いインクで、ゆっくり書く。

 

白いソース。

火を通さぬ卵。

腹痛。

停止。

若様の大丈夫、信用せず。

 

「最後の一行」

 

「記録でございます」

 

ハロルドは帳面を閉じ、声をさらに低くした。

 

「若様。昨夜のこれは、私と若様の失敗でございます」

 

「はい」

 

「外へ出す話ではございません。けれど、帳面から消す話でもございません」

 

消したい。

とても消したい。

 

 

 

「分かりました」

 

俺は何も言えなかった。

言えない。

その一行は、腹痛より長く残る。

 

ロウリーが扉のそばから静かに言った。

 

「若様、料理長。旦那様は、皆が落ち着き次第、昨夜の件を確認なさるとのことです」

 

来た。

 

「公式には」

 

俺は思わず口にした。

 

ロウリーがこちらを見る。

ハロルドも見る。

 

「公式には、季節外れの腹冷え、では」

 

俺の声は小さかった。

 

ロウリーは、壁に手を置かない完璧な姿勢で言った。

 

「その件も、確認が必要でございます」

 

つまり、会議である。

白いソースの味よりずっと重い、白いソースの後始末が始まる。

 

厨房の火床では、薄い麦粥の鍋が静かに湯気を上げていた。

昨夜の皿ほど華やかではない。

香りも弱い。

だが、今のグレイヴェル館でいちばん必要な料理は、間違いなくそれだった。

 

俺は腹を押さえながら、鍋の湯気を見た。

 

白いソースは、おいしかった。

だからこそ、危なかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。