【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした 作:昼夜健康
白いソースが食堂で静かに勝利した夜、グレイヴェル館の窓には寒く細い雨が当たり続けていた。
寝室へ戻るころには、廊下の石床まで冷えを吸っている。
侍女クララが寝台に季節外れの陶器製湯たんぽを入れ、厚い掛け布を足してくれた。
まだ舌に残っている白いソースの酸味を思い出していた。
おいしかった。
とてもおいしかった。
そして夜はいろいろ物思いにふける時間帯で、
いろいろ心配性な面が頭に浮かんできた。
氷室には入れた。
卵は今朝のものを選んだ。
器は湯で温めて拭いた。
多くは作っていない。
酢と塩も入っている。
並べると、安心材料は多い。
だが、並べている時点で少し不安でもある。
どうも言い訳をしている気がする。
前世では、卵はきれいに洗われ、日付があり、店に並び、家へ帰ればすぐ冷やされる、それが当たり前だった。
今朝の卵は、前世の白く清潔な売り場から来た卵ではないかもしれない。
腹の奥が、きゅ、と鳴った。
俺は目を閉じた。
気のせいだ。
勝利の余韻が腹で鳴っているだけだ。
たぶん。
◇
夜半、俺は目を覚ました。
雨の音が近い。
寝室の中は暗く、その中で俺の腹がもう一度、
「ぐるるる....きゅう......」
と訴えた。
これは、勝利の余韻ではない。
俺は寝台の上で固まった。
痛い、というほどではない。
だが、明らかに腹の中に会議が開かれている。
議題はたぶん、「若様の判断は正しかったか、門を開けるべきか?」である。
出席者の表情は全員険しいし、
廊下で足音がした。
いつもの夜の足音ではない。
急いではいるが、急いでいないふりをしている足音だ。
グレイヴェル館の使用人は、奥ゆかしい足音で礼儀がある。
だが今夜の礼儀は、少しだけ壁にすがっていた。
「クララ」
俺は小さく呼んだ。
すぐに控えの部屋からクララが顔を出した。
燭台を持つ手が少し白い。
「アーサー様、お目覚めでございますか」
「廊下が、騒がしいです」
クララは一瞬だけ迷った。
そして、貴族家の侍女として正しい、しかし何も隠せていない顔をした。
「皆様、少し、お腹の具合が」
来た。
俺の背中に、冷たいものが流れた。
雨の冷えではない。
「父上も?」
「旦那様は、寝室でお休みでございます」
「母上は」
「奥様も、侍女がついております」
「リディアは」
クララは目を伏せた。
「先ほど、白いソースをお恨みのご様子で」
妹よ。
もうそこまで到達したのか。
俺は起き上がろうとして、腹が軽く抗議したので、ゆっくり動いた。
クララが慌てて近づく。
「若様、横に」
「大丈夫です」
「大丈夫ではない方ほど、そうおっしゃいます」
最近、家の者たちが俺の言葉を信用しなくなってきている。
なぜだろう。
いや、原因は今夜、白く皿の上で光っていた。
廊下へ出ると、空気は冷え、燭台の火が揺れていた。
遠くで水差しを運ぶ音がする。
侍女たちは声をひそめ、使用人たちは姿勢を保とうとしている。
しかし屋敷全体が、静かな腹痛に沈んでいた。
階段のそばに、ロウリーがいた。
背筋はまっすぐで、服装も乱れていない。
だが、片手だけが壁に置かれている。
「ロウリー」
「アーサー様。夜更けに廊下へお出ましになるのは、感心いたしません」
いつもの声だった。
ただし、いつもより半拍遅い。
「具合が悪いのですか」
「職務に支障はございません」
「父上は」
「旦那様は、季節外れの冷えが少し腹へ障ったものと思われます」
ロウリーは静かに言った。
すばらしい。
「今日は寒いですからね」
俺は言った。
ロウリーの目が、ほんの少しだけ俺を見た。
その目は、こう言っていた。
『若様、あなたは今、どの立場でそれをおっしゃっていますか』
俺は目をそらした。
父の寝室の方から、低いうなり声が聞こえた。
父エドマンドは温厚な人だ。
大声を出さない。
その父が、今夜は腹の中の小さな反乱に対して、貴族的な忍耐で敗北しているらしい。
別の廊下では、母セシリアが侍女に支えられていた。
髪はきちんと整えられている。
夜着の上に羽織ったショールも乱れていない。
だが、顔色は少し白い。
「アーサー」
「母上」
母は俺を見てまず俺の顔色を確かめた。
自分が苦しい時でも子を第一に考える。
その優しさが今の俺にはとても痛い。
「あなたは」
母にも見抜かれている。
「夕方から冷えましたし...」
俺は言った。
「ええ、冷えましたわね」
母は穏やかに答えた。
穏やかすぎる。
社交界に強い女主人は、たぶんこの場で真実を追及しない。
だが、忘れもしない。
奥の部屋から、リディアの小さな声がした。
「白いソース、きらい」
俺はその場で石になりかけた。
「お嬢様は、先ほどまでは、もう食べない、とも」
付き添いの侍女ネルが小声で言った。
俺の胸が締めつけられた。
リディアはおかわりした。
嬉しそうに笑っていた。
俺が止めなかった。
いや、父も母も食べた。
料理長も味を見た。
厨房の若い料理人も試した。
それでも、止める一番最初の機会は俺にあった。
たぶん大丈夫。
あの言葉が、腹の痛みより重かった。
◇
明け方近く、厨房前の廊下には、濃い茶と温めた湯の匂いが漂っていた。
腹に障る者へ薄い麦粥を用意するため、厨房は早くから動いている。
だが、いつもの活気はない。
俺はロウリーに止められながらも、厨房の扉の前まで来た。
正式には、見舞いのための確認である。
非公式には、犯人が現場へ戻ってきた。
ハロルドは作業台の横に立っていた。
白い前掛けはきれいだが、顔色は悪い。
寝ていない顔だ。
「若様」
「料理長」
ハロルドは深く頭を下げた。
「申し訳ございません」
違う。
その言葉は、俺が先に言うべきだった。
「料理長のせいでは」
「食堂へ出すと決めたのは私でございます」
ハロルドの声は硬い。
料理長は、自分の城で出したものに責任を持つ。
だからこそ、俺の逃げ道がひどく狭くなる。
「白いソースが原因とは、まだ」
俺は言いかけた。
ハロルドがゆっくり顔を上げた。
「若様」
「はい」
「昨日、白いソースを多めに召し上がった方ほど、腹に障っております」
やめて。
ハロルドは帳面を開いた。
そこには昨夜の皿、出した相手、量、反応が書かれていた。
父、母、リディア、俺、料理長、厨房の若い料理人。
その横に、小さく「夜半、腹痛」とある。
胃が痛い。
腹も痛い。
ついでに心も痛い。
「雨が冷えましたし」
俺は最後の防衛線へ逃げた。
「それもございます」
ハロルドは言った。
助かったか。
「しかし、季節外れの雨は毎年あります」
助からなかった。
「白いソースは初めてでございます」
完全に包囲された。
俺は作業台の上を見た。
昨夜の白い陶器の器はない。
洗われ、湯に通され、棚からも外されている。
酢の小瓶、油壺、塩壺、卵籠。
全部が昨日より少し怖く見える。
「白いソースは」
ハロルドが言った。
「はい」
「何でございましたか」
聞かれているのは、名前ではない。
何をしたのか。
なぜ危なかったのか。
俺は分かっている。
生の卵。
油。
作ってから食べるまでの時間。
氷室と食堂の温度差。
今朝の卵だといっても、殻の外の汚れは完全には消えない。
器を湯で温めても、前世の台所で言う清潔とは違う。
手を洗っても、木の泡立てや布や作業台には、見えない何かが残る。
現代知識は、現代の道具と習慣と流通の上に立っている。
そこだけ切り取って持ってくると、白くておいしい危険源になる。
「白いソースは」
俺は言った。
ハロルドが待つ。
「白かったですね」
沈黙。
厨房の奥で、若い料理人が手を止めた。
ロウリーが背後で、わずかに息を吸った。
ハロルドの眉間のしわが、昨夜より一段深くなった。
「色の報告を求めているのではございません」
「はい」
「若様」
「はい」
「昨日の『大丈夫』は、何を根拠におっしゃいました?」
刺さった。
俺は答えられなかった。
氷室があるから。
少量だから。
今朝の卵だから。
酢と塩があるから。
全部、根拠ではある。だが今考えるとすべて楽観的だった。
「前に、見たことがあって」
俺は小さく言った。
ハロルドは目を細めた。
本で読んだ、とは言わなかった。
昨日の腹痛の後で、これ以上うすい嘘を重ねる勇気がない。
「その見たものは、昨日の卵で、昨日の器で、昨日の氷室でございましたか」
「違います」
「では、昨日の皿とは別物でございます」
その通りだった。
料理は名前で同じになるのではない。
条件が違えば、別物になる。
ガレットの時も、ベリーソースの時も、ハロルドはずっとそれをしていた。
俺は今回、美味しさに目を奪われて、その手順を軽くした。
「申し訳ありません」
俺は頭を下げた。
ハロルドは少しだけ目を伏せた。
「私もでございます。火を通さぬ卵に不安を持ちながら、味に負けました」
「料理長」
「はい」
「白いソースは、しばらく止めましょう」
「しばらくではございません」
ハロルドは帳面へ筆を置いた。
黒いインクで、ゆっくり書く。
白いソース。
火を通さぬ卵。
腹痛。
停止。
若様の大丈夫、信用せず。
「最後の一行」
「記録でございます」
ハロルドは帳面を閉じ、声をさらに低くした。
「若様。昨夜のこれは、私と若様の失敗でございます」
「はい」
「外へ出す話ではございません。けれど、帳面から消す話でもございません」
消したい。
とても消したい。
「分かりました」
俺は何も言えなかった。
言えない。
その一行は、腹痛より長く残る。
ロウリーが扉のそばから静かに言った。
「若様、料理長。旦那様は、皆が落ち着き次第、昨夜の件を確認なさるとのことです」
来た。
「公式には」
俺は思わず口にした。
ロウリーがこちらを見る。
ハロルドも見る。
「公式には、季節外れの腹冷え、では」
俺の声は小さかった。
ロウリーは、壁に手を置かない完璧な姿勢で言った。
「その件も、確認が必要でございます」
つまり、会議である。
白いソースの味よりずっと重い、白いソースの後始末が始まる。
厨房の火床では、薄い麦粥の鍋が静かに湯気を上げていた。
昨夜の皿ほど華やかではない。
香りも弱い。
だが、今のグレイヴェル館でいちばん必要な料理は、間違いなくそれだった。
俺は腹を押さえながら、鍋の湯気を見た。
白いソースは、おいしかった。
だからこそ、危なかった。