【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした   作:昼夜健康

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第14話 白いソース隠蔽会議

薄い麦粥の匂いが屋敷からようやく薄れたころ、グレイヴェル館の奥の小さな帳簿部屋には、まだ雨上がりの湿り気が残っていた。

窓の外では庭師が濡れた砂利をならし、廊下では侍女たちが湯を運ぶ音をいつもより慎重に立てている。

胃腸を壊している最中は音が騒がしく、治ってすぐは気遣って静かになる。

 

俺の前には、薄い茶が置かれている。

香りは悪くない。

だが、添えられた菓子はない。

皿の上には乾かした小さなパンが二切れだけ。

この館の食卓改善運動は、いったん中断期だ。

 

部屋には父エドマンド、母セシリア、執事ロウリー、ハロルド料理長、そして俺がいた。

会議である。

腹の具合を確認するための、由緒正しい貴族家の会議。

議題は、誰もはっきり言わない。

言わなくても、全員が知っている。

 

白いソース(マヨネーズ)である。

 

「昨夜から今朝にかけての不調者は、もう落ち着いたと聞いている」

 

父が静かに言った。

顔色はまだ少し悪い。

それでも背筋は伸び、声には伯爵家当主の重みがある。

腹に敗北しても家長は家長だ。

俺なら一日ぐらい布団王国の国王になりたい。

 

「はい。旦那様。重い症状の者はございません。皆、湯と麦粥で落ち着いております」

 

ロウリーが答えた。

この執事も昨夜は壁と友好条約を結んでいたはずなのに、いまは何事もなかったように立っている。

 

「原因は」

 

父が言いかけ、そこで少しだけ言葉を止めた。

 

部屋の沈黙が痛い。

 

母が扇を閉じた。

その音が小さく響いた。

 

「外向きには、季節外れの冷えと雨でよろしいでしょう」

 

母の声は穏やかだった。

ルディオンの社交場でも使えそうな柔らかさの布で真意を覆っている。

 

「昨日の雨は本当に冷えましたもの。廊下も石床もよく冷えていましたわ」

 

助かった。

俺は心の中で、そっと胸をなで下ろした。

 

「ただし」

 

母は俺を見た。

 

助かっていなかった。

 

「屋敷の中で起きたことまで、雨のせいにして忘れてよいわけではありません」

 

「はい」

 

俺の返事は短い。

それに今回は、長く話せば話すほどぼろが出る気がする。

平謝り一択だ。

 

父はロウリーへ視線を移した。

 

「屋敷の管理日誌にはどう記す」

 

ロウリーは脇に置いた黒い帳面を開いた。

紙にはまだ何も書かれていない。

空白なのに、すでに俺を責めているように見える。

 

「表向きの屋敷日誌には、『季節外れの雨と冷えにより、家中数名が腹を冷やす。湯、麦粥、休息にて回復』と記します」

 

美しい。

実に美しい文章だ。

誰も傷つかず、どの皿も名指しされず、雨だけが少し悪者になる。

雨なら毎年降るし、雨は反論してこないし、有罪になっても問題ない。

 

「料理名は」

 

父が聞いた。

 

「記しません」

 

ロウリーは即答した。

 

「使用人への説明は」

 

「屋敷内では、冷えによる腹の不調といたします。食堂で供した新しい皿については、料理長の試作管理に戻す、とだけ」

 

ハロルドの眉がわずかに動いた。

料理長の試作管理。

外向きにはそれで収まる。

ベリーのソースも、じゃがいものガレットも、外ではハロルドの腕として扱われている。

今回だけ俺の失敗として派手に掲げるわけにはいかない。

 

『若様が厨房で白い何かを作らせて屋敷中の腹を鳴らした』などという話は、家名に泥を塗るどころではないらしい。

 

俺はもう一度、心の中で胸をなで下ろした。

助かった。

 

そのとき、ハロルド料理長の視線が刺さった。

 

助かっていない。

 

「厨房帳面は」

 

父が言った。

 

ハロルドは、布で包んで持ってきた厚い帳面を作業台ならぬ小机の上に置いた。

帳面の角には油染みがあり、紙の端には火の近くに置いたらしい乾いた反りがある。

料理の成功も失敗も、そこではきれいな言葉にならない。

量、火加減、皿、客の反応、失敗。

全部が、台所の匂いを持ったまま残る。

 

「厨房帳面には、事実を残します」

 

ハロルドは言った。

 

「どの程度だ」

 

父の声は静かだった。

責める調子ではない。

だが、見ている。

伯爵家の食卓を預ける料理長が、失敗をどう扱うかを。

 

ハロルドは帳面を開いた。

昨日の一行が見えた。

 

白いソース。

火を通さぬ卵。

腹痛。

停止。

若様の大丈夫、信用せず。

 

胃がきゅっとした。

腹ではない。

 

「そこに追記いたします」

 

ハロルドは黒いインクを筆先に含ませた。

俺は嫌な予感がした。

料理長の筆は、包丁よりゆっくり動くのに、切れ味がある。

 

白いソース、危険。

若様、要監視。

 

「料理長」

 

俺は思わず声を出した。

 

「はい、若様」

 

「最後のところは、少し」

 

「足りませんか」

 

ハロルドは真顔だった。

ロウリーも真顔だった。

父は口元だけを少し押さえ、母は扇で唇を隠している。

笑ってはいない。

笑ってはいないが、全員、笑ってはいけない顔をしている。

 

「若様、要監視は必要でございます」

 

ハロルドは言った。

 

「俺は危険物ですか」

 

「危険なものへ近づく性質をお持ちでございます」

 

返す言葉がない。

 

「外の日誌には記しません」

 

ロウリーが静かに補った。

 

「けれど厨房の者が次に白いものを見たとき、昨日の腹痛を思い出せるようにします」

 

白いもの、という言い方がすでにひどい。

このままでは牛乳粥まで疑われそうだ。

 

「あの」

 

俺は小さく言った。

 

「厨房帳面から、削ることは」

 

ハロルドの目が細くなった。

 

「削る?」

 

「少しだけ」

 

「焦げなら削ります」

 

「記録を」

 

「削りません」

 

早い。

 

父が俺を見る。

 

「アーサー」

 

「はい」

 

「外に出さぬことと、なかったことにすることは違う」

 

その言葉で、部屋の空気が少し変わった。

父の声は怒っていない。

だから余計に逃げ道がない。

 

「家の評判を守るため、言い方を整えることはある。だが、家の中で同じ失敗を繰り返すなら、それは評判より悪い」

 

「はい」

 

「今回は大事に至らなかった。だが、食べ物は人を喜ばせもするし、倒しもする」

 

食べ物が倒す。

昨日の白い皿を思い出す。

白身魚に少しのせ、根菜に絡め、薄いパンでぬぐったあの味。

酸味と油のまろやかさが舌に広がり、リディアがおかわりを求めた。

あの瞬間、俺は止めなかった。

 

うまいものは危ない。

まずいものなら、みんなすぐ箸を置く。

この世界に箸はないが、気持ちとしては箸を置く。

おいしいものは、止める理由が少し遅れて来る。

 

「アーサー様」

 

ロウリーが言った。

 

「屋敷日誌は、外へ示す背筋でございます。厨房帳面は、内で同じ過ちを防ぐための骨でございます。どちらも曲げすぎれば、家は立ちません」

 

言い方がきれいだ。

 

「分かりました」

 

俺は言った。

本当はまだ、あの一行を消したい。

若様、要監視。

後世の厨房の若い料理人に読まれるかもしれない。

ひどい。

けれど、消したら次の誰かがまた白い皿に負ける。

 

記録は、俺を罰するためだけにあるのではない。

次の腹痛を減らすためにある。

そう思うしかない。

いや、そう思うべきなのだろう。

 

 

会議が終わるころ、ハロルドが厨房へ戻るというので、俺も廊下へ出た。

ロウリーが当然のようについてくる。

監視がもう始まっている。

実務が早い。

 

廊下の窓から差す光は薄く、雨上がりの庭は銀色に濡れていた。

使用人たちの動きはまだ少しゆっくりだが、昨日のような重さはない。

湯を入れた銅の壺が運ばれ、洗い場から布を絞る音がする。

屋敷が、腹痛から仕事へ戻ろうとしていた。

 

曲がり角で、リディアに会った。

侍女ネルがそばにいる。

リディアは小さな両手で、乾かしたパンを持っていた。

お粥に飽きた顔である。

回復の証拠として、たいへん分かりやすい。

 

「お兄様」

 

「リディア」

 

妹は俺を見上げた。

いつもの無邪気さはある。

ただ、昨日の夜を越えた者の真剣さも少しだけあった。

胃腸は人を大人にする。

あまり早く大人にならなくていい。

 

「白いのは、もう作らないで」

 

直球だった。

ロウリーの公式文書より短く、ハロルドの帳面より鋭い。

 

「うん」

 

俺はうなずいた。

 

「しばらく?」

 

リディアが聞く。

 

ハロルドが背後で静かに立っている。

視線が痛い。

 

「もうずーっと作らない」

 

俺は言い直した。

 

「ほんとう?」

 

「ほんとう」

 

「でも、白いの、おいしかった」

 

リディアは小さく眉を寄せた。

そこが問題なのだ。

おいしかったから困る。

嫌いで済めば楽だった。

おいしくて、腹が痛くて、もう食べたくなくて、でも少し覚えている。

人間は面倒くさい。

俺の妹も、たいへん正しく人間だった。

 

「おいしいものでも、だめなことがあります」

 

俺が言うと、リディアは首を傾げた。

前世にもおむつ前提で食べる魚があった。

ただ、それは淑女にはふさわしくないと兄は思う。

 

「お兄様も?」

 

「俺も」

 

「じゃあ、だめ」

 

「はい」

 

兄の威厳は、乾かしたパン一切れより軽い。

 

リディアは少し満足したのか、パンをかじった。

かり、と乾いた音がした。

焦げ目の香ばしさが廊下に小さく広がる。

白いソースの濃い匂いではない。

麦と火だけの匂いだ。

今は、それがとてもありがたい。

 

「パンは、すき」

 

「それはよかった」

 

「でも、お粥はもういい」

 

ネルが困った顔をした。

俺は少し笑いそうになった。

屋敷が戻ってきている。

白い皿に沈黙した家が、乾いたパンと小さな不満で戻ってきている。

 

「料理長に、腹にやさしいけれど、お粥ではないものを相談してみます」

 

俺が言うと、ハロルドがすぐに口を開いた。

 

「若様」

 

「はい」

 

「相談は、私が受けます。実行は、私が決めます」

 

「分かっています」

 

「その返事も、帳面に残したいほどでございます」

 

ひどい。

だが、リディアがくすっと笑ったので、少しだけ許す。

 

 

厨房へ入ると、昨日よりも湯の匂いが強かった。

大鍋では澄んだ鶏の汁が弱く温められ、骨と香味野菜のやわらかい香りが立っている。

脂は丁寧にすくわれて、表面は静かな金色だった。

白いソースのような華やかさはない。

だが、腹が疲れた屋敷には、この澄んだ湯気の方がずっと頼もしい。

 

作業台には、薄く切ったパンが並べられていた。

火のそばで乾かし、軽く焦げ目をつけてある。

そこに塩をほんの少し振る。

それだけで、麦の香りが立つ。

昨日の俺なら物足りないと思ったかもしれない。

今日の俺は、これを発明した人に爵位をあげたい。

 

「昼には、鶏の澄まし汁と焼いたパン、よく火を通した根菜を出します」

 

ハロルドが言った。

 

「いいと思います」

 

俺は素直に言った。

 

「白いものは?」

 

「言い出しません」

 

「卵は?」

 

「しっかり火を通します」

 

「若様は?」

 

「余計なことを言いません」

 

ロウリーが小さく咳払いをした。

笑ったわけではない。

たぶん。

 

ハロルドは帳面を開き、今日の昼の献立を書き込んだ。

鶏の澄まし汁。

焼きパン。

根菜。

腹冷え後。

脂控えめ。

 

その下に、例の白い一件がある。

黒い文字は消えていない。

消えない。

 

俺は作業台の上を見た。

洗われた木の泡立て。

湯をくぐった器。

窓際の卵籠。

火の近くで乾かされている布巾。

魚を扱ったらしい板。

茹でた根菜を置く別の皿。

 

昨日までは、全部ただの厨房の道具に見えていた。

今日は少し違って見える。

どれが生のものに触れ、どれが火を通したものに触れ、どれが湯で洗われ、どれが濡れたまま置かれているのか。

見えないものは見えない。

だから、見える線を引かないといけない。

 

俺は前世の清潔な売り場を思い出しかけて、そこで止めた。

あれをそのまま持ってきても仕方がない。

ここにはここの水があり、火があり、布があり、人の手がある。

ハロルドの厨房でできる形にしなければ、また再発する。

 

「料理長」

 

「はい」

 

「布巾は、湯で洗うだけですか」

 

ハロルドの手が止まった。

ロウリーの視線も止まった。

監視対象がまた動いた、という顔だ。

 

「湯で洗い、干します」

 

「煮ることは」

 

「布を、でございますか」

 

「はい」

 

ハロルドは、俺ではなくロウリーを見た。

ロウリーは俺を見た。

俺は作業台の上の布巾を見た。

三者の視線が三角形を作る。

昨日の白いソースより、ずっと地味な三角形である。

 

「若様」

 

ロウリーが言った。

 

「本日は、昨夜の件を収める会議でございます」

 

「はい」

 

「新しい件を始める会議ではございません」

 

「はい」

 

「では」

 

「でも、昨夜の件を収めるなら、次に同じことをしない話も必要です」

 

ハロルドはしばらく黙った。

それから、帳面の余白を指で押さえた。

 

「布巾を煮る。生のものと火を通したものを分ける。卵の置き場を作る。水場を見る」

 

料理長は、俺の言葉を料理の言葉へ戻すように、ひとつずつ並べた。

 

「そういう相談でございますか」

 

「はい」

 

「白いものをごまかすためでは」

 

「ごまかしたい気持ちはあります」

 

ハロルドの眉が上がる。

 

「でも、それだけではありません」

 

俺は言った。

 

「白いソースは、作りません。けれど、白いソースで分かったことは、使いたいです」

 

帳面からは消えない。

なら、せめて腹痛だけで終わらせたくない。

俺の恥が紙に残るなら、次に腹を押さえる人の数を減らすくらいは働いてもらいたい。

 

ハロルドはゆっくり息を吐いた。

 

「若様は、料理ではなく厨房を煮るおつもりですか」

 

「煮るのは布です」

 

「十分妙でございます」

 

ロウリーが静かに言った。

 

「若様、次の相談は、旦那様への報告後、料理長の管理下で、範囲を決めて行います」

 

「はい」

 

「勝手に布を鍋へ入れないように」

 

「入れません」

 

ハロルドが帳面に新しい行を書いた。

 

布巾を煮る相談。

生もの、加熱済み、分離検討。

若様、引き続き要監視。

 

「料理長」

 

「記録でございます」

 

鶏の澄まし汁が、鍋の中で小さく揺れた。

白くも派手でもない湯気が、厨房の梁へ上っていく。

腹を満たすだけの料理ではない。

食べた後に、ちゃんと明日の朝を迎えられる料理。

 

たぶん、次に考えるべきはそれだった。

 

まずは、布巾を煮るところから。

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