【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした   作:昼夜健康

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第15話 反省の煮沸

火床のそばでは大鍋が低く鳴っている。ただし、その大鍋の中身は肉でも根菜でもない。

 

布巾である。

 

白い布が湯の中でぐらぐら揺れ、まるで罪人が反省しているように沈んだり浮かんだりしていた。

俺もできれば一緒に煮られて、昨日までの軽率さだけ抜いてもらいたい。

 

「若様」

 

ハロルド料理長が、いつもより低い声で言った。

顔は真面目だ。

真面目すぎる。

 

「料理ではないものを、厨房の大鍋で煮ております」

 

「専用の鍋を用意してもらえれば、今後はそれで」

 

ハロルドの眉が動いた。

ロウリーの視線も横から刺さる。

監視役が二人いる厨房は、もはや俺にとって城ではなく裁判所である。

 

「今後、でございますか」

 

ロウリーが静かに言った。

 

「若様。本日は、昨日の件の後始末でございます。新しい制度を屋敷へ広げる日ではございません」

 

「はい」

 

「では、今後とは」

 

「後始末を、次の後始末が要らない形にする、という意味です」

 

ハロルドは煮立つ布巾を見つめた。

その横で若い料理人が、少し離れた棚から予備の布を抱えている。

顔には、面倒くさい、という文字が見える。

ただし声には出さない。

昨日の腹痛は、まだ屋敷の全員の腹に記憶として残っている。

 

「布を煮るだけで、腹痛が減るのでございますか」

 

若い料理人が小さく聞いた。

責めているのではない。

本当に、手間に見合うのか分からないのだ。

 

「それだけでは、たぶん減りません」

 

俺は言った。

 

若い料理人の顔が、ではなぜ、という形になる。

うん。分かる。

俺もそう思う。

 

「でも、魚を拭いた布と、焼いたパンを置く台を拭く布が同じだと困ります。湯で洗っても、湿ったまま置くと、また別の困りごとが残るかもしれません」

 

「困りごと」

 

ハロルドが繰り返した。

 

「腹を壊す種、とでも言えばいいでしょうか。見えないので、俺も偉そうには言えません」

 

魚を扱う場所。

火を通した料理を置く場所。

洗った布を干す場所。

まだ洗っていない布を置く場所。

生の卵を置く籠。

火を通して使う分の卵。

 

全部を完璧に清潔にする、などと叫んだところで、この厨房では続かない。

湯を運ぶ人がいて、薪を割る人がいて、皿を洗う人がいて、料理を出す時間がある。

守れないルールを作ることは最悪に近いのだ。

みんなルールを守らなくなる、本当に大事なルールが軽くみられる、正直ものがバカを見る等々...

うっ頭が...

 

「若様は、料理ではなく厨房を支配する気ですか」

 

ハロルドがゆっくり言った。

 

「支配できるほど偉くありません」

 

俺は即答した。

 

ハロルドとロウリーが、ほぼ同時に俺を見た。

 

「では、何をなさるおつもりで」

 

「厨房で食べたものが、食堂を出たあとも人を困らせないようにしたいだけです」

 

俺は作業台の上の焼きパンを見た。

火のそばで乾かされ、表面だけ軽く焦げ、麦の香ばしさが立っている。

薄い鶏の澄まし汁には、脂の輪がほとんどない。

根菜は柔らかく、湯気の中に甘い土の匂いがある。

派手ではない。

けれど、昨日の腹を越えた屋敷には、この皿こそがご馳走だった。

 

「食べた翌朝までが料理です」

 

ハロルドの顔が、少しだけ歪んだ。

 

「名言のようで嫌です」

 

「俺も言っていて少し嫌です」

 

ロウリーが短く咳払いをした。

この屋敷では、執事の咳払いはときどき笑いの代替品になる。

 

ハロルドはしばらく黙ってから、帳面を開いた。

白いソースの一行から少し下に、新しい欄を作る。

 

布巾、煮る。

魚、肉、生卵に触れた布は、食堂用の布と分ける。

洗った布は湯気の近くに置かず、風の通る紐へ。

若様、理由を長く話す。要整理。

 

最後の一行はいらない。

だが、もう口を挟まない。

記録は消えない。

なら、俺も消えない記録に少しずつ慣れるしかない。

 

 

最初に決まったのは、布巾に縫い付ける干すための紐だった。

 

侍女たちと厨房の者を集め、古い色紐を三種類用意してもらった。

赤い紐の布は生の魚や肉を扱った台へ。

青い紐の布は洗い場と水桶へ。

白い紐の布は皿と食堂へ出るものの近くへ。

 

「白い紐が、いちばんきれいな布です」

 

俺が言うと、若い料理人が気まずそうに鍋を見た。

 

「白い、でございますか」

 

「色の選択を間違えました」

 

白いものへの信頼が、この館では無いらしい。

なぜかは知らない。

 

ロウリーは即座に白い紐を緑へ替えさせた。

判断が早い。

執事はこうして家を守る。

 

次に、作業台の上に小さな木札が置かれた。

生。

火通し済み。

食堂へ。

洗い待ち。

 

字はハロルドが書いた。

 

卵の置き場は、さらに慎重に決まった。

窓際の籠に入っていた卵は、ハロルドによって二つに分けられた。

朝に集めたもの。

前日以前のもの。

殻にひびがあるものは、別の小鉢へ。

 

「ひびのある卵は」

 

俺が言いかけると、ハロルドが先に答えた。

 

「料理には使いません」

 

「捨てますか」

 

「犬にもやりません。火を通しても、気持ちが悪い」

 

それは衛生の言葉ではなく、料理人の感覚だった。

だが、たぶん正しい。

数字や理屈の前に、現場の嫌な予感が危険を遠ざけることはある。

俺の「たぶん大丈夫」より、ハロルドの「気持ちが悪い」の方が、昨日はずっと役に立ったはずだ。

 

「生の卵を、そのままソースに」

 

若い料理人が途中で言葉を止めた。

全員が俺を見る。

 

「しません」

 

俺は言った。

 

「若様が」

 

「しません」

 

「料理長が」

 

「しません」

 

ハロルドの返事は俺より低かった。

 

水場の確認は、もっと地味だった。

 

厨房奥の石の流しには、井戸から運ばれた水が大きな桶に入っている。

桶の縁には手の跡が残り、床石の目地には濡れた粉や野菜くずが入り込んでいた。

侍女も下働きも毎日洗っている。

怠けているわけではない。

ただ、毎日使う場所は、毎日汚れる。

 

俺が石の目地を見つめていると、洗い場の女中が唇を結んだ。

責められていると思ったのだろう。

 

「若様、洗い場は朝と晩に磨いております」

 

「分かっています」

 

俺は慌てて言った。

 

「昨日、腹を痛めたのは洗い場のせいだと言いたいわけではありません」

 

本当にそうだ。

誰かを悪者にするのは簡単だが、それでは次の腹痛を減らせない。

昨日の原因を一人に押しつけるなら、まず俺を鍋に入れるべきである。

それは困る。

 

「ただ、水桶の柄杓を置く場所と、汚れた皿を置く場所が近いです」

 

ハロルドが流しを見た。

ロウリーも見た。

洗い場の女中も、自分の手元を見る。

 

「ここへ小さな台を置きます」

 

ハロルドが言った。

 

「柄杓は掛ける。桶のふちへ寝かせない。野菜くずは水へ落とさず、最初から籠へ」

 

「それならできます」

 

女中が小さく言った。

その声には、少しだけ安心があった。

叱られるのではなく、やり方が変わるだけだと分かったらしい。

 

ロウリーはすぐに下働きの一人へ、古い小台と釘を持ってくるよう命じた。

命じ方が静かなのに、動き出す人間は早い。

屋敷の実務は、声の大きさではなく、誰がどこまで決めてよいかで動く。

 

「若様」

 

ハロルドが言った。

 

「これは、毎回すべてを若様がご覧になる話ではございません」

 

「分かっています」

 

「本当に」

 

「分かっています」

 

ハロルドは帳面へ書いた。

 

厨房衛生見直し。

料理長管理。

執事確認。

若様、口を出す前に相談。

 

「最後の」

 

「記録でございます」

 

最近、それで全部押し通される。

 

 

昼食は、鶏の澄まし汁と焼いたパン、火を通した根菜だった。

 

汁は透明に近く、器の底に刻んだ香草が少し沈んでいる。

焦げ目をつけたパンを浸すと、表面の香ばしさが汁を吸って、柔らかくほどけた。

根菜はよく煮られ、噛むと甘い。

塩は控えめで、胡椒も少ない。

それなのに物足りなくないのは、ハロルドが脂をすくいすぎず、香りだけ残したからだと思う。

 

派手なソースではない。

舌が飛び上がる皿でもない。

だが、食べ終えたあとに腹が静かである。

今のグレイヴェル館では、それがなによりの贅沢だった。

 

リディアはパンを汁に浸しすぎて、少し崩した。

ネルが布を出そうとして、一瞬だけ色紐を見た。

緑の紐。

食堂用。

 

小さな動作だった。

たぶん、誰も気づかない。

俺だけが気づいた。

 

「お兄様」

 

リディアが言った。

 

「このスープは白くない」

 

「白くないね」

 

「おいしい」

 

「それはよかった」

 

「でも、白くない」

 

妹の中で、白さに対する審査が始まっている。

牛乳粥にはたいへん不利な時代が来た。

 

母セシリアは静かに汁を口へ運び、目元を少し和らげた。

父エドマンドは、焼いたパンを見てからハロルドへうなずいた。

料理長は食堂の隅で控えめに頭を下げる。

 

俺は、腹の中が静かなことに気づいた。

昨日の白いソースは美味しかった。

今日の澄まし汁は、安心まで含めて美味しかった。

 

食べた翌朝までが料理。

名言のようで嫌だ。

だが、少し本当だ。

 

 

◇◇◇

 

 

数週間たつと、厨房の新しい手順は、思ったよりも地味に屋敷へなじんだ。

 

最初の数日は、布巾を煮る鍋の湯気で洗い場がさらに暑くなり、下働きたちが顔をしかめた。

色紐を間違えた布が戻され、作業台の札が邪魔だと小声で文句も出た。

ハロルドはそのたびに、紐の位置を変え煮る時刻を食事の支度と重ならないようずらした。

ロウリーは、屋敷全体の洗い布まで一気に変えようとはしなかった。

厨房、食堂、洗い場。

まずはそこだけ。

 

俺は、ときどき見に行っては口を開きかけ、ロウリーに止められた。

監視が実務として定着している。

 

卵の籠も変わった。

朝の卵は小さな札つきで置かれ、古いものは火を通す料理へ回るか、使われない。

ひびのある卵は容赦なく外される。

生のものに触れた板は、火を通した料理の皿から離された。

柄杓は桶の縁に寝かされず、壁の釘へ掛かるようになった。

水場の目地には、野菜くずが溜まりにくくなった。

 

どれも、世界を変える大発明ではない。

鍋で布を煮る。

紐を結ぶ。

札を置く。

水場に小台を置く。

古い卵を避ける。

 

しかし屋敷の腹は、少し静かになった。

 

ロウリーの屋敷日誌には、使用人の休みが淡々と記されている。

腹の不調。

発熱。

手の切り傷。

疲労。

家一つを動かすには、人間の具合まで帳面になる。

 

ある午後、父がその日誌を見て首を傾げた。

窓の外では庭師が乾いた砂利をならし、部屋には薄い茶の香りがある。

俺は古典ヴァル語の稽古から逃げてきたわけではない。

たまたま、帳簿を読む勉強の時間だった。

たまたまである。

 

「ロウリー」

 

父が言った。

 

「このところ、厨房と食堂の休みが少ないな」

 

ロウリーは脇に控え、いつものように静かに答えた。

 

「はい。旦那様。軽い腹の不調で休む者は、以前より減っております」

 

父は俺を見た。

俺は茶を見た。

茶は何も助けてくれない。

 

「アーサー」

 

「はい」

 

「あの布巾の件か」

 

「料理長とロウリーが、厨房で続く形にしてくれました」

 

これは本当だ。

俺が考えたのは、かなり雑な線だった。

ハロルドが料理の邪魔にならない線へ直し、ロウリーが屋敷の仕事として崩れないようにした。

俺一人の手柄にすると、次にまた白い何かが俺を待っている気がする。

 

父は日誌の数字を見つめた。

軽い腹痛が少ない。

病欠が少ない。

人が休まない。

それはつまり、余分な手当や代わりの人手や遅れが少ないということでもある。

 

「料理の評判だけではないのだな」

 

父が言った。

 

「はい」

 

俺はうなずいた。

 

「食べ物は、食卓だけで終わりません。水場、保存、布、手順、記録まで含めて、たぶん屋敷を動かしています」

 

「また大きなことを言う」

 

父の声は呆れていたが、怒ってはいなかった。

 

「大きくしすぎないようにします」

 

「それを覚えているならよい」

 

父は日誌を閉じ、しばらく考えた。

それから、机の端に置かれた領地からの報告束へ手を伸ばした。

紙には、雨、道、倉庫、家畜小屋、井戸、村の病人の数が雑多に並んでいる。

厨房の布巾より、ずっと広く、ずっと泥くさい世界だ。

 

「屋敷で減るなら、領地でも何か見えるかもしれん」

 

父は独り言のように言った。

 

俺の腹が、少しだけ鳴った。

空腹ではない。

たぶん、次の仕事の音だ。

 

「ただし」

 

父が俺を見る。

 

「帳簿だけで決めるな。領地には領地の者がいる。ベネットに話を聞く」

 

ベネット。

父の代から領地を見ている土地差配人の名だ。

畑と農民と倉庫を、実際に知っている人間。

 

俺はうなずいた。

 

厨房では、布巾を煮るところから始まった。

領地では、何を煮ればいいのだろう。

 




1部の食卓編は以上です
2部から領地編ですが、夜に閑話の投稿を挟んで、
明日から2部の更新予定です

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