【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした   作:昼夜健康

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第16話 土地差配人ベネット

グレイヴェル館の帳簿部屋には、午後の薄い光と乾いた紙の匂いが残っていた。

机の上には屋敷日誌が閉じられ、その隣に領地から届いた報告束が置かれている。

父はその束を指先で軽く押さえた。

 

「領地には領地の者がいる。ベネットに話を聞け」

 

そう言われた直後、ロウリーが静かに部屋を出た。

代わりに遠くの廊下から、少し重い靴音が近づいてきた。

 

扉が開くと、ベネットが入ってきた。

上着はきちんとしているが、裾には乾いた土がほんの少しついている。

帽子を胸に当てて頭を下げる動作は礼儀正しい。

ただし顔は、笑っていない。

 

「ベネットです。旦那様、若様」

 

祖父の代から領地を見ている土地差配人。

畑、農民、倉庫、道、井戸を帳面だけでなく目で知っている人間。

 

「アーサーが、領地のことを少し知りたいと言っている」

 

父が言った。

少し、である。

 

「屋敷の厨房で、軽い腹の不調が減りました」

 

俺はできるだけ落ち着いて言った。

 

「布巾や水場、卵の置き場を見直しただけです。だから領地でも、何か小さな不便や無駄が見えるかもしれないと思いました」

 

ベネットは俺を見た。

目を細めた。

若様の思いつきで明日の仕事が増えるかもしれない人間の目である。

お偉いさまの思い付きに付き合わされる現場の人の目と同じだ。

 

「若様」

 

ベネットは低く言った。

 

「畑は帳簿の上ではなく、雨と土の上にございます」

「村の者には村の暮らしがあり、こちらが言えば明日から全員が同じことをする、というものではございません」

 

父は口を挟まなかった。

ロウリーも黙っている。

どうやらこれは、俺が実地まで行く覚悟があるのか問われているらしい。

 

「では、見せてください」

 

俺は言った。

 

「帳簿で分からないところを、私が勝手に分かった気にならないように」

 

ベネットの眉が、ほんの少し動いた。

父も俺を見た。

たぶん、思ったよりまともな返事だったのだろう。

 

「案内いたします」

 

ベネットは言った。

 

「ただし、若様がお気に召すものばかりではございません」

 

「俺の靴もお気に召さない状態になるでしょうか」

 

「なります」

 

即答だった。

 

 

翌朝、館の裏手から出た小さな馬車は、石畳が終わるとすぐ揺れ始めた。

遠くでは駅へ向かう汽笛が薄く響いている。

だが、グレイヴェル領の畑の上では、人と馬と牛が今日も真面目に土を相手にしていた。

 

文明は、蒸気機関ができて加速度的に発展していくのだろうが、

まだ畑の上では、中世と変わらない農作業が行われていた。

 

「こちらが村の畑です」

 

ベネットが馬車を降りる。

俺も続いた。

一歩目で靴底が湿った土に沈み、軽く音を立てた。

 

畑は帳簿で見るより広かった。

帳簿には小麦何kg、雨、収穫減、と並ぶだけだ。

けれど目の前には、黒い土、ところどころ薄い土、前の雨で削れた畦、斜面の下に溜まった泥があった。

畑の端では、小作人の男が古い鍬を肩に立ち止まり、こちらへ帽子を取った。

その後ろで少年が牛の綱を持ち、牛は人間の都合など知らない顔で草を噛んでいる。

 

「あの畦は直さないのですか」

 

俺が聞くと、ベネットは即座に答えた。

 

「直します。ただ、昨日は上の畑の柵が倒れました。人手はそちらへ行きました」

 

「柵を先に?」

 

「牛が出れば、隣の畑を食べます」

 

それは困る。

畦も困るが、牛が隣で食べ放題を始めるのも困る。

 

倉庫は村の中心に近い、低い石造りの建物だった。

中に入ると、乾いた穀物の匂いに、湿った木の匂いが混じっている。

麻袋が壁ぎわに積まれ、いくつかは床からの湿気を吸って色が濃くなっていた。

樽には古い墨で印がついているが、似たような文字が多く、薄くなったものは何が入っていたのか分かりにくい。

 

「棚を増やせばよい、と思われましたか」

 

ベネットが先に言った。

 

「少し思いました」

 

「棚を作る木と人手はございます。ただ、壁際に置けば風が通りません。中央に置けば馬車からの荷下ろしが邪魔になります。床を上げれば湿気は避けられますが、重い袋を持ち上げる者の腰がやられます」

 

「腰」

 

俺は小さく繰り返した。

 

「何が腐ったか、どこで濡れたかは記録していますか」

 

「雨で濡れた、とは書きます。どの樽の隣、どの壁の下、とまでは毎度は残りません」

 

ベネットの声は硬かった。

責められていると思ったのだろう。

 

「責めているのではありません」

 

俺は慌てて言った。

 

「厨房でも、最初は布巾がどこで何に使われたか分からなかったんです。結果汚い布巾で、きれいな皿を拭いていたのです。俺も同じことをしました。ひどい目に遭いました」

 

「白いソースのことですか」

 

ベネットがあまりにも自然に言った。

 

俺は倉庫の中で固まった。

 

「屋敷外には、季節外れの腹冷えと」

 

「旦那様の屋敷で起きたことを、領地の差配人が何も知らぬわけにはまいりません。ただし、村には出しておりません」

 

ロウリーめ、伝えたのか...

 

 

家畜小屋では、藁と獣の熱い匂いが強かった。

牛が低く鳴き、豚が鼻を鳴らし、足元の泥と藁が混じって靴にまとわりつく。

小屋の隅には乾いた藁が少なく、別の隅には濡れた藁が山になっている。

 

昼は村の見張り小屋に近い小部屋で、ベネットと簡単な食事を取った。

 

豆と玉ねぎの煮込みは地味だが、鍋の底でよく火が入っていて甘い。

薄い塩漬け肉を少しだけ載せると、脂の香りが豆に移り、ささやかなのに腹へまっすぐ届いた。

添えられた硬いチーズは、塩が強く、口の中でゆっくりほどける。

村の煮込みは、働くための熱まで含めて美味しかった。

 

「若様は、こういうものも召し上がるのですか」

 

ベネットが聞いた。

 

「美味しいです」

 

「お世辞は村の者へ言ってください」

 

午後は道を見た。

道と言っても、雨の跡が残る轍の列である。

馬車の車輪が深く沈む場所があり、そこでは荷の重い車が一度止まる。

止まれば人が押す。

機関車はすごい。

だが、すごいものと家の間には、泥道があり、自動車がないので、馬車で運んでいる。

 

最後に井戸を見た。

村の女たちが水を汲み、桶を肩に掛けて運んでいる。

井戸の縁は濡れ、縄はところどころ擦り切れ、桶を置く石のそばには泥が跳ねていた。

誰も怠けていない。

むしろ手際はいい。

ただ、毎日使う場所は、毎日汚れる。

厨房の水場と同じだ。

 

馬車へ戻る頃には、俺の靴は見事に泥を抱えていた。

帳簿部屋では分からない重さである。

紙に書くと一行。

歩くと半日。

いろいろ改善活動をするとなると、たぶん何年もかかかる。

 

ベネットは馬車の踏み台に手をかけながら言った。

 

「次の村祭りにおいでください。帳簿では、領民の顔は見えません」

 

村祭り。

俺は泥のついた靴を見た。

そして、今日見た畑、倉庫、家畜小屋、道、井戸を思い出した。

 

◇◇◇

 

朝からの村祭りは、思っていたより明るかった。

 

広場に、木の台が置かれ、古い布が張られ、子供たちがその下を走り回っている。

焼いた麦菓子の匂い、豆の煮込みの匂い、薄い酒の匂い。

鍋の湯気の向こうで、誰かが古い歌を歌っていた。

 

目の前の人たちは、笑い、食べ、怒り、子供を叱り、隣人の皿に豆を足していた。

俺が今日ここへ来なくても、この人たちは今日を暮らしている。

 

「若様」

 

年配の男が帽子を胸に当てた。

その横で女が深く頭を下げ、さらに後ろで少年がこちらを見ている。

敬意はある。

距離もある。

ついでに、様子見の気配もある。

 

若様が来た。

何を言い出すのか。

税か。

工事か。

新しい面倒か。

 

声に出してはいないが、だいたい顔に書いてあった。

俺は、顔に出してばれる側だが、最近ほかの人の顔に出たものも少し読めるようになってきた。

成長として喜んでいいのかは分からない。

 

「今日は見るだけです」

 

俺が言うと、ベネットが横で小さく咳をした。

 

「若様のお言葉です。今日は、見るだけでございます」

 

なぜ言い直されると少し信用度が上がるのか。

俺は伯爵家長男である。

肩書きだけなら俺の方が上だ。

だが村では、ベネットの一言の方が足場がある。

 

子供が一人、俺の靴を見た。

昨日の泥は落とした。

落としたつもりだった。

しかし村道を歩いただけで、新しい泥がついている。

 

「若様の靴、村の靴みたい」

 

少年が言った。

 

母が聞いたら静かに微笑んで、あとで俺を座らせる。

靴が汚れているとは、と貴族の誇りをこんこんと説かれるだろう。

 

「今日は村の靴です」

 

ただ俺がそう答えると、少年は少し笑った。

次の瞬間、別の子が走ってきて、俺の上着の裾をかすめた。

小さな手の跡が、薄くついた。

 

服は汚れた。

だが、村祭りではこれが正しい気がした。

 

豆の煮込みは大鍋で作られ、木の椀に盛られる。

麦菓子は少し固く、噛むほど甘い。

塩漬け肉は薄いが、鍋全体へ香りを渡している。

干した果物は大事そうに小さく切られ、子供の皿に先に入れられていた。

 

料理は、贅沢ではない。

だが、無駄も少ない。

 

「保存の仕方で、味も変わりますね」

 

俺が言うと、ベネットがこちらを見た。

 

「祭りを見て、その感想でございますか」

 

「楽しい、も見ています」

 

「ならば結構」

 

祭りは楽しい。

日々は大変かもしれないが、これが領地なのだろう。

 

日が傾き始めた頃、ベネットが俺を広場の外へ連れ出した。

歌と笑い声が背中で遠くなる。

道は少し上っている。

足元の草は短く、ところどころ土が見えていた。

 

「こちらを先にご覧いただくべきか迷いました」

 

ベネットが言った。

 

「祭りのあとで見る方が、分かるものですか」

 

「はい」

 

短い返事だった。

 

畑は、昼に見た下村の畑より痩せているように見えた。

作物の列はあるが、葉の色に力が足りない。

端の方では、古い株がまばらに残り、その間に雑草が入っている。

 

「ここは痩せています」

 

「なぜですか」

 

「家畜の餌も足りません。餌が足りねば、家畜を増やせません。家畜が増えねば、畑へ戻す肥料も増えません。すると畑が痩せます」

 

悪いスパイラルに陥っている。

 

「家畜の数も減っているのですか」

 

「昔よりは」

 

「病気で?」

 

「いえ、冬越しでございます。売らねばならぬ年もございます」

「明るい日があることと、不安がないことは違います」

「若様」

 

「はい」

 

「領民は、命令ではなく、結果を見て動きます」

 

ベネットの声は低かった。

 

「旦那様が命じれば、従う者はおります。けれど、腹の底から信じるわけではございません。失敗すれば、冬に飢えます」

 

俺は何も言えなかった。

 

村祭りで笑っていた子供の顔が浮かんだ。

俺の上着を汚した手。

干した果物を大事そうに食べていた口。

靴を見て笑った目。

 

「まず、小さく試すしかありませんね」

 

俺はようやく言った。

 

痩せた畑。

餌が足りない。

家畜が増えない。

冬は餌不足で家畜をつぶす。

家畜が少ないので、たい肥が足りない。

たい肥がないので、畑が痩せる。

 

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