【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした   作:昼夜健康

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第17話 四輪作とカブ地獄

痩せた畑の端で、夕方の風がメモ帳の紙をめくろうとしていた。

俺は片手で紙を押さえながら、さっき書いた行を見直した。

 

痩せた畑。

餌が足りない。

家畜が増えない。

冬は餌不足で家畜をつぶす。

家畜が少ないので、たい肥が足りない。

たい肥がないので、畑が痩せる。

 

紙の上に並んだ言葉は、俺の頭の中で勝手につながり始めた。

そして、最初に浮かんだのは、たいへん物騒な単語だった。

 

『ハーバーボッシュ法』

 

前世の高校で聞いた、あの名前である。

窒素と水素からアンモニアを作る。

たぶん式は、N2とH2がどうにかなってNH3になる。

少し考えて思い出すと、N2 + 3H2 → 2NH3、で高温高圧で生成するとかだった気がする。

 

高校化学で名前だけは聞くこの方法は、実はすごいチートだと聞いたことがある。

なんでも、地球人口を支えるには、これがないといけないチート技術だとか...

 

ただし、チートは響きだけである。

高温。

高圧。

触媒。

水素。

窒素。

アンモニア。

 

単語は並ぶ。

では、その高圧をどう作るのか。

どれほど高い圧なのか。

水素をどこから取るのか。

窒素を空気からどう分けるのか。

 

蒸気機関より何も分からない。

 

俺の前には、痩せた畑と泥のついた靴と、疑い深い土地差配人がいるだけだった。

ここへいきなり工業化学の巨大設備を呼び出せるなら錬金術チートができただろう...

 

メモ帳に、俺は小さく書いた。

 

ハーバーボッシュ法。

無理。

 

人類の食料問題解決を、二行で諦めた。

いや、俺が諦めたのは人類の夢ではなく、俺の雑な記憶である。

夢のような解決策は、夢のように遠かった。

大発明で全部ひっくり返す道は、駅で蒸気機関車を見た時と同じく、また俺の前で静かに扉を閉めた。

壮大な葬式ver2である。

 

では、泥の上でできることは何か。

 

俺は畑を見直した。

小麦。

大麦。

休ませる畑。

 

「ベネット」

 

「はい」

 

「今の畑は、だいたい三つで回しているのですか」

 

ベネットは少しだけ目を細めた。

 

「冬にまく小麦、春にまく大麦、それから休ませる畑。場所によって違いはございますが、大筋ではそうでございます」

 

三輪作。

 

俺の頭に、もう一つの言葉が浮かんだ。

前世で聞いた、ノー何とか耕法。

たしか、小麦、大麦、カブ、クローバーを組み合わせる農法だったはずだ。

 

来た。

 

ハーバーボッシュ法は無理だった。

だが、こっちは土と種と家畜でできる。

この世界なら、いまごろ発明されるはずの最先端農法ではないか。

俺が思いつき、導入し、領地の畑が少し豊かになり、父に褒められ、ベネットが珍しく深くうなずき、俺は定時で帰る。

 

優勝である。

 

問題は、俺の人生における優勝予想は、だいたい次の瞬間に負けることだ。

 

「ベネット」

 

俺は顔を上げた。

 

「小麦と大麦だけでなく、カブとクローバーを組み合わせて、畑を回すことはできませんか」

 

ベネットはすぐには答えなかった。

痩せた畑を見て、俺を見て、また畑を見た。

 

「若様は、王都の傍で始まった、あのキワモノ農法を命じたいのでございますか」

 

俺は喉の奥で、変な音を出しかけた。

 

王都の傍で。

始まった。

あの。

キワモノ。

 

つまり、ある。

発明済み。

しかも最先端の輝かしい農法ではなく、現場ではまだキワモノ扱い。

 

またか。

蒸気機関車に続いて、畑まで先に走っていた。

この国は、俺のチート予定表を勝手に読んで先回りしているのではないか。

 

「命じたくはありません」

 

俺は即答した。

前回の学習効果が出ている。

人は学ぶ。

少なくとも、怒られた直後の人間は少し学ぶ。

 

「試したいです。小さく。見える場所で。戻せる形で」

 

ベネットの眉がわずかに動いた。

 

「小麦、大麦、カブ、クローバー」

 

彼はゆっくり繰り返した。

ベネットは畑の土を少し指でつまみ、砕いた。

乾きかけた塊が、ぽろぽろと割れる。

 

「カブは人も食べます。家畜も食べます。クローバーは家畜の餌になります。そういう話自体は、まったく聞いたことがないものではございません」

 

「では」

 

「難しいのは、知っているかどうかではございません」

 

ベネットの声は低かった。

 

「誰の畑で、誰の種を使い、失敗した年に誰が飢えるかでございます」

 

俺は口を閉じた。

 

小麦は税やパンにつながる。

大麦は粥にも酒にもなる。

それを減らして、カブやクローバーを植える。

俺の頭の中では合理的でも、領民の腹にはまだ届かない。

 

「クローバーは腹いっぱいの麦には見えません」

 

ベネットは続けた。

 

「若様が少し先で良いことをお考えでも、村の者には、明日のパンを賭ける話に聞こえます」

 

祭りで笑っていた子供たちの顔が浮かんだ。

干した果物を大事そうに食べていた口。

俺の靴を見て笑った目。

 

「では、屋敷預かりの端地で」

 

俺は言った。

 

「いちばん良い畑でも、いちばん悪い畑でもない場所。村の人が見られる道沿い。種と手間は屋敷持ち。失敗しても小作人の取り分を減らさない」

 

ベネットは黙った。

反対している顔ではない。

計算している顔だった。

 

「それでも、人手は使います」

 

「はい」

 

「誰が見張り、誰が草を取り、誰が食わせ、誰が記録するかを決めねばなりません」

 

「ベネットに相談します」

 

ベネットの口元が、ほんの少しだけ動いた。

 

「旦那様にも、先に通します」

 

「もちろんです」

 

 

翌日、帳簿部屋で父エドマンドは、ベネットの説明を最後まで聞いた。

机の上には領地の簡単な地図が広げられている。

 

「全面ではないのだな」

 

父が言った。

 

「はい」

 

俺はうなずいた。

 

「小さな試験区画だけです。失敗しても小作人の冬へ響かないようにします」

 

父は地図を見つめた。

伯爵家の領地は、家名であると同時に固定費であり、収入の源でもある。

俺が軽率に動けば、屋敷の食卓だけでは済まない。

白いソースは腹痛で済んだ。

畑の失敗は、腹痛では明らかに済まないだろう。

 

「費用は領地勘定から出す。ただし、試験として明記する」

 

父は言った。

 

「収穫を大きく見せるために帳簿を飾るな。悪い結果も残せ」

 

「はい」

 

「それから、アーサー」

 

「はい」

 

「良い考えであっても、よく伝えれば全員が喜ぶとは限らん」

 

「分かっています」

 

最近の俺は、分からないことが増えた分、少しだけ賢くなった気もする。

気のせいかもしれない。

 

「ベネット」

 

父が差配人を見た。

 

「止めるべきところは止めろ」

 

「承知しております」

 

 

試験区画は、村道から少し見える畑の端に決まった。

広すぎず、狭すぎず、土の状態も極端ではない。

良い畑を奪ったと言われず、悪い畑だから失敗したと言われにくい場所。

ベネットは、そういう面倒な条件を淡々と並べた。

 

畑の端に杭が立ち、木札が四つ並んだ。

 

小麦。

大麦。

カブ。

クローバー。

 

種をまく日は、村の男たちが少し距離を置いて見ていた。

帽子を胸に当てる者もいれば、腕を組む者もいる。

敬意と疑いと好奇心が、畑の端に並んでいた。

 

「若様がカブを畑の主役にするそうだ」

 

誰かが小さく言った。

 

「カブでパンは焼けねえ」

 

別の声が返す。

 

その通りだ。

カブでパンは焼けない。

俺も焼きたくない。

ハロルド料理長が聞いたら、まず眉が動く。

 

俺が種袋に手を伸ばすと、ベネットが静かに止めた。

 

「若様」

 

「はい」

 

「見せるためにまくのではなく、育てるためにまきます」

 

「手つきが悪いということですね」

 

「はい」

 

即答である。

 

村の男たちの一部が、少しだけ口元を緩めた。

若様の手つきが悪いのは、どうやら領民の緊張をわずかに下げる効果があるらしい。

本人としては複雑だ。

 

種は、ベネットと畑の者がまいた。

俺は札の位置、日付、天気、土の湿り具合、誰が作業したかをメモした。

 

 

◇◇◇

 

 

一年がたつと、試験区画は思ったより目立つ場所になっていた。

 

最初の季節は、ただ木札が立った奇妙な畑だった。

小麦、大麦、カブ、クローバー。

村の者は通りがかりに見たが、見ただけで信用しなかった。

 

春にはクローバーが低く緑を増やした。

夏にはカブの葉が地面に広がり、秋には丸い根が土の中で太った。

雨の後、隣の畑では土が固く割れたが、クローバーのあった区画は少しだけ柔らかく見えた。

見えた、だけかもしれない。

俺が都合よく見ている可能性もある。

 

ベネットが言った。

 

「一年見て、ようやく少しでございます」

 

家畜小屋では、クローバーを刈ったものが少しずつ試された。

牛は最初、見慣れない草を鼻で押した。

しばらく慣らすとようやくゆっくり食べた。

 

それでも、一年をかけて、村の者たちは試験区画を見に来るようになった。

作業のついで。

水汲みの帰り。

子供にせがまれて。

理由はそれぞれ違うが、足が止まる。

 

「あの草を牛が食ったなら、冬に少しは楽か」

 

「カブは、どれほど取れる」

 

「土は良くなったのか」

 

「若様の畑は、札が多いな」

 

最後の感想はたぶん農法ではなく、俺の記録癖への評価だった。

札が多い畑。

名誉なのか不名誉なのか分からない。

 

そして、一年目の秋、カブが取れた。

 

取れた。

取れすぎた。

 

試験区画は小さい。

小さいはずだった。

だが、畑でみたら小さくても、豊作なカブは収穫するととんでもない量だった。

しかも家畜に食わせる分、保存を試す分、村へ配る分、屋敷へ運ぶ分と分けても、丸い白い根は荷車の上で堂々と転がっていた。

一つ一つは素朴な根菜である。

集団になると、なぜか圧がある。

白い丸いものが荷車いっぱいに詰まっている光景は、豊作というより、カブ側の勝利宣言に近かった。

 

「ベネット」

 

俺は荷車を見て言った。

 

「これは成功ですか」

 

「半分は」

 

 

グレイヴェル館の厨房にカブが届いた日、ハロルド料理長は荷台を見て黙った。

長く黙った。

俺はその沈黙が、白いソースの時とは別の種類であることを祈った。

 

「若様」

 

「はい」

 

「厨房は、畑ではございません」

 

「分かっています」

 

「本当に」

 

「今回は、たぶん」

 

ハロルドの眉が動いた。

たぶん、は禁句に近い。

 

「カブは、煮込み、焼き物、潰し、酢漬けで試せます」

 

ハロルドは荷台から一つを取り、重さを確かめた。

 

「ただし、同じものを続ければ、どれほど良いものでも嫌われます」

 

「何日くらいで嫌われますか」

 

「量によります」

 

ハロルドは荷台を見た。

 

「この量なら、かなり早うございます」

 

「領地改善の敵は飽きですか」

 

「食卓では、たいへん強い敵でございます」

 

その日の夕食には、カブと塩漬け肉の澄まし汁が出た。

カブはよく煮られ、透明な汁の中で淡く光っている。

噛むと柔らかく、土の甘さが舌に残り、塩漬け肉の香りを受けて意外なほど上品だった。

焼いたパンを浸すと、カブの甘みが麦の香りに混じる。

 

二日目は、薄切りにしたカブを火床の近くで焼き、バターを少し絡めた。

縁が淡く色づき、表面に香ばしさが出る。

これは悪くない。

むしろかなり良い。

 

三日目は、潰したカブだった。

柔らかく、滑らかで、白い。

 

四日目、カブは豆の煮込みの中にいた。

五日目、カブは酢漬けになって小皿で待っていた。

六日目、焼いた肉の下から、薄く切られたカブが出てきた。

七日目、潰した白いカブが戻ってきた。

八日目。

食卓に器が置かれた瞬間、リディアが俺を見た。

 

「お兄様」

 

「白いソースではありません」

 

「まだ何も言っていません」

 

「言う顔でした」

 

リディアは銀の匙で、白いカブを少しすくった。

口に入れ、考える。

味は悪くないはずだ。

ハロルドが作ったのだから。

 

「おいしいです」

 

「よかった」

 

「でも、お兄様」

 

「はい」

 

リディアは真面目な顔で言った。

 

「領地は大事です。でも、私の夕食を犠牲にしないでください」

 

父が激しく咳をした。

母セシリアは急いで口元に布を当てた。

ロウリーは壁際で表情を変えない。

が、あれは絶対に少し笑っている。

 

「犠牲ではなく、領地改善の成果を味わって」

 

「牛に味わってもらってください」

 

ハロルドはその後、カブを肉の付け合わせに薄く添え、残りは酢漬けと家畜用に回した。

酢漬けはしゃきっとして、塩と酸味が白さを少しきりっとさせた。

ただし、食卓の全員が同じことを思っていた。

しばらくカブは見たくない。

 

成功とは、時に余ることで人を苦しめる。

これは新しい学びだった。

 

 

試験区画の記録は、一年目の秋の終わりに帳簿部屋でまとめられた。

紙の上には、種の量、作業した日、天気、刈った草、カブの収量、家畜へ回した分、屋敷の食卓を圧迫した分まで並んでいる。

最後の項目は俺が書いたのではない。

たぶんハロルドかロウリーである。

犯人は複数いる。

 

「カブで食卓が圧迫される、は領地記録に必要でしょうか」

 

俺が聞くと、父は真面目な顔で答えた。

 

「必要だ。余ったものは、運ぶ、置く、食べる、売る、腐らせるのどれかになる」

 

「腐らせるのは嫌です」

 

「ならば、嫌で済ませぬ仕組みが要る」

 

父の言葉は重かった。

カブのせいで重いのではない。

たぶん。

 

ベネットは、まとめた記録を指で押さえた。

 

「餌は少し増えました。家畜の冬越しには、助けになります。畑の土も、まだ断言はできませんが、クローバーのあった場所は手触りが違います」

 

「農民たちは」

 

「興味は持っております。信用ではなく、興味です」

 

「ゴールの一歩手前ですね」

 

「十歩手前かもしれません」

 

厳しい。

だが、その厳しさが癖になってきたかもしれない。

 

俺はメモ帳を開いた。

 

四輪作試験。

全面導入しない。

見える場所。

失敗して困る人を先に考える。

餌は少し増える。

カブは増えすぎる。

保存と置き場が次の問題。

 

そこまで書いて、ふと家畜小屋の匂いを思い出した。

藁と泥と獣の熱。

餌が少し増えれば、家畜の出すものも少し増える。

それを畑へ戻せれば、悪い輪はほんの少しだけ逆へ回るかもしれない。

 

「ベネット」

 

俺は言った。

 

「家畜小屋の糞と藁がこれから増えるので、まとめて一か所でたい肥にしましょう」

 

ベネットは俺を見た。

すぐには答えなかった。

その沈黙だけで、俺はまた何か面倒なところへ足を踏み入れた気がした。

 

「必要ではございます」

 

「では、次はそれを」

 

「若様」

 

ベネットの声は静かだった。

 

「匂いは、帳簿には薄くしか載りません」

 

俺はメモ帳に新しい行を書いた。

 

厩肥。

置き場。

匂い。

 

まだ紙の上の文字からは、何の匂いもしなかった。

 

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