【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした 作:昼夜健康
痩せた畑の端で、夕方の風がメモ帳の紙をめくろうとしていた。
俺は片手で紙を押さえながら、さっき書いた行を見直した。
痩せた畑。
餌が足りない。
家畜が増えない。
冬は餌不足で家畜をつぶす。
家畜が少ないので、たい肥が足りない。
たい肥がないので、畑が痩せる。
紙の上に並んだ言葉は、俺の頭の中で勝手につながり始めた。
そして、最初に浮かんだのは、たいへん物騒な単語だった。
『ハーバーボッシュ法』
前世の高校で聞いた、あの名前である。
窒素と水素からアンモニアを作る。
たぶん式は、N2とH2がどうにかなってNH3になる。
少し考えて思い出すと、N2 + 3H2 → 2NH3、で高温高圧で生成するとかだった気がする。
高校化学で名前だけは聞くこの方法は、実はすごいチートだと聞いたことがある。
なんでも、地球人口を支えるには、これがないといけないチート技術だとか...
ただし、チートは響きだけである。
高温。
高圧。
触媒。
水素。
窒素。
アンモニア。
単語は並ぶ。
では、その高圧をどう作るのか。
どれほど高い圧なのか。
水素をどこから取るのか。
窒素を空気からどう分けるのか。
蒸気機関より何も分からない。
俺の前には、痩せた畑と泥のついた靴と、疑い深い土地差配人がいるだけだった。
ここへいきなり工業化学の巨大設備を呼び出せるなら錬金術チートができただろう...
メモ帳に、俺は小さく書いた。
ハーバーボッシュ法。
無理。
人類の食料問題解決を、二行で諦めた。
いや、俺が諦めたのは人類の夢ではなく、俺の雑な記憶である。
夢のような解決策は、夢のように遠かった。
大発明で全部ひっくり返す道は、駅で蒸気機関車を見た時と同じく、また俺の前で静かに扉を閉めた。
壮大な葬式ver2である。
では、泥の上でできることは何か。
俺は畑を見直した。
小麦。
大麦。
休ませる畑。
「ベネット」
「はい」
「今の畑は、だいたい三つで回しているのですか」
ベネットは少しだけ目を細めた。
「冬にまく小麦、春にまく大麦、それから休ませる畑。場所によって違いはございますが、大筋ではそうでございます」
三輪作。
俺の頭に、もう一つの言葉が浮かんだ。
前世で聞いた、ノー何とか耕法。
たしか、小麦、大麦、カブ、クローバーを組み合わせる農法だったはずだ。
来た。
ハーバーボッシュ法は無理だった。
だが、こっちは土と種と家畜でできる。
この世界なら、いまごろ発明されるはずの最先端農法ではないか。
俺が思いつき、導入し、領地の畑が少し豊かになり、父に褒められ、ベネットが珍しく深くうなずき、俺は定時で帰る。
優勝である。
問題は、俺の人生における優勝予想は、だいたい次の瞬間に負けることだ。
「ベネット」
俺は顔を上げた。
「小麦と大麦だけでなく、カブとクローバーを組み合わせて、畑を回すことはできませんか」
ベネットはすぐには答えなかった。
痩せた畑を見て、俺を見て、また畑を見た。
「若様は、王都の傍で始まった、あのキワモノ農法を命じたいのでございますか」
俺は喉の奥で、変な音を出しかけた。
王都の傍で。
始まった。
あの。
キワモノ。
つまり、ある。
発明済み。
しかも最先端の輝かしい農法ではなく、現場ではまだキワモノ扱い。
またか。
蒸気機関車に続いて、畑まで先に走っていた。
この国は、俺のチート予定表を勝手に読んで先回りしているのではないか。
「命じたくはありません」
俺は即答した。
前回の学習効果が出ている。
人は学ぶ。
少なくとも、怒られた直後の人間は少し学ぶ。
「試したいです。小さく。見える場所で。戻せる形で」
ベネットの眉がわずかに動いた。
「小麦、大麦、カブ、クローバー」
彼はゆっくり繰り返した。
ベネットは畑の土を少し指でつまみ、砕いた。
乾きかけた塊が、ぽろぽろと割れる。
「カブは人も食べます。家畜も食べます。クローバーは家畜の餌になります。そういう話自体は、まったく聞いたことがないものではございません」
「では」
「難しいのは、知っているかどうかではございません」
ベネットの声は低かった。
「誰の畑で、誰の種を使い、失敗した年に誰が飢えるかでございます」
俺は口を閉じた。
小麦は税やパンにつながる。
大麦は粥にも酒にもなる。
それを減らして、カブやクローバーを植える。
俺の頭の中では合理的でも、領民の腹にはまだ届かない。
「クローバーは腹いっぱいの麦には見えません」
ベネットは続けた。
「若様が少し先で良いことをお考えでも、村の者には、明日のパンを賭ける話に聞こえます」
祭りで笑っていた子供たちの顔が浮かんだ。
干した果物を大事そうに食べていた口。
俺の靴を見て笑った目。
「では、屋敷預かりの端地で」
俺は言った。
「いちばん良い畑でも、いちばん悪い畑でもない場所。村の人が見られる道沿い。種と手間は屋敷持ち。失敗しても小作人の取り分を減らさない」
ベネットは黙った。
反対している顔ではない。
計算している顔だった。
「それでも、人手は使います」
「はい」
「誰が見張り、誰が草を取り、誰が食わせ、誰が記録するかを決めねばなりません」
「ベネットに相談します」
ベネットの口元が、ほんの少しだけ動いた。
「旦那様にも、先に通します」
「もちろんです」
◇
翌日、帳簿部屋で父エドマンドは、ベネットの説明を最後まで聞いた。
机の上には領地の簡単な地図が広げられている。
「全面ではないのだな」
父が言った。
「はい」
俺はうなずいた。
「小さな試験区画だけです。失敗しても小作人の冬へ響かないようにします」
父は地図を見つめた。
伯爵家の領地は、家名であると同時に固定費であり、収入の源でもある。
俺が軽率に動けば、屋敷の食卓だけでは済まない。
白いソースは腹痛で済んだ。
畑の失敗は、腹痛では明らかに済まないだろう。
「費用は領地勘定から出す。ただし、試験として明記する」
父は言った。
「収穫を大きく見せるために帳簿を飾るな。悪い結果も残せ」
「はい」
「それから、アーサー」
「はい」
「良い考えであっても、よく伝えれば全員が喜ぶとは限らん」
「分かっています」
最近の俺は、分からないことが増えた分、少しだけ賢くなった気もする。
気のせいかもしれない。
「ベネット」
父が差配人を見た。
「止めるべきところは止めろ」
「承知しております」
◇
試験区画は、村道から少し見える畑の端に決まった。
広すぎず、狭すぎず、土の状態も極端ではない。
良い畑を奪ったと言われず、悪い畑だから失敗したと言われにくい場所。
ベネットは、そういう面倒な条件を淡々と並べた。
畑の端に杭が立ち、木札が四つ並んだ。
小麦。
大麦。
カブ。
クローバー。
種をまく日は、村の男たちが少し距離を置いて見ていた。
帽子を胸に当てる者もいれば、腕を組む者もいる。
敬意と疑いと好奇心が、畑の端に並んでいた。
「若様がカブを畑の主役にするそうだ」
誰かが小さく言った。
「カブでパンは焼けねえ」
別の声が返す。
その通りだ。
カブでパンは焼けない。
俺も焼きたくない。
ハロルド料理長が聞いたら、まず眉が動く。
俺が種袋に手を伸ばすと、ベネットが静かに止めた。
「若様」
「はい」
「見せるためにまくのではなく、育てるためにまきます」
「手つきが悪いということですね」
「はい」
即答である。
村の男たちの一部が、少しだけ口元を緩めた。
若様の手つきが悪いのは、どうやら領民の緊張をわずかに下げる効果があるらしい。
本人としては複雑だ。
種は、ベネットと畑の者がまいた。
俺は札の位置、日付、天気、土の湿り具合、誰が作業したかをメモした。
◇◇◇
一年がたつと、試験区画は思ったより目立つ場所になっていた。
最初の季節は、ただ木札が立った奇妙な畑だった。
小麦、大麦、カブ、クローバー。
村の者は通りがかりに見たが、見ただけで信用しなかった。
春にはクローバーが低く緑を増やした。
夏にはカブの葉が地面に広がり、秋には丸い根が土の中で太った。
雨の後、隣の畑では土が固く割れたが、クローバーのあった区画は少しだけ柔らかく見えた。
見えた、だけかもしれない。
俺が都合よく見ている可能性もある。
ベネットが言った。
「一年見て、ようやく少しでございます」
家畜小屋では、クローバーを刈ったものが少しずつ試された。
牛は最初、見慣れない草を鼻で押した。
しばらく慣らすとようやくゆっくり食べた。
それでも、一年をかけて、村の者たちは試験区画を見に来るようになった。
作業のついで。
水汲みの帰り。
子供にせがまれて。
理由はそれぞれ違うが、足が止まる。
「あの草を牛が食ったなら、冬に少しは楽か」
「カブは、どれほど取れる」
「土は良くなったのか」
「若様の畑は、札が多いな」
最後の感想はたぶん農法ではなく、俺の記録癖への評価だった。
札が多い畑。
名誉なのか不名誉なのか分からない。
そして、一年目の秋、カブが取れた。
取れた。
取れすぎた。
試験区画は小さい。
小さいはずだった。
だが、畑でみたら小さくても、豊作なカブは収穫するととんでもない量だった。
しかも家畜に食わせる分、保存を試す分、村へ配る分、屋敷へ運ぶ分と分けても、丸い白い根は荷車の上で堂々と転がっていた。
一つ一つは素朴な根菜である。
集団になると、なぜか圧がある。
白い丸いものが荷車いっぱいに詰まっている光景は、豊作というより、カブ側の勝利宣言に近かった。
「ベネット」
俺は荷車を見て言った。
「これは成功ですか」
「半分は」
◇
グレイヴェル館の厨房にカブが届いた日、ハロルド料理長は荷台を見て黙った。
長く黙った。
俺はその沈黙が、白いソースの時とは別の種類であることを祈った。
「若様」
「はい」
「厨房は、畑ではございません」
「分かっています」
「本当に」
「今回は、たぶん」
ハロルドの眉が動いた。
たぶん、は禁句に近い。
「カブは、煮込み、焼き物、潰し、酢漬けで試せます」
ハロルドは荷台から一つを取り、重さを確かめた。
「ただし、同じものを続ければ、どれほど良いものでも嫌われます」
「何日くらいで嫌われますか」
「量によります」
ハロルドは荷台を見た。
「この量なら、かなり早うございます」
「領地改善の敵は飽きですか」
「食卓では、たいへん強い敵でございます」
その日の夕食には、カブと塩漬け肉の澄まし汁が出た。
カブはよく煮られ、透明な汁の中で淡く光っている。
噛むと柔らかく、土の甘さが舌に残り、塩漬け肉の香りを受けて意外なほど上品だった。
焼いたパンを浸すと、カブの甘みが麦の香りに混じる。
二日目は、薄切りにしたカブを火床の近くで焼き、バターを少し絡めた。
縁が淡く色づき、表面に香ばしさが出る。
これは悪くない。
むしろかなり良い。
三日目は、潰したカブだった。
柔らかく、滑らかで、白い。
四日目、カブは豆の煮込みの中にいた。
五日目、カブは酢漬けになって小皿で待っていた。
六日目、焼いた肉の下から、薄く切られたカブが出てきた。
七日目、潰した白いカブが戻ってきた。
八日目。
食卓に器が置かれた瞬間、リディアが俺を見た。
「お兄様」
「白いソースではありません」
「まだ何も言っていません」
「言う顔でした」
リディアは銀の匙で、白いカブを少しすくった。
口に入れ、考える。
味は悪くないはずだ。
ハロルドが作ったのだから。
「おいしいです」
「よかった」
「でも、お兄様」
「はい」
リディアは真面目な顔で言った。
「領地は大事です。でも、私の夕食を犠牲にしないでください」
父が激しく咳をした。
母セシリアは急いで口元に布を当てた。
ロウリーは壁際で表情を変えない。
が、あれは絶対に少し笑っている。
「犠牲ではなく、領地改善の成果を味わって」
「牛に味わってもらってください」
ハロルドはその後、カブを肉の付け合わせに薄く添え、残りは酢漬けと家畜用に回した。
酢漬けはしゃきっとして、塩と酸味が白さを少しきりっとさせた。
ただし、食卓の全員が同じことを思っていた。
しばらくカブは見たくない。
成功とは、時に余ることで人を苦しめる。
これは新しい学びだった。
◇
試験区画の記録は、一年目の秋の終わりに帳簿部屋でまとめられた。
紙の上には、種の量、作業した日、天気、刈った草、カブの収量、家畜へ回した分、屋敷の食卓を圧迫した分まで並んでいる。
最後の項目は俺が書いたのではない。
たぶんハロルドかロウリーである。
犯人は複数いる。
「カブで食卓が圧迫される、は領地記録に必要でしょうか」
俺が聞くと、父は真面目な顔で答えた。
「必要だ。余ったものは、運ぶ、置く、食べる、売る、腐らせるのどれかになる」
「腐らせるのは嫌です」
「ならば、嫌で済ませぬ仕組みが要る」
父の言葉は重かった。
カブのせいで重いのではない。
たぶん。
ベネットは、まとめた記録を指で押さえた。
「餌は少し増えました。家畜の冬越しには、助けになります。畑の土も、まだ断言はできませんが、クローバーのあった場所は手触りが違います」
「農民たちは」
「興味は持っております。信用ではなく、興味です」
「ゴールの一歩手前ですね」
「十歩手前かもしれません」
厳しい。
だが、その厳しさが癖になってきたかもしれない。
俺はメモ帳を開いた。
四輪作試験。
全面導入しない。
見える場所。
失敗して困る人を先に考える。
餌は少し増える。
カブは増えすぎる。
保存と置き場が次の問題。
そこまで書いて、ふと家畜小屋の匂いを思い出した。
藁と泥と獣の熱。
餌が少し増えれば、家畜の出すものも少し増える。
それを畑へ戻せれば、悪い輪はほんの少しだけ逆へ回るかもしれない。
「ベネット」
俺は言った。
「家畜小屋の糞と藁がこれから増えるので、まとめて一か所でたい肥にしましょう」
ベネットは俺を見た。
すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、俺はまた何か面倒なところへ足を踏み入れた気がした。
「必要ではございます」
「では、次はそれを」
「若様」
ベネットの声は静かだった。
「匂いは、帳簿には薄くしか載りません」
俺はメモ帳に新しい行を書いた。
厩肥。
置き場。
匂い。
まだ紙の上の文字からは、何の匂いもしなかった。