【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした 作:昼夜健康
晩秋のグレイヴェル館では、帳簿部屋の窓に薄い霜が残る朝が増えていた。
「家畜小屋の糞と藁を、落ち葉と一緒に積んで、畑へ戻す」
前世のどこかで聞いた堆肥作りである。
ただし俺は前世で、子供のころに家庭菜園を少し手伝ったぐらいだった。
覚えているのは、どこかで読んだだろう知識の糞、藁、落ち葉、水分、空気、くらいだ。
料理で言えば、材料名だけ見て晩餐を作ろうとしているに近い。
過去の俺なら「まあ何とかなる」と言っただろう。
最近の俺は少し成長している。
「まあ、ベネットがいれば何とかなる」
ベネット土地差配人は、机の向こうでたいへん静かな顔をしていた。
「若様。堆肥は珍しいものではございません」
「はい」
「家畜小屋から出たものを畑へ戻すことも、落ち葉を腐らせることも、村では昔からございます」
「はい」
「ただ、まとめて積み、時期を見て運び、畑へ入れるとなりますと、量、場所、水、風、人手が問題になります」
「風」
俺はメモ帳に書いた。
ベネットが前回から言っていた、匂いの正体である。
匂いは帳簿には薄くしか載らない。
名言だ。
「置き場は家畜小屋の近くでよいのでは」
「運ぶ手間だけを考えれば、そうでございます」
家畜小屋の裏手には、藁置き場があり、落ち葉も庭の端に集められる。
そこへ小さな囲いを作り、糞と藁と落ち葉を層にして積めば、運搬は短くて済む。
小さく試す。
戻せる形。
見える場所。
前回学んだ良い言葉を並べると、だいたい正しいことをしている気分になれる。
「では、試験として小さく。家畜小屋の裏手で」
ベネットはすぐには止めなかった。
その沈黙で、俺はもう少し疑うべきだった。
だが、白いソースで腹を痛め、カブで食卓を圧迫し、ハーバーボッシュ法に逃げられた俺にも、まだ楽天性は残っていた。
しぶとい。
「小さくならば」
ベネットは言った。
「ただし、旦那様へ通し、家畜番と庭師にも聞きます」
「もちろんです」
もちろんと言える時、人はだいたい何かを見落としている。
◇
家畜小屋の裏手は、冬へ向かう乾いた草と湿った藁の匂いが混ざっていた。
牛が鼻を鳴らし、馬が横目で俺を見た。
若干呆れた目をしている気がする。
家畜番たちは、糞の混じった藁を掻き出した。
重い。
湯気が立つ。
藁の黄色と黒く湿った塊が混ざり、獣の熱が鼻へ来る。
不快かと言われれば不快である。
ただ、堆肥になると考えると少しだけありがたく見える。
鼻はまったく納得していないが。
庭師たちは、庭の端から落ち葉を運んできた。
濡れた葉は黒っぽく重く、踏むと甘く腐りかけた匂いがする。
俺が想像していた「ふかふかの秋の落ち葉」とは違い、現実の落ち葉は水と泥を含んで、ぐちゃぐちゃで重そうだ。
「若様、こちらへ積みますか」
家畜番が聞いた。
家畜小屋の裏。
藁置き場に近い。
屋敷へ向かう勝手口からは少し離れている。
庭の見栄えにも、ぎりぎり入らない。
「ここで」
俺は言った。
ベネットが俺を見た。
庭師頭も俺を見た。
二人の視線には、同じ種類のためらいがあった。
「何か」
「いえ」
庭師頭は短く答えた。
「冬の北風なら、屋敷とは反対へ流れます」
「なら、良いですね」
「冬の北風なら」
彼は繰り返した。
その言い方に、俺は少し引っかかった。
しかし、家畜番たちはもう作業を始めている。
木の叉が藁をすくい、落ち葉が重ねられ、上から少し水が撒かれた。
乾きすぎても駄目で、びしょ濡れでも駄目らしい。
前世知識は、肝心なところで急に寡黙になる。
「下に粗い枝を少し入れます」
庭師頭が言った。
「水が抜け、空気も通ります」
「なるほど」
俺はメモした。
粗い枝。
糞藁。
落ち葉。
水は少し。
上に古藁。
日付。
作業者。
天気。
木札も立てた。
厩肥試験。
触る者はベネットへ。
村の男たちが、遠巻きに見ていた。
「若様が糞の山に札を立てた」
「畑より札が好きなんだろう」
小さな笑い声がした。
馬鹿にされている、というより、珍しいものを見た人間の笑いだった。
俺は聞こえないふりをした。
その日の終わり、厩肥の山は思ったより立派になった。
湯気が少し上がり、古藁の蓋の下で黒い湿り気が眠っている。
畑へ戻すための山。
悪い輪を少し逆に回すための山。
俺は満足してメモ帳を閉じた。
◇◇◇
三日後、南寄りの湿った風が吹いた。
その朝、グレイヴェル館の廊下は、いつもより忙しかった。
母セシリアが近隣の夫人たちを茶に招いていたからである。
客間には磨かれた銀器、薄い陶器の茶器、焼き色のよい小さな菓子が並んだ。
厨房からは、焼けた小麦とバターの甘い香りがした。
ハロルド料理長は、刻んだ干し果物を入れた小さな焼き菓子を出す予定らしい。
外は冷え、客間には炭火が入る。
窓の内側が少し曇り、茶の湯気が白く立つ。
そこへ、厩肥が来た。
正確には、厩肥の匂いが来た。
見えない。
しかし、いる。
廊下の角を曲がり、客間の前をかすめ、玄関ホールの花の香りを横から殴る。
バター、茶、干し果物、磨いた木、そして家畜小屋。
混ぜてはいけないものが混ざった。
俺は廊下の途中で足を止めた。
「これは」
「若様」
ロウリーが横に立っていた。
いつからいたのか分からない。
執事という生き物は、匂いより静かに現れる。
「奥様がお呼びでございます」
「今ですか」
「今でございます」
その声は、白いソース事件の時より穏やかだった。
穏やかであることが、かえって怖い。
母は客間ではなく、隣の小さな控え室にいた。
扉が閉まると、茶の香りと厩肥の匂いが少し薄くなった。
母は微笑んでいた。
たいへん美しい微笑みだった。
そして、たいへん危険だった。
「アーサー」
「はい」
「領地は大事です」
「はい」
「畑も大事です」
「はい」
「ですが、客間へ厩肥をお招きする必要はありません」
「申し訳ありません」
俺は即座に頭を下げた。
正しい判断である。
ここで言い訳を始める者は、たぶん領地改革の前に家庭内で討ち死にする。
母は声を荒らげなかった。
だからこそ、言葉の一つ一つがよく刺さった。
「実用は恥ではありません。畑も家畜も、伯爵家の暮らしを支えています」
「はい」
「けれど、屋敷には屋敷の顔があります。女主人は、それを整えるのが仕事です」
俺は顔を上げられなかった。
母の怒りは、匂いが嫌だというだけではない。
「正しいことでも、置き場所を間違えれば嫌われます」
母は静かに言った。
「覚えておきなさい」
「はい」
俺は心のメモ帳にも書いた。
正しいこと。
置き場所。
嫌われる。
紙からは匂いがしない。
だから、余計に危ない。
◇
その日の午後、俺はベネットと庭師頭に助けを求めた。
平謝りである。
貴族長男にも、頭を下げるべき時はある。
むしろ貴族長男だからこそ、頭を下げる相手を間違えると大事になる。
ベネットは厩肥の山の前で、少しも勝ち誇らなかった。
それがありがたく、少し痛い。
「若様。常に北風が吹くわけではありません」
「はい。たいへんよく分かりました」
「湿った南風では、屋敷へ向かいます」
庭師頭が、庭の木立と屋敷の窓を指した。
「こちらは厨房の裏窓へも回ります。洗濯場にも近うございます。客人の馬車が通る時、風が変われば避けられません」
ベネットは地面を杖で示した。
「さらに、ここは雨の後の水が勝手口の溝へ向かいます。厩肥の汁が流れれば、匂いだけでは済みません」
俺は黙ってメモした。
風向き。
排水。
距離。
窓。
洗濯場。
厨房。
客人の通り道。
「では、どこなら」
ベネットと庭師頭は、すでに考えていた。
屋敷の端から離れ、古い果樹園のさらに向こう。
村道から丸見えではないが、作業道から荷車が入れる場所。
井戸から離れ、小川へ直接水が落ちない。
北風でも南風でも、屋敷の窓へまっすぐ流れにくい。
生け垣で目隠しができ、近くに落ち葉も集められる。
「遠いですね」
「匂いも遠くなります」
「運ぶ手間が増えます」
厳しい。
だが正しい。
俺は家畜番たちと庭師たちに、移し替えを頼むことになった。
もちろん、ただ頼むだけでは済まない。
誰が何刻から何刻まで作業するか。
通常の仕事をどこで軽くするか。
手当をどうするか。
荷車は何台使うか。
父にも通す。
母にも通す。
◇
厩肥の移設は、地味で、臭く、そして意外なほど大仕事だった。
古藁をはがすと、中は熱を持っていた。
湯気が立ち、湿った甘苦い匂いがぶわりと出る。
家畜番が木の叉で崩し、庭師が落ち葉と枝を分け、荷車へ積む。
俺も少し手を出そうとしたが、ベネットに見られた。
「若様」
「はい」
「手伝うお気持ちはありがたく存じます」
「はい」
「ですが、本日は誰が何をしたかを記録してください。若様が泥に足を取られると、作業が一つ増えます」
俺はメモ係に戻った。
村の男たちは笑った。
ただし今度は、前より近い場所で笑った。
「若様の糞山が引っ越すぞ」
「屋敷に叱られたんだな」
「うちの女房に言われるより先でよかったじゃねえか」
その最後の声には、周りが大きく笑った。
家の中の匂い問題は、どうやら貴族も農民も共通らしい。
俺は苦笑して、メモ帳に書いた。
新しい場所では、庭師頭が先に粗い枝を敷いた。
その周りに浅い溝を掘り、雨水が堆肥の下を抜けすぎないよう、ただし溜まりすぎないようにした。
ベネットは、家畜番へ水を撒く量を尋ね、庭師へ落ち葉の乾き具合を聞いた。
俺の雑な「適度な水分」は、彼らの手の中で、握った時にしっとりするが水が滴らない程度、という形になった。
山の上には古藁をかぶせ、さらに薄く土を散らした。
匂いは消えない。
だが、先ほどよりは少し丸くなった。
厩肥の山というより、畑へ戻る前に寝かされた材料の山に見えた。
◇
厩肥場の記録には、新しい欄が増えた。
日付。
天気。
風向き。
作業者。
入れたもの。
水分。
匂い。
屋敷への影響。
最後の二つは、母の怒りによって追加された。
たいへん実用的な怒りである。
数日後、母は帳簿部屋でその欄を見て、静かにうなずいた。
「匂いを記録するのですね」
「はい。薄くしか載りませんが、載せないよりはましだと分かりました」
母は少しだけ笑った。
その日の夕食には、焼いた羊肉と玉ねぎの澄んだ汁、そして小さな皿にカブの酢漬けが出た。
羊肉は表面が香ばしく、切ると中から湯気が立つ。
肉の脂は重すぎず、玉ねぎの甘みが温かい汁に溶けていた。
カブの酢漬けはしゃきっとして、塩と酸味が羊の脂をすっと切る。
しばらく見たくないと思っていたカブも、量と置き場所を間違えなければ役に立つ。
俺は一口食べて、少し安心した。
食卓に厩肥の匂いはなかった。
それだけで、今日は勝利である。
「アーサー」
父エドマンドが言った。
「厩肥場の移設費用は、領地勘定へ入れる。ただし、試験の失敗分として明記する」
「はい」
「成功だけ残すな」
「分かっています」
◇
冬の間、厩肥場はときどき湯気を上げた。
家畜番は、糞と藁を入れる日を決めた。
庭師は、落ち葉と古枝の量を見た。
ベネットは、雨の後に溝を確認した。
俺は、風向きと匂いを記録した。
村の男たちは、通りがかりに笑った。
ただ、笑いながらも足を止めた。
「前より臭わねえな」
「あの藁をかぶせるのは効くのか」
「畑に入れるのは春か」
興味である。
◇◇◇
春先、試験区画の端に、少し寝かせた厩肥を入れた。
量は少ない。
畑の全部ではない。
カブの時と同じく、見える場所で、失敗しても小作人の取り分へ響かない場所。
土は、手で崩すと前より少し柔らかかった。
俺の気のせいかもしれない。
ベネットも断言しなかった。
俺はメモ帳を開いた。
厩肥試験。
全面導入しない。
見える場所。
失敗して困る人を先に考える。
匂いは少し増える。
風向き、排水、距離。
屋敷の体面も条件。
カブは増えすぎる。
保存と置き場も重要。
そこまで書いて、いったんメモを閉じた。