【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした 作:昼夜健康
グレイヴェル館の奥にある産室は、厚いカーテンと湯を張った洗面器と、清潔すぎて逆に緊張する布の匂いで満ちていた。
窓の外では、夏の午後の光が白い石壁を照らしているらしい。
「アーサー様」
また呼ばれた。
アーサー。
どうやら、俺の新しい名前らしい。
前世で定時退社で優勝した直後、横断歩道で人生から強制ログアウトさせられた俺は、気づけばグレイヴェル伯爵家の長男として生まれていた。
状況を整理したい。
だが、俺の現在の装備は、ぼんやりした視界、ふにゃふにゃの手足、勝手に出る泣き声である。
まずい。
ただ、悪いことばかりではない。
俺は伯爵家の長男らしい。
伯爵家。
この単語には、前世の一般庶民である俺にも、雑な夢を見せる力があった。
広い屋敷。柔らかい寝具。働かなくても出てくる食事。
きっと使用人がいて、たぶん毎日フルコースが出てくる。
金持ちの家の子なら、前世より楽なのではないか。
定時退社どころか、出社しない人生。
いい響きだ、最高だ。
そんな都合のいい期待を抱いた瞬間、俺は腹が減って泣いた。
「まあ、よくお泣きになりますこと」
穏やかな女の声がした。
白い寝台に横たわる女性が、疲れた顔で微笑んでいる。
薄金の髪を乱していても、妙な品があった。
後に知ることになるが、彼女がセシリア・グレイヴェル。
俺の母であり、グレイヴェル伯爵夫人であり、社交界で笑顔のまま相手をやりこめる人である。
そのそばには、濃い茶色の髪の男が立っていた。
背は高い。声は低い。表情はやわらかい。
「元気な声だ。グレイヴェルの家には十分だろう」
この人が、父エドマンド・グレイヴェル伯爵。
第一印象は、優しそうなおじさんだった。
前世なら、町内会で会計係をまじめにやっていそうな雰囲気である。
この時点の俺は、かなり楽観していた。
伯爵家の赤ん坊。
勝ち組ではないか。
人生二周目、今回は働かない方向でいこう。
赤ん坊の俺がそう思っていたかどうかは、表向きには誰にもわからない。
俺はただ、立派に泣き、飲み、眠り、また泣いた。
数日後には、俺の周囲に世話役が増えた。
乳母のマーサ。
侍女のクララとネル。
執事のロウリー。
医師。産婆。洗濯係。湯を運ぶ下働き。
人が多い。
マーサは俺を抱くたび、布の端を確かめ、飲ませた時刻を小さなメモに書いた。
クララは洗った布を棚の右側へ置き、使うものを左から取る。
ネルは窓を開ける時間と閉める時間を、壁際の小さな札で確認していた。
伯爵家、思ったより管理されている。
泣く、飲む、眠る、布を替える、湯を替える。
赤ん坊一人を生かすだけでも、意外なほど決まりごとがあるらしい。
俺はそれを眺めながら、ぼんやり考えた。
もっとも、俺にできることはよだれを垂らすことだけだった。
「まあ、若様がお返事を」
マーサが嬉しそうに笑う。
違う。今のは、乳の提供時間に関する問い合わせである。
◇◇◇
月日が流れた。
赤ん坊の時間は妙だ。
眠って起きると、窓の外の光が変わっている。
さらに眠って起きると、布団の厚さまで変わっている。
気づけば俺は腕を動かせるようになり、寝返りを覚え這うことを覚えた。
そして、言葉が少しずつ形を持ちはじめた。
ヴァルティア王国。
パクス・ヴァルティカ。
グレイヴェル伯爵家。
グレイヴェル領。
グレイヴェル館。
周囲の会話から拾える単語が増えるほど、俺は自分の置かれた場所を理解していった。
伯爵、侯爵、議会、新聞、社交界、交易。
そんな単語が、使用人たちの雑談や父母の会話の端に混ざっている。
新聞。
議会。
交易。
少なくとも屋敷の中だけ見れば、絵本に出てくる古い貴族社会のような気配だけはあった。
まあ、貴族の家に生まれたなら、どんな時代でも食いっぱぐれはしないだろう。
俺はその程度に考えていた。
考えが軽い。
赤ん坊なので許してほしい。
◇◇◇
二歳を過ぎた頃、俺は歩けるようになった。
歩けるようになると、自由が増える。
と思っていた。
実際には、監視員が増えた。
「アーサー様、そちらは暖炉でございます」
「アーサー様、階段はお待ちください」
「アーサー様、その銀の水差しはお口に入れるものではございません」
俺の行動範囲は、屋敷の一室から廊下へ広がった。
同時に、危険源への接近も大幅に増えた。
暖炉、階段、花瓶、銀器、カーテンの紐。
しかも、俺は若様である。
走るだけで止められる。
転ぶだけで侍女が青ざめる。
泣けば乳母が飛んでくる。
いたずらすれば、叱られる前に「何をなさろうとしたのかしら」と優しく確認される。
やりにくい。
非常にやりにくい。
前世の一人暮らしでは、夜中に冷蔵庫を開けようが、床に座って豆腐を食べようが、誰も見ていなかった。
こちらでは、積み木を積むだけで三人が見ている。
貴族の子供、想像以上にプライバシーがない。
それでも食事は整っていた。
やわらかいパン粥、温めた乳、薄く煮た果物、よく潰した芋。
小さな皿の数は多く、手間もかかっている。
銀の小さな匙にのった芋は、湯気を立てるが、味はやさしすぎて輪郭がぼやけていた。
前世なら離乳食など記憶にないが、この世界の芋は、まずいわけではないのに少し物足りない。
俺が機嫌よく食べると、マーサは帳面に丸をつけた。
残すと、厨房へ戻す盆に小さな紙片が添えられた。
食べた量、眠った時間、体調。
たかが幼児の粥にも、記録はついて回る。
うん、いい家だ。
俺はそう思い、匙をつかもうとして、盛大に粥を袖へこぼした。
クララが悲鳴を飲み込む。
「若様、よくお出来に……こちらへ」
◇◇◇
三歳になった頃、俺は屋敷の規則というものを本格的に知りはじめた。
まず、座る位置が決まっている。
子供用の小さな椅子でさえ、暖炉からの距離、窓からの光、父母がいるときの向きがある。
勝手に椅子を動かすと、執事ロウリーが静かに戻す。
次に、呼び方が決まっている。
父を「パパ」とは呼ばない。
母を「ママ」とも呼ばない。
この家では、場面によって「父上」「母上」、あるいはもっと改まった呼び方を使う。
使用人には礼を言う。だが、友達のように頼んではいけない。
命令は短く、感謝は明確に、冗談は相手と場所を選ぶ。
三歳児に要求する内容ではない。
前世で三歳だったときは、たぶん砂場でスコップをもって暴れていた気がする。
今世では、俺は伯爵家の長男として銀の匙を落とさず、ナプキンを膝に置き、椅子の背に寄りかかりすぎないよう注意されている。
貴族の幼児教育、開始が早い。
ある午後、母セシリアは俺の前に小さなカードを並べた。
厚い紙に、簡単な挨拶文が書かれている。
「アーサー。お礼の手紙は、贈り物より長く残ります」
母は穏やかに言った。
テーブルには、蜂蜜色の紅茶と薄く切った焼き菓子が置かれていた。
焼き菓子はバターの匂いがして表面がかすかにさくりとしているが、味は上品で、少し遠い。
俺はそちらを見た。
「カードを見なさい」
見つかった。
「お礼は、まず相手の厚意を受け取り、次に何を喜んだかを伝え、最後に家同士のつながりを乱さない言葉で結びます」
三歳児に、家同士のつながり。
俺は心の中で遠い目をした。
前世なら、貰い物へのお礼は「ありがとうございます。おいしくいただきます」でだいたい済んだ。
こちらでは、菓子一箱に家格と親族関係と今後の茶会予定が絡むらしい。
貴族、めんどくさい。
ただ、焼き菓子は悪くなかった。
外側は軽く、中はほろりとして、蜂蜜の香りはある。ただ、甘さも香りも礼儀正しく、口の中で少し早く消える。
俺は一枚食べ、礼儀正しくもう一枚あれば食べる顔をした。
母は微笑んだ。
父エドマンドは、母ほど細かくは言わなかった。
そのかわり、父の言葉は重かった。
夕方、書斎の窓辺で抱き上げられたことがある。
外には芝生と馬車道があり、遠くに使用人棟の屋根が見えた。
屋敷の裏手では、荷車が何かを運んでいる。馬の蹄の音、木箱のこすれる音、誰かが短く指示する声。
「アーサー」
父は俺を膝に乗せ、低く言った。
「お前はグレイヴェルの長男だ」
はい。
それは最近よく聞きます。
「私のあと、この家を継ぐ」
……ん?
「屋敷だけではない。領地も、そこで暮らす者も、親族も、古くから仕える者たちもだ。お前が大きくなれば、皆がお前を見る」
父の手は大きく、温かかった。
声は優しい。
だが、言っている内容は、労働契約のようだった。
長男。
跡継ぎ。
家督。
次男なら、軍へ進む道があるらしい。
聖職に入る者もいるらしい。
学問の道を選ぶ者もいるらしい。
もちろん、それぞれ大変なのだろう。
だが、少なくとも家そのものを背負う前提ではない。
長男は違う。
逃げ道がない。
俺はそのとき、人生二周目で初めて「もしかして定時がないのでは」と疑った。
会社員は、退勤したら一応は自由だった。
電話が鳴ることはあっても、無視する勇気と翌日の謝罪で乗り切れる日もあった。
だが、伯爵家長男はどうだ。
朝起きても貴族。
昼食を食べても貴族。
夜に寝間着へ着替えても貴族。
泣いても貴族。
粥をこぼしても貴族。
二十四時間、貴族。
俺は父の膝の上で、深刻な顔をした。
父はそれを賢そうだと受け取ったらしい。
「わかってくれるか」
◇◇◇
その年の冬、妹が生まれた。
名をリディア・グレイヴェルという。
小さくて、よく泣き、かわいい妹だった。
俺は屋敷の者に手を引かれ、寝台のそばまで連れて行かれた。
母は少し疲れていたが、以前と同じように品よく微笑んでいる。
「アーサー、あなたの妹ですよ」
妹。
前世では一人っ子だった俺には、妙にくすぐったい単語だった。
リディアは布に包まれ、鼻を小さく鳴らした。
俺は慎重に指を差し出した。
彼女の手が、偶然なのか本能なのか、俺の指を握った。
やわらかい。
小さい。
そして、かなり強い。
俺は思わず笑った。
リディアも、泣きかけの顔で口を動かした。
このときの俺は、妹に対して妙な責任感を覚えた。
家督だの領地だのはまだ重すぎる。
だが、この小さな手を危ないものから遠ざけるくらいなら、俺にもできるかもしれない。
時間が経つと、俺はリディアの揺り籠のそばで積み木を積んで遊ぶようになった。
高く積むと彼女が喜ぶ。
崩すともっと喜ぶ。
破壊を見ると笑う。将来が若干心配だ。
「お兄様はお優しいですね」
侍女たちはそう言った。
彼女はただ、俺が積み、崩し、また積むのを見て、きゃっきゃと笑った。
かわいい。
これは危険だ。
人間は、かわいいもののためなら余計な仕事を引き受ける。
◇◇◇
四歳の春、家庭教師が正式に決まった。
まだ本格的な授業ではない、と周囲は言った。
読み書きの入口、礼儀の入口、祈りの言葉、簡単な家名、姿勢、挨拶。
入口が多い。
中に入ったらどれだけあるのか考えたくない。
家庭教師は、細い眼鏡をかけた静かな男だった。
名はホイットリー先生。
初対面で俺を見て、深く一礼した。
「アーサー様。お目にかかれて光栄です」
丁寧だ。
だが、机の上に置かれた本とカードと羽根ペンの量が、すでに不穏だった。
先生はまず、俺の名前を書いたカードを見せた。
アーサー・グレイヴェル。
その下に、父の名、母の名、家名、紋章の簡単な絵。
「ご自分のお名前は、ご自分だけのものではありません」
先生は穏やかに言った。
「グレイヴェルの名を持つ方として、どなたにどう名乗るかを覚えましょう」
名前は名前だろう。
そう言いたかったが、口には出さなかった。
出せるほど語彙もないし、出したら面倒なことになる気配だけはわかる。
その日の練習は、挨拶だけで終わらなかった。
椅子から立つ。
礼をする。
相手の身分に合わせて目線を変える。
短い返事をする。
勝手に話し始めない。
菓子を先に見ない。
最後の項目は、俺専用に追加された気がする。
授業が終わる頃、俺の小さな背中は妙に疲れていた。
前世で一日働いていた体とは違う。
幼児の体は、礼儀を数十分詰め込まれただけで眠気を訴える。
しかし、心のほうは眠れなかった。
貴族なら楽に暮らせる。
そう思っていた。
たしかに、食事は出る。
寝具は柔らかい。
病気になれば医師が来る。
寒ければ暖炉に火が入り、服は侍女が整えてくれる。
だが、そのかわり俺の人生は最初から家の予定表に書き込まれていた。
食べるもの、座る場所、呼び方、手紙、挨拶、将来の役目。
何もしていなくても、グレイヴェル伯爵家長男として見られる。
会社員は退勤したら自由だった。
こっちは、寝ていても若様である。
俺は子供部屋の窓から、暮れかけた庭を見た。
遠くで馬車の車輪が砂利を噛む音がする。
厨房のほうから、焼いたパンと煮込んだ肉の匂いが薄く流れてきた。
腹は減っている。
逃げられないなら、せめて楽にしたい。
自分だけでなく、できれば周りも少しだけ。
前世でやっていたことと同じだ。毎日ちょっと面倒なものを、少しだけましにする。
もちろん、今の俺にできることは少ない。
俺は窓に映る自分の小さな顔を見た。
丸い頬。柔らかい髪。どう見ても伯爵令息。
中身は定時退社を愛した元会社員。
まあ、何とかなるだろう。
根拠はない。
だが、根拠がない楽天性は、たまに人間を前へ進ませる。
たまに大事故も起こす。
その事実を、俺はまだ知らない。
扉が静かに開いた。
ホイットリー先生が、執事ロウリーと何かを話しながら入ってくる。
先生の腕には、先ほどより厚い本が二冊、さらに薄い板に挟まれた練習用のカードが山ほどあった。
「アーサー様。明日からは、もう少し正式な読み書きを始めましょう」
俺は本の表紙を見た。
知らない文字の列。
妙に古めかしい響きの題名。