【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした   作:昼夜健康

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第2話 伯爵家長男に転生する

グレイヴェル館の奥にある産室は、厚いカーテンと湯を張った洗面器と、清潔すぎて逆に緊張する布の匂いで満ちていた。

窓の外では、夏の午後の光が白い石壁を照らしているらしい。

 

「アーサー様」

 

また呼ばれた。

アーサー。

どうやら、俺の新しい名前らしい。

 

前世で定時退社で優勝した直後、横断歩道で人生から強制ログアウトさせられた俺は、気づけばグレイヴェル伯爵家の長男として生まれていた。

 

状況を整理したい。

だが、俺の現在の装備は、ぼんやりした視界、ふにゃふにゃの手足、勝手に出る泣き声である。

 

まずい。

 

ただ、悪いことばかりではない。

俺は伯爵家の長男らしい。

伯爵家。

この単語には、前世の一般庶民である俺にも、雑な夢を見せる力があった。

広い屋敷。柔らかい寝具。働かなくても出てくる食事。

きっと使用人がいて、たぶん毎日フルコースが出てくる。

金持ちの家の子なら、前世より楽なのではないか。

 

定時退社どころか、出社しない人生。

いい響きだ、最高だ。

 

そんな都合のいい期待を抱いた瞬間、俺は腹が減って泣いた。

 

「まあ、よくお泣きになりますこと」

 

穏やかな女の声がした。

白い寝台に横たわる女性が、疲れた顔で微笑んでいる。

薄金の髪を乱していても、妙な品があった。

後に知ることになるが、彼女がセシリア・グレイヴェル。

俺の母であり、グレイヴェル伯爵夫人であり、社交界で笑顔のまま相手をやりこめる人である。

 

そのそばには、濃い茶色の髪の男が立っていた。

背は高い。声は低い。表情はやわらかい。

 

「元気な声だ。グレイヴェルの家には十分だろう」

 

この人が、父エドマンド・グレイヴェル伯爵。

第一印象は、優しそうなおじさんだった。

前世なら、町内会で会計係をまじめにやっていそうな雰囲気である。

 

この時点の俺は、かなり楽観していた。

伯爵家の赤ん坊。

勝ち組ではないか。

人生二周目、今回は働かない方向でいこう。

 

赤ん坊の俺がそう思っていたかどうかは、表向きには誰にもわからない。

俺はただ、立派に泣き、飲み、眠り、また泣いた。

 

数日後には、俺の周囲に世話役が増えた。

乳母のマーサ。

侍女のクララとネル。

執事のロウリー。

医師。産婆。洗濯係。湯を運ぶ下働き。

人が多い。

 

マーサは俺を抱くたび、布の端を確かめ、飲ませた時刻を小さなメモに書いた。

クララは洗った布を棚の右側へ置き、使うものを左から取る。

ネルは窓を開ける時間と閉める時間を、壁際の小さな札で確認していた。

 

伯爵家、思ったより管理されている。

 

泣く、飲む、眠る、布を替える、湯を替える。

赤ん坊一人を生かすだけでも、意外なほど決まりごとがあるらしい。

俺はそれを眺めながら、ぼんやり考えた。

 

もっとも、俺にできることはよだれを垂らすことだけだった。

 

「まあ、若様がお返事を」

 

マーサが嬉しそうに笑う。

違う。今のは、乳の提供時間に関する問い合わせである。

 

◇◇◇

 

月日が流れた。

赤ん坊の時間は妙だ。

眠って起きると、窓の外の光が変わっている。

さらに眠って起きると、布団の厚さまで変わっている。

気づけば俺は腕を動かせるようになり、寝返りを覚え這うことを覚えた。

 

そして、言葉が少しずつ形を持ちはじめた。

 

ヴァルティア王国。

パクス・ヴァルティカ。

グレイヴェル伯爵家。

グレイヴェル領。

グレイヴェル館。

 

周囲の会話から拾える単語が増えるほど、俺は自分の置かれた場所を理解していった。

伯爵、侯爵、議会、新聞、社交界、交易。

そんな単語が、使用人たちの雑談や父母の会話の端に混ざっている。

 

新聞。

議会。

交易。

 

少なくとも屋敷の中だけ見れば、絵本に出てくる古い貴族社会のような気配だけはあった。

まあ、貴族の家に生まれたなら、どんな時代でも食いっぱぐれはしないだろう。

俺はその程度に考えていた。

 

考えが軽い。

赤ん坊なので許してほしい。

 

◇◇◇

 

二歳を過ぎた頃、俺は歩けるようになった。

歩けるようになると、自由が増える。

と思っていた。

 

実際には、監視員が増えた。

 

「アーサー様、そちらは暖炉でございます」

「アーサー様、階段はお待ちください」

「アーサー様、その銀の水差しはお口に入れるものではございません」

 

俺の行動範囲は、屋敷の一室から廊下へ広がった。

同時に、危険源への接近も大幅に増えた。

暖炉、階段、花瓶、銀器、カーテンの紐。

 

しかも、俺は若様である。

走るだけで止められる。

転ぶだけで侍女が青ざめる。

泣けば乳母が飛んでくる。

いたずらすれば、叱られる前に「何をなさろうとしたのかしら」と優しく確認される。

 

やりにくい。

非常にやりにくい。

 

前世の一人暮らしでは、夜中に冷蔵庫を開けようが、床に座って豆腐を食べようが、誰も見ていなかった。

こちらでは、積み木を積むだけで三人が見ている。

貴族の子供、想像以上にプライバシーがない。

 

それでも食事は整っていた。

やわらかいパン粥、温めた乳、薄く煮た果物、よく潰した芋。

小さな皿の数は多く、手間もかかっている。

銀の小さな匙にのった芋は、湯気を立てるが、味はやさしすぎて輪郭がぼやけていた。

前世なら離乳食など記憶にないが、この世界の芋は、まずいわけではないのに少し物足りない。

 

俺が機嫌よく食べると、マーサは帳面に丸をつけた。

残すと、厨房へ戻す盆に小さな紙片が添えられた。

食べた量、眠った時間、体調。

たかが幼児の粥にも、記録はついて回る。

 

うん、いい家だ。

 

俺はそう思い、匙をつかもうとして、盛大に粥を袖へこぼした。

クララが悲鳴を飲み込む。

 

「若様、よくお出来に……こちらへ」

 

◇◇◇

 

三歳になった頃、俺は屋敷の規則というものを本格的に知りはじめた。

 

まず、座る位置が決まっている。

子供用の小さな椅子でさえ、暖炉からの距離、窓からの光、父母がいるときの向きがある。

勝手に椅子を動かすと、執事ロウリーが静かに戻す。

 

次に、呼び方が決まっている。

父を「パパ」とは呼ばない。

母を「ママ」とも呼ばない。

この家では、場面によって「父上」「母上」、あるいはもっと改まった呼び方を使う。

使用人には礼を言う。だが、友達のように頼んではいけない。

命令は短く、感謝は明確に、冗談は相手と場所を選ぶ。

 

三歳児に要求する内容ではない。

 

前世で三歳だったときは、たぶん砂場でスコップをもって暴れていた気がする。

今世では、俺は伯爵家の長男として銀の匙を落とさず、ナプキンを膝に置き、椅子の背に寄りかかりすぎないよう注意されている。

貴族の幼児教育、開始が早い。

 

ある午後、母セシリアは俺の前に小さなカードを並べた。

厚い紙に、簡単な挨拶文が書かれている。

 

「アーサー。お礼の手紙は、贈り物より長く残ります」

 

母は穏やかに言った。

テーブルには、蜂蜜色の紅茶と薄く切った焼き菓子が置かれていた。

焼き菓子はバターの匂いがして表面がかすかにさくりとしているが、味は上品で、少し遠い。

俺はそちらを見た。

 

「カードを見なさい」

 

見つかった。

 

「お礼は、まず相手の厚意を受け取り、次に何を喜んだかを伝え、最後に家同士のつながりを乱さない言葉で結びます」

 

三歳児に、家同士のつながり。

俺は心の中で遠い目をした。

前世なら、貰い物へのお礼は「ありがとうございます。おいしくいただきます」でだいたい済んだ。

こちらでは、菓子一箱に家格と親族関係と今後の茶会予定が絡むらしい。

 

貴族、めんどくさい。

 

ただ、焼き菓子は悪くなかった。

外側は軽く、中はほろりとして、蜂蜜の香りはある。ただ、甘さも香りも礼儀正しく、口の中で少し早く消える。

俺は一枚食べ、礼儀正しくもう一枚あれば食べる顔をした。

母は微笑んだ。

 

父エドマンドは、母ほど細かくは言わなかった。

そのかわり、父の言葉は重かった。

 

夕方、書斎の窓辺で抱き上げられたことがある。

外には芝生と馬車道があり、遠くに使用人棟の屋根が見えた。

屋敷の裏手では、荷車が何かを運んでいる。馬の蹄の音、木箱のこすれる音、誰かが短く指示する声。

 

「アーサー」

 

父は俺を膝に乗せ、低く言った。

 

「お前はグレイヴェルの長男だ」

 

はい。

それは最近よく聞きます。

 

「私のあと、この家を継ぐ」

 

……ん?

 

「屋敷だけではない。領地も、そこで暮らす者も、親族も、古くから仕える者たちもだ。お前が大きくなれば、皆がお前を見る」

 

父の手は大きく、温かかった。

声は優しい。

だが、言っている内容は、労働契約のようだった。

 

長男。

跡継ぎ。

家督。

 

次男なら、軍へ進む道があるらしい。

聖職に入る者もいるらしい。

学問の道を選ぶ者もいるらしい。

もちろん、それぞれ大変なのだろう。

だが、少なくとも家そのものを背負う前提ではない。

 

長男は違う。

逃げ道がない。

 

俺はそのとき、人生二周目で初めて「もしかして定時がないのでは」と疑った。

 

会社員は、退勤したら一応は自由だった。

電話が鳴ることはあっても、無視する勇気と翌日の謝罪で乗り切れる日もあった。

だが、伯爵家長男はどうだ。

朝起きても貴族。

昼食を食べても貴族。

夜に寝間着へ着替えても貴族。

泣いても貴族。

粥をこぼしても貴族。

 

二十四時間、貴族。

 

俺は父の膝の上で、深刻な顔をした。

父はそれを賢そうだと受け取ったらしい。

 

「わかってくれるか」

 

◇◇◇

 

その年の冬、妹が生まれた。

名をリディア・グレイヴェルという。

 

小さくて、よく泣き、かわいい妹だった。

俺は屋敷の者に手を引かれ、寝台のそばまで連れて行かれた。

母は少し疲れていたが、以前と同じように品よく微笑んでいる。

 

「アーサー、あなたの妹ですよ」

 

妹。

前世では一人っ子だった俺には、妙にくすぐったい単語だった。

 

リディアは布に包まれ、鼻を小さく鳴らした。

俺は慎重に指を差し出した。

彼女の手が、偶然なのか本能なのか、俺の指を握った。

 

やわらかい。

小さい。

そして、かなり強い。

 

俺は思わず笑った。

リディアも、泣きかけの顔で口を動かした。

 

このときの俺は、妹に対して妙な責任感を覚えた。

家督だの領地だのはまだ重すぎる。

だが、この小さな手を危ないものから遠ざけるくらいなら、俺にもできるかもしれない。

 

時間が経つと、俺はリディアの揺り籠のそばで積み木を積んで遊ぶようになった。

高く積むと彼女が喜ぶ。

崩すともっと喜ぶ。

破壊を見ると笑う。将来が若干心配だ。

 

「お兄様はお優しいですね」

 

侍女たちはそう言った。

 

彼女はただ、俺が積み、崩し、また積むのを見て、きゃっきゃと笑った。

かわいい。

これは危険だ。

人間は、かわいいもののためなら余計な仕事を引き受ける。

 

◇◇◇

 

四歳の春、家庭教師が正式に決まった。

まだ本格的な授業ではない、と周囲は言った。

読み書きの入口、礼儀の入口、祈りの言葉、簡単な家名、姿勢、挨拶。

入口が多い。

中に入ったらどれだけあるのか考えたくない。

 

家庭教師は、細い眼鏡をかけた静かな男だった。

名はホイットリー先生。

初対面で俺を見て、深く一礼した。

 

「アーサー様。お目にかかれて光栄です」

 

丁寧だ。

だが、机の上に置かれた本とカードと羽根ペンの量が、すでに不穏だった。

 

先生はまず、俺の名前を書いたカードを見せた。

アーサー・グレイヴェル。

その下に、父の名、母の名、家名、紋章の簡単な絵。

 

「ご自分のお名前は、ご自分だけのものではありません」

 

先生は穏やかに言った。

 

「グレイヴェルの名を持つ方として、どなたにどう名乗るかを覚えましょう」

 

名前は名前だろう。

そう言いたかったが、口には出さなかった。

出せるほど語彙もないし、出したら面倒なことになる気配だけはわかる。

 

その日の練習は、挨拶だけで終わらなかった。

椅子から立つ。

礼をする。

相手の身分に合わせて目線を変える。

短い返事をする。

勝手に話し始めない。

菓子を先に見ない。

 

最後の項目は、俺専用に追加された気がする。

 

授業が終わる頃、俺の小さな背中は妙に疲れていた。

前世で一日働いていた体とは違う。

幼児の体は、礼儀を数十分詰め込まれただけで眠気を訴える。

 

しかし、心のほうは眠れなかった。

 

貴族なら楽に暮らせる。

そう思っていた。

 

たしかに、食事は出る。

寝具は柔らかい。

病気になれば医師が来る。

寒ければ暖炉に火が入り、服は侍女が整えてくれる。

 

だが、そのかわり俺の人生は最初から家の予定表に書き込まれていた。

食べるもの、座る場所、呼び方、手紙、挨拶、将来の役目。

何もしていなくても、グレイヴェル伯爵家長男として見られる。

 

会社員は退勤したら自由だった。

こっちは、寝ていても若様である。

 

俺は子供部屋の窓から、暮れかけた庭を見た。

遠くで馬車の車輪が砂利を噛む音がする。

厨房のほうから、焼いたパンと煮込んだ肉の匂いが薄く流れてきた。

腹は減っている。

 

逃げられないなら、せめて楽にしたい。

自分だけでなく、できれば周りも少しだけ。

前世でやっていたことと同じだ。毎日ちょっと面倒なものを、少しだけましにする。

 

もちろん、今の俺にできることは少ない。

 

俺は窓に映る自分の小さな顔を見た。

丸い頬。柔らかい髪。どう見ても伯爵令息。

中身は定時退社を愛した元会社員。

 

まあ、何とかなるだろう。

 

根拠はない。

だが、根拠がない楽天性は、たまに人間を前へ進ませる。

たまに大事故も起こす。

その事実を、俺はまだ知らない。

 

扉が静かに開いた。

ホイットリー先生が、執事ロウリーと何かを話しながら入ってくる。

先生の腕には、先ほどより厚い本が二冊、さらに薄い板に挟まれた練習用のカードが山ほどあった。

 

「アーサー様。明日からは、もう少し正式な読み書きを始めましょう」

 

俺は本の表紙を見た。

知らない文字の列。

妙に古めかしい響きの題名。

 

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