【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした   作:昼夜健康

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第19話 羊毛と手回しドラムカーダー

春先の試験区画では、厩肥を入れた畑の端が、ほかの土より少しだけ黒く見えた。

 

俺はメモ帳を閉じ、泥のついた靴を見下ろした。

土は柔らかくなった気がする。

その日は断言しなかった。

ベネット土地差配人も断言しなかった。

二人で、たいへん慎重な顔をして畑を離れた。

 

ところが、慎重な顔をしていても、次の問題は向こうから来る。

 

その夕方、グレイヴェル館の小さな居間で、リディアが膝掛けを抱えていた。

春とはいえ、屋敷は夕方になると冷える。

膝掛けは灰色の羊毛で、縁に細い青い飾り糸が入っている。

見た目は悪くない。

問題は膝掛けそのものではなく、ほつれた縁を繕うために侍女が出した灰色の毛糸玉だった。

妹はたいへん真面目な顔で、その毛糸を指先でつまんでいた。

 

「お兄様」

「お兄様。厩肥の匂いを屋敷から遠ざけるお仕事をなさるなら、私の膝のちくちくも少し遠ざけてくださいませんか」

 

俺は毛糸玉を見た。

問題というほど大げさなものには見えない。

けれどリディアが指で示したところには、小さな草の実のようなものが絡んでいた。

別の場所は、糸が少し太くなったり細くなったりしている。

鼻を近づけると、乾いた羊毛の奥に、湿った日の家畜小屋を薄くしたような匂いがあった。

 

「ちくちくします」

 

リディアは言った。

 

「それに、雨の日に少し匂います。お母様は、これはグレイヴェル領の羊毛で紡がせたものだから大切にしなさいとおっしゃいました」

 

グレイヴェル領の羊毛。

 

俺の頭の中で、父の帳簿の行が一つ開いた。

小麦。

大麦。

羊毛。

家畜。

賃貸地。

社交費。

使用人の給金。

いろいろな数字の中に、たしかに羊毛はあった。

ただ食べ物でないので、俺の(胃袋)はあまり騒がなかった。

だが、伯爵家の腹を支えるものは、食べ物だけではない。

 

「リディア」

 

「はい」

 

「その毛糸、少し借りてもいいか」

 

妹は俺を見た。

たいへん疑わしそうな目だった。

 

「煮ませんか」

 

「煮ない」

 

「白くしませんか」

 

「しない」

 

「では、どうぞ」

 

 

翌朝、帳簿部屋で父エドマンドは、膝掛けと毛糸の話を最後まで聞いた。

机の上には、領地収入の写しと、羊毛商人からの控えが置かれている。

紙には、羊毛の量、等級、買い取り値、運搬費、保管中の傷みが細かく書かれていた。

 

「羊毛は、我が家の収入源の一つだ」

 

父は言った。

 

「大麦や小麦ほど目立たぬが、毎年の支えになる」

 

「評価が低いのですか」

 

「悪くはない。だが、よくもない」

 

商人の評としては、

汚れ混じり。

乾きにばらつき。

細かい草の実多し。

良い毛と悪い毛の仕分け甘し。

市では中値。

らしい。

 

「若様」

 

ベネットが静かに言った。

 

「羊毛は、畑よりさらに見えにくいところで値が変わります」

 

「毛そのものの質ですか」

 

「羊の育ちもございます。ですが、刈った後も大きい。選別、洗いなど。そこで値が落ちることもございます」

 

「見に行くなら、ベネットと行け。羊飼いと羊毛を扱う者たちの仕事を、まず見ろ」

 

 

羊毛小屋は、家畜小屋から少し離れた乾いた坂の上にあった。

春の風が板壁の隙間を抜け、干し草、羊脂、木の埃、古い麻袋の匂いを運んでいる。

中には、刈られた羊毛が広げられ、いくつかの袋へ分けられていた。

 

見た目は、白と灰色の雲である。

指でつまむと脂っぽく、ところどころに藁や草の実、乾いた泥が絡んでいる。

良い部分はふわりとしているが、腹や脚に近いところの毛は汚れが多い。

湿ったまま袋に入ったらしい塊は、奥のほうに嫌な匂いを閉じ込めていた。

 

「グレイヴェル様の羊毛は、量はございます」

 

商人は言った。

 

「ただ、織元は、同じ手触りのものを欲しがります」

 

たいへん分かりやすい。

 

羊毛を扱う女たちは、俺を見てあまり歓迎していなかった。

無礼ではない。

礼はしてくれる。

若様が毛をつまんで何か賢そうな顔をしているが、私たちの仕事が増えるかもしれない、そういう顔をしていた。

 

「若様は羊毛をご存じで?」

 

一人が聞いた。

 

「これから知ります」

 

正直に答えると、数人の口元が少しだけ動いた。

笑いか、諦めか、両方かもしれない。

 

 

羊そのものも見ることになった。

 

牧柵の中では、毛の伸びた羊たちが、春の草をもぐもぐ食べていた。

丸い。

のんびりしている。

俺は少し安心した。

 

「大人しそうですね」

 

羊飼い頭が俺を見た。

 

「若様は羊の機嫌をご存じで?」

 

「いえ」

 

「では、その一頭には近づかぬ方がよろしいかと」

 

俺は、忠告を聞いた。

聞いたはずだった。

ただ、羊の一頭が柵の近くでこちらを見ていたので、毛の汚れを見るために少し身を乗り出した。

 

次の瞬間、羊が短く走った。

 

どん。

 

腹ではなく、腰の横に当たった。

 

 

 

そして、俺は吹っ飛んだ。

 

 

 

牧柵の向こうで羊は何事もなかったように草へ戻った。

貴族の威厳は羊には通じないらしい。

 

羊飼い頭は真面目な顔で言った。

 

「機嫌が悪うございました」

 

「たいへんよく分かりました」

 

ベネットは手を貸してくれた。

ただし、目が少し笑っていた。

領民の笑い声も、柵の向こうから小さく聞こえた。

 

 

羊毛の仕事は、俺が思っていたよりずっと細かった。

 

まず広げる。

汚れの多い縁を外す。

良い毛と荒い毛を分ける。

草を取る。

泥や糞のついたところをより分ける。

湯で洗う。

ただし、熱すぎれば縮み、こすりすぎれば絡む。

脂を落としすぎても、後の作業がしづらい。

洗ったものは風の通るところで乾かす。

乾ききらぬまま袋に入れれば、湿った匂いが残る。

 

女たちは木の板に細い金属の歯を並べた道具、カーダーを使い、羊毛を少しずつほぐしていた。

手で引き、歯にかけ、また引く。

毛の塊は少しずつふわりと広がる。

ただ、そのたびに手首が動き、指が毛をつまみ、腕に力が入る。

 

俺も少し試した。

すぐに指が痛くなった。

 

「若様には早うございます」

 

女の一人が言った。

 

「早い以前に、遅いですね」

 

「はい」

 

即答された。

俺は道具を返した。

 

だが、毛が歯にかかってほぐれる様子を見ているうちに、頭の端で別の記憶が動いた。

 

千歯扱き。

 

異世界現代知識チート道具の一つだ。

この世界にも、似たものはあるらしい。

またしても、世界は俺より先に走っている。

最近ではもう慣れてきた。

 

 

それから数日、俺はたいへん上の空だった。

 

朝食のパンを割りながら、羊毛を切らずにほぐす方法を考えた。

昼の麦粥を食べながら、歯に絡まった白い毛の塊を思い出した。

夕食の羊肉と玉ねぎの煮込みを前に、羊に突かれた腰をさすった。

 

煮込みはうまかった。

羊肉はよく煮込まれ、脂は玉ねぎの甘みと混ざって、麦の小さな団子にしみていた。

 

「お兄様」

 

リディアが匙を置いた。

 

「はい」

 

「また何か考えていますね」

 

「羊毛のことを少し」

 

「羊に負けたことではなく?」

 

「それも少し」

 

妹は真面目な顔でうなずいた。

 

「でも、上の空でスープを冷ましすぎないでください」

 

「リディアの膝をちくちくさせないようにするのに必死なんだよ」

 

俺は素直に答えた。

父が静かに茶を飲んだ。

母セシリアは口元だけで笑っていた。

ベネットがいなくても、我が家には監督役が多い。

 

その翌日も、その次の日も、俺は少し変だったらしい。

書き取りの途中で同じ単語を二度写し、廊下でロウリーに曲がる場所を静かに直され、昼食のパンを手に持ったまま固まった。

自覚はある。

ただ、頭の中で羊毛がずっと絡んでいた。

 

夕方、母が居間で俺を見た。

 

「アーサー」

 

「はい」

 

「顔色が悪いわ。羊に突かれたところが痛むの?」

 

「それは少しだけです」

 

「では、また危ないものを作ろうとしているの?」

 

母の問いは柔らかかった。

柔らかいのに、たいへん逃げ場が少ない。

 

「危なくないものにしたいので、悩んでいます」

 

母は少しだけ目を細めた。

 

「それなら、悩む場所を選びなさい。歩きながら考えると、あなたはよく何かにぶつかります」

 

「はい」

 

俺は返事をした。

返事をした人間が、必ず守れるとは限らない。

特に俺の場合は。

 

 

翌日の遅い午後、俺は古い果樹園の向こうの厩肥場へ向かった。

ちょっと違うところへ散歩へ行くといろいろひらめくかもしれない。

ついでに厩肥場を視察しておこう。

たいへん理屈の通った言い訳である。

 

厩肥場では、古藁をかぶせた山が低く湯気を上げていた。

家畜番が入れた糞藁、庭師が足した落ち葉、下に敷いた粗い枝。

水分。

空気。

置き場。

匂い。

俺は木札の脇でメモ帳を開いた。

 

厩肥も、詰めすぎるとよくない。

乾きすぎても、濡れすぎてもよくない。

下に粗い枝を入れると、水が抜け、空気が通る。

上に古藁をかぶせると、匂いは少し丸くなる。

 

そこまで考えながら歩いたのが、よくなかった。

 

ごん。

 

低い囲いの横木に膝をぶつけた。

 

うおっと思う間もなく、

身体が前へ傾き、俺の片手が古藁の覆いへ突っ込んだ。

 

古藁の下から、むっとした熱と匂いが上がった。

家畜小屋、濡れた落ち葉、甘く腐りかけた草。

 

たいへん臭い。

たいへん現実的。

たいへん、目が覚める。

 

「若様」

 

家畜番が慌てて駆け寄った。

 

「大丈夫です。威厳だけ少し傷みました」

 

「それは前からでございます」

 

正直な家畜番である。

 

俺は古藁から手を抜き、指についた湿った藁を見た。

塊のまま押し込むと、中に熱と匂いがこもる。

粗い枝を入れれば、空気の通り道ができる。

上から押すだけではなく、少しずつほぐして、通り道を作る。

 

羊毛も同じではない。

同じではないが、少し似ている。

 

固まった毛を一度に歯へ通すから、切れる。

歯へ絡ませすぎるから、道具が負ける。

なら、少しずつ入れる。

歯を立ててむしるのではなく、回る胴で薄く引き、下の歯で受ける。

 

俺はメモ帳を開いた。

 

羊毛。

一度に入れない。

丸い胴。

下に受ける歯。

隙間。

回す。

ほぐす。

仕上げは手。

 

厩肥場の匂いの中で、俺はようやく少しだけ形を見た。

できれば、もう少し上品な場所でひらめきたかった。

 

 

試作は、羊毛小屋の端で行われた。

 

作ったのは俺ではない。

俺は絵を描き、説明し、だいぶ怪しい身振りをしただけである。

実際に木の枠を組んだのは屋敷出入りの木工職人で、細い歯を曲げて並べたのは鍛冶屋だった。

羊毛を扱う女たちは、歯の細かさと向きに文句をつけた。

羊飼い頭は、羊毛の汚れの多い部分を先に外せと言った。

ベネットは、誰が何を言ったかを記録させた。

 

結果、俺の頭の中にあった格好いい機械は、現実では少し不格好な木の箱になった。

手回しの柄があり、中に歯のついた丸い胴がある。

その下に、もう一枚、歯のついた板が固定されている。

毛を少しずつ入れ、柄を回すと、歯が毛を引っかけて広げる。

 

俺はそれを、ドラムカーダーと呼んで紹介した。

 

最初の試しでは、毛が胴に絡みついた。

 

「止めてください」

 

女親方が短く言った。

 

手回しの柄を止めると、羊毛は丸い胴へみっちり巻きついていた。

ふわふわどころか、白い獣の腹巻きである。

 

「入れすぎでございます」

 

「歯が粗い」

 

「この角度では引っかかりすぎます」

 

意見が次々に出た。

たいへんありがたい。

たいへん耳が痛い。

 

俺はメモした。

 

入れすぎ。

歯が粗い。

角度。

先に選別。

乾き具合。

汚れは別。

 

二度目は、毛を少なくした。

女親方が、先に手で大きな草の実を取り、汚れの少ない毛だけを薄く広げた。

鍛冶屋が歯を少し寝かせ、木工職人が固定板との隙間を広げた。

 

柄を回す。

ぎしり。

歯が毛をつかむ。

白い塊が引かれ、薄く広がり、反対側へふわりと出る。

 

完璧ではない。

ところどころ引っかかり、まだ手で直す必要がある。

だが、最初の固い塊より、明らかに扱いやすくなっていた。

 

女親方が、出てきた羊毛を指でつまんだ。

黙って何度か引き、手板にかけた。

 

「手が少し楽になるなら、試す値はございます」

 

その言葉に、俺は肩の力が抜けた。

発明した気分より、受け入れられそうだという安心の方が大きかった。

 

 

帳簿部屋に戻ると、父は試験記録を読んだ。

 

手回しほぐし車、一台。

費用は試験として領地勘定へ明記。

職人の賃金を減らさない。

使うのは汚れを外した後の毛に限る。

一日にほぐせる量、手作業の時間、手首の疲れ、仕上げ後のそろい具合、商人の評価を記録。

 

父は最後まで読んで、うなずいた。

 

「少しでよい。続けば大きい」

 

父の言葉は、珍しく甘かった。

俺は少しだけ胸を張った。

 

その日の夜、リディアに、試しにほぐした羊毛を少し触ってもらった。

 

「前より、ふわふわです」

 

それなら十分だ。

 

俺はメモ帳を開いた。

 

羊毛試験。

きっかけはリディアの毛糸玉。

手回しほぐし車。

 

そこまで書いたところで、窓の外から庭師頭の声が聞こえた。

古い果樹園の方で、今年の花つきが少し頼りないらしい。

 

俺はメモ帳を閉じかけて、もう一行だけ足した。

 

果樹園。

花。

あとで見る。

 

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