【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした   作:昼夜健康

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第20話 蜂蜜に刺される若様

「動かないでください、若様」

 

春の古い果樹園で、俺は蜂に試されていた。

 

恐怖で息が上がる。

目の前を、小さな蜂が一匹横切った。

こちらが少しでも間違えれば刺す、という職務意識だけは伝わってくる。

 

「まだ刺されていません」

 

「まだ、でございます」

 

そもそも、俺は蜂に会いたかったわけではない。

蜂蜜に会いたかった。

もっと正確に言えば、焼いたパンへ垂れる、黄金色の一筋に会いたかった。

 

話は、その朝の食卓へ戻る。

 

 

グレイヴェル館の朝食室には、温めたバターと焼き直したパンの香りがあった。

俺はパンを半分に割り、侍女が小さな壺を傾けるのを見ていた。

 

蜂蜜は、落ちなかった。

 

壺をもう少し傾ける。

たいへん遠慮深い一滴だけが、パンの端にしがみつくように落ちた。

 

「お兄様」

 

リディアが匙を置いた。

 

「壺を見つめても、蜂蜜は増えません」

 

給仕に添えられた小さな札には、ハロルド料理長の字で、蜂蜜残り少なし、次の仕入れ待ち、とあった。

そこで、昨夜のメモ帳の行が頭の中で開いた。

 

果樹園。

花。

あとで見る。

 

蜂蜜の壺が空に近く、果樹園の花つきが頼りない。

朝食後、俺は古い果樹園で庭師頭をつかまえた。

 

「昨年から、実が少のうございます。今年も、この花つきでは頼りませぬ」

 

「蜂は」

 

俺が言うと、庭師頭は少し目を細めた。

 

「森の方にはおります。村にも蜂を飼う者がございます。けれど、この古い果樹園の近くには多くございません」

 

◇◇◇

 

数日後、地元の養蜂家を呼んできた。

 

背の低い男で、日に焼けた顔に細い目をしている。

手には煙を出す小さな道具と、藁で編んだ丸い蜂籠を持っていた。

後ろの荷車には、木箱型のすでに蜂が住んでいる巣箱も積まれている。

 

「若様に蜂をお見せする前に、申し上げます」

「巣箱の口の前に立たぬこと。黒い服で近づかぬこと。強い香りをつけぬこと。手で払わぬこと。叩かぬこと。走らぬこと」

 

巣箱の一つを仮に置き、養蜂家が煙を少し送った。

中から、低い羽音が聞こえる。

ぶん、というより、むうん、と空気が震える音だった。

蜂が飛び出していき、早速近くの花には、黄色い脚をした小さな蜂がとまっている。

花の奥へ頭を入れ、また別の花へ移る。

 

「こうして花から花へ行くなら、実も少しつきやすくなるかもしれません」

 

俺が言うと、庭師頭は枝を見上げた。

 

「すぐには分かりませぬ。実を見るのは後でございます」

 

信用が増えたのか、信用されていないのか。

たぶん両方である。

 

 

問題は、そのすぐ後に起きた。

 

俺は一歩だけ横へずれた。

その一歩が、巣箱の口の近くだった。

 

むうん、と音が濃くなった。

一匹が俺の頬のあたりへ来た。

一匹が俺の首筋のあたりへ来た。

俺は払わないようにした。

恐怖で固まっていた。

 

 

だが、首筋に触れた小さな脚がくすぐったく、反射で肩が跳ねた。

 

ちくり。ちくり。

 

痛い!!!

 

普通に痛い。

針で刺されたというより、熱い細い火を2つ押し当てられたような痛みだった。

 

「ささっ...刺ざれまじだ」

 

「だから申し上げました」

 

養蜂家はたいへん冷静だった。

ベネットも冷静だった。

庭師頭は、少し遠い目をしていた。

 

養蜂家は俺を巣箱から離し、濡らした布で刺された場所を冷やした。

針を探し、爪の先でそっと弾く。

 

「息は苦しゅうございませんか」

 

「いまのところは」

 

「喉が詰まる、目が回る、全身に赤みが出るようなら、すぐお知らせください」

 

その瞬間、前世の記憶が余計な働きをした。

 

アナフィラキシー。

 

安全講習か、何かの掲示か、テレビか。

蜂に刺されて、息ができなくなる人がいる。

命に関わることがある。

二度目が危ないこともある。

 

俺は...今...二回刺された。

 

急に、自分の喉が存在感を増した気がした。

さっきまで喉など、ただ息と朝食を通すだけの通路だった。

それが今は、締りかかった門に思える。

閉まったら終わりである。

 

俺は息を吸った。

吸える。

吐いた。

吐ける。

もう一度吸った。

吸える。

 

「ベネット」

 

「はい」

 

「喉は腫れていませんか」

 

「見た目には、なにも」

 

「息はしていますか」

 

「なさっております。たいへんよく」

 

「目は回っていませんか」

 

「若様がご自分で歩いておられる限り、まだ回りきってはおりません」

 

「全身は赤くなっていませんか」

 

ベネットは一拍置いた。

 

「頬と首筋は赤うございます」

 

「それは刺されたところです」

 

「では、そこだけでございます」

 

俺は両手を見た。

手は赤くない。

指も動く。

動くが、指先が急に心細い。

人間の体というものは、普段は勝手に動いてくれるくせに、意識した瞬間たいへん信用ならなくなる。

 

「養蜂家殿」

 

「はい」

 

「今すぐ何か、するべきことは」

 

「特になにも」

 

救急車に乗せてほしい!

 

「念のため、館へ戻ります」

 

「それがよろしゅうございます」

 

養蜂家は真面目な顔でうなずいた。

 

「蜂を甘く見てはなりません。ですが、一刺しで皆が倒れるわけでもございません。今日は静かに、よく見てお休みください」

 

俺は深くうなずいた。

が、悪化していく未来が見えた

 

 

グレイヴェル館へ戻ると廊下を歩いているリディアがいた。

 

「リディア」

 

「はい、お兄様」

 

「もしもの時は、父上と母上を頼む」

 

リディアは、俺の頬を見た。

それから、たいへん真面目な顔で言った。

 

「お兄様」

 

「はい」

 

「蜜蜂に刺されたぐらいで心配のしすぎです」

「それに、父上と母上は私よりお強いです」

 

「それもそうだ」

 

「蜂に刺されたぐらいで家を託される妹の気持ちも、少し考えてください」

 

妹の言葉は、いつもたいへん細い針である。

蜂より少し痛い。

 

 

大事には至らなかった。が夜は長かった。

寝るとそのまま喉が腫れて、呼吸ができなくなって、起きてこれないのではないかと思ってしまった。

ただ、朝になっても俺は息もでき、喉も無事で、頬だけがまだ少し変だった。

朝日が出るころにようやく安心できて、眠たくなってきた。

 

日中に医者を呼ぶ必要はなく、ただし母の判断で、近隣夫人への挨拶には出なかった。

 

その代わり、ハロルド料理長が小さな試し皿を持ってきた。

 

薄く焼いたパンに、ほんの少し蜂蜜を塗ったもの。

蜂蜜と葡萄酢、焼き汁を合わせ、マスタードの種を少し入れて煮詰めたソース。

そして、蜂蜜を混ぜた小さな焼き菓子。

 

焼き菓子は外が香ばしく、中はしっとりしていた。

砂糖のまっすぐな甘さとは違う。

花の香りが遅れて来る。

パンに塗った蜂蜜は、温まると薄く伸び、麦の香ばしさに金色の甘みが染み込んだ。

ソースは、甘いだけなら肉を重くするところを、葡萄酢の酸味が締め、マスタードの種の辛みが後ろから軽く押していた。

 

頬は痛いが、うまい。

人間は単純である。

 

 

それから数日、古い果樹園には巣箱が二つ置かれた。

庭師頭は最初、たいへん慎重だった。

蜂の通り道を見て、脚立の位置を変え、剪定の時間をずらした。

養蜂家は、晴れた日の午前に巣箱を見るよう教え、雨の日や冷える朝は無理に触るなと言った。

 

花から花へ、小さな蜂が動いた。

黄色い花粉を脚につけ、白い花の奥へ潜る。

庭師頭は黙ってそれを見ていた。

 

「実になるかは、後でございます」

 

「はい。後で見ます」

 

「ですが、花を見ていると、悪い気はいたしませぬ」

 

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