【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした 作:昼夜健康
「動かないでください、若様」
春の古い果樹園で、俺は蜂に試されていた。
面布の内側で、自分の息が少しこもる。
目の前を、小さな蜂が一匹横切った。
こちらが少しでも間違えれば刺す、という職務意識だけは伝わってくる。
「まだ刺されていません」
「まだ、でございます」
そもそも、俺は蜂に会いたかったわけではない。
蜂蜜に会いたかった。
もっと正確に言えば、焼いたパンへ垂れる、黄金色の一筋に会いたかった。
話は、その朝の食卓へ戻る。
◇
グレイヴェル館の朝食室には、温めたバターと焼き直したパンの香りがあった。
俺はパンを半分に割り、侍女が小さな壺を傾けるのを見ていた。
蜂蜜は、落ちなかった。
壺をもう少し傾ける。
たいへん遠慮深い一滴だけが、パンの端にしがみつくように落ちた。
「お兄様」
リディアが匙を置いた。
「壺を見つめても、蜂蜜は増えません」
給仕に添えられた小さな札には、ハロルド料理長の字で、蜂蜜残り少なし、次の仕入れ待ち、とあった。
そこで、昨夜のメモ帳の行が頭の中で開いた。
果樹園。
花。
あとで見る。
蜂蜜の壺が空に近く、果樹園の花つきが頼りない。
朝食後、俺は古い果樹園で庭師頭をつかまえた。
「昨年から、実が少のうございます。今年も、この花つきでは頼りませぬ」
「蜂は」
俺が言うと、庭師頭は少し目を細めた。
「森の方にはおります。村にも蜂を飼う者がございます。けれど、この古い果樹園の近くには多くございません」
◇◇◇
数日後、地元の養蜂家を呼んできた。
背の低い男で、日に焼けた顔に細い目をしている。
手には煙を出す小さな道具と、藁で編んだ丸い蜂籠を持っていた。
後ろの荷車には、木箱型のすでに蜂が住んでいる巣箱も積まれている。
「若様に蜂をお見せする前に、申し上げます」
「巣箱の口の前に立たぬこと。黒い服で近づかぬこと。強い香りをつけぬこと。手で払わぬこと。叩かぬこと。走らぬこと」
巣箱の一つを仮に置き、養蜂家が煙を少し送った。
中から、低い羽音が聞こえる。
ぶん、というより、むうん、と空気が震える音だった。
蜂が飛び出していき、早速近くの花には、黄色い脚をした小さな蜂がとまっている。
花の奥へ頭を入れ、また別の花へ移る。
「こうして花から花へ行くなら、実も少しつきやすくなるかもしれません」
俺が言うと、庭師頭は枝を見上げた。
「すぐには分かりませぬ。実を見るのは後でございます」
信用が増えたのか、信用されていないのか。
たぶん両方である。
◇
問題は、そのすぐ後に起きた。
俺は一歩だけ横へずれた。
その一歩が、巣箱の口の近くだった。
むうん、と音が濃くなった。
一匹が俺の頬のあたりへ来た。
一匹が俺の首筋のあたりへ来た。
俺は払わないようにした。
恐怖で固まっていた。
だが、首筋に触れた小さな脚がくすぐったく、反射で肩が跳ねた。
ちくり。ちくり。
痛い!!!
普通に痛い。
針で刺されたというより、熱い細い火を2つ押し当てられたような痛みだった。
「ささっ...刺ざれまじだ」
「だから申し上げました」
養蜂家はたいへん冷静だった。
ベネットも冷静だった。
庭師頭は、少し遠い目をしていた。
養蜂家は俺を巣箱から離し、濡らした布で刺された場所を冷やした。
針を探し、爪の先でそっと弾く。
「息は苦しゅうございませんか」
「いまのところは」
「喉が詰まる、目が回る、全身に赤みが出るようなら、すぐお知らせください」
その瞬間、前世の記憶が余計な働きをした。
アナフィラキシー。
安全講習か、何かの掲示か、テレビか。
蜂に刺されて、息ができなくなる人がいる。
命に関わることがある。
二度目が危ないこともある。
俺は...今...二回刺された。
急に、自分の喉が存在感を増した気がした。
さっきまで喉など、ただ息と朝食を通すだけの通路だった。
それが今は、締りかかった門に思える。
閉まったら終わりである。
俺は息を吸った。
吸える。
吐いた。
吐ける。
もう一度吸った。
吸える。
「ベネット」
「はい」
「喉は腫れていませんか」
「見た目には、なにも」
「息はしていますか」
「なさっております。たいへんよく」
「目は回っていませんか」
「若様がご自分で歩いておられる限り、まだ回りきってはおりません」
「全身は赤くなっていませんか」
ベネットは一拍置いた。
「頬と首筋は赤うございます」
「それは刺されたところです」
「では、そこだけでございます」
俺は両手を見た。
手は赤くない。
指も動く。
動くが、指先が急に心細い。
人間の体というものは、普段は勝手に動いてくれるくせに、意識した瞬間たいへん信用ならなくなる。
「養蜂家殿」
「はい」
「今すぐ何か、するべきことは」
「特になにも」
救急車に乗せてほしい!
「念のため、館へ戻ります」
「それがよろしゅうございます」
養蜂家は真面目な顔でうなずいた。
「蜂を甘く見てはなりません。ですが、一刺しで皆が倒れるわけでもございません。今日は静かに、よく見てお休みください」
俺は深くうなずいた。
が、悪化していく未来が見えた
◇
グレイヴェル館へ戻ると廊下を歩いているリディアがいた。
「リディア」
「はい、お兄様」
「もしもの時は、父上と母上を頼む」
リディアは、俺の頬を見た。
それから、たいへん真面目な顔で言った。
「お兄様」
「はい」
「蜜蜂に刺されたぐらいで心配のしすぎです」
「それに、父上と母上は私よりお強いです」
「それもそうだ」
「蜂に刺されたぐらいで家を託される妹の気持ちも、少し考えてください」
妹の言葉は、いつもたいへん細い針である。
蜂より少し痛い。
◇
大事には至らなかった。が夜は長かった。
寝るとそのまま喉が腫れて、呼吸ができなくなって、起きてこれないのではないかと思ってしまった。
ただ、朝になっても俺は息もでき、喉も無事で、頬だけがまだ少し変だった。
朝日が出るころにようやく安心できて、眠たくなってきた。
日中に医者を呼ぶ必要はなく、ただし母の判断で、近隣夫人への挨拶には出なかった。
その代わり、ハロルド料理長が小さな試し皿を持ってきた。
薄く焼いたパンに、ほんの少し蜂蜜を塗ったもの。
蜂蜜と葡萄酢、焼き汁を合わせ、マスタードの種を少し入れて煮詰めたソース。
そして、蜂蜜を混ぜた小さな焼き菓子。
焼き菓子は外が香ばしく、中はしっとりしていた。
砂糖のまっすぐな甘さとは違う。
花の香りが遅れて来る。
パンに塗った蜂蜜は、温まると薄く伸び、麦の香ばしさに金色の甘みが染み込んだ。
ソースは、甘いだけなら肉を重くするところを、葡萄酢の酸味が締め、マスタードの種の辛みが後ろから軽く押していた。
頬は痛いが、うまい。
人間は単純である。
◇
それから数日、古い果樹園には巣箱が二つ置かれた。
庭師頭は最初、たいへん慎重だった。
蜂の通り道を見て、脚立の位置を変え、剪定の時間をずらした。
養蜂家は、晴れた日の午前に巣箱を見るよう教え、雨の日や冷える朝は無理に触るなと言った。
花から花へ、小さな蜂が動いた。
黄色い花粉を脚につけ、白い花の奥へ潜る。
庭師頭は黙ってそれを見ていた。
「実になるかは、後でございます」
「はい。後で見ます」
「ですが、花を見ていると、悪い気はいたしませぬ」